九番目の満月と、その十年後の満月の下で

 もうフーは無くてはならない人になっていた。週末を待ち遠しく思う必要はなくなった。最後の二か月間を私の家で暮らすことになったからだ。


 中三に進級して毎年のことながら憂鬱な五月がやって来た。月末に運動会がある。体育が苦手だ。全員強制参加のクラス対抗リレーが嫌で仕方がない。走るのが遅い私はいつも抜かされて、ものすごく嫌な思いをする。


 そんな長年こびりついたやりきれない思いをフーは軽く笑い飛ばした。


 「嫌なことを我慢してする必要はないよ、マー。人は誰でも自由意思を持っている。嫌なら走らなければいい」


 最後の審判を受けている気分になった。でも皆と同じことをしない勇気は私にはない。自由を選んだフーの姿がまぶしく見えた。


 週末の夜、私たちは小さな森に行って星空を見上げながらいろいろな話をした。そのほとんどが子どもの頃の楽しい思い出だった。


 「そういえば、フーの国ってだいたい日本の裏側にあるんだよね。この地面を深く掘っていけば、きっとフーの国と繋がるね」


 優しく目尻にしわを寄せてフーが言った。


 「残念だけど、マー、灼熱のマントルを越えることは不可能だ」


 「可能かもしれないよ。マントルって緑色なんでしょ。もしかしたら地面の下には大きな緑の森が広がっているのかも」


 「正確には上部マントルが緑色のかんらん岩でできている。でもその発想はおもしろい。本当に君はカワイイね、マー」


 くすっと笑ってそう言うと、突然フーは腕の中に私を抱きしめて両頬にキスした。顔が熱くなって胸がドキドキしてくる。


 あれ? なんだろう、初めて感じるこの気持ち。何かが心の奥底からあふれ出してくる。


 そうだ! 私、フーが好きなんだ! 十歳も離れているけれど恋人になれるってフーが言っていたし、ひいおばあちゃんたちが姉妹だっただけだから三親等内じゃない。そう、結婚だってできる! フーと一緒なら地球の裏側でもどこへでも行ける!


 突然、頭の中が満開のお花畑になった私にふとフーが尋ねた。


 「マヒロって名前、男の子でも名付けられる?」


 「うん。男の子でも大丈夫だよ」


 どうしてそんなことを聞くの?


 「そうか。じゃあ、ボクたちの子どもにマヒロって名前をつけようかな」


 えっ、どういうこと?


 「もうすぐ生まれるはずだ。ボクと彼女の子どもが」


 お花畑に咲いた花は一気に全部枯れ果てた。私の初恋はたったの五分で終わってしまった。


 フーには幼なじみの恋人がいた。空港に見送りに来た彼女はフーに告げた。お腹に赤ちゃんがいると。その彼女を残して日本にやって来た。それから九か月が経った。


 「飛行機に乗る前に、もちろん結婚の約束をしたんでしょ?」


 「いや、していない。それに日本に来てから一度も連絡していない」


 急に頭に血が上った私は怒鳴り声をあげた。


 「何それ。彼女と生まれてくる赤ちゃんが可哀想だよ!」


 フーはうなだれた。いつも陽気なフーが落ち込んでいるのを見るのは初めてだ。


 満月が小さな森を照らしている。突然フーが私の目の前に現れてから九番目の満月だ。下を向いて真っ黒な地面をじっと見つめる。瞳の奥が熱を帯びて涙が湧いてくる。だんだん視界がぼやけてきた。


 その時、涸れてしまったはずの泉の水面がそこに揺れて見えた気がした。


 私はしゃがんで地面を素手で掘り出した。フーの驚いた視線に気づいたが掘り続ける。


 掘って、掘って、掘る。


 絶対にこの下に泉が埋まっている。そしてもっと先の地球の裏側にはフーの赤ちゃんがいる。赤ちゃんも私と同じ血で繋がっている。大切な私の家族だ。一度離れ離れになってしまった家族を私がひとつにするんだ。


 掘って、掘って、掘りまくる。


 気づいたら、腕まくりをしたフーが私と一緒に掘っていた。


 少しずつ深くなっていく穴から色々な思い出が次々に出て来た。辛すぎてもう思い出したくもない過去の出来事ばかりだ。


 小学校に入学する前、お腹が大きくなってきた母が救急車に乗って病院へ行った。その夜、母は泣きながら一人で帰って来た。私は妹か弟になるはずだった赤ちゃんに会えなかった。


 ずっと可愛がっていた犬が変な咳をし始めた。毎日嫌がる薬を何とか飲ませて看病した。でも、ある日学校から帰って来たら冷たくなっていた。


 お気に入りの筆箱が音楽室で行方不明になってしまった。どんなに探しても出てこなかった。


 毎晩のように両親が口論する怒鳴り声。


 祖母が二度と目を覚さなかった朝の妙に明るい森の景色。


 家を出て行く父の薄暗い背中。


 何もないだだっ広い土地になってしまった大きな森の光景。あれは光景なんかじゃない。光を失くしたむき出しの地面だった。


 私は声をあげて泣きながら地面を掘った。フーも泣いていた。私たちの涙が深くなっていく穴にぽたぽたと音を立ててこぼれ落ちていった。


 私たちは、掘って、掘って、掘りまくった。


 どんなに掘っても泉は姿を現さなかった。でも、穴の底はまぎれもなく湿っていた。


 泥まみれの私たちはきつく抱き合った。フーの存在に私の心は既に深く満たされていたことを知った。


 それからしっかりと手を繋いで私たちは家に帰った。


 運動会の朝が来た。その日にフーは予定を一か月早めて帰国することになった。赤ちゃんが無事生まれて結婚することになったからだ。私と母はフーの赤ちゃんへの贈り物のスタイに「M. Y.」と手縫いで刺繍した。


 珍しく早起きして二人分のお弁当を作った母の目も真っ赤だった。


 フーと小さな森の前で別れた。何も言わずに私たちはぎゅっと抱き合ってお互いの最後の温もりを感じた。


 もうすぐリレーの順番が来る。接戦らしい。周りでクラスメイトたちが無邪気に盛り上がっている。目の前の風景に色と音がない。フーは去って行った。遠い遠い地球の裏側へ。もう二度と会えないかもしれない。もう何もかもがどうでもよくなった。どんどん抜かされてビリになって、クラスの皆から冷たい視線を浴びてもそれがなんだ。また私は一人ぼっちになってしまったんだ。


 緑色のバトンを握って走り出す。心の中で何度もくり返して叫びながら。


 フー、私、あなたが好きだった。


 本当に、本当に、大好きだった!


 誰もいない世界をただひたすら一人で走った。


 その時、突然落ちた雷のような大声が耳に突き刺さった。


 「来い、真尋!」


 「えっ?」


 アンカーの世和が私に向かって手を伸ばした。最後の力をふりしぼって私は世和にバトンを手渡した。


 

 あれから十年の歳月が経った。


 「あっ、白い満月が見える!」 


 「本当だ。真尋と一緒に見られて嬉しいよ」


 今、私と世和は日没の小さな森にいる。


 運動会が終わった後に、世和の本当の気持ちを聞いた。


 「真尋ごめん。音楽室に置き忘れていた筆箱、俺、真尋に渡せなくて家に持ち帰った」


 「どうして?」


 「言わなくてもわかるだろ」


 フーに恋をしていたことを世和は知っている。


 「俺の部屋の窓から真尋の家の森が丸見えなんだ。あの満月の夜に二人で抱き合っているのを見て、胸が苦しくて一晩じゅう眠れなかった」


 それを聞いた私は赤くなって下を向いた。


 「でも、これはしていなかった」


 そう言うと世和は私に唇を重ねた。


 明日、私たちは結婚する。もちろん新婚旅行はフーが家族と暮らしている南半球の国に行く。


 緑色のマントルの上にいる私たちは大きなひとつの家族だ。



 


 



 


 

 


 


 


 

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九番目の満月の下で、私たちは世界をひとつにする 真森アルマ @alma_forest

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