歴史実録 エンカウンター!

愛LOVEルピア☆ミ

第1話

1942年3月初頭


 四方は見渡す限りの海、東南アジア、ジャワ島スラバヤ沖。大波が来るたびに容赦なく頭から波をかぶり、塩水を飲みそうになる。

 

 ゴム製のボートには人がすし詰めになり身を寄せ合っていた。だがその殆どが血を流して横たわっている。

 

 濃紺のズボンに白のセーラー服、イギリス海軍所属の男達が力なく漂う。

 母艦であった駆逐艦「エンカウンター」は日本海軍との戦闘で爆発、炎上の後に轟沈してしまった。

 乗員が救命ボートで退艦するも、たったの八隻しか積まれておらず、全員が乗ることは元より無理な話だった。


「もうだめだ、助かりっこない!」


 若い水兵の一人が、ボートの端に掴まって辛うじて浮いたまま泣き言を大声で漏らす。

 司令である艦長は、艦と命運を共にした。主要な幹部らも沈没する艦に残り海の底へと沈んでいった。

 何も特別なことではない、世界の海軍で良く見られる光景ですらある。


「諦めるな! 生きて必ず家族の元へと戻るぞ!」


 海軍士官学校を卒業し「エンカウンター」へ配属となった、フォール少尉が兵を励まし続ける。未だ二十歳を幾つか出ただけで、自身も不安で胸が張り裂けそうだろうに、将校の務めを果たす為に気丈に振る舞った。


 恐慌状態に陥っている乗員の数は四百人以上、多くが傷を負っているだけでなく、飲まず食わずで衰弱している。

 沈没した艦から重油が漏れ出しあたりに広がると、ボートにしがみついている者達のところにもやって来た。大波が襲い掛かる。逃げ場も無ければ防ぎようも無い。


「目が! 目が!」


 頭から重油を被り叫ぶ。油が視力を奪った、寒さで腹から下の感覚すら怪しくなっているのに、光まで失っては精神の平静を保てようはずもない。

 だが波は容赦なく繰り返し襲ってきて、何度も何度も降りかかる。対処のしようもない状況に皆が沈痛な思いで耐えた。


 目を開ければ腫れてしまう、ぐっと閉じたまま油が散っていくのを待ち続けると、太陽が水平線へと沈んでいった。

 波の音だけが聞こえる真の暗闇、もしボートから手を放してしまえば二度と再会出来ることはない。


「決して手を離すな、負傷者を留め置くんだ!」


 揺れる救命ボートに括りつけることが出来ない以上、人間が押さえているしかなかった。生きるか死ぬか、自身が危険だと言うのに仲間が助け合う。こんな時に限って月が殆ど欠けてしまっている。


「もう無理だ、死なせてくれ……」


 自決用の薬を服用しようと観念した水兵が現れる。己の意志で決められるうちに死を選択する、それすらも出来なくなる恐れがあった。


「早まるな、絶対に助けは来る!」


 生き残りの士官は数名のみ。フォール少尉は自身も嘆きたい気持ちを必死に押さえ込み、何度も何度も兵を励まし続けた。

 それでも一人、また一人と暗い海へと沈んでいく。

 己の力が足りない為に、国から預かっている大切な兵が次々と失われていく事実に心がどうかなりそうになる。


 雲が薄くなり、星明りが挿す。ずっと暗闇だったせいか、微かな灯りでもうっすらと周りが見えるような気がした。

 だが目に入ったのはどんよりとした表情の仲間ばかり。

 戦闘で疲労し、漂流でなけなしの体力を奪われ、睡魔が襲ってきてうつらうつらしている者が多い。


「寝るな、意識を保つんだ。流されてしまうぞ!」


 いっそ楽になれるならそれでも構わない、幾人かがボートに掛けていた腕を滑らせ海へ飲み込まれる。何とか腕を掴もうと手を伸ばすが強張ってしまい満足に動かすことが出来なかった。悔しさで悪態をつきたかった、だが海軍士官足る者が取る態度ではないと思い留まる。


 ぐったりとして必死に下を向いたままボートにしがみつき続ける。やがて朝日が昇る。随分と仲間の数が減っていることに気づく。


「あ、あれを!」


 水兵の一人がどこかを指さして声を上げた。顔をあげることすら億劫で、叫びに応じられた者は極めて少数だった。

 知る努力を怠ってはならない。フォール少尉は全身を奮起させて何とか振り向く。そこには信じられないシルエットがあった。

 

 体が動く兵が手振って存在を報せようと必死になる。殆どの者が大幅に視力を低下させてしまっているので、ぼんやりとした感じでしか見えて居なかった。

 近づく影、艦なことは解るがそれが僚艦である重巡洋艦「エクセター」なのか、駆逐艦「ポープ」なのかまでははっきりしない。


「……そんな……」


 助かると神に感謝した、その直後、希望が打ち砕かれる。

 目の前にやってきたのは日章旗を翻した日本軍艦艇、即ち敵だった。止めを刺されるか、良くて見殺しにされるか。


 手を振っていた兵も諦めて腕を降ろすと俯いた。泣いている者が居た、必死になって耐えたのにこの結末では救われない。フォール少尉も流石に無言だった。


 日本海軍駆逐艦「雷(イカヅチ)」が甲板上から望遠鏡で漂流しているイギリス海軍兵を発見した。

 近くには「エンカウンター」の残骸も浮遊している。重油は広く散ってしまい影響は少ない。


 慌ただしく動きを見せる雷の乗員、指さしたりしてはいるが銃撃まではしてこなかった。撃つだけ弾の無駄遣いではあるが。


 せめて味方の潜水艦が見つけてくれるまで囮として役に立てれば幸いだ。死を悟ったイギリス海軍兵が最後に思ったのは友軍の勝利。


 雷のマストに旗が掲揚される、それを見たイギリス海軍兵が目を疑う。国際信号旗は「救難活動中」を表していたからだ。


「どういうことだ?」


 敵味方に分かれて戦争をしている。敵を打ち破り命を奪うのは双方が承知したことであり、誰に非難される行為ではない。

 

 雷の甲板に居る水兵から縄が多数投げ落とされる、それらはイギリス海軍兵のすぐ目の前に降って来た。


「これに捕まれ!」


 英語が喋られる士官が大声で叫んだ。聞こえていないわけでは無い、だが誰一人縄にすがる者は居ない。


「何をしている、さっさと上がってこい!」


 この期に及んで敵の施しは受けないとでもいうのかと、怪訝な顔で日本海軍兵が海上に在る者達を見る。ところが全く違う理由だと知るまでさして時間は掛からなかった。


「負傷者を先に引き上げてくれ!」


 自力でボートにしがみついている者達は後回しにして、一人では動けない者を優先して欲しいとの返答があったのだ。

 それまで雷艦長である工藤少佐の命令で、気が進まないまま救助作業に就いていた日本海軍兵は己の不明を悔いた。何と狭い心だったのか、艦長が正しく皆が間違っていたと。


 丸一日絶望の漂流をしていたイギリス海軍兵が規律を保ち、傷病者を先にと誰一人救助されることを拒否する姿勢に衝撃が走った。

 雷から海中に飛び込む若者が現れた。次々と甲板から飛び込むと、救命ボートでぐったりしている者を担いで縄を登ろうとする。だが体格が勝っているイギリス人を背負い登るのは非常に困難だった。


「左舷(ヒダリゲン)大型階段降ろし方!」


 厳しく禁じられている昇降階段の湾外使用を工藤艦長が命じた。

 いつもなら規則に反していると諫言すべき大尉も命令を復唱する。その間にも緊張の糸が切れたイギリス海軍兵がぽつりぽつりと海へと沈んでいく。


 乗員二百少しの雷に、それ以上の敵兵を乗艦させる。制圧される恐れがあるというのに、全員救助の方針が遂行されていく。

 一人では動けない者が大半、担がれて全てが甲板へと上げられると大型階段が収容された。


「脱脂粉乳と乾パンだ」


 暖められた粉ミルクとかさかさのパン。日本海軍は食糧難であったが、衰弱死寸前の敵兵に貴重な食糧を分け与えた。

 口にした味気ない液体がこれまでで一番美味しく、安らぎを与えてくれる。液体に浸さないと硬くてかじられないような乾パンも最高だった。


 何とか命は救われた、だがきっとこれまでの漂流で味わったような苦しみが続く捕虜生活が待っているのだろうと涙を流す兵が多い。


 日本海軍士官がやってきて「士官は前部甲板へ来い」短く命令を下す。

 死の宣告とはこれだろう、だがフォール少尉他数名の士官は手にしている食糧を無理矢理に胃袋に押し込めると立ち上がる。


 負傷した敗残兵がひしめく甲板を序列に従い胸を張り歩いた。彼等将校には、兵らを生きて祖国へと帰らせる義務と責任がある。疑いを持たせてはならない、それが国王ジョージ6世の代理人である士官の役目。


 整列して待つフォール少尉らの前に、工藤艦長が副長らを従えやって来る。階級が下である少尉らが敬礼すると、少佐も答礼した。

 軍人も、警察官も敬礼を受けたら返すのは義務である。


「諸君」


 工藤艦長は英語を喋った。それも随分と上手で、下手な地方出身者や、植民地の者達より聞きやすい。


「駆逐艦エンカウンターは立派に戦った、それは揺るぎようが無い事実である。勝つことがあれば、負けることもある。貴官らを大日本帝国の名誉ある客人として扱うことを約束する」


 それだけを伝えるとすぐに応急処置を受けるようにと場を去って行った。フォール少尉は工藤艦長の姿が見えなくなるまでずっと敬礼で送る。

 四百人以上居た仲間はこの時、二百四十人にまで減ってしまっていた。


 兵らが待つ甲板まで戻ると、聞いた言葉を余すことなく知らしめる。待ち受ける捕虜生活に肩を落としていた者達が、余りにも紳士的な対応に驚く。だが本当の驚きはこの後で訪れることになる。


 近隣を航行しているオランダ海軍の病院船「オプテンノール」に全員を引き渡す手続きが取られたのだ。フォール少尉はこの措置を生涯忘れず感謝し続けた。



 終戦から暫く、2003年。

 イギリスの外交官、サー・サムエル・フォールが日本にやって来る。フォール卿はかつての恩人である工藤艦長の消息を追った。


 どうしてもあの時のお礼が言いたい、その一心を何十年と持ち続けたのだ。


 ところがどこを探しても全くたどり着けずに辟易してしまう。

 

 ようやく親類を見つけることが出来たフォール卿は、そこであの時以来の驚きを得る。何と工藤艦長と雷の乗員は、敵国の兵を救助した話を一切漏らすことなく墓にまで秘密を持っていったと聞いたからだ。


「私はサーの称号を得た騎士(ナイト)だが、彼は日本の武士だ」


 古い話ゆえ親類ですら工藤艦長が眠る場所が解らずに、帰国の途についてしまう。

 その五年後、再度来日したフォール卿は、方々手を尽くして見つけて貰った墓にやって来る。


 静かな寺の片隅にある墓石の前に花を添える。自分が何者で、今の今までどうしてきたかを延々と語り、手を合わせて祈りを捧げる。


 敵と味方であろうとも、窮地にあっては手を差し伸べ、決してそれを誇ることが無かった軍人。フォール卿は心底畏敬の念を抱き言葉にする。


「ありがとう、貴方のおかげで今があります」


 恩人に再会したのは、あの日から六十七年を数えた夏の終わりだった。


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