九番目の満月の下で、私たちは世界をひとつにする

真森アルマ

一番目の満月から八番目の満月の下で

 地球温暖化の文字までもが、とろとろに溶ける毎日が続いている。


 そんな暑すぎる九月の初めに、突然フーは私の前に現れた。

 

 その日学校から帰宅して気だるくセーラー服の三角タイをほどきながら居間に入ると、母が見知らぬ若い男の人と正座して向き合っていた。座卓の上には南十字星が光る紺色のパスポートが置かれている。茶色がかった瞳と日焼けした太い腕。たぶん日本人ではない。

 

 「ママ、誰なの」

 

 「遠い親戚の方みたい」

 

 人懐っこい笑顔で男の人は名乗った。柔らかな日本語だ。

 

 「はじめまして。ボクは、フェルナンド・ヨシダ・ヴェント・ダ・フロレスタ。よろしく、マヒロ」

 

 「ヨシダ……」


 私の名前は、吉田真尋よしだまひろ。中学二年生。昭和に建てられた古い一軒家に母と二人で暮らしている。家は小さな森に囲まれている。さらにその周りに建つ大規模マンションが私の家の敷地を取り囲んでいる。


 家の裏手にマンションが建つ前後、周囲の環境と共に家族構成が一変した。マンションの土地は吉田家が代々所有してきた大きな森だった。祖母が亡くなって土地を相続した母がやむを得ず売却した。父が事業に失敗して負債を抱え込んだのだ。父の連帯保証人だった母はそうするしか選択肢がなかった。森はあっという間にマンションになって、今やよそから来た大勢の見知らぬ人たちが住んでいる。


 マンションの建設会社は小さな森も家が建つ土地も欲しがった。駐車場にするためだ。無償で新築マンションの一室を提供すると母に持ちかけた。母は小さな森は自分の名義になっているが、事実上は遠い親戚のものだから売ることはできないと言って頑なに断った。


 その親戚とは曾祖母の妹のことだ。駆け落ち同然で恋人を追って、南米へ移民に行ったと生前の祖母から聞いたことがある。


 「すごい大恋愛。でも妹と遠く離れ離れになって、ひいおばあちゃん寂しかったんだろうな」


 一人っ子の私は兄弟姉妹という血の繋がりが全く想像できない。ただのささやかな感想だった。


 その時、祖母は意味ありげに苦笑いして言った。


 「本当はね、ひいおばあちゃんの方が先にその男の人が好きだったの。でも親に決められた婚約者がいたから言い出せなかったんだって」


 そこには男女の複雑な大人の事情がありそうだった。深掘りはしなかった。元号は二つも変わった。もう遠い昔話だ。



 「吉田ー、あのネットの記事もう読んだ? 最近の地質学研究ではマントルって緑色なんだってさ」


 「それ本当? 赤じゃないんだ」


 ぬぼっと私を高所から見下ろして世和せなが言った。確か小一の時は背の順が一番前だったのに、現在は私の身長を遥かに超えている。世和は後ろの例のマンションに両親と住んでいる。


 「吉田さあ、この前、男と一緒に歩いていただろ。もしかして吉田の彼氏?」


 「まさか。親戚の人だよ」


 「ふーん」


 世和とは幼稚園の園庭で巨大泥団子を一緒に作った仲だった。「まーちゃん」と呼ばれていたのは小二の時までだ。


 「俺、試合が近いから今日はサッカー部の方へ行く」


 世和は校庭へ私は理科室に向かった。既に部員が全員来ていた。私を含めて四人。五人以上集まらないと廃部になるはずだった自然科学部。世和が兼部という前代未聞の名乗りを上げて廃部をまぬがれた。


 私の石好きは、たぶん祖母から受け継いだ。祖母は行く先々で石を拾って来ては森に並べて置いていた。それは何かの呪術のようだった。おそらく母も石好きに当たるのだろう。母が好きなのはお高いジュエリーの方だけど。


 フーは東京の大学院に地質学の研究にやって来た。期間は十か月。住まいは大学近くの留学生寮に部屋を借りたと言っていた。


 初めて会ったあの日、外国語の新聞紙に包まれた泥だらけの大きな水晶をくれた。


 「これバイーア州のクォーツ。マヒロにあげる。ボクが鉱山から掘ってきたんだ」


 「ええー、いいの!」


 135億光年の星の瞬きのように目を輝かせた。母が私とフーを交互に見て呆れ返ったように言った。


 「石好きは吉田家のDNAに組み込まれているのかも。間違いなくフェルナンドは吉田家の子孫ね」


 きれいに水で洗った水晶を枕元に置いた。不思議と前よりもぐっすり眠れるようになった気がする。


 私の部屋には祖母が拾って来た石たちが並ぶ本棚がある。あとかたもなく森がなくなってしまう前にここに救出した。それにしてもあの森の樹々は切り倒されてからどこに行ったのだろう。


 マンションの工事中、私は耳を意図的に閉ざしていた。工事の断末魔の騒音だけではなく、両親の最後の言い争いを聞かないように。


 毎週末フーは都内から電車に乗って家にやって来るようになった。小さな森にテントを張ってコッヘルで湯を沸かしてコーヒーを啜る。その姿を見て「森の哲学者」という言葉が頭に浮かんだ。


 始めは女性二人だけの家には泊まれないと紳士的に言って、毎回テントで寝泊まりしていた。でもさすがに大雨が降ってきた時は家の中に入った。季節が変わって寒くなってくると母は半ば強制的にフーを家に泊まらせた。


 フーが来てから学校の成績が急上昇した。率先して数学と英語を教えてくれたからだ。心から私と母はフーに感謝した。もうすぐ受験生だ。ノートパソコンを開いて英語で論文を執筆するフーの前で一緒に勉強した。


 いずれアメリカの大学にも学びに行くつもりだとフーは語った。帰国したら一旦働いてその資金を貯めると聞いて感心した。その時ふと疑問に思って尋ねた。


 「フーって、何歳?」


 「知らなかったの? マーより十歳年上。でもボクは君のオジサンに相当する歳じゃない。それに十歳の年の差は恋人として許容範囲だ」


 一瞬、胸がドキッとした。 

 

 今の言葉って、どういう意味? 


 母は家飲みの相棒ができたと嬉しそうに言って、フーと一緒にグラスを傾けた。酔いが回ってくると目下の恋の悩みをフーに打ち明けた。フーはうんうんとうなずいて聞き役に回っていた。黙り込んだ私はミックスナッツをぽりぽりかじりながらアップルジュースを飲んでいた。母はきれいだしまだ若い。新しい父ができる可能性だってまだ充分ある。うまくやっていけるかどうかわからないけれど、それはその時の私が考えることだ。


 早々に自分の部屋へ退散しようとしたら、階段の前でフーに呼び止められた。


 「マー、大丈夫?」


 無表情で私はうなずいた。フーは大きな手で私の頭をその厚い胸に押しつけた。とても自然な行為だった。子どもの頃から数えきれないくらいこうしていたかのように。


 「ボクも両親が離婚している。世界中でよくあることだ。もうそれぞれ再婚して新しい家族と幸せに暮らしている」


 「そうなんだ」


 少し涙がにじみ出たのをきっとフーは気づいている。他人の胸の感触は初めてだった。母もしばらく会っていない父も直立二足歩行をし始めた私を抱きしめてくれる習慣はなかった。


 思わずベッドに横になって水晶を抱きしめた。胸が切ない気持ちでよじれるように苦しい。フーは懐かしい匂いがした。私たちが失ったあの大きな森の匂いだ。あの森は子どもの頃の私たちの遊び場だった。


 ……私たち? 


 そうだった。幼稚園の頃は町内の団地に住んでいた世和と二人で毎日遊んだ。泥だらけの手で石たちを当時のヒロインとヒーローに見立てて。


 よくフーは小さな森のそこらじゅうの地面をなでていた。何かを探しているようだった。私はフーに尋ねた。


 「何をしているの?」


 「ボクのおばあさんが言っていた。あの森には湧き水が出るきれいな泉があったってお母さんから聞いたって。マー、どこにあるか知ってる?」


 「私もおばあちゃんから聞いたことがある。でもずっと前に涸れてしまったみたい」


 「そうだったのか」


 とてもフーは残念そうだった。



 






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