第17話 偉大なる虹よ

 驚嘆の眼つきで、幸乃は隣に立つ萌をまじまじと観た。


 ミャンマー人の血が成せる業か、この少女は遂にセーターを脱ぐだけでなく、あろうことか長袖のシャツまで捲ったのである。まだ3月も初めなのに…。


 鞄には既にブレザーが折り畳まれていたので、萌は脱いだセーターを腰に巻いた。その動作が余りに自然で無駄が無かったので、幸乃は思わず唾を飲み込んだ。


(なんて奴)少女は心の中で呟いた。


 袖を捲って露わになった萌の腕は、まるで銅のように光り輝いて観える。横顔は、幸乃にとって完璧だった。


 一体誰がどんな力を持って、こんな完璧な横顔を作らせたのだろう。親友の横顔を観る度、幸乃はそう思わずにはいられなかった。


 この世にはきっと秘密がある。自分が知り得ない、きっと重大な事実が隠されているのだ。そして萌の横顔は、それを解き明かすサインに違いない。


 でなければ、この美しさの説明がつかない。もし神という存在がいるとして、何の意味もなしにこのような美しいものを地上に作るだろうか?


 そうやって幸乃が世界の真理に迫ろうとしている時、肝心の萌は全く別のことを考えていた。


 雨上がりの不快な湿気から解放された萌は、5限目の古典の授業中からずっと考えていたことを実行に移そうとした。


 少女は鞄のポケットからイヤホンを取り出すと、ゴルディアスの結び目のように絡まったストラップの解除に取り掛かった。頭の中にはまだあの音楽が鳴り響いている。


 一刻も早く、本物を聴きたい。萌はワクワクし、ストラップの解除が上手くいかなくても、決してイラつくことは無かった。


 萌のその行動は、あと一歩で世界の真理に触れられる所にいた幸乃を慌てさせた。


(こいつは、音楽を聴こうとしている。あたしというものが横にいながら!)


 別に、おかしなことではないのだった。片耳にイヤホンを刺していても、もう片方が相手いれば話は出来る。それは彼女達の間で日常的に行われていることであった。


 だが今日はいけなかった。今日だけはダメなのだ。何故なら、幸乃の気分がそうでなかったからだ。


 幸乃は親友達の自然体を愛した。自分が及ぼす影響を極力まで排し、彼女達のあるがままを観察するのが何よりも好きだった。


 けれど、今日はダメだった。上手く説明はできないが、今日は自分の日なのだ。


 そうこうしている内に、萌はゴルディアスの結び目を断ち切った。少女の眼は、まるで世界の全てを手に入れた者のように光り輝いている。


(不味い!)幸乃の悲鳴は声にならなかった。


 どうしよう、このイかれた娘を止めなくては。声を掛ければ良い。だがこいつは、きっと音楽を聴いたままそれに応えるだろう。


 ほんの少しでも意識がそちらに持っていかれてはダメなのだ。萌の意識をこっちの世界に向けなければ。自分を観て貰わなければ。


(神様…!)


 心の中でそう叫び、助けを求めるかのように幸乃は空を見上げた。そして少女は、遙か上空に浮かぶ神の答えを観たのである。


 再生ボタンを押そうという正にその時、萌は自分の袖が引かれていることに気が付いた。少女はイヤホンを片方外し、幸乃の方を見遣った。


「ほら、アレ。虹」


 親友の指差す方に視線を移し、萌はそれが嘘でないことを確認した。七つの彩色がくっきりと観える、見事な虹だった。


「ほんまや。凄いな」


 萌はカメラロールを開き、自然界の驚異を写真に収めようとした。だがピントを合わせる前に、若い手がレンズを覆い隠した。


「何してんねん」

「駄目だよ。写真を取ったら、他のみんなにバレる」


 そう言いながら、幸乃はまるで悪さをした子供のように、意味ありげに周りを見回した。


 自分達以外で虹に気づいているものは、このホームには殆どいないようだった。何故なら大概が両耳をイヤホンで塞いだり、スマホに視線を落としているからだった。


「あたしたちだけで観ようよ」


 親友の歯の浮くような台詞に、萌は眉を顰めながらイヤホンを取った。


「何やねん、それ。キモ過ぎるやろ」


 悪口を言われながらも、幸乃は小さく微笑んだ。神の力を借りて、自分は勝ったのだ。


「今この瞬間、あの虹はあたし達だけのものだ」

「キモ過ぎるて。イキんなよ」


「イキってるのはそっちの方だろ。腕なんて捲って、まだ3月なのに」

「暑いねん、しゃーないやろ」


「こんなの平気でしょ。半分東南アジア人なんだからさ」

「それは偏見や。教えてやるけどな、今の日本はミャンマーなんかよりも暑いねんで。夏なんか観てみいや。あんなん殺す気やん。神様はウチらをフライパンの上の焼きそばみたいに焼き殺すつもりなんやぞ」


 電車がホームに入って来た。だが会話に熱中する2人の少女に、そんなことはどうでも良いのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その日その日 二六イサカ @Fresno1908

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ