第3話
ミツコは雨やみを待っていた。砂が流れるような雨音に囲まれているとそれが永遠に続くような気がする。潰れたタバコ屋の軒先は、小学生のミツコの体をかろうじて守ってくれていたが、横風からの攻撃には用をなさなかった。
「送っていこうか?」
見知らぬ白いセダンがミツコの目の前に止まった。人の良さそうな男が運転席の窓からミツコに話しかける。
「ママがもうすぐ迎えにくるから」
ミツコは咄嗟に嘘をついた。
男はスンと鼻を鳴らしてから、車の前方を見た。
「そうか」
ミツコに言ったのかひとり言なのか判断しかねる呟きを残して、男は再び鼻を鳴らす。運転席の窓が閉じられ、車は去った。
ミツコは時間のわかるものを持っていなかった。大きなカラスが空をおおうように、闇が少しずつ近づいてきていた。
普段は通らない隧道を通れば家までの近道になる。地元の人間くらいしか使わない細く短いトンネルで、普通車は通れない。たまに通るのは軽トラくらいだ。
国道を歩けば街灯があるが遠回りになる。雨は変わらず降っている。
ミツコは駆けだした。
――ねえ、一緒に帰ろうって言っていたのに置いていかないでよ
ミツコの背後からなれなれしい声がする。
――無視しないでよ
「してないよ」
――ここ暗いね。怖いから手をつないでもいい?
「手がベタベタするからいやだ」
ミツコは下を向いて足早に歩く。
この子、いつから私の後ろにいただろう。
気が付いたのは隧道の手前。カーブミラーに映った自分の後ろに、もうひとつ別の影がふっと見えたことだった。
早く雨をしのぎたくて、ミツコはそのまま細いトンネルに駆け入った。
――おねえちゃんはどこへ行ったのかなあ
”友達のふりをした”その子は、しきりと私に話しかける。
――私を置いてさきに行っちゃった。いつもそう。
――もう泣きそうだった。だって外はだんだん暗くなってくるし
ミツコは後ろを振り向けない。
――そうしたら、一緒におねえちゃんを探してくれるって
トンネルではミツコのぺたぺたという靴の音だけがかすかに反響する。
――こっちのほうが近道だって
そんなに長いトンネルじゃないのに。いつもだったらそんなに長く感じないのに。そう思いながらミツコの足は自然と速くなる。けれども走れはしなかった。
――いっしょに山のほうへ行ったんだ
隧道への道はまっすぐの一本道だ。側道も脇道もない。なのになぜあのとき隧道の入り口にカーブミラーを見たと思ったんだろう。
まっすぐの道にカーブミラーなんかあるわけがないのに。
――わたし、まだ山にいるの
この子は一体だれ?
ミツコはついに駆けだした。まっすぐ前だけを見て。出口だけを目指して。息が切れて自分の呼吸の音しか聞こえなくなり、あれだけ遠くにあったと思った出口はいつの間にか抜けていた。雨はまだ降っているものの、小降りにはなっている。
あれほど執拗に話しかけてきた”声”はもう聞こえなくなっていた。けれども、気を抜くとまた「ねえ」と聞こえそうな気がしてミツコは後ろを振り返らずにそのまま前を向いて歩いた。
雨が小降りになったせいか、あれほど暗くみえた空も今はそれほど暗さを感じない。トンネルを抜けてきたせいかもしれなかったし、もう家のすぐそばまで帰ってきたという安心感のせいかもしれなかった。
ミツコが帰宅すると母親が家にいた。母親は傘をもたず、ずぶ濡れになった娘に呆れていた。ミツコはお風呂に入るよう促され、夕食を家族ととり、宿題を済ませてぐっすり眠った。
ミツコのこの日にあった出来事を無意識に記憶の奥に閉じ込めた。
ミツコは知らない。数年前にひとりの女の子が行方不明になったことを。母親もまた知らない。ミツコが知らない男から声をかけられたことを。
男の行方は未だ知れない。
どこにでもある話 Kyju -キユ- @Tsukikusano
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