第58話
「あのね、別れようかなって、思ってるの」
突拍子もないその言葉を聞いた瞬間、僕は脊髄反射のように
「へ?」
という言葉にもなっていない間抜けな音を口から発してしまった。
その音を発した時の表情がよほど気の抜けたものだったのだろう。
りほは僕の反応を見ると少し頬を緩め、繰り返した。
「だからね、別れようかなって思ってるっていう話」
いつも通りの柔らかい表情と声だったが、その裏側には堅い決意のようなものが感じられ、そこで僕はようやく理解した。
今、りほから別れ話をされているのだ、と。
この時点で僕の脳内は狼狽と困惑で埋め尽くされてしまい、今にも泣き出しそうな気持ちになってしまったが、表情と口調は努めて平生のものと変わらないようにする。
「ちょっとそれはあまりにも急な話だね。なんかあったの?」
「ううん、これといった理由があるわけではないし、ゆうちゃんのことが嫌いになったわけではないよ」
「じゃあ別に別れる必要なくない?好きな人でもできたの?」
「できてないよ。ただ、私たちももう21になって、そろそろ将来とかのことを考えないといけない時期にきてるのかなって」
核心に触れず、表面だけをなぞるように話すりほに、僕は内心で少し苛立っていた。
「将来のことを考える上で、どうしてそれが別れるっていう答えになるのよ。本当はなにか別の理由があるとしか思えないよ」
「ほんとに別の理由なんてないよ。最近将来のことを考える機会が多くなってきてさ。どんな人生を歩みたいとか、何をして生きていきたいとか。そう考えた時に、私たちもそろそろ、それぞれの人生を生きていった方がいいのかなって」
あまりにも陳腐な理由に、僕はどうしても納得がいかない。
「つまり、俺がもう21にもなるっていうのにろくに働きもせずに毎日うだうだしているから、こんな人とはもう付き合えないですってことでいい?」
ついつい卑屈な口調になってしまう。
「そんなことないよ。りほもフリーターなんだし、そこは全く気にしてないよ」
「じゃあなんで…」
「本当にこれといった理由があるわけではないんだって。将来に向けてやりたいことも見つかってきて、だらだらとこのまま付き合うのもお互いよくないかもって思っただけなんだよ」
その後も同じような会話が何回も何回も繰り返された。
別れるという意見をりほが曲げることはないということを、僕は心のどこかでわかっていた。
だけど受け入れられなくて、引き離されないようにひたすらすがりついていた。
こんなにも唐突に、あっけなく最後を迎えるなんて思いたくなかったのだ。
お互い話すことがなくなって、今までの2人の中で一番重苦しい沈黙が流れた。
「…正直、俺は別れたくない。明確な理由があるなら納得もできるけど、あまりにもあっけなさすぎるよ」
「…ごめんね」
「謝るっていうことは、もう意見を変える気はないってことだよね?
…別れる気しかないってことだよね?」
「…ごめんね」
自分のことで頭が一杯になっていて気がつかなかったが、りほは顔を伏せて泣いていた。泣きたいのは俺の方だと、大きな声で叫びたかった。
「なんで泣くのよ。ごめんね、なんか詰めるみたいになっちゃって。ありがとう話してくれて」
「ううん、こちらこそごめんね、急に話しちゃって」
このタイミングから、僕はどのように別れを防ぐかよりも、どのようにしてかっこよく、潔い別れ方をするべきかに意識が向いていた。どれだけ粘っても無理だということが分かったから、それならせめて醜い縋りつき方をするのではなく、
あっけらかんと、穏やかに最後を締め括ろうとしたのだ。
「…はい、湿っぽい雰囲気終わり!ほんとありがとう話してくれて」
りほは鼻をすすりながら無言でうなずく。
「最初は引き留めようとしたけど、正直もう無理なんだなって諦めついた。
もうすぐラストオーダーきちゃうし、どうせなら最後楽しく話そうよ」
言葉だけ聞くと切り替えの早いさっぱりとした男のようだが、実際は全く切り替えられていない。
これは夢なのではないかと、心のどこかで考えてしまう。
ラストオーダーの注文で、りほはハイボールを、僕はラムネサワーを頼んだ。
「そういえばさ、2人で最初に居酒屋行った時のこと覚えてる?」
「うん。そういえばあの時も、りほハイボール頼んでた。よくハイボール飲めるねって、ゆうちゃんに言われた記憶あるもん」
さっきまで泣いていたからか、すこし瞼が腫れているように見える。
「おっよく覚えてるね。俺あの時もラムネサワー頼んだんだよな」
「つまり、一番最初と一番最後で、私たち同じ飲み物頼んでるってこと?」
「…そういうこと。乾杯!」
「なんか素敵ですね。乾杯!」
りほのグラスと僕のグラスが擦れあい、氷がカランカランと音を立てて揺れる。
その動きにつられるように、グラスになみなみ注がれたお酒が波打っている。
何が乾杯だ。何があの頃と同じ飲み物だ。
若手ロックバンドの失恋ソングにありそうな、あまりにも通俗的なこのシチュエーションに、僕は苦笑いを浮かべながらラムネサワーを口に入れた。
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