あなたは初めから
今度は何も答えなかった。肯定を示す沈黙。そうなると魔力がゼロである事実に説明がつかない。
まず人間にとって心臓とは血液を循環させる装置であり、魔力を循環させる装置ではない。だから人間は霊的中枢を失っても生きていける。しかし魔物にとって
細菌種のように元々の魔力がごく微量の例外を除くと、失魔症でも生きていけるのは人間か純粋な植物のみ。人間にも魔物にも植物にも
「やたらと人間か否かに
「そりゃあ、なりたいですよ」
「人間は好き?」
「好きです」
「肉の味がでしょう」
「肉の味……だけではっ」
彼との最初の会話だと思った。懐かしいはずなのに、どうしてこんなにも苦しくなるのだろう。
あぁ、眩暈までしてきた。心労の影響かな。唾液の量も
「ふうん。それにしてはキミ、さっきからお腹が鳴りっぱなし。
「なってないッ!」
想定外の声量に私自身が驚いた。なにを今更、むきになって返しているのだろうか。
息を整え、レブレのほうを見る。衣服の白を汚したかすかな血痕。指先のやつ、美味しかったなぁ……。
いけない、と思えば思うほどかえって悪しき
図星だったのだ。私の
「だってさ、クエレ。彼女は変わらず強い子だ。まさかここまで成長するとは思わなかったなあ」
「もういいだろ。フーカのおかげではあるにしろ、やっと取り戻せたんだ。きみがアイルから取り上げたものを全部」
後半の意味はわからないが、もういい、の口調はきわめて強かった。対価を
突拍子もない台詞ではあるものの、二人はこれまで幾度も目配せを交わしており、本題への糸口を探す素振りは見せていた。
私の成長。
私が取り上げられたもの。
前者はともかく後者に心当たりはなく、双方の繋がりも希薄に思えた。
レブレは両の
指が閉じると雑音は消えた。秒針も
「どうしたものかなあ。ふたりの努力が成就に
「くすり?」
「アルラウネの食欲を抑える幻覚剤。キミの花粉の魔力にはさ、ほんのりと
花弁を
「でもあんな薬草の匂い、混ざってたら分かりますよ。というか混ぜるもなにも、フーカさんの料理っていうのはいつもトロールの糞尿みたいな味がして……」
「アイルの優れた味覚を騙しきるためには、匂いのきつい素材に頼らざるを得なかった。だよね、フーカ。いくら料理下手だといっても、毎度同じ味付けをするのはかえって難しい」
「そんなの」
信じられなかった。
だって、私には。
「バロメッツの〈幻覚〉に耐性がある、と勘違いしてる顔ね。あの樹木種にはアイルのような捕食者の力はないし、あたしたちのような困難に立ち向かう知恵もなければ、強者に擬態できる器用さもない。……されど生息域という意味で、リーテリーゼの大地の支配者はバロメッツ。花粉や蜜、体組織に含まれる毒素を
へドリス原産のアルラウネは言うまでもなく外来種。そしてトールストンは唯一、人間がアルラウネの根絶に成功した地域。
なぜバロメッツがアルラウネ症の治療薬になるのか。なぜその根の在庫が不足しがちになったのか。なぜトールストンのアルラウネだけが人間に滅ぼされたのか。全てが繋がっていった。答えは簡単だ。バロメッツの他者を弱らせる力は、特にアルラウネに対し強く作用する。
「わ、私を殺そうと?」
「だったらとっくに殺してる。ピントを食欲に合わせたマーベラスな調合してやってんの。むしろあたしを褒め称えなさい」
「ですよねえ」
彼女を信じ、
「いいや、致死量でも殺せなかった。食欲不振がせいぜいだろう」
彼が言った。
垂れ続ける
心から信頼できるがゆえに、もっとも違和感のある出逢いはフーカだ。職業柄アルラウネに詳しく、人間社会で魔物の飼育を許されるほどの肩書きがあり、いざとなれば私を抑えつける
褒めてばかりだが全てにおいて特別というわけではなく、その努力の要求値や大小に差異はあれど、人間なら誰しもが成長の過程で身につけられる範囲だとは思うし、彼女は少し運が良くて、いくつかに秀でているだけ。言うなれば、傑出した才能を持つ平均値の人間。それは人間の見本や教科書に近く、才能を力に置き換えると強い魔物のようでもある。
ヒトの世では馴染みづらい私の欠落を完璧に
「あなたは初めから」
出逢うように仕向けたのは、彼だ。
「きみを信じてなかった。ある意味ではアルラウネの本能を信じていたともいう。きみが弱っている間に、どうしてもフーカを紹介する必要があったんだ」彼は冷たく言い放つ。「人間との共生は、絶対に無理だから」
目の前が真っ暗になる。私はあなたを傷つけぬよう、その一心でここまで我慢してこられたのに。努力の全てを否定された気がして、息が苦しい。
「あんた、火を放ったの?」
今度は彼に向け、杖を構えるフーカ。
「どうかな。ただし山火事では死なないと確信していた。アイルの身体は燃やせないし、凍らない。たとえ細切れになろうが再生できて、
苦しさが止まる。思考はずっと冴えわたっている。彼は確信を持ちながら助けに来た。だからあの状況で軽口を叩けた。
私の安否に興味がなかった場合も同様の反応にはなるが、さすがにこれまでの思い出を一つひとつ紐解いていくと、彼は私に対し異性に向ける好意と同等か、それに近い感情を抱いているのは確実だろう。でなければキスは求めない。
「私を人里に連れ込むための口実?」
「まあね。魔物と人間がふたりで暮らすための最も愚かで効率的な方法さ。外界との国境警備が手薄になる瞬間でもあった」
「あなたらしくない言葉」
嬉々として無駄を語らう芸術家に効率の二文字は似合わないし、森を殺すのはやりすぎだ。ただ私を好いているだけなら、ふたりきりの世界でよかったじゃないか。
「長生きを楽しむには、しがらみは多いほうがいい。これは僕が最も愛したひとの人生論であり、長い
「それって」
「今日は、僕の人生最後の日」やけに清々しさを感じる声だった。「願いを取り下げる日ともいうのかな。……レブレ、そこの剣を取ってくれないか」
レブレはあからさまに嫌がった。
「あんまり汚さないでね」
落ち着いた口調に二拍を乗せる。すると贈り物の剣は魔法を掛けたみたいに浮き上がり、放物線を描いて彼の手元に収まった。
それを扱い慣れたようすで逆向きに持ち変え、腰を
悲鳴より先に危機を
咄嗟に駆け寄りかけたけれど、途中で足が
腹の奥のあたりが、すう、と冷えた。
あの日の
一方でフーカの無反応を把握していた。全身に巡った不安とは別に、大事には至らないと頭ではわかっている。
わかってはいるのだが、まだ涙腺のコントロールが上手くできないせいもあり、
彼のほうで動きが見られたのは、およそ二十秒ほど経ってから。百年より長いとさえ感じる静止を、ゆっくりと引き抜かれた刃の運動が上書きする。
呼気や顔色などに特筆すべき変化はない。抜き取る際に表情を歪めたものの、それきりだった。
「今回の生では試さないと決めていた」血染めの柄を回しながら彼は考え込む。「やっぱり死ねないか」
つんとした香りに無気力な言葉が混ざった。あんまりがどの程度を指すのか定かではないが、両刃は彼の血で思いきり汚れていた。
「基本的に魂と呼ばれるものは二度は死ねないようにできている。したがって死者の自殺は永遠に未遂。でもまあ、命も衣服も大事にしてもらわないと困る。キミがアイルとの再会を果たした時点で、彼女の願いは効力を失った。次はないよ、断言する。命はこれきり」
「そうか」
彼の返答は短い。
「未遂っていうけど、ふつうは死んだら立ち上がらないものよ?」
フーカがもっともな意見を述べる。
「そうかなあ。任務のなかで
「はぐらかさないで」
アンデッドの本体は死者の肉体のみを操る寄生虫だ。これは専門家でなくとも知っている。動きまわる死者は言わば大きな虫に過ぎないから、当然、生前の記憶は引き継がない。四肢が腐りきる前に終宿主の餌として地表を
衛生面は最悪な一方で、この宿主をおびき寄せる性質を逆手に取った狩りの歴史もあるくらい、人間との関わりの深い魔物でもある。しかし人間の感情にとって
昨日今日の話ではない。レブレが敢えて古めかしい語彙を選んだのは、長い時間を生きた証明とも考えられる。
「……前々から疑問には思ってた。クエレさ、自分のことをほとんど話してくれないから、絶対そうとまでは言い切れない。……でもずっとね、記憶で喋ってるんじゃないかって。暑いとか、寒いとか、痛いとか、悲しいとか、苦しいとか、全然言わないし、感じているふうにしていても
「僕は、フーカには話したさ」
「あたしが知ってるのはッ……!」その時、彼女の魔力が不安定に揺れた。「アイルのことだけ」
ふたりを見つめる。今、私の名前が出た。視線を送ってレブレに助けを求める。
「まあまあ、落ち着きなよ。この子が置いてけぼり」
どうやら意図を汲んでくれたみたいだ。
彼は歯切れの悪そうに口元を結んだり、解いたりし、やがて剣を交互に持ち変える特徴的な動作をした。
「……僕はね、絵画芸術において
口付けの意味と同様、その動きには既視感があった。ぞわりと背筋が粟立つみたいに嫌悪を訴える。
「僕らが初めて出逢った日、たまたま通りすがりのきみに絵の感想を求めたとき、きみはどうでもいいと言っていたね。近所で評判のお嬢さんが、
「あーえっと、その件については謝ります。描いてみるまでは、表現の難しさを想像できなかったんです……」
通りすがったのはあなた。私は悪名の間違い。彼の生唾を飲み込む音で、どういうわけか間違いは私のほうだという思いに
「あの夜、またしてもきみは始まりの絵をどうでもいいと言ってのけた。千年
真っ直ぐに私を射抜く瞳は、彼らしからぬ熱意に満ちていた。
「何を言っているのか――」「今の姿ならまだしもッ!」
私を
「下手くそな擬態のアルラウネに一目惚れをし、
頭を殴られたような衝撃に声が潰れた。末端にうまく力が入らない。
夜火の
「僕らは出逢うべくして出逢った、誰にもこの奇蹟を偶然とは言わせない。ずっと
ふと彼が伸ばした指の先、血生臭い時代の尺度を感じさせる歴史画には目もくれず、バルタザールは口を開く。
「戦争の」
知らないはずの知識が芽吹き、息を吹き返す。
あぁ、と
特徴的な剣の持ち方。あれは画家の手癖でもなければ、剣技の型でもなく、まして魔術師の構えでもない。
小さな村落の命運を背負わされ、これから大勢の人間を殺しに向かう男が、場違いにも豊穣の巨人に
「現代でいうところの魔物と人間を区別する単語がなく、人間たちが富を欲して平和を見失っていた時代、〈
それは馴染みの深い言葉で、
「アイル、きみの命を奪った病だ」
私はこの、無意味なまじないが大嫌いだった。
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