第59話

最後の一杯を飲み干して会計を終えると、僕らは店を出た。

いつもならここでラブホテルに行くかどうかの駆け引きが始まるのだけど、今日は当然その流れはない。

能天気に避妊具をバッグのミニポケットに忍ばせていた自分が恥ずかしくて、情けなかった。


「珍しく今日はあんまり顔赤くないね」

「別れ話してる時に顔真っ赤だったら、そっちに注目がいって話が進まないかなって思ってさ」

そうは言いながら、どうして今日に限って酔いが回らないんだと、都合の悪い自分の肝臓に腹が立った。

アルコールの力で、なにもかもを有耶無耶にしたかったのだ。


そのままいつも通りバス停に向かって、話して、バスに乗り込んだ。

頭がぼーっとしたままで、自分が何を話しているのか自分でもあまり理解できないまま、言葉を発していた。

あの居酒屋を出た瞬間に僕たちは恋人ではなくなったのか、それとも今日解散するまでは恋人なのか。解散するまでは恋人だと定義づけるのならば、今はまだりほと手を繋いでもいいのだろうか。なんてことをひたすら考えていた。


当然手は繋がないままバスを降りて、りほを家まで送る。

「いいよ、今日は家まで送ってくれなくても」

りほははにかみながら申し訳なさそうに言った。

「今日だからこそ送るんでしょうが。もうこの道を歩くこともしばらくないだろうしな」

僕は努めて明るい調子で言い放ったが、言いながら少し涙が出そうになった。

来週も再来週も、来月も再来月も、下手すれば来年も、りほと手を繋ぎながらこの道を歩き続けるだろうと、勝手に信じ切っていたのだ。


「ほんとありがとうね」


沈黙をかき消すように、りほが呟いた。


「こちらこそだよ」

りほの方を見ながらそう言うと、りほはまた泣いていた。


「やめようよ、この雰囲気。湿っぽいよ」

僕は大袈裟に笑いながら言ったが、りほはさっきよりもさらに激しく泣き出した。

「別れるって言ったってさ、別に今生の別れでもないし、死ぬわけじゃないんだから。なんなら、来月に復縁したっていいんだからね?」

自分に言い聞かせるように僕は言ったが、心のどこかでは分かっていた。

僕らはこの先、きっと会うことなんてないだろうと。


それでも、りほが泣きながら首を激しく縦に振ったから、少し救われた。


「ゆうちゃん、りほと別れても、友達でいてくれる?」

さっきのりほに負けじと、僕は首を激しく縦に振る。


「今までみたいに、また飲み行ってくれる?」

行くよ。行きたいけど、じゃあなんで別れようなんて言うんだよ。


「りほのこと、嫌いにならないでいてくれる?」

壊れたおもちゃみたいに、僕は首を降り続ける。

りほの家が見えた。

何回、何十回何百回とりほを送り届けたこの家。

きっと、僕のスマホは今頃Wi-Fiを探している。


「じゃあ俺からも聞くけど、別れても俺と友達でいてくれる?」

黙って首を振る。

この坂を降りたら、もうりほの家は目の前だ。

「俺のこと、嫌いにならないでいてくれる?」

嗚咽するりほの背中をさすりながら、僕は聞いた。

坂を降りる。このまま時が止まればいいのにな、なんて思いながら降りる。


「俺のこと、忘れないでいてくれる?」

我ながら臭いセリフだなと思ったけど、りほは頷いてくれた。


りほの家の前に着いても、りほはまだ泣いていた。

僕はこの時点でも、まだ別れるという実感が全くなかった。

本当は泣き止むまでどこかで話していたかったけど、それをしたら帰れなくなる気がした。

実感が襲ってくる前に、寂しさに支配される前に、早く1人にならなくてはいけないと思った。


これで本当に終わりなんだなと他人事のようにりほを眺めながら、僕は聞いた。


「ねえ、俺たちってまだカップルなの?」

「…なにそれ」

「いや、カップルって付き合う瞬間は明確にあるけどさ、別れる瞬間って曖昧だなあって思ってさ。俺たちは居酒屋から出た瞬間までがカップルだったの?それともまだカップル?今日の日付が変わるまでがカップル?」


ぼんやりと空を眺めながら言うと、りほは久しぶりに笑った。


「最後までゆうちゃんらしいね。そういうところが好きだった」


その一言を聞いた瞬間、僕はなぜか目頭が一気に熱くなった。


「で、答えは?」

「そんなのわかんないよ」


りほが泣き止んでいるので安心した。

僕はりほの頬を手で掴んだ。

そして、そのままキスをした。

りほは呆然としている。

「ありがとう。大好きだった」


僕はそれだけ言って、りほの家と反対方向に早足で歩き出した。


りほの表情が気になったけど、振り返らなかった。


どんな表情をしていたとしても、その顔を見た瞬間に泣いてしまうと思ったから、振り返らずに歩いた。

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あの時 ごさときりなか @kirinaka

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