お人好しにもほどがある
人びとの希望が暗がりに沈む戦乱の時代、似た境遇の男女など掃いて捨てるほど生まれたわけだが、私があの村娘と同じ病で命を落としたのだとすると、本当に青女自身の生まれ変わりである可能性が高い。
であれば、彼が「アイル」の名を選んだこと。フーカが
――前世。
そう喩える以外に表現のしようがない、ある種の作品鑑賞めいた追体験を経て、私の
一方でこうも思う。私たちを引き合わせた奇蹟、或いは松明と呼んでいた絆は、どこまでいっても当時の彼女のものであり、私はただの部外者であるということ。彼がいかなる感情を抱いて約束を果たしたにせよ、私があの灯りに気づけなかった時点で、すでに賞味期限切れの願いだと断言せざるを得ない。今現在の私にとって、出逢いは出逢い以上の意味を持たなかった。
私は、これ以降の不毛なやり取りへの興味は失せていた。なぜなら母性を宿すがゆえの直感によって、前世が発するかすかな訴えを察したからだ。奇蹟の火は別にある。思い出に惑わされるな。そう自分自身にいい聞かせる。
私が知るべきなのは、青女の祈りに描かれていない部分。つまり彼女の子どもについて。いさなは産まれたのかどうか。その血は絶えることなく受け継がれているのか。当代の子孫は今どこで何をしているのか。前世の記憶のほんとうの価値はここにある。私はまだほんとうの奇蹟に巡り
ヒトの妊娠期間はおおよそ二八〇日。
縋るには
瞑想を続ける。深部に閉ざされているのは、二度とは思い出したくない記憶。長らく伝染病と誤解された恐ろしい病と、戦没の
……怖い。
私自身が病にいたぶられるさまを見たいなど、どうかしている。それでも私は、心の底から知りたいと思った。夢の終わりは近い。なんとしても時を進めなくては。またとない機会を無駄にしてなるものか。
内なる世界でひとり意を決したとき、奇妙なことが起きた。二人はこれから最後の一本道を寄り添い合って進むのだが、突如、私の意識が
夜風にざわめく木々の
どういうことだ?
ふたりの話し声がはっきりと聴こえる。記憶にしては鮮明すぎた。走馬灯のようにめぐる精神世界で実体を持ち、なおかつ独立して動けるのはおかしい。
「あのう」
その声に、私は固まる。彼女の腫れていない目に違和感を憶える。私はこのとき、別れを嫌がって泣いていたのに。
なぜ過去の幻影に過ぎない彼女が振り返っている? なぜ認識されている? つらい闘病生活の
「あなた、随分と顔色が悪いようですけれども、大丈夫でしょうか」
いや違う、端から私の記憶じゃない。見ず知らずの
「白々しく私の真似をするなッ!」
やがて不敵に笑みを浮かべる、娘。
「……ばれてしまったね。そうか、この場面のキミは他人に声を掛けられるほどの余裕はなかった。人間になりきるのは難しいなあ!」
興奮したようすで道端の小枝を拾い上げると、縦の一振りで剣に変え、その切っ先を私の胸元に突きつける。裁縫魔術でするするとほどけた
「レブレさん」
「残念だけどこの先へは行かせられない」
「どうして?」
「クエレの願いに含まれるから、かな」
「あなたはひょっとして……」
忘れていたが有性生殖でありながら魔力を持たない生物は、この世にたった一種類だけ存在する。
レブレは剣を捨て、夜空に浮かぶ
「わたしは流れ星の化身――
良質な繊維の裂ける音と共に、彼女の背中から
「この時代に生きる民はみな、争いのない空に憧れ、
「むかしは亡骸でしたものね」
自分でいっておいてなんだか悲しくなってきた。
かすかな笑い声が聞こえ、レブレのほうを見る。あどけない少女の顔立ちと、暗闇に適応したスリット状の瞳孔のアンバランスさ。大地を踏みしめるペールオレンジの二足と、夜風を受けて拡がる
ヒトの生殖細胞系列や自殖性(自家受精する仕組み)を持つものを除いた真核有機体に定められる
「鋼の皮膚にすら
「気を遣わないでください。見るに堪えぬほど、ひどい死にざまだったでしょう」
人間をいたぶって殺す病の
全身が凍りつく〈霜化〉という現象が起こるとき、霊的中枢は体内の魔力を燃やして対抗するのだが、魔力量の少ない人間は慢性的な魔力不足に陥る。この際に人体は生命維持を優先し、体温上昇の範囲を内臓周辺に絞るため、見捨てられた末端器官では霜化凍傷による壊死が進行していき、やがては全身に拡がって死に至る。
末期の頬肉が腐り落ちる段階では、もとが人間であったのかさえ分からなくなる有り様。物語では敢えて真実を伏せたのだ。「氷の足跡」や「雪を
私は、霜や雪が綺麗ではないということを知っている。それでも美しかったと言ってしまいたい気持ちも痛いほど分かる。女の優しさが書き紡いできた物語だと、そんなことを思う。
「お世辞じゃないよ。聞いていたよりもずっと綺麗で驚いたし、もしかすると生きているのかもしれないと思って話しかけた。そしたら竜の独り言は娘より哀れだと波に笑われたよ」
「生きていたら助けてくれましたか?」
「人間ひとりを特別扱いはできない」突き放すような口ぶりだった。「……その上で、今度は祈らなくてもいい身体を与えてやりたい」
不凍の身体に驚異的なまでの再生能力。成長は遅いが、
バルタザールは言っていた。ただの魔物にしては矛盾があまりに多いと。本来あるはずのない声帯や、人間に近い感情はどこからやってきたのかと。そんなもん知るかと噛みついてやりたいけれど、はっとなって
今から考える内容はおそらく間違っている。絶対に間違っていなければならないし、
しかし万が一、億が一だ。
この人間の要素こそを初めに持っていたとしたら? 外からやってきたのは魔物の姿のほうだとしたら?
たとえばそう、私が前世の無念を克服した異形の人間であったとして――。そんなことを願いそうな人物はたった一人、どうしようもなく存在してしまう。
「見かけによらず優しいのですね」
「どうかなあ。わたしは願い通りに叶えただけ」
「かれの願いで?」
蔓を向けた先には静止したままの彼がいる。栞を挟んだ物語みたいに世界全体の時間が止まっている。対して私の時間はようやく動き始めた。
「いいや、クエレの願い」
「なるほど」くだらない言葉遊びは無視する。「二つ目とは私たちのことでしたか」
王室での会話を思い出しながら
「うん。わたしにとって地上は死と同じくらいの距離があって、キミたちが指すところの
「叶うのが遅いのはそういう……」
呆れ半ばに
「竜の力にこれといった制約はないよ。ただし残りの人生でどうやっても手に入らないものを願い、それが叶うとしたら、
「まぁ、そりゃあ……」
「というのは建前で、大部分は趣味みたいなものかな。なかには一日だけ叶う願いもあるかもね」
「悪趣味な
「千年前にも言われたなあ」
くすくすと笑う仕草は年頃の少女そのもの。外見を似せるための魔術的な〈
相対してみてはっきりと分かる。彼女は純粋に人間を楽しんでいる。理由は分からない。みずからを流れ星と名乗るくらいだから、そんなものはないのかもしれない。
「……脚も。役に立たない成就だったのでしょうか」
一日だけ叶う願いには心当たりがあった。いざ口に出したことで不安が一斉に這いのぼってくる。深い海の底にいるみたいだ。
無意識のうちに温もりを欲したのだろうか。レブレの唇を中心にぱちぱちと音を立てて舞う火の粉が、
「かつて
「それを持ってきたと?」
「腐敗して使い物にならないがらくたを貸し与えたところで、不公平にはならないし、わたしが言わせない。運が良かったと思いなよ。なにせ、腐った脚ですら
開いた口が塞がらない。あの人のもとには届かなかった祈りと意味のない奇蹟。そして今度も多くの人にとっては無意味の奇蹟。
「この身体のおかげ……」
ネジバナの
こう願いはした。私自身で、私自身を支えられる脚が欲しい。どんな不格好な脚でも、明日折れてしまうようなぼろぼろな脚でもいいと。これが前世の遺留品であるのなら、文字通りの意味で叶ったことにはなる。
「どこぞの竜の血の池と、クエレの願いに感謝するといい」彼女の硬い
当然、覚悟などできていない。でも永遠でないことくらいは分かる。月の満ち欠けに始まり、鉄器は自然体である赤錆びを
「……はい。彼女に脚のない不便な生活を、二度も強いるわけにはいきませんから」
一度は病に奪われた脚。こと歩けないという苦しみに関しては、私こそがいちばんの理解者である。借りたものはきちんと返してあげたい。
別れを惜しむ心持ちで
「あんまり泣きそうな顔をしないでよ。わたしの心が痛む」
「だッ、誰のせいだと……」
怒りはすぐに
「安心しな。キミのはもともと竜の力がなくたって叶う願いだったよ。次の青女の日が巡ってくるあたりには、今よりもずっと素敵な脚が生えている」
「意味がわかりません」
花弁にぽんと置かれたレブレの手を払いのける。すると寂しげな面持ちで翼を畳む。
「……ジェイドがさ。アイルに内緒で
わけもなく背筋が
「私の
彼女は片翼を
「表向きには死者である手前、あの子の兄と顔見知りの宮女の姿に化けて、わたしも同じことを
ついにレブレの指がこめかみに触れると、脳内でぶっきらぼうな声が再生される。簡易的な記憶共有の魔法。
――兄貴は誰かの役に立ちたくて魔術師を
――動機? よくわかんねえけど、できると思ったからだな。ガキの頃は病気で死にかけのフーカを助けられなかったし、レブレの身売りも止められなかった。無知で無力なチビが扱いきれない正義を信じたせいで手足すら失った。大きく欠けたモンをぴったし補えたのが復讐心と機械でよ。……それらの正誤はさておき、今日までおまえらの
――それによ、うちの
まったくどこまでも格好いい男だ。私なんかよりもずっとずっと多くの苦しみを
「わかるかい。あの子は本気でアイルを普通の女の子として扱うつもりでいる。さすがはフーカが認めた男だ。真実を何ひとつ知らされないまま、ろくに考えもしないで、それでいて最短距離で正解に辿り着ける素質がある。笑えるよね、キミが願うより早くに叶えようと動いたのだから」
永遠に叶わないものだと、どこかで諦めていた。生きるための努力をしてこなかったから、こんな簡単な答えすら見落とした。ふたを開けてみれば、完成品だらけの部屋で引き
彼のいう通り、私は幸運なアルラウネだ。
これから歩む道の先には同じ悩みを抱えた男の足跡がある。心優しい発明家の苦悩は
ぷつりと音が消える、余韻が心地よかった。昨日の願いは願いですらなく、単なる生娘のわがままで、それすらも見透かされていて……。
「……お人好しにもほどがあるんですよ。自分がいちばんの苦労人で、
粘っこい
魔物はジェイドから多くのものを奪った人生の
頭では分かっている。いまさら後悔しても遅い。私にはジェイドを愛する資格がない。決して好いてはいけない人だと、必死になって抑えつけているのに、心が言うことをきいてくれない。膨れあがる好意と罪悪感に挟まれて息がしづらくなる。
「……
「事情が違います。あれは私たちを生かすための選択でもありましたから」
「生かすための戦争と生きるための日常ではなにが違う? 護る規模が大きくなりさえすれば、
「それはそうですが……」
「――だから、それでいいんだ。人間は汚れていてもいい。人間にとって命は解決できない問題だ。かつて神様は知恵の実に生命の二文字を入れ忘れた。すると驚くほど命に
不可解な力に頼ってまで「しかく」と書いた
「こんなごみ要らない」
「ふふ、ざんねん」レブレがいたずらっぽく笑うと、板は火の玉に変わった。私はびっくりして捨てる。彼女はまた柔らかに唇をひらく。「でもさ、アイルの喜ぶ姿を見たくて作る
何かしらを
「ヒトは本来、ヒト同士の繋がりのなかで願いを叶えていく。また繋がりのなかで
たとえば長旅の足休めがてらに立ち寄った雪国、甘ったるい湯けむりで
彼女なりの慰め。そう解釈すると息が軽くなる。頬や耳元に熱が
「ちなみにジェイドの性格だと、泣き虫で寂しがりやな女の子は放っておけないからね。アイルならあのフーカを倒せるかも」
「倒してどうするんですか」
「わたしが気持ちいい」
「ああそう……」
私のなかで
「冗談はともかく。今度の脚は、霜の病でも竜の力でも奪えない。……いいや、奪わせないためにうんとたくさんの知識をつけるといい。さらに千年が過ぎて、かれらとの思い出すら霞んでしまう日が来ても、数多くの経験の
未来を見てきたふうな確信を帯びた口調でレブレは言った。
「はい!」それからくすぐったい気持ちを誤魔化すように被せた。「もうちょっと頭良くしてもらえると助かるのですがね」
「それはできないなあ」と
悪い気はしなかった。悪い
「ああ、泣き虫で思い出した。アイルには何かが足りないと思ってたんだ」わざとらしい含み笑いで、こちらをじっと見つめる。「誰も欲しがらないだろうし、これはあげるよ」
擬態の鼻の奥がつんとなる感覚があって、私はそれを
「べそをかくときはいつも、そうやって垂らしていたもんね」
姿かたちを似せただけではない本物の生理現象に戸惑い、前世の気質により抑えようもなく滲みだした視界で少女の輪郭を捉えたが、だめだった。
次の欲が生まれる。
私はとんでもない思い違いをしていた。娘のものとお揃いの
アイルと七十九点の絵描き スズムシ @suzumusi
★で称える
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