時間旅行機

雪菜冷

時間旅行機

 喧騒の滲む空港のロビーを、謙一は生き急ぐようにすり抜けていた。一分、いや一秒でも早くこの国を出たい。誰も自分を知らない場所へ行きたい──衝動的な旅路だった。使い慣れない大きめサイズのキャリーケースを転がしながら、ロビーの案内表示通りに進む。途中、仲のよい家族連れに目が止まり、ズキリと胸が痛んだ。不意に蘇る家族の記憶。


『長男なのに本当にみっともないな』

『先に謙二が産まれていたら、謙一なんて産んでなかったわ』

『兄ちゃんは、誰からも必要とされてないんだよ』


 ぐしゃりと手にした書類が握りつぶされた。慌てて航空券を救う。


(やめだやめだ。俺は新しい地で新しい人生を始めるんだ)


 背筋を伸ばし、再び意気揚々と一歩を踏み出す。

 ドンッ。


「すみません」

「いえこちらこそ」


 互いに散らばった書類を拾い上げ、お辞儀をして去っていく。出鼻をくじかれた気もするが、こんな事でいちいち目くじらを立てていては、それこそ門出に相応しくない。謙一は気を取り直して離陸準備を進めた。



 シートにもたれ、ベルトを着用する。遂にこの瞬間がやってきた。これまでの惨めな人生とおさらばだ。

 ガタガタガタ。

 飛行機が走り始めた。次いでぐっと座席に押さえつけられる感覚。どうやら離陸したようだ。じきに安定飛行になる……と思っていたら、ぐんぐんとその力は強まっていく。


(おかしいな。戦闘機にでも乗ったのだろうか。……いやこれはもはやミサイル級では!)


 混乱した思考の中、ふと手にした航空券が見える。


『時間旅行機N〇〇一便』


「何だこれー!」


 渾身の叫びは光の如き速さに至った機体の反動で、意識と共に吹っ飛んでいった。



「ご利用ありがとうございました」


 どこかからアナウンスのような音声が聞こえ、謙一はゆっくりと目を開けた。視界には薄暗い通路に白衣を着た女性……ここは病院だろうか。照明が最低限しかついていないのは、夜間だからかもしれない。か看護師は謙一の存在には気付いていないようで、パラパラと日誌らしきものを眺めている。手には先程の航空券が一枚。もう一度しっかり見ると、『時間旅行機N〇〇一便 二〇〇〇年行き』とある。


(二〇〇〇年て、俺の生まれた年じゃん)


 何が起こったか頭の中で整理する内に、どこかから耳をつん裂くような悲鳴と「生まれまーす!」という力強い声が聞こえてきた。途端に、どこからともなくワラワラと看護師達が押し寄せ、声の聞こえた部屋へと集まっていく。『分娩室』──と書かれていた。


「息吐いてー!」

「頭出てきたよ!」

「いきんでー!」

「ぅぉああああああ!」


 謙一はパニックだった。看護師達の緊迫した掛け声もさることながら、合間に差し挟まれる阿鼻叫喚な叫び声。おそらく妊婦のものだろう。当然だが齢二十歳の大学生たる彼には未知なる世界であった。オロオロと挙動不審になるだけで何もできない。状況の整理と考察はすっかり吹っ飛んでしまった。


「智子おぉぉ!」


 再び脳内がクリアになったのは、一人のサラリーマンがスーツと髪を振り乱して疾走してきた時だ。ガシャン、と乱雑にキャリーケースを廊下に打ち捨て、分娩室へ入っていく。


(智子って、母さんの名前……)


 吸い寄せられるように足が動いた。未だ喧騒に包まれた室内で、苦しそうに顔を歪める女性と、心配そうに見つめる男性。どちらも、見覚えのある顔だった。


(父さん?母さん?)


 不可解な事象に驚く内に、「いきんでー!」と一際大きな叫びが響く。女性はこれ以上ないほどぐっと眉を寄せ力んだ。ややあって、赤ん坊の鳴き声がその場を満たす。その瞬間、誰もの顔に安堵の色が見えた。


「元気な男の子です」


 看護師の一人がタオルに包まれた赤ん坊を女性の脇にそっと添える。


「ああ、ああ、私の赤ちゃん。かわいい!」


 興奮した面持ちで、涙を流しながら赤ん坊を抱き寄せる女性に、胸が熱くなった。側で看護師と何か話していた男性が、くるりと体を向き直らせ、我が子に近づく。


「この子の名前はもう決めてるんです。謙一。生まれてきてくれてありがとう」


 泣き出しそうに細めた目に、緩む頬。こんな彼の姿は見た事がない。謙一の頬に涙が伝った。


「時間です、時間です。お帰りの席を用意しております」


 どうやらあの航空券は往復用だったらしい。再び脳内にアナウンスが流れたかと思うと、謙一の意識はゆっくりと遠のいていった。



 「到着です」の声掛けと共に瞼を上げれば、そこは羽田空港のロビーであった。ちょうど、見知らぬ人とぶつかった辺りであろうか。ざわざわと、行き交う人々の声に、安心と懐かしさが蘇る。手には一枚の航空券。行き先はインドネシア。始めに購入したものだ。謙一はしばらくその紙を眺めていたが、やがて受付に足を運んだ。


「すみません、これキャンセルで」


 自分でも驚くほど穏やかな声だった。

 明日から、何かが急に変わるわけではない。相変わらず両親は彼に疎ましい視線を向けるだろうし、弟は彼を鼻で笑うだろう。それでも、彼は知ることができた。自分はちゃんと、愛されて生まれてきたのだと。今はそれだけでいい。


「さて、帰るか」


 誰に言うでもなく呟く。引きずるようにして持ってきたキャリーケースをゆっくりと転がし始める。外は晴天。青空に輝く太陽が眩しかった。

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時間旅行機 雪菜冷 @setuna_rei

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