お人好しにもほどがある


 

 青女あいるの祈り。霜垂しもしずりという不治の病を患った群青の髪の村娘が、のちに青女の日と呼ばれるこの肌寒い季節、北風の魔物ハルピュイアを信じて戦地へとおもむいた青年の無事を祈りながら息える、とてもとても悲しい結末の物語。

 人びとの希望が暗がりに沈む戦乱の時代、似た境遇の男女など掃いて捨てるほど生まれたわけだが、私があの村娘と同じ病で命を落としたのだとすると、本当に青女自身の生まれ変わりである可能性が高い。

 であれば、彼が「アイル」の名を選んだこと。フーカが飛空艇ひこうきの待ち時間に読んでおけと言いつけたこと。魔法で人間になるときの姿が決まって青髪の少女だったこと。生涯で一度たりとも見ていないはずの海にまつわる比喩を知っていること。青銅の少女像に既視感を憶えたこと。これらの連なりが一本の糸をなしてまとまる。

 ――前世。

 そう喩える以外に表現のしようがない、ある種の作品鑑賞めいた追体験を経て、私の魔力けつえき煌々こうこうと燃えるようにたかぶる。うれしかった。彼との絆は思っていたよりもかたく分かちがたいもので、日々の焦がれるようなねがいは叶い続けていたこと。よろこびの鼓動でいまにも胸がはちきれそうだ。

 一方でこうも思う。私たちを引き合わせた奇蹟、或いは松明と呼んでいた絆は、どこまでいっても当時の彼女のものであり、私はただの部外者であるということ。彼がいかなる感情を抱いて約束を果たしたにせよ、私があの灯りに気づけなかった時点で、すでに賞味期限切れの願いだと断言せざるを得ない。今現在の私にとって、出逢いは出逢い以上の意味を持たなかった。 

 私は、これ以降の不毛なやり取りへの興味は失せていた。なぜなら母性を宿すがゆえの直感によって、前世が発するかすかな訴えを察したからだ。奇蹟の火は別にある。思い出に惑わされるな。そう自分自身にいい聞かせる。

 私が知るべきなのは、青女の祈りに描かれていない部分。つまり彼女の子どもについて。いさなは産まれたのかどうか。その血は絶えることなく受け継がれているのか。当代の子孫は今どこで何をしているのか。前世の記憶のほんとうの価値はここにある。私はまだほんとうの奇蹟に巡りえていない。

 ヒトの妊娠期間はおおよそ二八〇日。霜垂しもしずりは母体にとって致命的な体温の低下と凍傷を伴うため、発症後の胎内での生存は望めない。彼女の命日である今日はかつて木枯らしが吹いた季節。彼の出征は落葉間近となったヤマグワの翠色すいしょくしたたる季節。物語での発症日が翌年の酷暑の時季だとすると、こよみの上では十月十日とつきとおかを満たす。

 縋るには心許こころもとないほむらだとしても、希望は残されていた。めるまでに手掛かりを掴みたい。

 瞑想を続ける。深部に閉ざされているのは、二度とは思い出したくない記憶。長らく伝染病と誤解された恐ろしい病と、戦没のしらせが届くたびに枕を濡らした寧日ねいじつなき余命のメモランダム。魔力性の冷気が周囲に伝播する厄介な性質をうとましがられ、彼女はひどい迫害を受けた。喉を潰されてからは声を上げるのもままならなくなり、霜害を避けるために外出を禁じられた。そうでなくとも凍傷で腫れ上がった手足では、思い出の海を見ることさえかなわない。腐臭を放つ病変部位や青ざめた唇が鏡に映るたび、まさにマルベリーのどどめのようだと悲しみに暮れ、次第に心を閉ざすようになった。

 ……怖い。

 私自身が病にいたぶられるさまを見たいなど、どうかしている。それでも私は、心の底から知りたいと思った。夢の終わりは近い。なんとしても時を進めなくては。またとない機会を無駄にしてなるものか。 

 内なる世界でひとり意を決したとき、奇妙なことが起きた。二人はこれから最後の一本道を寄り添い合って進むのだが、突如、私の意識が彼女アイルの体外に弾き出されてしまい、娘の感情がわからなくなる。

 夜風にざわめく木々の唄声うたごえ、頬を撫でる寒気の生々しさに驚き、すぐさま自分自身の状態を確かめた。アルラウネの姿に戻っている。

 どういうことだ?

 ふたりの話し声がはっきりと聴こえる。記憶にしては鮮明すぎた。走馬灯のようにめぐる精神世界で実体を持ち、なおかつ独立して動けるのはおかしい。


「あのう」

 

 その声に、私は固まる。彼女の腫れていない目に違和感を憶える。私はこのとき、別れを嫌がって泣いていたのに。

 なぜ過去の幻影に過ぎない彼女が振り返っている? なぜ認識されている? つらい闘病生活の塗炭とたんの苦しみが精神に異常をきたしたのか? 


「あなた、随分と顔色が悪いようですけれども、大丈夫でしょうか」


 いや違う、。見ず知らずの魔物わたしの心配をする彼女の、まだ温かさの宿った手を振り払う。


「白々しく私の真似をするなッ!」


 やがて不敵に笑みを浮かべる、娘。

 

「……ばれてしまったね。そうか、この場面のキミは他人に声を掛けられるほどの余裕はなかった。人間になりきるのは難しいなあ!」


 興奮したようすで道端の小枝を拾い上げると、縦の一振りで剣に変え、その切っ先を私の胸元に突きつける。裁縫魔術でするするとほどけた紺飛白こんがすりは、娘の裸体を隠す繊維の瀑布ばくふとなってより合わさり、高貴なる白エーデルワイスのコタルディに編みなおされる。清々しい雪白せっぱくを基調とする皇族ドレスのたおやかな流線と、幾年いくとせにわたり昧爽まいそうを待ちわびる赤貧時代のひなびた夜景とを見比べ、平和がもたらす栄耀栄華えようえいがの最盛に肺腑をえぐられた。


「レブレさん」

「残念だけどこの先へは行かせられない」

「どうして?」

「クエレの願いに含まれるから、かな」

「あなたはひょっとして……」


 忘れていたが有性生殖でありながら魔力を持たない生物は、この世にたった一種類だけ存在する。

 レブレは剣を捨て、夜空に浮かぶ糠星ぬかぼしのうち、赤い光の群れを指差した。


「わたしは流れ星の化身――赫竜ドラゴンと呼ばれている。ある人が大きな戈星ほこほしの火球を見て、そう名付けた」


 良質な繊維の裂ける音と共に、彼女の背中から赫土あかいろの翼が出現する。鋭く巨大な湾曲の開閉が生み出す張力ひっぱりにより分断された布の下には、若い女の素肌はなく、代わりに衣服を必要としない鋼鉄の鱗が並んでいる。


「この時代に生きる民はみな、争いのない空に憧れ、日月星辰じつげつせいしん彼方かなたに救いを求めていたね。古来より星々は願いと不滅の象徴、転じて悠久をながらえる生命の王。人びとのおそれや信仰はわたしたちに竜の姿を与え、またそれらは願いを叶える力の源になっている。……まあ、難しい話はよそう。青女アイル。キミとは一度、ふたりきりで話をしてみたかった」

「むかしは亡骸でしたものね」


 自分でいっておいてなんだか悲しくなってきた。

 かすかな笑い声が聞こえ、レブレのほうを見る。あどけない少女の顔立ちと、暗闇に適応したスリット状の瞳孔のアンバランスさ。大地を踏みしめるペールオレンジの二足と、夜風を受けて拡がる真赭まそほの両翼。上肢じょうしを覆う体鱗は変光星ベテルギウスさながらに半規則型の増光と減光をおこなっている。

 ヒトの生殖細胞系列や自殖性(自家受精する仕組み)を持つものを除いた真核有機体に定められる命の回数券テロメアに上限がなく、魔法を使いながら魔力がないとは、つくづく常識離れした生き物だ。


「鋼の皮膚にすらみる冬天の、それはそれはく晴れた日だった。やけに綺麗なかおをしていたなあ」

「気を遣わないでください。見るに堪えぬほど、ひどい死にざまだったでしょう」


 人間をいたぶって殺す病の最期さいごなど碌なものではない。特に霜垂しもしずりは生きながら腐る病でもある。

 全身が凍りつく〈霜化〉という現象が起こるとき、霊的中枢は体内の魔力を燃やして対抗するのだが、魔力量の少ない人間は慢性的な魔力不足に陥る。この際に人体は生命維持を優先し、体温上昇の範囲を内臓周辺に絞るため、見捨てられた末端器官では霜化凍傷による壊死が進行していき、やがては全身に拡がって死に至る。

 末期の頬肉が腐り落ちる段階では、もとが人間であったのかさえ分からなくなる有り様。物語では敢えて真実を伏せたのだ。「氷の足跡」や「雪をあざむくような妖艶な光り」が本当は何を指すのかなど考えたくもない。

 私は、霜や雪が綺麗ではないということを知っている。それでも美しかったと言ってしまいたい気持ちも痛いほど分かる。女の優しさが書き紡いできた物語だと、そんなことを思う。


「お世辞じゃないよ。聞いていたよりもずっと綺麗で驚いたし、もしかすると生きているのかもしれないと思って話しかけた。そしたら竜の独り言は娘より哀れだと波に笑われたよ」

「生きていたら助けてくれましたか?」

「人間ひとりを特別扱いはできない」突き放すような口ぶりだった。「……その上で、今度は祈らなくてもいい身体を与えてやりたい」


 不凍の身体に驚異的なまでの再生能力。成長は遅いが、よわい十八で身罷みまかりし娘の十倍は生きている。腐りかけた病変部位は噛みちぎればいい。無論、自分自身の生死について祈りはしない。

 バルタザールは言っていた。ただの魔物にしては矛盾があまりに多いと。本来あるはずのない声帯や、人間に近い感情はどこからやってきたのかと。そんなもん知るかと噛みついてやりたいけれど、はっとなってちぢこまったくちでは空気をむことすら難しい。

 今から考える内容はおそらく間違っている。絶対に間違っていなければならないし、にも付かない魔物の夢物語と笑われてしかるべき謬説びゅうせつ

 しかし万が一、億が一だ。

 この人間の要素こそを初めに持っていたとしたら? 外からやってきたのは魔物の姿のほうだとしたら? 

 たとえばそう、私が前世の無念を克服した異形の人間であったとして――。そんなことを願いそうな人物はたった一人、どうしようもなく存在してしまう。


「見かけによらず優しいのですね」

「どうかなあ。わたしは願い通りに叶えただけ」

「かれの願いで?」


 蔓を向けた先には静止したままの彼がいる。栞を挟んだ物語みたいに世界全体の時間が止まっている。対して私の時間はようやく動き始めた。


「いいや、クエレの願い」

「なるほど」くだらない言葉遊びは無視する。「二つ目とは私たちのことでしたか」

 

 王室での会話を思い出しながらたずねた。彼女の体鱗の発光が止まり、またすぐに赤みを増す。それはどういった感情ですか。


「うん。わたしにとって地上は死と同じくらいの距離があって、キミたちが指すところの碧落へきらくのような場所に感じる」

「叶うのが遅いのはそういう……」


 呆れ半ばにうべなうと、レブレは首を左右に振った。

 

「竜の力にこれといった制約はないよ。ただし残りの人生でどうやっても手に入らないものを願い、それが叶うとしたら、碌々ろくろくたる形でなくては不公平だとは思わない?」

「まぁ、そりゃあ……」

「というのは建前で、大部分は趣味みたいなものかな。なかには一日だけ叶う願いもあるかもね」

「悪趣味な雌竜おんな

「千年前にも言われたなあ」


 くすくすと笑う仕草は年頃の少女そのもの。外見を似せるための魔術的な〈擬態ミミック〉とは異なり、瑣末さまつな動作に至るまで完璧に演じきっている。

 相対してみてはっきりと分かる。彼女は純粋に人間を楽しんでいる。理由は分からない。みずからを流れ星と名乗るくらいだから、そんなものはないのかもしれない。


「……脚も。役に立たない成就だったのでしょうか」


 一日だけ叶う願いには心当たりがあった。いざ口に出したことで不安が一斉に這いのぼってくる。深い海の底にいるみたいだ。

 無意識のうちに温もりを欲したのだろうか。レブレの唇を中心にぱちぱちと音を立てて舞う火の粉が、たなごころに熱を分けてくれた。温まりたいのは心なんだけどね。


「かつて青女あいると呼ばれていた娘は、病によって腐り果てた脚で海辺までの道のりを歩ききった。祈るならなるべく近いほうがいいと思い立って、誰の助けも、竜の力も借りずに、幾ばくもない命を捧げる覚悟で奇蹟を起こしたの。決して幸福とは言えない小さなものだけど、それはまぎれもなく奇蹟だった。娘の遺体からだを見たとき、こんな脚では歩けるはずがない、とわたしは思ったな」

「それを持ってきたと?」

使を貸し与えたところで、不公平にはならないし、わたしが言わせない。運が良かったと思いなよ。なにせ、腐った脚ですらなおせる魔物なんだから」


 開いた口が塞がらない。あの人のもとには届かなかった祈りと意味のない奇蹟。そして今度も多くの人にとっては無意味の奇蹟。

 

「この身体のおかげ……」


 ネジバナのごとく這わせた両手で自分自身を抱きしめる。みにくいとすら思った魔物の身体が、この日の幸福を成り立たせていた。

 こう願いはした。私自身で、私自身を支えられる脚が欲しい。どんな不格好な脚でも、明日折れてしまうようなぼろぼろな脚でもいいと。これが前世の遺留品であるのなら、文字通りの意味で叶ったことにはなる。


「どこぞの竜の血の池と、クエレの願いに感謝するといい」彼女の硬いりんの手が右頬に触れる。「……しかし本来は楽土で暮らす青女様の脚でもある。わたしが彼女にかけた魔法と同じように、いずれは雪雲となって昇ってゆくだろう。覚悟はできているね?」


 当然、覚悟などできていない。でも永遠でないことくらいは分かる。月の満ち欠けに始まり、鉄器は自然体である赤錆びをまとい、切り立った岩肌は砂礫となって堆積し、生命はときおり音を外しながらもNの譜面を起こし続け、朽ちた姿でさえ他者の命を育む。昨日と全く同じ音程の演奏も、昨日と全く同じ水質の河川も存在しない。万物流転ばんぶつるてんの法則にしたがい好調もいつかは不調に転じる。そのなかの幸福ではない状態を不幸だとは言わない。普通のアルラウネに戻るだけ。元通りの日常に戻るだけ。分かってはいるのに、足が震える。


「……はい。彼女に脚のない不便な生活を、二度も強いるわけにはいきませんから」


 一度は病に奪われた脚。こと歩けないという苦しみに関しては、私こそがいちばんの理解者である。借りたものはきちんと返してあげたい。

 別れを惜しむ心持ちでももをなぞり、ほんの少しだけ祈る。魔物わたしの力で健康になったこの脚が、彼女の命日の朝に届くといい。病気を治したりはできないけれど、青女あいるの物語はもっといいものに書き換わる。


「あんまり泣きそうな顔をしないでよ。わたしの心が痛む」

「だッ、誰のせいだと……」


 怒りはすぐにしおれた。誰かのせいで泣きたいんじゃない。ぬか喜びのしいなだとして幸福な事実に変わりはない。どうして泣きたいのかわかんないや。


「安心しな。キミのはもともと竜の力がなくたって叶う願いだったよ。次の青女の日が巡ってくるあたりには、今よりもずっと素敵な脚が生えている」

「意味がわかりません」


 花弁にぽんと置かれたレブレの手を払いのける。すると寂しげな面持ちで翼を畳む。不貞腐ふてくされて緘黙かんもくを決め込む幼稚な態度を見かねたのか、彼女は澄みわたる夜空に火の息を吐き出し、訥々とつとつと語りだした。


「……ジェイドがさ。アイルに内緒で義肢ファクトを作ろうとしていてね。キミの規格外の負荷にも耐えられるようにと、先日、捕獲難度の高い魔獣素材の確保をわざわざ王宮まで出向いて依頼しにきた。書架の間の〈検索〉システムに義肢装具錬成術士アーティファクターの参考書の閲覧履歴が残されていたから、手続きまでの待ち時間に立ち入ったのだろう。もちろん用途の子細しさいは聴取させてもらうし、討伐指定種アルラウネのための装具なんか通常は許可しないんだけど、あの子は『足の不自由な女の子のため』の一点張り。おまけに兄の勇者勲章まで持ち出してきてね。うちの頭の固い連中が承諾の印をうたされるさまを楽しませてもらったな。……これ言っちゃっていいのかなあ」

 

 わけもなく背筋が粟立あわだつ。


「私の義足あしを作るために……」詰まりそうな息をなんとかして押し出す。「お兄さんの大切な形見なのでは?」

 

 彼女は片翼をすくめるように動かし、私の顔に手を伸ばす。


「表向きには死者である手前、あの子の兄と顔見知りの宮女の姿に化けて、わたしも同じことをいた」


 ついにレブレの指がこめかみに触れると、脳内でぶっきらぼうな声が再生される。簡易的な記憶共有の魔法。


 ――兄貴は誰かの役に立ちたくて魔術師をこころざした。こういう使い方なら本望だろ。

 ――動機? よくわかんねえけど、できると思ったからだな。ガキの頃は病気で死にかけのフーカを助けられなかったし、レブレの身売りも止められなかった。無知で無力なチビが扱いきれない正義を信じたせいで手足すら失った。大きく欠けたモンをぴったし補えたのが復讐心と機械でよ。……それらの正誤はさておき、今日までおまえらの義肢錬成術アーティファクトに生かされてきた。こいつからは知識や技術が手足になるということを学ばせてもらった。……ちょうどな、あのとき笑えずにいた俺の分まで喜んでくれそうなやつがいるんだ。大人ンなって無知でも無力でもなくなった俺は、今度こそ困ってる女の子の役に立てる。あいつの性格なら絶対欲しがるからよー、そンときに渡せるようにしてやりたい。

 ――それによ、うちの抽斗ひきだしで埃を被って暇そうにしてる兄貴なんざ見たくねえしな。勲章はおまえらに返しとくよ。


 まったくどこまでも格好いい男だ。私なんかよりもずっとずっと多くの苦しみをめてきたであろう生き身で、腐ることなく前を向き、一生をかけても追いつけないくらいの速度でずっとずっと遠くを歩いている。


「わかるかい。あの子は本気でアイルを普通の女の子として扱うつもりでいる。さすがはフーカが認めた男だ。真実を何ひとつ知らされないまま、ろくに考えもしないで、それでいて最短距離で正解に辿り着ける素質がある。笑えるよね、キミが願うより早くに叶えようと動いたのだから」


 永遠に叶わないものだと、どこかで諦めていた。生きるための努力をしてこなかったから、こんな簡単な答えすら見落とした。ふたを開けてみれば、完成品だらけの部屋で引きもる箱入り娘の視野狭窄しやきょうさくに過ぎなかった。生まれつき足がなくともヒトは発想しだいで歩けるじゃないか。ほかの誰かを頼ることで夢に近づけるじゃないか。

 彼のいう通り、私は幸運なアルラウネだ。

 これから歩む道の先には同じ悩みを抱えた男の足跡がある。心優しい発明家の苦悩は黒橡つるばみ線描筆せんびょうふでとなって、私の気づかぬうちに、余白の多い未来図面にこまやかなけいを引いてくれていた。何度でも言う。奇蹟は人の目を盗んで起きる。

 ぷつりと音が消える、余韻が心地よかった。昨日の願いは願いですらなく、単なる生娘のわがままで、それすらも見透かされていて……。

 

「……お人好しにもほどがあるんですよ。自分がいちばんの苦労人で、機械からだが頑丈なだけで大して強くもないくせにひとの心配ばっかり。こんな甘っちょろい私の願いや悩みの解消にかまけている寿命じかんなんか残されていない、短命なさだめと理解していながら、人間の弱さを見せまいとするところが一等星みたいにまぶしくって……それなのにどこか不安定で危なっかしい。話しているとたまに胸がきゅっとしてつかえが取れなくなる瞬間があって……でも好きなんです。凄くすごく好き。ほんとは好きになっちゃいけないってわかっているのに、止められないんです」


 粘っこいり物のような感情を吐き出す。

 魔物はジェイドから多くのものを奪った人生のかたき。その手を下したのは私ではないと、見苦しい自己弁護をしたくはない。機械の下でうずく生々しい傷痕は私たちの罪である。硬膏薬こうこうやくふさげるようなかすり傷とはわけが違う。

 頭では分かっている。いまさら後悔しても遅い。私にはジェイドを愛する資格がない。決して好いてはいけない人だと、必死になって抑えつけているのに、心が言うことをきいてくれない。膨れあがる好意と罪悪感に挟まれて息がしづらくなる。


「……青女あいるを愛したかれは、死ぬまでに多くのひとを殺した大罪人だ。キミと同じで、生きるためにね。罪というものが恋のさまたげになるのなら、青年はどこかで娘を愛する資格を失ったのかな」

「事情が違います。あれは私たちを生かすための選択でもありましたから」

「生かすための戦争と生きるための日常ではなにが違う? 護る規模が大きくなりさえすれば、あやめる数や残虐性が増しても構わないのかい? 銘々めいめいの事情とやらは他者の命よりも重いのかい? 死生を取り巻く環境のその時々における選択圧によって罪の軽重が決まるのなら、食欲だってはかられるべき事情ではあるよね」

「それはそうですが……」

「――だから、それでいいんだ。人間は汚れていてもいい。人間にとって命は解決できない問題だ。かつて神様は知恵の実に生命の二文字を入れ忘れた。すると驚くほど命にうとく身勝手な生き物が出来上がったが、その姿はとても美しいので良しとされた。……アイルには少し早かったね。キミはまだ幼さに甘えていてもいい時期だ。夜もすがらに恋をさがしまわり、あなぐらを転々とするくらいでちょうどいい。アイルの生きざまは、少なくともひとりの男を動かした。ほら、恋をする資格」


 不可解な力に頼ってまで「しかく」と書いた木簡もっかんを渡してくる。発想が古いし彼みたいで嫌だった。


「こんなごみ要らない」

「ふふ、ざんねん」レブレがいたずらっぽく笑うと、板は火の玉に変わった。私はびっくりして捨てる。彼女はまた柔らかに唇をひらく。「でもさ、アイルの喜ぶ姿を見たくて作る義足あしなんだから、いつまでもくよくよしていてはもったいないよ」


 何かしらをうたぐる意図まではなかったが、そういう類いの目で見つめ返してしまった。竜がこのように人間に近しい価値観を持つとは思わなかったのだ。


「ヒトは本来、ヒト同士の繋がりのなかで願いを叶えていく。また繋がりのなかでゆるし合う生き物でもある。この世に水洟みずばなの一滴まで清廉な人間はいない。どんなにきたなあざだって人となりのいしずえとなる大切な栄養素。ちょっぴり長生きなキミは、これから多くの時代を生き、多くの人と出逢い、多くの人との別れを経験する。そのなかでたくさんの恋をするといい。一つひとつがかけがえのないような恋物語がいいな。先立つ人びとの最後のページに自分の名前を刻むこと、それこそが人間の価値だと思うから、一期一会の人間関係であってもないがしろにしてはいけないよ。

 たとえば長旅の足休めがてらに立ち寄った雪国、甘ったるい湯けむりでしらむ温泉宿の軒端のきばに居合わせた行商人との世間話……あでやかな芸者たちの舞踊と熱燗あつかんうがいでその日のうちに忘れられてしまうが、急用のために車上の人となったあくる帰りの国境くにざかい、積雪のまぶしい信号所を越えるあたりでふと、キミと交わした何気ない会話を思い出す。はて、あの子はひょっとすると自分を好きだったんじゃないか。名前くらいはいておいたほうがよかったんじゃないか。おれはもったいないことをしたなあ。……最後の女になるとはつまり、そういうことでもあるとわたしは思うんだ」


 彼女なりの慰め。そう解釈すると息が軽くなる。頬や耳元に熱がこもるのを感じた。この身体に血が通っていたら、白い陶器のような擬態フーカの肌はきっと薄紅をいたみたいに染まっている。


「ちなみにジェイドの性格だと、泣き虫で寂しがりやな女の子は放っておけないからね。アイルならあのフーカを倒せるかも」

「倒してどうするんですか」

「わたしが気持ちいい」

「ああそう……」

  

 私のなかで萌黄もえぎのローブと竜が結びつく。相性はすこぶる悪そうだ。


「冗談はともかく。今度の脚は、霜の病でも竜の力でも奪えない。……いいや、奪わせないためにうんとたくさんの知識をつけるといい。さらに千年が過ぎて、かれらとの思い出すら霞んでしまう日が来ても、数多くの経験のはたにかけて織り終えた知識と金属の脚は、変わらずキミを支え続けている」

 

 未来を見てきたふうな確信を帯びた口調でレブレは言った。


「はい!」それからくすぐったい気持ちを誤魔化すように被せた。「もうちょっと頭良くしてもらえると助かるのですがね」

「それはできないなあ」と哄笑こうしょうが続いた。


 悪い気はしなかった。悪いひととも思わなかった。心を許していたのだと思う。


「ああ、泣き虫で思い出した。アイルには何かが足りないと思ってたんだ」わざとらしい含み笑いで、こちらをじっと見つめる。「誰も欲しがらないだろうし、これはあげるよ」


 擬態の鼻の奥がつんとなる感覚があって、私はそれをすすり上げた。水洟みずばなの音がした。


「べそをかくときはいつも、そうやって垂らしていたもんね」


 姿かたちを似せただけではない本物の生理現象に戸惑い、前世の気質により抑えようもなく滲みだした視界で少女の輪郭を捉えたが、だめだった。

 次の欲が生まれる。耳朶みみたぶ睫毛まつげも柔肌もほしくなる。日に焼けるといけないからといってクリームを塗ってみたいし、毎日はめんどくさいといってムダ毛の手入れもしてみたい。よわい心が願ってしまう。これは逆らいがたい欲求だ。


 私はとんでもない思い違いをしていた。娘のものとお揃いのかんざしで暢気に頭をいて立っているのは、桑の実一粒の悪意もなく、ただ与えることで人生を狂わせる、欲を食らう恐ろしい怪物。


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アイルと七十九点の絵描き スズムシ @suzumusi

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