絆創膏と猫
ろくなみの
絆創膏と猫
絆創膏と猫
ある日、先輩が会社を辞めた。うちの会社で退職なんて、別に珍しいことじゃない。世間でもよくあることだろう。それで会社の何が変わるってわけじゃない。
「まあ、もともと課長からネチネチ説教されてたし、辞めて正解だったんじゃない? 別に好みじゃなかったし。いつも鼻水出てて気持ち悪かったし」
同僚のミキは先日宣言していたダイエットを続けているようで、ヘルシー系のゼリー飲料を口にしながらそう言った。
「まあ、たしかにそうかも」
三分経ったカップ麺の容器がじんわりと私の手を温める。その指先に貼られたネコのイラストされた絆創膏の薬のような香りが混じり、思わずむせそうになる。
ちなみにミキの言葉に異論を感じた私は、反射的に口を開く。
「いや鼻水は慢性の鼻炎なんだって。薬もあんまり効かないって言ってた」
「……へえ」
特に興味もなさそうに彼女は言う。別に辞めた人間を今ここで弁護しても仕方がないのだろうけど。いなくなった人間なんて、いくらでも良くも悪くも言えるし、ヒーローにも極悪人にもできるのだから。
「その絆創膏、ださくない?」
そして、間があくと、彼女はいつも目についた疑問を口にする。
「書類で切っちゃってね。先輩がくれたの」
「えー、そのデザインはないわ。あの顔で猫のイラストとか笑える」
先輩の私物は少女趣味なところもあったから、特に驚かなかったが、他人からみればそうなのかもしれない。
「いやそれ今関係ないよね」
普段感情的になることはないのだが、なぜか声が大きくなる。
「なに、めっちゃ必死じゃん」
「なってませんけど?」
ミキに煽られ、私の静かな怒りのトーンが少しずつ上がっていく。手っ取り早く嫌がらせをするために、カップ麺のちじれた麺を箸でつかみ、彼女に突きつけた。
「おら、肉食え。そんで太れ」
「ちょ、やめてって、ラーメン無理なの。気持ち悪い気持ち悪い」
こんなリアクションが来ることくらいはわかっていたはずなのに。なぜか怒りが収まることなく、お腹の奥が熱くなった。
「あんたさ、私の悪口言うのはいいけど、ラーメンの悪口言うのやめてくれない?」
「なに、怒ったの」
きっと彼女からすれば、いつもの私の冗談の延長だと思うだろう。久しぶりに高ぶった感情、どう収めるべきか。
「もういい、戻る」
その結論は出ないまま立ち上がる。ミキも慌てて追いかけてくるも、特に悪びれている様子はない。カップ麺のスープを一気飲みして、そのままゴミ箱に捨てた。のどが焼けているみたいに熱かった。
「怒った?」
「怒ってない」
「怒ってるでしょ」
「怒ってない」
そんな押し問答を続けながら、歩みを進める。歩幅を合わせる気にもなれず、誰とも目を合わせたくない気分だった。
ミキより先に社内に入り、入り口にあるタイムカードの機械が目に入る。機械の横の壁には社員全員のタイムカードが差し込まれていた。
「どしたの、打ち忘れ?」
私に追いついたミキが、そう尋ねた。
返事をするかどうか悩むよりも先に、先輩のカードがまだ残されているのが気になった。多分、上が処理するのが面倒くさいのか、はたまた忘れているのかどちらかだ。気まぐれに、先輩のカードを抜きとる。続いて私の分も。ミキは私の後ろからカードを覗き見て、小さな悲鳴を上げた。
「うわ、気持ちわるっ。全部同じ時間じゃん」
それに関しては異論はない。出勤時刻の打刻時間はいつも同じ八時四十七分だ。
「いつも同じ時間に来てたから、押すタイミング一緒だったんだよね」
一分狂わず同じルーティンをこなしているとき、妙な一体感があったのが懐かしい。
「……なんのこだわりなの、それ」
「さあ。わかんない。いつの間にか、そうなってた」
もうタイムカードで同じ時間に打刻し合う人はいないんだろうなと思うと、まるで自分が世界に取り残された気分になり、意識だけがどこか別の宇宙にある気持ちになった。今ここにいる自分は本当の自分なのか。それとも私の顔と体だけを模した別物なのか。少しだけわからなくなった。五階へと向かう、エレベーターのボタンを押す。途中急いで戻ってきた課長と係長が乗り込んできた。エレベーターが動いている最中、課長はこんなことを言いだした。
「あいつ、辞めてくれてよかったよ。あいつのミスの指摘にはもううんざりだったんだ」
「ああ、ひどかったですよね」
「それであの申し訳なさそうな顔も癪に障るんだよなあ。改善する気まるでなし」
「しかも鼻水もずるずるしててうるさかったんですよねー。わかります」
課長と係長はとにかく人の悪口を言うのが好きだ。
「なあ、君らも思わないか?」
そして同調者を探し、自分たちの意見を正当化しようとするのも好きだ。それが彼らなりの出世術だったのだろう。
「そうですよねー」
ミキはそう同調する。仮面のような笑顔が気持ち悪い。エレベーターの中にいるのは、みんな同じ人間のはずなのに、どうにもみんなが怪物に見えて仕方がない。もしかしてこれが人間の本当の姿で、自分は記憶を失くした化け狐か何かなんだろうか。
化け狐なら、これくらい言ってもいいかと思い、言ってみた。
「先輩の鼻水がひどかったのは、慢性鼻炎があったんですって」
普段そんな雑談を振ることもないのに、私はミキに告げたときと同じように、そう言った。上司たちは面食らったみたいに、「そうか」と言ってその場を立ち去った。心臓がドキドキしていた。足は震えて、その場から私は動けなかった。
「どうしたの、あんた」
ミキは責めるというより、不思議そうにそう尋ねた。
「なんかムカついたから」
「……言葉、気を付けた方がいいよ」
ミキは私に忠告すると、先にエレベーターから出ていった。後悔がないと言えば嘘になる。
「どうせなら先輩がいる時に言えばよかった」
一人になり、扉の閉じたエレベーターの中で、そう呟いた。
その日は特にたくさんの業務はなかった。けれど定時が来ても帰る気が起きず、なんとなくデスクに座ってぼんやりしていた。
「帰らないの?」
後ろから唐突にミキから声をかけられ、体がびくんと反応する。
「あ、うん。ちょっとやることあって」
理由を言うのも面倒でそうごまかす。
「さすが。期待の中堅は違うね。次のプロジェクトの企画のやつ?」
それはとっくに終わっている。先輩が半分以上、一緒に考えてくれたやつだ。
「まあ、そんなとこ」
また説明が面倒でそう答えた。私の手柄が、先輩のおかげだとみんなの前で言おうとすると、先輩はその言葉を奪うようにこう言っていた。
「この子が自分で気づいたんです。とてもこの子、優秀ですよ」
そう先輩が言うと、みんなは何一つ疑わず私を褒める。そして、それと比較するように先輩をけなす上司たち。先輩はその状況を楽しむように笑みを浮かべて、その場を丸く収めていた。あの時、一言でも何か言っておけば、先輩は辞めずに済んだのだろうか。
先輩の顔を思い浮かべている間に、今目の前にいるミキは、悲しそうな顔を浮かべた。
「そうなんだ。じゃあまたね」
ミキはか細い声でそう言い残し、私に背を向けた。静寂に包まれたオフィスにパソコンやエアコンやらの機械音が響く。誰もいなくなったオフィスはどことなく寒く、この世のどこよりも冷たい場所に感じ、体が震えた。
昔、残業を先輩と二人でしていたことを思い出す。その日、先輩とはいろいろな話をした。近くのラーメン屋が人気ないけどおいしい話とか、最近見た深夜ドラマや動画サイトの話とか、地元の町の桜がきれいな話とか。何気ないところで、先輩の声がまた聞こえるんじゃないかとか、そんなことを考える。目を閉じて耳を澄ませてみた。さみしくなっただけだった。こういうとき、誰かに電話をしたくなるものなのだろう。その誰かが何人かいればよかったのだけれど、今声を聞きたいのは先輩だけだった。
携帯の連絡先から先輩の名前を選んで、電話をかけた。電話はつながらなかった。何度かかけてみたが、結果は同じだった。着信が返ってくるかと期待して、携帯の画面を見続けた。一時間待っても、二時間待っても反応はない。別に先輩以外に連絡ができる知り合いはいることにはいるのだけれど、人生でこんなに寂しいと思ったのは初めてだった。スマホを乱雑にカバンの中に戻し、舌打ちをした。いい加減残業もないのに一人でデスクにいるのが虚しくなって、ため息を一つ吐いてから、帰ることにした。
家の玄関で靴を乱雑に脱ぎ捨てる。ベッドに行くのがいつもの流れだったが、なんとなく床の上にスーツのまま寝転がった。ひんやりとしたフローリングと時計の秒針が私を慰めるみたいで、このまま体を起こしたくなくなった。そのまま眠りに落ちることもなく、時間だけは過ぎていく。日付を越えたころ、ようやく体を起こす気力が起きたが、体育座りに姿勢を変え、窓の外を見るだけに留めた。
「きれいな満月だね」と、遅くまで残業したとき、先輩が私にそう言った。
たぶん、会社でそんなことを言うのは先輩だけなんだろうなあと、苦笑して「そうですね」と私は返していた。携帯の画面から、もう一度先輩の連絡先を探す。アイコンは季節外れの桜の写真だった。それをタッチして、拡大する。桜の煌びやかさを目で楽しんでいると、無臭の部屋に甘い香りが漂っているように錯覚する。先輩の桜のアイコン、どこで撮ったんですか、とか。言えばよかったのかな。スマホの画面に水滴が落ちた。どうやら私の目からそれは落ちたらしい。袖でぬぐっても画面は濡れ続けるばかりだ。スマホを床に置き、流れる涙がフローリングを濡らしていく。暖房のきいていない部屋の寒さは私の体から体温を奪っていく。このまま心も体も全て凍り付けば、これ以上涙も流さなくて済むだろうに。泣くのは胸が苦しくなるから嫌いだった。他人がいるから涙を流すんなら、他人なんてもういらない。世界の人間が私だけなら、最初から苦しむ必要なんて、なかったのに。先輩のことが、愛おしいとともに、怒りに近い二つの感情がわき出て、どっちが本当の自分かわからなくなった。
涙が水たまりのように広がっているのを見ているうちに、朝が来た。
一睡もできないまま会社へと向かうと、どこか世界がふわふわとしているのに、足取りは重い。まるで夢の中にいる気分だった。ゆっくり出社したから、タイムカードの打刻時間は八時四十九分になってしまった。別に悔しくはないが、先輩がいたら悔しくなっていた気がする。
オフィスに着くなり、課長が私に近づいてきて、周囲にも聞こえる声量でこう言った。
「おい、ちょっと来い」
周囲の視線が背中に刺さるのを感じる。それを無視するので精いっぱいで、いったい何を言われるんだろうとか、そういった恐怖感を抱く余裕はなかった。
課長は偉そうに個室の椅子にふんぞり返ると、舌打ちを一度してからこう言った。
「あのさ、休憩中の発言についてあれこれ言うつもりはないけど」
「休憩中の発言?」
一応その時点で察しはついているが、そう聞き返した。
「昨日のエレベーターだ。覚えてるだろ?」
「ええ、まあ」
曖昧な返事に苛立ったのか、課長は貧乏ゆすりを早める。
「ああいうやり方してると、君の味方がいなくなるよ?」
「どういうことですか?」
「どういうことって……」
どういうことかなんて、わかっている。みんなが煙たがる存在を、同じように扱わない私は、輪を乱しているということだろう。小学生でもそれくらいはわかる。ただ、その子供じみた背景を言語化することに、この幼稚な男は苦しんでいるのだろう。
「私が何か間違ったことを言ったんですか?」
この姿勢が今示せたところで、先輩にメリットはない。先輩は、もういないのだから。何もできなかったことが悔しかったし、先輩が傷ついていたかもしれない事実から、目をそらし続けた自分が憎かった。
「働きにくくなるようなことを続けないことだ」
考えた末の結論が、ありきたりすぎて思わず噴き出した。
「何がおかしい」
今自分は確かに笑っている。別に楽しいわけではないけど、そうしなければ自分の心が保てない気がした。だから、私は立ち上がり、個室の椅子を蹴り飛ばした。
「じゃあもういいですよ」
ガタンと大げさな音を立て、課長はのけぞり、目を丸くした。想像より大きな音のため、私の鼓動も少し早まる。背筋が汗ばむのを感じ、息を飲んだ。
「お、おい。なんなんだ」
部下に高圧的に出るなら、高圧的に出られることにも慣れていてほしいものだ。
「辞めます」
いつかはそうしたかったのだろう。だからその一言で、私の心がいくらか軽くなる。ただ課長はあまりに唐突な一言が理解できていないようで、何も言わない。
「辞めます」
さっきより大きな声で、もう一度そう言った。
「辞めるって……君、ここ以外にどこに」
ここにいるよりはマシです、とでも言えばよかったのだけれど、慣れないことをしたのか、思わず腰を抜かして床に座り込んだ。課長もどうしたらいいのかわからず、呆然と立ち尽くしていた。
しばらくすると私の呼吸も整い、とりあえず礼儀として頭を下げ、その場を後にした。
個室を出ると周囲の視線を一気に浴びる。ミキもその中にいた。
「えっと、今までお世話になりました」
視線に対する対抗措置のため、できるだけ他人行儀に頭を下げた。そして、自分のデスクに戻り、荷物をまとめようとカバンを手に取った。
「ちょっと、待ってよ」
ミキが私の手を掴んでそう言った。
「あ、えっと。どこまで聞こえてた?」
「椅子が倒れた音と、あんたの辞めます宣言」
一応肝心なところは全部聞こえていたらしい。椅子を蹴ったのは私か課長か、どっちに思われてるのだろう。
「いいの? こんな簡単にやめて。あんた、一応責任ある仕事任されてたでしょ?」
彼女もまた、上司たちと同じ思いなんだろう。友達だと少しだけ思っていたが、どうやら違ったみたいだ。
「いいの。私ラーメン屋にでもなるわ。昔からラーメン職人になるのが夢だったの」
「なにそれ、初耳だけど」
ミキは麺類を好まない。なんとなくミキへの対抗心から出た言葉なのだろう。
「今言った」
呆れたようにミキは私に背を向けた。その時、彼女の右手の人差し指から、一筋の赤い切り傷が見えた。
「これ、あげる」
私はポケットから絆創膏を取り出す。猫のイラストがプリントされた、かわいいやつだ。先輩からもらったもののおすそ分けという形になる。いつか返そうと思っていたのだが、結局その機会は失われ、ポケットで眠っていた。
「……いらない」
「傷口にバイキン入ったら嫌でしょ。つけて」
彼女は何か言いたげな表情を浮かべながらも、私の手から渋々絆創膏を受け取ってくれた。そして、そのまま私は夕方にもならないうちに、会社を後にした。
そのまま家に帰っても良かったが、気分が落ち込むことは目に見えたため、とりあえず駅の近くのベンチに座り、会社の関係者の連絡先を全てブロックした。ミキをするときも少し心が痛んだが、変に未練が残っても気持ち悪かったため、同様にブロックした。ひとしきり処理をし終えたときには、日がすでに傾き始めていた。空腹感と夜の来訪が重なり、漠然と不安になる。その時、先輩から教えてもらった、人気はないが、おいしいラーメン屋のことが頭をよぎった。ミキに出鱈目の将来の夢を告げていたことと、収入口もなくなったことだから、ついでにバイト募集の広告でもあれば働こうと思った。
携帯のマップアプリを見ながらそのラーメン屋へ向かうと、五分もかからず店の前にたどり着いた。路地裏にある煤けたのれんのかかった、昔ながらのラーメン屋だ。
店に入ると、見覚えのある猫背の後ろ姿があった。私に気づいたのか、その人影は振り返った。
先輩だった。
「やあ、こんばんは」
特に驚く様子もなく、先輩はそういった。垂れた鼻水をティッシュでぬぐう姿をまた見れるとは思わなかった。
「電話出てくださいよ」
「ごめん、携帯捨てたんだ」
その思い切りの良さに苦笑し、自然に先輩の横に座った。
とりあえず先輩お勧めの醤油ラーメンを食べてみた。あっさりとした味わいに麺の細さまで、私の好みだった。
「生大一つ」
なんとなくすぐに帰るのが嫌で、飲んで帰ることにした。
ビールが進むと、気持ちが昂り、先輩がいなくなったことによる怒りにも寂しさにも似た感情が湧き出てきた。それでも先輩の前で泣くのは嫌だと思ったから、私は先輩の背中を思い切り叩いた。
「いたっ」
「なんで辞めたんですか」
なんで。
こんな単純な言葉のはずなのに、時として人を傷つけるのはどうしてだろう。先輩はバツの悪そうに、愛想笑いを浮かべた。
「またそうやって笑ってごまかすんですね。そんなんだからナメられるんですよ」
会えてうれしかったはずなのに。伝えたいことは別にあったはずなのに、流れ出した言葉は、歯止めがきかない。
「責任感とか、ないんですか? いい迷惑ですよ、本当に」
先輩ともっと一緒に働きたかったとか、素直に言えばいいのに。優位に立って、気安い言葉をかけられる関係だと、自分に言い聞かせているのだろうか。だとすればなんておこがましい話だ。
「先輩みたいな人、どこにいっても同じですよ」
気が付くと、ジョッキのビールはぬるくなっていて、食べかけのラーメンの麺は、水分を吸って倍くらいに太くなっていた。
「……ごめんね、つらい思いさせて」
状況が悪くなると、こうやって謝るところも嫌いだった。会ったらうれしさで満たされると思っていた分、自分がここまで怒りに支配される理由がわからなかった。
お互いラーメンを食べ終わると、先輩は千円札を二枚置いて、そのまま私に手を挙げて店を出た。先輩のお金で会計を終え、私も店を出る、外にいる先輩は、コートのポケットに手を入れたまま、少し欠けた満月を眺めていた。
「きれいだね」
あんなに怒りを示した私に対して、先輩は優しく微笑んだ。
「何もできなくてごめんなさい」
私がそう言うと、先輩はそっと私の頭を撫でた。泣くのは嫌いだったはずなんだけれど、先輩がその間ずっと背中を撫でてくれたから、泣くのも悪くはないと思った。
先輩のこの優しいところが大好きで、私も先輩みたいになりたかった。
人生で一番涙を流した夜だったかもしれない。
その日のうちに、先輩は夜行バスに乗って街を去った。
私は再就職先も見つからなかったから、とりあえず、その日に行ったラーメン屋にバイトで入ることにした。ミキへの宣言はこれで達成された。
接客業は初めてだったけれど、美味しかったといってくれる人がいるのはうれしかった。いつか先輩が来ないかなと思いながら客席の顔ぶれを見てしまうが、一度もきたことはない。ただ、私がバイトを始めてから客足は増えていき、いつの間にか店は有名店になっていった。忙しくなるにつれて、私の休みもなくなっていったが、その忙しさはどこか心地よく、先輩のことを束の間忘れることができた。
それでも家に帰って窓の外を見たとき、部屋を満月が照らしていると、着替えるのも忘れてじっとその場で膝を抱いて先輩の声を頭の中で何度も再生させていた。そして、あの日のように涙を流した。
そして、先輩に勢いとはいえ、残酷な言葉を浴びせた自分を憎んだ。
心に深い傷を負っているかもしれない。
先輩が、もし唯一心を許していた相手が、私だったのなら、私は最低なことをしてしまったのだろう。あの日に戻れたらといくら願って眠りについても、夢に見ることもできなかった。夢でくらい再会させてくれてもいいのに、神様は残酷だ。
その日も店のシフトに入ると、いつもより客が少なく、ゆっくりテレビを見ることができた。そこに映っていたのは、桜の名所特集だった。どこかで見た光景に、記憶をたどる。胸の高鳴りが、その真実を暗に示す。携帯をポケットから取り出し、先輩の連絡先をしばらくぶりにタップする。アイコンの桜の画像は、テレビの桜並木と瓜二つだった。
仕事を終え、テレビで放映された場所をネットで検索する。電車でなんとか四時間ほどでたどり着くとのことだ。次の日の仕事がちょうど休みのため、行くことにした。
そこに行けば先輩に会える確証はない。けれども、映画みたいなロマンを期待しても罰は当たらないだろう。そして、先輩に謝って、本当の気持ちを伝えることを妄想したって構わないはずだ。休みの日の過ごし方は自由なのだから。
次の日は六時に目が覚めた。まるで遠足前の子供だが、悪い感覚ではない。久しぶりに生きている気がした。
春らしい薄桃色のカーディガンを白シャツの上に羽織る。少し寒いかもしれないが、ショートパンツで足を出した。先輩はこんな服が好きだろうか。財布とスマホをカバンにつめ、家を出た。途中で寄ったコンビニでポッキーを一箱だけ買い、駅へと向かう。
窓に背を向けるタイプの長い座席に腰をかける。子どものころなら椅子の上に膝立ちで乗って外の景色を見たことだろう。誰も座らない向かいの座席の窓から見える、しらない町が電車の動きと反対方向に流れていった。
目的の町についたころは、昼食時を少し過ぎたころだった。空腹を紛らわすために、コンビニで買ったポッキーをぼりぼりと袋から数本まとめて口に運び、あっという間に食べつくした。
桜並木の河原は、ここから歩いてすぐだった。
観光客が所狭しと歩いており、みんなSNS目的なのか、ひたすら写真を自撮りしている。当然先輩の姿なんて都合よくあるわけもなく、とりあえず自分でも桜を何枚か撮った。
たしかにきれいだったが、きっと見返すことはない。こんなに人がいるのに、寂しさを覚えることがあるのか。あの時の一人で残ったオフィスも寂しかったが、この現場はそれを越える。
だから私は他のことをすることにした。
「あの、よかったら撮りましょうか?」
スマホのインカメでの撮影をやりづらそうにしている女子高生らしきグループに声をかけた。
「え! いいんですか? 是非お願いします!」
とびっきりの笑顔でその子たちは私にスマホを託した。
それを続けて何枚も何枚も撮り続けた。みんな笑顔でお礼を告げてくれた。悪い気分ではなかった。最初は恥ずかしさもあり、声も小さく「はいチーズ」と言っていたが、次第に恥じらうのも馬鹿らしくなってきて、大きな声でテーマパークのスタッフ並みに張り切ることにした。バイト中にお客さんからお礼を言われることもあったが、今日は人生で一番他人から感謝された日だったかもしれない。そんな撮影をずっと続けているうちに、日は沈んでいった。その並木道はライトアップがされるわけでもないため、人はまばらになっていき、夜桜を楽しむ数名のみが残った。
「何してるんだろうなあ、私」
桜並木の真ん中の地面に座り込み、そのまま寝転んだ。砂利で背中が痛くなったが、別に気にすることはない。カーディガンの汚れも、この暗さじゃ目立たないだろう。傷ついた先輩が、同じように桜並木の下でうずくまっていたら、抱きしめてあげたかったのに、今私の目に映るのは、夜空に浮かぶ細長くとがった三日月だけだった。
「きれいだねえ」
聞き覚えのある声だった。それは数メートル先から聞こえた。体を起こすと、そこにいたのは車いすを押している先輩の姿だった。
「うん、すごくきれい」
優しい女性の声がその後聞こえた。車いすに乗っているのは髪の長い女性だった。先輩はその女性の前に回り、そのままキスをしていた。
今の自分の気持ちをどう言い表せればいいかわからない。先輩は私の言葉を重く受け止め、心に深い傷を負っていると思ったら、普通に美人とキスをしていた。
本来、愛する人の幸せは喜ぶものだろう。だから私は、先輩に幸せでいてくれてうれしいですとか、そういう明るい気持ちを抱くべきだ。
だけど、心の中のもう一人の私がこう言う。
どうせなら先輩が車いすに乗っていて、それを私が介護したかった。いや、むしろ私が交通事故か何かにあって、車いすに乗る羽目になっていたら、先輩は私のために介護してくれるのだろうか。もっとかわいそうな人になれば、先輩は私に振り向いてくれたのだろうか。
そもそも、先輩は、かわいそうな人なら誰でもよかったのだろうか。
グルグルグルグル巡る思考は、怒りや憎しみに変わった後、途方もない虚しさに代わり、私の全身の力は抜けていった。写真、撮りましょうか、くらい言えばよかったが、先輩たちの会話は次第に遠くなり、私のことなんて気づいていない様子だった。
「先輩私と暮らしましょう。私が先輩を支えますよ。色々言われて辛かったですね。先輩の心を癒してあげられるのは私だけですよ。仕方ないですねえ先輩は。あの時あんなこと言っちゃいましたけど、照れ隠しですよ。わかってますよね、それくらい」
まるでお経でも唱えるみたいに目をふさぎながら口にした。
先輩が笑顔であることは喜ばしい。だけど、きっと先輩を奮い立たせる優しい言葉を知っているのは、あの車いすの女性だろう。私は先輩の重要人物じゃなかった。ただそれだけだ。
心のどこかで、先輩が落ちぶれている前提を立てている私が気持ち悪かった。どんだけ私は先輩に不幸であってほしかったんだろう。
ああ、私もかわいそうな人になりたい。新人のころなにもできず、困っていた私を先輩は助けてくれた。それならもっと私は困りたい。自分の足を切り落としたくなり、体を曲げて爪を立てた。こんなので大けがなんて負えるわけがないけれど、それでなんとか自分が許されることを期待した。
「来るんじゃなかった」
誰の返事も期待していなかった。
「にゃー」
か細い鳴き声が私の熱くなった頭を一気に冷まし、顔を上げる。落ち着いて周囲を見渡す。木陰にひっそりといたのは、血を流しながらよろよろと歩くキジトラの子猫だった。動物を飼ったことはない。だけれど、その猫の命の灯が消えかけなのはわかった。
「助けるからね」
私はすぐに携帯で近くの動物病院を探した。歩いて十五分くらいのところにあった。歩いていたんじゃこの子の命は助からないと思い、子猫を抱いて走って目的地へ向かった。
両腕に猫を抱いたまま走るなんて、漫画みたいだった。みんな桜に見惚れて、この子の存在に気づかなかったのだろう。ともかく、今助けられる命なら、動かない理由はどこにもなかった。
息を切らしながら商店街の隅にあった小さな動物病院の入り口に、本日の診察は終了しました、と書かれた札が下げられている。だが、建物の明かりはまだついていた。
「すいません! 助けてください!」
ドンドンとドアを叩き、大きな声でそう言った。
するとドアがゆっくりと開き、中から獣医らしき男が出てきた。三白眼の鋭い目つきは、猫と私を観察しているようだ。
「……もう診察時間外だ。他を当たれ」
獣医はそう冷たく言い残し、ドアを閉めようとした。
「あの、この子、もう、やばくないですか? そ、その、できれば……助けてもらえると」
「……あんたのペットか? 名前は?」
「野良猫です。名前はまだありません」
獣医はめんどくさそうに、ぼさぼさの頭を掻き、こう言った。
「……ったく、特別だぞ」
やや上から目線の物言いが気になったが、つべこべ言っていられないため、そのまま治療をお願いした。
落ち着かない状態でソファに座り、ゆっくりと息を整えた。看護師が出してくれたお茶に手を付けることもできず、私は立ち座りを繰り返す。そして、何度も携帯の画面を見ては消すの工程を何度したかわからない。
それから小一時間経ってから、獣医が処置室から出てきた。
「終わったぞ」
さっきと同じような冷たい口調で、獣医はそう言った。
獣医と一緒に処置室に入ると、子猫はベッドで包帯を巻いて寝かされ、小さな寝息を立てていた。
「……すいません、もう閉まってるのに、助けてくれて」
子猫の無事に安堵し、そう告げる。
「別にいい。仕事をしただけだ」
今まで誰かに自分の話をきいてもらったことがなかったため、自分の話がしたくなった。今後彼に出会わないなら、多少痛い人間と思われても構わなかった。
「私、この町に来るんじゃなかったって、さっきまで思ってたんです」
「……そうか」
興味があるのかないのか、わからないような、どっちともとれない相槌を獣医は打った。
「でも、この子の命が助かったなら、来た甲斐がありましたかね」
「そんなこと知らん。別に、あんたがいなかったら、この子はあんた以外の誰かに助けられてたかもしれないし、そうじゃないかもしれない。あんたの心の空白のために、この子の命は危険に晒されたわけじゃない。勘違いするな」
チリ紙一枚にも満たない私の軸のような物は、彼の言葉でいとも簡単に砕け散った。胸の中にあった情けなさは、嫌悪感へと形を変える。先輩のことといい、猫のことといい、どこまでも自分勝手な自分を呪った。あの子の怪我を、心のどこかで喜んでいた自分がいた。誰かのためになれれば、少なくとも自分でいられる気がしたから。
「小さい人間ですね、私」
誰か自分を殺してほしいと思いながら、そう言った。
「……知らん」
それ以上、私と獣医は言葉を交わさなかった。
終電を逃した私は、現地のビジネスホテルで泊まり、翌日、猫を引き取った。
それから、月日は流れ、一年が経った。
今、私はこの子のために、ペット可のアパートで暮らしている。毎日エサをあげ、にゃーという甘えた声を聴き、頭を撫でる。 子猫の体に顔をうずめ、ゆっくりと息を吸う。どこか甘いような、優しい香りだ。
「愛してるよ」
名前のまだない子猫に、そう告げる。
「にゃー!」
明るくそう返してくれた。幸せだな、と一瞬思った自分の頭を自分で叩いた。ぺしっ、と情けない乾いた音が部屋に響いた。先輩の顔が頭に浮かびそうになるたび、ネコに愛を伝え続けた。そんな言葉を告げる権利が、自分にあるのだろうか。
季節はあれから流れ、また春が来た。バイトのため、ネコのエサを上げたあと、家を出る。シフトに入り、客の注文をさばいていく。そしてまばらになってきたとき、一人の女性客がやってきた。
「いらっしゃいま……せ」
その客と目が合った。かつての同僚のミキだった。髪はだいぶ伸びていて、やや顔の周りに肉がついている気がする。どうやらダイエットには失敗しているみたいだ。
「本当にやってたんだ。ラーメン屋」
特に表情を変えずに、ミキはそう言った。
「麺類嫌いじゃなかったっけ、ミキ」
「全く食べないわけじゃないよ」
そう言うとミキはカウンターに座り、醤油ラーメンを注文した。特に言葉もなく、ラーメンをすするミキ。客は他にいないから雑談をしてもよかったけれど、何を話せばいいかわからず、テレビを眺めた。今年も去年同様、桜の名所特集があり、私が迷走したあの桜並木は今年も満開のようだった。
「今年、もうお花見した?」
ミキの顔を見ないまま、そう尋ねた。
「まだ」
「今週の土曜あいてる?」
なんでこんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。別に仕事以外でミキと会ったことなんて全くなかったし、こんなプライベートの誘いなんてかけたことがなかった。ミキと話すのにこんなに緊張する日が来るなんて思わなかった。
「あいてる」
「行く?」
内心心臓が破裂しそうなほど緊張していた。淡々としたミキとのやりとりの流れが、ぴたりと止まる。ミキは何も気にせず、何も聞いていなかったように、ラーメンをすすり続けた。
どうせ断るなら何か言ってほしいところだ。それとも本当に聞こえなかったのか。何か弁解の言葉を考えている間に、ミキはラーメンを食べ終わった。
「行く」
ミキは水を一口飲んで、そう言った。
あの町にまた行くなんて思わなかった。
しかも今度は一人じゃない。ミキと、うちの猫を連れていくことにした。猫はお出かけバックの中でスースーと寝息を立てている。
「先輩のこと、まだ好きなの?」
ミキはストレートにそう尋ねてきた。
「いきなりなにその話題。別に好きとか、言ってないじゃん」
「いや好きでしょ、あんなに執着してて」
執着、という言葉が自分を的確に言い表している。異論も反論もまたできなくなったが、嘘はつけた。
「全然好きじゃないよ。無責任な人だし」
「優しくしてくれたんじゃないの?」
その通りだ。
「私が新人で、ミスばかりでかわいそうだったから、優しかっただけだよ。あの人は、かわいそうだったら誰でも助けるよ」
「じゃあ、嫌いなの?」
「大嫌い」
喉から絞り出したような情けない声で、その言葉を口にした。ミキは何も言わなかった。
電車が目的地にたどり着き、バッグをもって立ち上がる。ミキもその後に続いて電車を降りた。桜並木のあの道は、去年よりも観光客があふれていて、特に会話もなく盛り上がらない私たちはどこか浮いているように感じた。
「とりあえず座る?」
たまたま空いていたベンチを指さすと、ミキはうなずき、一緒に座った。桜が風で舞う様を見て、綺麗だねとか気を遣った言葉を言っても良かったが、なんだか気まずさを助長するみたいで口をつぐんだ。
「綺麗だね」
先にそう言ったのは彼女だった。先を越されたみたいでなんだか悔しくなり、返答せずに目を閉じた。
風の音を感じつつも、胸のどこかで自分を許せていない感覚がして、そのまま心地よさに体を預けることができなかった。ざわつく人の喧騒があることで、それ以上自責の念を重ねずに済みそうだった。そんな中、どこか遠くで子どもの泣いている声が聞こえた。
咄嗟に私は目を開けて立ち上がり、その声の方に走った。そこには、膝をすりむいて血を流し、顔をくしゃくしゃにして泣いている小学校低学年くらいの男の子がいた。親御さんも近くにいないようで、怪我を誰かが処置しなければいけなかった。ただ、周りの人達はちらちらと子供を見るだけで、声をかけるそぶりも見せなかった。
「痛かったね、大丈夫だよ」
私はそう言って、ポケットの中に忍ばせている絆創膏を取り出す。そして、男の子の身長に合わせて、姿勢をかがめた。
「猫ちゃんが、魔法で治してくれるからね」
私の言葉に男の子はにこりと笑った。絆創膏を膝の傷口に、しわにならないように、ゆっくりと貼った。デザインされた猫の顔を見て、男の子と私はクスクスと笑い合った。
男の子は私に頭を下げると、走って友達と思わしき子たちのところへ戻った。
「優しいね」
姿勢をかがめる私の背後から、そうミキは声をかけた。素直な褒め言葉のはずなのに、ボロボロになった自分の軸が、さらに削れていく。
「全然だよ。私、最低の人間だよ」
考えるより言葉にする方がいくらか楽になれると思い、そう言った。
正面を向くのがつらくなり、自分の膝に顔をうずめる。視界が暗転し、周りの喧騒と風の音だけが世界のすべてになる。胃に、キリキリと鈍い痛みが広がる。頬を噛みしめ、痛みをごまかした。
「なんで?」
別に驚いたようでもなく、静かに彼女は私に尋ねる。
「絆創膏持ち歩いてるのってさ、残酷だと思わない?」
「そうなの?」
「誰かが怪我するの、期待してるみたいでさ。人の不幸を願ってるのと、同じだよ」
「じゃあ、先輩もそうなの?」
「そうだよ。先輩だって、人の不幸を願ってる最低の人間だ。私も最低の人間だ」
「誰かにやさしくする度に、あんたはそうやって自分を責めるんだ」
人の体温が近づいたのを感じる。顔を上げると、ミキは私の正面に回り、しゃがんだ私の高さに合わせて姿勢をかがめていた。そして、私の膝を見つめる。そこにはいつの間にかついていた切り傷らしきものが顔をのぞかせていた。赤くじんわりと血が滲んでいて、小さな花が膝に咲いている風に見えた。
ミキはそこに顔を近づけ、そっとポケットから一枚の絆創膏を取り出した。
猫のイラストがデザインされた、かつて私があげたやつだ。
「じゃあ私も同じだ」
そう言ってミキはそっと絆創膏の両面テープ部分の半分を取り外す。粘着部分を優しく私の傷口に当て、もう半分の両面テープをはがし、ぴったりと絆創膏は傷口にかぶさった。
「あの時、あんたから絆創膏もらえて、うれしかったよ」
温度なんて感じない絆創膏のゴムのような感触は、言葉にならないほど大きな安心感となり、ゆっくりと私を包み込む。
「傷口にばい菌が入って、化膿するのを止められるなら、私は最低の人間でいいよ」
彼女はそう言って、貼り付けた絆創膏が皺にならないよう、指で何度も撫でる。傷口に当たる彼女の指腹の感触がむず痒さを運んできた。風が吹き、桜がなびく。桜吹雪が青空の向こう側に吸いこまれていくのを見て、世界がとても明るく光っているのを感じた。
自分がどれだけ醜い人間なのか。彼女に語ることはいくらでもできた。語れば語るほど、自分が先輩のことを好きだった気持ちから目をそらせるだろう。先輩だけでなく、自分も一緒に憎めれば、心の鉛は軽くなることを期待した。
「私、あんたのこと好きだよ」
ミキは静かにそう言った。
彼女は絆創膏の皺を伸ばし続け、一切私の顔を見ようとしない。言葉を失いながら皺のすっかりのびた絆創膏に描かれた猫のつぶらな瞳を見つめ続け、ただ時間を待った。彼女の言葉を待ったわけではない。今の状況を咀嚼し、理解するのに、時間は少なからず必要だった。
「あのさ、こういうときは何か言うもんだよ。気まずいでしょ」
私の理解の時間なんて待たずに、彼女は早口でそう言った。自分で言っておいて何を言っているんだとか、そういう悪態をついてもよかったが、率直な疑問を口にした。
「じゃあ聞くけどさ」
「うん」
「ミキ、なんで太ったの? ダイエット失敗?」
ミキは顔を赤くして、私の膝を叩いた。彼女は何か口にすべきかどうか悩むように、唇を噛む。数十秒の間の後、彼女の口はゆっくりと開かれた。
「ラーメンってさ、結構太るんだよね。知らなかったんだ」
ラーメン嫌いのミキは、照れくさそうにそう言った。
私の絆創膏の端を押さえるミキの手を、そっと握る。暖かく、闇の底ですっかり冷えた自分の心はどんどん温まっていく。カバンの中で目を覚ました猫が、にゃあと、小さく鳴いた。
おわり
絆創膏と猫 ろくなみの @rokunami
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