あとがき

 初めまして。

 あるいはお久しぶりです。

 奇水です。


 今作『奇説二天記』は、私が多分、2009年から2010年前後に書いたもので、当時なんとなく電撃小説大賞に応募して、一次選考を突破したものの、二次選考で落ちた作品……を、2022年にリライトしたものです。


 いやあ、今読むと色々となんというか、未熟に過ぎたというか、よくも一次選考通ったなって思いましたね。

 修正はアルファポリスさんの歴史時代小説大賞に投稿した際にも一度しているのですが、改めて読んでもポロポロとでてくるでてくる……これでよくも5月の自分は通したものです。多分、再来月あたりに読み返すとさらにリライトしたいという気持ちが湧いてでるように思います。キリがないので、とりあえず今はこれくらいにしておきますけど。

 ちなみにアルファポリスさんの賞では奨励賞をいただきました。

 その節に応援していただいた方たちには、遅くなりましたが改めてお礼申し上げます。


 さて。

 今作を書いた頃には、宮本武蔵と言えばまだまだ司馬遼太郎作品などによって形成された、野望に満ちた狷介孤高の剣客だったり、勝つためには手段を選ばない汚い剣豪というイメージが強かったと記憶しています。

 どういう話の流れだったか今となっては思い出せませんが、2008年前後のある時に、創作仲間との会話の中で、武蔵について「嫌だよ武蔵なんて、ずっと就職できなかった人じゃないか」という言葉がでてきたのですが、それに対して私が「いや、武蔵は就職なんてする必要がなくて…」と反論したのですが、その時に「それは面白い」と言われたのが、本作を書く、直接のきっかけとなったものです。


 私は宮本武蔵という剣豪が好きです。


 小説の、漫画の、ゲームの、伝承の、色んな武蔵が好きです。

 それらのあまりに多くのノイズのせいで、実態が掴めず、そのノイズまでも含めて形成された「宮本武蔵」というファンタジーが、大好きです。

 しかし、それゆえに史実をベースにした宮本武蔵は、当時のフィクションにはほとんど見られず、果たしてそれは世間に受け入れられるかどうかは未知数でした。

 なにせ史実ベースの宮本武蔵ときたら、狷介孤高でもないし、出世欲が特にあったわけでもなさそうで、仕官に失敗して挫折だらけの人生でもなく、その剣は彼だけにしか使えなかったということも当然なく……

 なんというか、


・多趣味で多方面に知己が多い人だった。

・三人の養子が尽く大名の近習などの側近ポジションになり、一人は筆頭家老になるまでの才覚と実力をもっていた。

・弟子は数多くいて、彼の剣術は多くの流派に影響を与えた

・卑怯な勝ち方をしたというのはだいたい後世の創作


 挙げていくと、こんな感じでしょうか。

 今までの創作で描かれることがなった武蔵が、そこにいました。

 当時の創作仲間に語ったのは、そういう武蔵で、私は特に栄達した養子たちの話を中心にしました。

「優秀な養子がいて、その子は出世もしたのだから、義父たる武蔵が仕官などする必要がなく、武蔵は自由に色んな趣味を持てたし、剣術の研究を深めることができた。友人もいっぱいいたようだし、つまりは彼は、今でいうリア充だった」

 リア充って言葉も、今はあんまり遣いませんね。

 10年以上前は現役の言葉でしたよ?

 それはともかく「リア充剣豪」というのが、仲間たちのツボに入ったようでした。

「面白いから、そのリア充の武蔵を題材にして何か書けばいいのでは?」

 そう言われて、ようやく私はという確信が持てました。

 江戸時代から近代を通じて、講談や戯作とは別に形成されてきた武蔵イメージには、なにがしかのがあったのではないか? 史実の武蔵は求められていないのではないか? という懸念がかつての私にはありました。そんなに強いものではなかったですが、かすかなものではあっても、そんな小さな棘のような懸念が私の指を鈍らせ、長年武蔵を調べながらも書き出せなかったのです。

 しかし冷静に考えれば、世間に広まる創作武蔵イメージの最たるものの一つ、戦後になって否定され続けた吉川英治『宮本武蔵』(以下吉川武蔵)こそが、長らく近世で形成された「汚い武蔵」に対するカウンターでした。

 世間では吉川武蔵は実像とはかけ離れた求道の士として武蔵を描き、それを定着させたものとして批判され、戦後にそれを否定する作品が書かれ続けていますが、実は吉川英治の『随筆宮本武蔵』を読むと、吉川英治が資料などから読み取った武蔵のイメージは、意外なことに司馬遼太郎の『真説宮本武蔵』などの戦後の小説で描かれるものと大差はないのです。

 些か長いですが、以下、丸々一章全部引用します。



彼の短所と「独行道」のことば


 それにしても、彼の晩年の哲理だの、高潔な隠操生活などから推して、武蔵が、弱冠からすでに大成した聖者めかしていた人間とは、私も考えていない。

 むしろ人なみすぐれた体力と意力の持主であったことから考えて、欠点や短所も多分にあったと観たほうが本当だろう。得て一道に没入してひたむきな人間は、社交的には、人あたりのごつい、我を曲げない、妥協しない、曲解され易い性情のあるものである。、五十七歳で初めて細川忠利の知遇を得たなどというのも、どこか世と折合わない性格の一証ではあるまいか。

 その他にも、随所随時に、武蔵の言行や逸話などを検討してゆくと、かなり肌に粟を生じさせるようなふしもあるし、、それは時代の道徳や社会性格などをも、よく考慮してみなければ、一概に彼の短所とも云いきれないことかと思う。

 それとまた、武蔵が、天正十二年の頃に生れたということがそもそも、すでに彼の素質に不遇を約束されていたような気もするのである。なぜならば、時流の大勢はもう赴くべき方向を決していたからである。槍一すじで一城一国を克ち獲る時代は、秀吉の出現と、その幕下の風雲児たちを最後として、小牧、関ヶ原以後においては、もうそういう野の逸駿は余り求められなくなっていたし、また躍り出る機会もすでになくなっていた。

 だが眼のあたりに、秀吉やらそれを繞めぐる無数の風雲児の成功を見ていた時代の青少年達は、多分に自分も英雄たらんとする熱意と夢に囚とらわれていたろうと思われる。そしてもう武力よりは文化的知性を、破壊よりは建設を――より多く求めつつ推移していた時代の推移を誤認して、いつまでも室町期以後の戦乱と機会ばかり窺って、遂に過った者が、どれ程あったことかと想像されるのである。

 それは寛永や慶安の頃になってもまだ、夢から覚めない無数の浪人があった程だから、大坂陣、関ヶ原役前の時人に、時流が見えなかったことは、むりもないのだった。

 しかし、それにも訓えられて、彼の奉じる「剣」は乱世の兇器から、平和を守る愛の剣へと変って行った。権力と武力ばかりをかざす器具に、人間本能を自戒する大切な「道」をもたせた。破壊や殺戮の剣から、修身の道と心的な道味を酌んで行った。

 


 傍点は私がつけましたが、このあたりの言説は戦後の武蔵を論じた文章では似たようなものをよく見かけます。

 それらがこの『随筆宮本武蔵』から……というわけではなく、恐らくは90年代までは資料を見て得られる武蔵イメージは、だいたいこういうものだったのでしょうね。

 最後の「しかし、それにも訓えられて、彼の奉じる「剣」は乱世の兇器から、平和を守る愛の剣へと変って行った。権力と武力ばかりをかざす器具に、人間本能を自戒する大切な「道」をもたせた。破壊や殺戮の剣から、修身の道と心的な道味を酌んで行った。」は吉川英治の独自の見解のようですが、どうにも私には、従来の武蔵イメージに対して反論するために、無理やり捻り出したように感じるのでした。

 もっとも、武蔵イメージについては吉川英治が最初から従来のそれだったのかは解りません。

 元々曖昧な「剣聖」としての観念でぼんやりと考えてた武蔵が吉川英治にはあって、それで直木三十五に対抗していたけど、直木の集めた資料を反映した武蔵イメージ……『武蔵非名人説』のそれを受け入れざるを得なかったのではないか――

 私はそんなふうに考えています

 とはいえ、それ自体は本題ではないので、この話は閑話休題ここまでにして

 

 問題になるのは、戦後否定され続けた吉川武蔵が書かれた時点で、吉川英治すらも今の世間的なイメージと大差がなかったということでした。

 この事実を認識したことが、私にとって幾つかの疑問の答えともなり、新たな問いの始まりにもなりました。

 その全てをここに書くわけにはいきませんが、「汚い武蔵」のカウンターとしての武蔵はすでに書かれて好評を得ていたことは、私の書く動機を強化し、結局はカウンターの繰り返しに終わってしまうのではないか――という不安でした。

 書き出してもいないのに、贅沢な話ですね。

 ここらは小説家などという生き物は、いつもいつも不安に苛まれるものだと笑ってくださって結構です。

 本当、どうしようもなく書かない理由ばかりが湧いて出て、そればかりを採用してしまいがちです。

 そういう不安を打ち崩してくれたのが仲間たちの言葉であり、そして近年になって新たな武蔵イメージを抱かせるきっかけともなった、『播磨武蔵研究会』の研究成果でした。

 この『播磨武蔵研究会』については、どれだけ言を尽くしても感謝の言葉しかありません。

 何十年もの武蔵研究の成果が惜しみなく注ぎ込まれ、無料で公開されている――私が90年代に十万円近くかけて集めた書籍の、その全てが過去のものになってしまうほどの充実した内容と知見は、恐らくは今後も武蔵研究の出発点として必須のポジションにあり続けるでしょう。

『播磨武蔵研究会』がなければ、今作はなかったでしょう。

 主宰者であった故・鈴木幸治先生に改めて感謝と、そして氏のご冥福をお祈りします。


 さて。

 今作『奇説二天記』ですが、そういう経緯であって投稿され、二次選考で落ち、それでも当時の電撃文庫の編集であった清瀬さんに拾われ、うまくいけばこの作品で私はデビュー……ということになっていたと思うのですが、どうにもうまくいかず、私がデビューするのはさらに数年後、『非公認魔法少女戦線』となります。

 そちらはそちらで全力でしたが、今作とはだいぶん趣が違う作品ですので、とりあえず今はスルーすることにして。

『奇説二天記』の方も、いずれ改稿して刊行できるかも――ということで、長らくPCデータの肥やしになっていたのですが、清瀬さんは電撃文庫を辞められましたし、それを期に改稿して投稿することにしました。

 いやま、すでに修正原稿をアルファポリスさんの歴史時代小説大賞に出してるのですけど。

 奨励賞でしたけど。

 今回のものは、さらにそれを修正したものです。

 いやあ、当時は二次落ちに悔しがったものですが、読み返すと納得のボロボロさというか……。

 今後も修正し続ける羽目になるかも、と今からすでに思っているところです。


 そして本来は蛇足もいいところなのですが、今作についての補足を。


 作中に書かれてる武蔵に関係する話は、だいたいが史実なり伝承なりの根拠があるものですが、当然、虚構も入っていますし、伝承にしても、実はこれは後世に構築されたものだということが解っているものもあり、そのあたりについてはご留意ください。

 岩流の多田市郎が武蔵に謀殺されたという話は、鳥取に伝わっていた岩流の伝承ですが、市郎が岩流を号したことなんかありません。

 武蔵の好物が豆腐というのは、これは『鵜の真似』にある伊織のエピソードからです。

 他にも色々とありますけども、尾谷の柿の話などは、元々は佐々木小次郎の話ですらなかったとも言われています。

 武蔵に関係する話はノイズが多く、どれが本当とも嘘とも解りません。

 むしろ、そのノイズの多さこそが、『宮本武蔵』という剣豪の魅力を示しているし、それらの全てが『宮本武蔵』なのかもしれません。

 今後も創作は編まれ続け、時に新たな資料が見つかり、伝承は生まれ続けるでしょう。

 それこそが『宮本武蔵』なのです。


 願わくば、本作もまた『宮本武蔵』の一部となって世に影を落とさんことを。



 


 2022年10月5日 


『推しが武道館にいってくれたら死ぬ』のニコ生全話一挙を見ながら。


  

 

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奇説二天記 奇水 @KUON

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