生きて帰りなさい
耳鳴を押し退けて響く
これから潮風は、大好きだった彼を呑み込んでしまう。この日を境に、私は海を憎むようになる。
「明日、本当に発ってしまわれるのですね」
「うん」
視界の端では群青が舞っている。流行りの
「かならず生きて帰りなさい」
「当然だ」
私の声は、魔物の不完全な声帯が出す音よりもずっと澄んでいて、それを風に乗せてやると彼は喜ぶ。
しつこく
おなごに教壇は生意気だといった具合に、差別意識の根深い僻地ではあったけれど、そのような手合いもひとたび詩歌を
栄光に温められていると、
母と
「次に季節が
鐘の音が止む。
「分かってるよ、ありがとう。まだまだ画家はうつけと
「惚れ直しましたか」
「あぁ、死ねない理由が増えた」彼の熱い指に抱き寄せられる。「……このところ不作続きのへドリスは貧しいが海は豊かで澄んでいる。婚儀はここで挙げたい。よそ者の僕は、この浜に響く、アイルの
私が教えた歌を口
感情の
「行かないでください。侵略者の軍勢を
「うん」
「いっそのこと、このまま逃げてしまいませんか。所詮は一時の恥、矜持など命より安い
「うん」
この世にこれほどの否定を帯びた
「……分かっています。私は何を言っているんでしょうね、はは……。ごめんなさい。重ねて
「なぜ嘘をついた」
「だって!」
命を惜しんでほしかったから。出征を思い
枯れてしまえ、海など枯れてしまえ。おまえが美しいせいで彼は筆を
やがては〈
「まあ、いい。おまえの嘘には慣れた。足を悪くしたので行くな、子を授かったので行くなと、最近はそればかり聞かされた。
「少しは叱ってください。
優しさが傷口に
「叱るもなにも、理由がなくてはな。
「まあ」
さざなみと共に押し寄せた
父を
しかしあまりに強い正義感の反面、さまざまな偏見に凝り固まり、それは風雨に
芸術を軟弱者のままごとと吐き捨てる男が、画家の異邦人との結婚を許すとは思えなかった。
「おまえが疑うのも無理はない。
余裕ぶった
「よっぽどのことがあったのでは」
「アイル?」
ないと言えば父のことが
これらは全て真。
彼のようすから察するに、父の承諾も真。
そういえば、日頃から彼を否定する
つまり、反対だ。
承諾に至るまでの因果が裏返っているのだ。
「
「まさか」
否定の直後に生じた顔色の変化を私は見逃さなかった。突沸した激情で
「ならん、なりません! 私の願いの成就に、そのような
私は、あなたに戦士になってほしかったんじゃない。こんな思いをしたくて受け入れたんじゃない。
私のためと言いながら私の気持ちを踏み
同時にこうも思った。このように苦しみを抑えつける行為、それをさだめと美化させるくらいなら、いつか好意を示してくれた、優しさだけが取り柄の凡庸な男の手を取ればよかった。遊女に
そうじゃないから汚してやりたくなった。怒りに身を
みるからに
「おまえの願いじゃない、僕の願いだ」
掴まれた腕を振りほどけない。
「しかしこれでは死ねと告げられたようなもの。生きてさえいれば、結ばれずとも言葉を交わせます。今ここで離ればなれになるのも、戦場で離ればなれになるのも、同じことではありませんか。傍に居らずとも歌ってあげましょう。さりとてあなたの好いたこの声も、海の向こうまでは届きません。届かぬことを嘆いて眠れぬ夜を過ごせと申すのが、それが本当に愛だとおっしゃるのなら、或いはそれであなたの心が満たされてくださるのなら、大人しく従いましょう。もしもそうでないのならば、今一度、お考え直しください」
よそ者であるからと彼だけが冷遇されたわけではない。どの家系の男も皆、等しく死ねと言われて育つ時代だ。
貧しい環境を生き延びる強さが求められるのは必然で、彼に
晴れて結ばれるのは嬉しい。愛する者のために命を投げうつ勇気も嬉しい。そういう人を好きになれたのも嬉しい。
嬉しいことばかりのはずが、私はこれっぽっちも笑えないでいる。あぁ、頭ではわかっているのだ。
笑えずとも諸手を挙げて祝うべきだと。最後となるやもしれぬ日に、憂いを置いて
「女は感情の生き物だと言われるが、どうも肝心なところで理屈を頼る。特にアイルは分かりやすい」
「いまはそんなことッ、どうでも――」
不意に抱き寄せるかたちで唇を塞がれた。ほんの一瞬触れ合うだけの、私を諦めさせるための口付け。
どうしようもなく訪れる幸福と、思い通りにならない不満との
今も昔もずるい人だ。私は幾千の言葉を尽くしてもあなたの歩みを止められないのに、あなたは無言の抱擁ひとつでいとも
「歌はからきしだが、耳には自信がある。溜まりにたまった垢を掻き出しておいて良かった。万全だ、たとえ海の向こうでもちゃんと聴こえるよ」寄りかかりは
せっかくの火照りが冷める。寂しい。二人でいても寂しがりの私が、時代の仕打ちに耐えられるはずがない。
腹いせに固まった泥を蹴り、耳にまつわる話ですが、と
「本土での旗色はよくないと、いくさとは無縁の私のもとにすら届いてくるほどです。なんでも魔法を扱える者まで前線に駆り出されるのだとか。一介の兵士、それも他国の傭兵ひとりが増えたところで、果たして逆境を脱せられるものなんでしょうか」
のちにへドリス北部が王宮街に選ばれるのは、そうならざるを得ないほどの侵略を受けたからである。
さらに近頃の不作も相まって、各所で起きた
道理を弁えた賢い女たちや血気盛んな男たちには違う景色が見えているのかもしれないけれど、無学の私の
平和のため、家族のため、豊かな生活のためと、大人の言葉を信じて過ごすうちに一つも得られないまま私は大人になった。
得られないままで済めばどれほどよかったか。命を奪うだけの疫病と違い、戦争は土地を枯らし文化を
「ひとりには変わりないが、これでも僕は大魔法使いの
彼はそういって指先に〈火〉を灯した。吐息にいたぶられる穂先を見ていると唇が震えた。こんな火では、人間はおろか虫も殺せまい。
「強いあなたがいてもなお、あなたの祖国は滅びてしまった」
「二度とは繰り返さぬための剣だ。果てに死体の山の一つに成ろうとも、直ぐに病魔に生まれ変わり、やつらの足を止めてやる」
「ならん、なりません……」
引き止める余力はとうに
岸壁に何度もぶつかっては白く砕ける波しぶきは、見送りの花束にしては手荒で縁起が悪いと、そんなことを思っていた。
しばらくすると夜回りの足音が近づいてきて、「
気を利かせた夜回りはすぐに立ち去り、それから
「見ろ」
この時代の猟師たちの間では小舟より大きな獲物は皆、いさなと呼ばれた。区別は水揚げ後に行われ、海上における呼称の差はない。
「とても立派な
「かれこれ三日三晩は飲まず食わずで戦っている。あの種は群れを逃がすために若い
ときには漁船を転覆させるほどの力強さと勇敢さを称え、彼の母国語では「兵士」と
「あなたは魔法が使えます。海なら尚更、剣よりもヒレが似合うでしょうに」
酔っていてもだめだな。事あるごとに彼の決意を
「昔は同じことを思っていた。だが違う。魔法はね、僕ひとりの夢を叶えるためのものじゃないし、海を泳ぐにはそれなりの体力が要る。だから僕にとってヒレは蛇足のようなものだ」
彼の手が
「……この子にはヒレを使いこなしてほしい。我が子にとってのいさなが、兵士の意味で語られてはならない。そういう時代にしてやる。魔法はそのために使おう。決して剣を抜かせはしないよ」
浮世離れした生き方の彼が強くなったのは、私のなかに宿るであろう弱さのせいだったと知る。
背後で羽ばたきが聴こえた。この
「名は、いさな、にしよう。
「気が早いですよ。なにせ昨日の今日なのですから」
心とは別の痛がる箇所を思い出し、それが無性に恥ずかしくて、泣き顔のままで笑う。
「知っているかい。神様は意外にもありきたりを好む。ともに祈ろう。願わくば、いさなが初めて見る海は、この美しい海でありますように」
「はい」
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