マルベリーがとても好き
身体の真下から彼の声が響いたとき、私の視界はぐらぐらと揺れていた。上下に跳ねたはずみで
「う、うっ……」
「ごめんよ、足場が悪くてさ」
浅い夢を見ていた気がする。どうやら
「あたまが痛い」
「弱いのに無理して飲むからだ」
「だってだって――」
どんな言い訳をしたんだっけ。見慣れた苦笑いをされながら、あんなに甘えた声を出しているのだから、きっと楽しい記憶なのにな。楽しかった内容に限ってすぐに忘れてしまうものだ。
なかには蝕壊を
このとき夜風の涼しさのわりに汗ばむのが耐えがたく、やや色褪せた
「歩けるかい」
「もうすこしで」
酔いはとっくに
さて、短い復路も終盤に差し掛かった。坂の勾配が緩むにつれ、
町はずれに建つ私の屋敷まではかなりの距離があるけれど、彼はいつもこのあたりで〈
そのような経緯でもって空き家の
「さあ、捕まって」
「はい」
彼の掛け声を発端に、ふたりの身体が〈風〉に乗る。裾野の上空では雲煙の群れが弦月におもねることなく広々と羽を伸ばしていた。そうそう、思い出した。
この頃は竜が本当に願いを叶えられるとは知らなかったし、彼は魔力を失うまでに千年ほどかかっているが、こうなったのは
願いといえば、ヒカリの泉への往路で見た夢。風の力を借りたひとひらが海を越える夢。今まさに、
正夢だ。
私は花のひとひらで、彼は風だったのだ。懸命に何かを話しかけて、でもごうごうと吹き
胸のうちでじんわりと拡がる温かい感情は、後悔という名の冷たい外気に触れて結露する。心臓が水浸しになるのは嫌だけど、私はいつもより遠回りをねだった。そしたら。
「歩くような速さで。アレグロ、アレグロ」
といって減速の指示を出してくれた。表現者である彼は魔術分野における想像力に
「それでは速くなってしまいます」
「アレグロ、アレグロ」
「ですから」
知ってるよ、と彼の唇が言の葉を描く。
「柄にもなく焦っているのかもな」
決してそれが聴こえていたわけではないはずなのに、私はそのとき、彼が不安を飲み込んだのだとわかった。
「……なあ、アイルは何が好き? 声が綺麗で、魔法のことになると少しうるさくて、食べるのが好きで、編み物は苦手。一度決めたら
「うちのマルベリーがとても好き」
普段は病気がちな私を労わって、空では落ちないように支えてくれる優しい指を揉みながら答えた。ごく身近なものを選んだのは、それ以外だと居なくなってしまう気がしたから。それくらい彼の指は、ひどく震えていたから。私は気づかないふりをしてあげた。
「それは食べることに含まれる。……うん、そうだな。最後に寄り道をしていこう」
「冷えてきましたものね」
彼は小さく頷いて進路を変える。魔術繊維という革命期の素材製法が人口に
月の傾きに合わせて眼下の景色が剪定前の桑畑の輪郭に変わり始め、嗅ぎ慣れたヤマグワの香りが立ちのぼる。これらは主に
まずは夜灯に群がる羽虫を〈風〉で散らし、どどめ色の果実に鼻を押しつけてみる。果樹の旬はふたつきばかり過ぎたが、収穫時期を魔法でずらした株はいけそうだ。
「ここに来ると思い出すよな」
「そんな恥ずかしいこと、何度も言わないでください」
こういった話はもう飽きるほど経験した。故郷を亡くした過去がそうさせるのか、彼は思い出に
ただ、忘れてはいない。
彼はよく桑園の風景を描きにきていて、それ自体に興味はなかったのだけれども、私が収穫をする横で断りもせずに食べてきたものだから、文句の一つでも言ってやろうと思ったのが始まり。彼にしてみたら単なる通りすがりの女だったのでしょうけど。だから私たちの出逢いに良し悪しを付けるとしたら、最悪がちょうどいい。
それに加えて手紙のなかの彼の語りはどうも長ったらしいし、
「思い出の原点でふたりは別れる。きっと美しい物語になる」
「まあ、縁起でもないことを。そんなもの駄作に決まっております」
「では名作の定義を聞こうか」
「空想の読み物なのですから、ただ楽しいだけでいいのですよ」
「こないだ、アイルが読んでいたやつだろう。
「夫の出兵中、妻が寂しさを
「はははっ! 聞かなきゃよかったよ」
今となっては常習犯の彼がそうするのに
「なんにせよ間に合って良かったですね。このようすだと、明日は最後の収穫になるでしょうから」
「うまいが日持ちしないのは悔やまれる」
「
「いや、いいよ。ひとりで食べても寂しくなるだけだ」
私にとってはさっぱりと喉元を流れる果汁も、彼との日々も幸福の象徴であった。それが彼にとっては寂しさに変わるのか。不思議な果実だと思いながら、もう一粒を奥歯で噛み締める。
「そうだ、おまえに相棒を渡しておこう」
「相棒?」
そういって袖口に〈収納〉されている筒状の箱を取り出した彼は、上部の結び目を確認すると私のほうに投げて寄越す。
「といってもただの筆だよ。死ぬつもりはないけど、描く余裕もないだろうから、形見のようなものだと思ってくれ。蔵にはいくつか作品も置いてある。それ自体に値がつけばいいが、一部の貴重な塗料だけでそれなりにはなるだろう。生活が苦しくなったら売るといい。僕の絵は、アイルの糧になるのが嬉しくてたまらないと言っている」
「う、
彼は心なしか呆気に取られた顔で二日目の無精髭を触り、細い
「……まあ、それもそうか。ならばアイルが使ってやってくれ。おまえには絵の才能がある」
返事に数秒の間を置いた。
「いきなり何を言いだすのやら」もはや溜息すら出てこない。「私が描いた絵のさんざんな出来栄えをご存じでしょうに」
「木のバケモノのことか?」
「祖父のつもりですが」
幼少の
「なに、見てくれなど気にするな。天才とは歩き続けた凡人の称号だ。あれからの練習量を僕は知っている。その大いなる旅こそが才能の本質である。生まれつき脚が長くて一歩の大きな旅人はそりゃあいるさ。金持ちの息子なら旅路はうんと楽になる。アイルも歌が上手いだろう。最初から便利な道具を持ってるやつは羨ましい。でもな、裸一貫の足跡の多い旅だって魅力に満ち溢れている。なによりも僕は、おまえの絵が好きだ」
このときも。
私は、彼の喜ぶ顔がみたくて描き始めたのだろうな。
「……旅か」彼は心残りがあるように自身の言葉を
「私のせい?」
「そうだ。僕の母国では社会全体が魔術に
過去との折り合いをつけたふうな穏やかな口調の彼は、
「母国が
とはいえ帰る場所も、見返したい相手も失った僕は、いよいよ生きるのが面倒になってね。生きていたくはないが、死ねる勇気もない。だからこの足が腐るまでは旅をしようと思い、この村にきてみたら桑園の規模が物凄くてな。そこでは髪の青いお嬢さんがやたらと綺麗な鼻唄をうたいながらマルベリーを摘んでいた。
僕はこんなにも虚しい気持ちで肺が破れそうだというのに、おまえのその生きるのが楽しくてしょうがないという顔にむかついて、やり返すような心持ちで白昼堂々と盗んでやった。ほんと、どうしようもないやつだった。
それが今はどうだ。希死念慮に
彼は嬉しそうにしていた。
伝えなければ、と私は覚悟を決める。
「奇遇なことに、私も旅について考えておりました。あなたが果てしない航路を制覇するにあたり、海図がなくてはなりません。ゆえに初めて私にくれた絵を、ここで返そうと思いまして。筆もあなたが持つべきです」
「気に入らなかったのか?」
「えぇ、まったく」
笑いながら相棒たちを返してやると、彼はあからさまに顔を顰める。
「しかし僕の旅はもう……」
「終わってません」
深く息を吸って、一息で吐ききる。
「もしも……、もしも神様がありきたりを好むのならば、この筆と絵をあなたが捨てずにいる限り、これらは再び、
声の
「まいった、僕の負けだ。できるだけ合間を見つけて足跡を増やそう。ゆくゆくは大きな
気づきますとも。
千年前の
海図は古くなるたびに描きなおされて、筆の買い替えは何回目だろうね。イーゼルはどうかな。さすがに朽ちてしまうかな。当時のものは何一つとして残っていないだろうけれど、それでも揃えてきてくれた。軽装だなんて、とんでもない。私に対してのみ絶大な威力を誇る最高級の装備じゃないか。
そりゃあ、食べ損ねてしまうよな。その日はきっと底冷えの孤独が耐えがたい夜で、千年ぶんの奇蹟の大火が放つ暖を欲したに違いない。こじつけでもいい。信じることはヒトの営みのひとつ。
「ヤマグワの葉が落ちきって季節をひとつ
その昔、アエロウとは魔物ではなく草木を枯らす
「はい。私たちにはアエロウがいますものね」
この戦争で彼が命を落とすことを、私は知っていたのかもしれない。もしくは霜の病による自身の
結局、アエロウはいちばん大切なものを護ってはくれなかった。私が鳥嫌いで潮風とも無縁の魔物に生まれ変わったのは、たぶんそういうことだ。
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