揺れる、青
御堂凛
揺れる、青
お盆を過ぎれば、この町は秋になる。
そう言ったのが誰だったのか、最早思い出せない。
タッちゃんだったのか、カエデだったのか、はたまた
だから海は苦手なんだ。海は漁をする場所であって、泳ぐ場所じゃない。夏とか海をありがたがってるやつの気持ちがぼくにはわからない。
その時、泳げないからじゃ? と煽ったのが誰だったのか、それは定かではないのだけれど。
1
部屋に帰った。もう何年も帰っていないような気がした。
三和土で色の抜け落ちた革靴を脱ぎ、台所と一体になった玄関に上がる。半分開いたすりガラスの引き戸の奥に、畳の居間が見える。夕闇に没した居間は、なんだか知らない場所みたいだ。天井から下がった電灯の紐を引っ張ると、飴色の座卓や、タンスや、女物のスーツが掛かったハンガーラックが淡く照らし上げられる。
ふと寒気を感じて視線を足元に向けると、黒い靴下がぐっしょりと濡れ、畳には足跡が残っていた。一体いつ濡れたのだろう。水たまりにでも足を突っ込んだだろうか。続けて手元を見る。紙袋を下げていた。ぼくは首を傾げ、畳にあぐらを掻いて座る。紙袋に入っているのは箱だった。蓋を開けて中身を取り出す。
始めはなんだかわからなかった。まるで小さな釣鐘だ。色は黒。けれど真っ黒ではなく、墨を塗ったように艶やかな黒だ。釣鐘からは紐が下がり、先には短冊がくくり付けられている。
風鈴だ。しかもただの風鈴じゃない。これは南部鉄器だ。ぼくの生まれ故郷である岩手県の伝統工芸品。そこまで考えた途端、まるで水が高い所から低い所へ流れ落ちるように、記憶が次々と浮かんだ。そうだ、買ったんじゃないか。久しぶりに外出をしたら町でこれを見つけ、つい懐かしくなって購入したのだ。でもどうして、そんな簡単なことに思い当たらなかったのだろう。
立ち上がり、窓を開けて軒下に吊るす。ちょっとオシャレ気取りすぎだろうか。都会のアパートには似合わないけど、ぼくは気に入った。どうせ君しかいない。どうせ夜しか帰ってこない。都会はただでさえ季節が感じにくいのに、夜になることで一層わかりにくくなる。季節の変わり目には風邪をひきやすいから、少しでも季節に敏感でいてほしかった。
アパートの二階の部屋からは、内港の風景がよく見渡せた。明かりを落とし、死んだように眠る何艘もの漁船。出島のようになった内港公園のシュロの木。はるか遠くで弧を描く中の島大橋。日本一の高さを誇るこの歩道橋は、毎年お盆の時期に開かれる花火大会の会場である中の島に伸びている。恋人の聖地とも呼ばれるこの橋を、ぼくは何度君と歩いただろう。
つがいのカモメが夜遊びをするように薄闇を羽ばたく。だらりとしだれかかるような夏夜の風が吹いて、風鈴がユラユラと揺れた。
2
部屋を出て、鉄製の外階段を降りる。カァン、カァンと響く音が、漁船の船体に跳ね返る。船首には水面の動きが反射して映り込んでいた。風が吹くと模様はより大きく動き、キィキィと軋むような音と、潮の匂いが重なる。港沿いの古びた住宅街から県道沿いに出るとさすがに音は消えたが、それでも潮の匂いは追いかけてくる。
千葉県、木更津。天下の関東地方といえど、所詮は房総半島の港町だ。アクアラインを使えば東京まで一時間強だが、下道なら三時間弱の遠出となる。だからこの町の人間はあまり東京まで出たがらない。いや、出る必要が無い。生活に必要な最低限のものはしっかりと揃っているからだ。閉じていて、自己完結しているその様と、どこにいても漂ってくる潮の匂い。栄えていてもなお残る、港町特有の荒っぽさや汗臭さ。漁船のモーター音、あるいはカモメの鳴き声。この町に暮らしていると、ぼくは故郷を思い出さずにはいられない。
岩手県の宮古市。三陸海岸に面した市の中でも一番栄えていたあの町で、ぼくは青春時代を過ごした。タッちゃん、カエデ、千佳。三人と一緒に過ごしたカラオケ店もゲームセンターも喫茶店も、そしてあの砂浜も、きっと今は残っていない。
木更津駅で電車に乗り、房総半島を南に、青堀駅で降りる。コンビニ一つない、暗くて閑散とした駅前から住宅街に入り、黙々と歩いた。家々はすぐに数を減らし、その代わりに田んぼや畑が目立ち始める。まばらな街灯で夏虫が爆ぜるような音を立て、水田からは幾重にも重なったカエルの鳴き声が届く。
やがてぼくは、
ぼくは気を取り直して、深呼吸をした。夜の訪問を決めたのは他の従業員と顔を合わせると気まずいからだ。正確な時間はわからないが、繁忙期とはいえ陽が沈んでだいぶ立つし、問題はないはず。意を決して、敷地に足を踏み入れる。
母屋を素通りし、庭の奥に進む。庭の奥の敷地は外からはわからないほど広い。平屋根の建物が三つ。トタン壁の倉庫が一つ。内一つ、ガラス戸から明かりが漏れる建物に近づき、ぼくは中を窺った。積み重ねられたダンボール、木枠に乗せられた西瓜大で薄茶色の球体、それらに囲まれて男性が晩酌をしている。ごま塩頭に、ガッシリとした体。ぼんやりと宙に目線をさ迷わせ、カップ酒を口元に運ぶ男性はあいかわらず群青の法被を着ていた。襟には『立木煙火製造所』と書かれてある。
果たして戸を開けていいものか悩んだ。そうしていると男性は酒瓶を床に下ろし、顔をこちらに向けて、すぐに目を見張った。ぼくはとっさにペコリと頭を下げる。男性は、立木煙火製造所の親方はしばらく固まっていたが、ノロノロと立ち上がって土間に降りると、ガラス戸を引いた。
「どうした、
口調は荒いが、声は震えているし顔も強張っている。親方は首から下げた黒ずんだタオルで額を拭った。
「久し、ぶりだな。一年と少しか」
そうだ、久しぶりなのだと、ぼくはぼんやりと理解する。鬱病、だったのだ。仕事を休職して、日がな一日あの部屋で過ごした。何もする気が起きず、何をしていたかも覚えていない。記憶障害は、鬱病でありがちな症状だ。記憶の風景は青黒く塗りつぶされている。けれど、そうだ、鬱病だった。答えを手にすると、それまでユラユラと、行き場を無くして淀んでいた水が、ようやく生まれた出口に向かってゆっくりと流れ出していくような気がした。
「ぼくの、二尺はありますか」
口に出してみると思っていたよりもしっくりくる。二尺玉。花火の玉というのは大きさによって細かく分類されていて、二尺玉は上から三番目の大きさ。いわば祭りの花だ。休職する前に手掛けていたそれをなんとか完成させようと、心身に鞭を打ってここまでやってきた。流れる水が勢いを増した気がした。
「二尺、か」
親方は躊躇する素振りを見せたものの、一歩身を引いた。「まあ座れよ」と草履を脱ぎ、板敷に上がる。ぼくは素直にお邪魔した。条件反射のようにカップ酒を掴んだ親方の対面に、正座をする。親方は日本酒で唇を湿らせ、しげしげとぼくを見つめる。
「気づいてんのか?」
「何がですか」
「いや、ならいい」
親方はわずらわしいものを追い払うように、頭を振った。「で、二尺だったか」
「はい。ここを離れる前に作らせてくれていた花火があったでしょう。ほら、一人前になった証だとかって言って」
花火職人の道を選んで八年。玉貼り三年、星掛け五年と言われるほど花火製作は熟達に時間がかかる。決して驕っているわけではないが、それを七年でモノにしたぼくに対する一種のご褒美なのだろう、親方は毎年八月に木更津港で開かれる夏祭りの花火、そのフィナーレを飾る二尺玉の製作を任せてくれた。通常、花火製作というものは、親方がすべて主導する。打ち上げの構成を決め、火薬の配分を決める。従業員はその指示通りに動く形となる。花火のデザインから火薬の調合に至るまで任せてくれるというのは、普通ありえない。
一夜で八〇〇〇発も打ち上げられる花火の、たった一つだ。けれどもその二尺を任せてもらえると聞いた時は天にも昇る気持ちだった。ただ、結局、それから少ししてぼくは仕事ができなくなるのだが。
「今更、本当に今更だとは思うんですが、あれを、作らせてもらえないかなと」
「本当に今更だな」
「すみません」
身が縮む。自分がどれだけ常識のない行動をしているかはわかっている。一年も顔を出さずに、今更あの二尺を完成させたいなんて虫がいいにもほどがある。そもそも一年も前の花火が残っているはずがない。普通は廃棄されている。けれど親方は深く笑った。
「手前はいくつになっても青っぽいなぁ」
親方は立ち上がり、草履を引っかけてガラス戸を引く。
少しして親方はタライを手に戻ってきた。タライには星と呼ばれる、パチンコ玉ほどの大きさの火薬粒が満たされている。
「どうして……」
どうして保管しておいてくれたのだろう。ぼくがいつか戻ってくると信じてくれていたのだろうか。浮かんだ考えを読み取られたのか、親方は板敷に上がりながら「馬鹿言え」と鼻を鳴らした。
「誰が手前なんか待つか。中止になったんだよ、あの祭りごとな。だから出来上がってた分は来年に回そうつって、全部まとめて倉庫にぶちこんどいたんだ」
「中止?」
タライをドンと床に置き、再びあぐらを掻きながら親方は目を細める。「震災でな」
ああ、とぼくは納得する。震災、東日本大震災。去年、東北を、ぼくの故郷を襲った未曽有の大地震。その影響は東北だけで終わらなかった。親方いわく祭りは中止になり、ぼくもまた仕事を続けられなくなった。続ける気なんて起きなかった。
タッちゃん、カエデ。いつも一緒にいた四人組の内、生き残ったのは、木更津で同棲していたぼくと千佳だけだ。
ぼくは左手を伸ばし、タライから星を一つ摘まむ。まだ大きさはパチンコ玉くらいで色も白いが、星掛けと呼ばれる、火薬を加える作業と乾燥を繰り返すことで大きく、黒くなり、やがては夜空を彩る花火の一部となる。大玉一つで一か月から一か月半。夏の風物詩としてそこかしこで打ち上げられる花火が、これほどの手間と労力をかけて作られているなんて、一体どれだけの人が知っているだろう。
「で、手前はこれを作りに戻って来たんだな」
「はい。もう一度仕事ができるかはわからないし、使われなくても構わない。ただ、作りたいんです。そう思ったんです」
「まったく、なんだって手前は全部終わらせてからいかなかったんだ」
「すみません。昔からそうなんです。飯は一口だけ残しちゃうし、宿題は一ページだけやらずに夏休みを終えちゃうし、そういう性格なんです」
「そりゃ先生も大迷惑だろうよ。一頁だけ空白なんて据わりが悪いったらありゃしねえ」
「でもきちんと戻ってきたので」
「そうだな。戻ってきた」
ぐいっとカップ酒を傾ける動きのあと、親方の喉仏が膨らむ。親方はタオルで口元を拭い、目も乱暴に擦った。奥まった、小さな目の周りが、隈どられたように黒くなる。
「いいぞ。だが夜にこい。他のやつらに説明するのが面倒だからな」
ぼくはうなずいた。板敷に両手を付き、ありがとうございますと頭を垂れた。
3
「ただいま」
部屋に帰ると、千佳は既に帰宅していた。会社の制服のまま座卓の傍にぺたんと座り、呆けたような顔でスーパーの半額弁当を食べている。ただいまの声に返事はなかった。薄暗い照明の下、まぶしく移り変わるテレビが、千佳の顔に影をちらつかせている。
千佳は弁当の酢豚を箸で摘まんだ。億劫そうに噛み、まるで苦い薬か何かのように顔をしかめて飲み込む。
「今日は製造所まで行ってきたよ」
ぼくは千佳の斜め前に腰を下ろした。千佳は軽く顔を上げたものの言葉は返さず、ゴムでまとめられた黒髪に手をやった。ゴムが抜き取られ、長い髪が波のように広がって、化粧では隠し切れない疲れを滲ませた顔に掛かる。
「ちょっと歩いただけなのに、凄く疲れたよ。体力が落ちてるんだと思う。昔はさ、自転車10キロ漕いでも余裕だったのにね」
返事は、ない。バラエティ番組でタレントが空しい笑い声を上げた。
「何度も話したよね。二尺玉。あれ、もう一度作ろうと思ってさ。しかも普通の花火じゃない。青い花火。最後にドカンと上げるやつって赤とかオレンジが多いんだけど、でもぼくは青いやつで締めたくて。珍しいでしょ、青って。難しいからなんだけどね。そもそも火薬の調合が複雑だし、夜空って黒っていうよりは青いから、映えさせるには工夫する必要がある。硫酸銅、炭酸銅。どれだけ試行錯誤したかわからないよ」そこまで喋ってからぼくは口をつぐんだ。テレビから目線を外さない千佳の姿が、胸にザラリとした手触りを残した。「ごめん、聞き飽きてるよね」
ぼくたちの間にほとんど会話がなくなったのは、いつからだろう。半年前? 一年前? それともあの震災の直後? 今となっては思い出せない。タッちゃんとカエデを亡くしてからの毎日は、冷たくて黒い水流をひたすら耐え忍ぶようなものだった。肌を差す冷たさを意識の外に追いやるので精一杯で、周りのことに、二尺玉や千佳のことにようやく意識を向けられるようになった時、会話らしい会話はなくなっていた。
千佳がリモコンを握り、テレビを消した。笑い声が消えると、途端に部屋はじっとりとした静けさに満たされる。風鈴が、普通の風鈴に比べて高く澄んだ音を立てる南部鉄器の風鈴が、ちりちりと鳴る。そうだ、今日はこれを買ってきたんだよ。懐かしいかなと思って。そんなことすらもう言葉にならない。
千佳が顔を窓に向ける。ぼくたちの町の風鈴が揺れているのに、千佳は何も言わない。シュッシュッシュッと断続的に細い音がして、夜空で白い火花が弾けた。子供の歓声が上がる。
「花火……。ユウちゃんのとは違うけど」
温かな火を灯したように心が躍った。ユウちゃんと、出会った時と変わらない声色で呼ばれるだけで、ぼくはソワソワと落ち着かなくなる。
「そ、そう、花火。また作ろうって思えたんだ」
「花火の季節だね」
「それもあったんだと思う。梅雨が上がって本格的な夏が始まったら、やっぱり色々と思い出すものがあって。まだ復帰できるかはわからないけど、宿題だけはきちんと終わらせたくて……」
「ユウちゃんは今でも花火が好きなのかな」
「好きだよ。いくら好きでも去年は体が動かなかった。でも今年は」
千佳が微笑む。半分以上残った弁当の蓋を閉め、ノロノロとシンクに運んでから、会社の制服をパジャマに着替える。バッグから化粧ポーチを取り出し、座卓に折り畳みの鏡を立てて、けれどそこから先は前に進まない。クレンジングシートを手にしたままぼんやりとしていた千佳は、ある時まるで電池が切れたみたいに万年床に倒れ込んだ。電灯の紐が引っ張られ、窓からサラリと夜が流れ込んでくる。影になった風鈴が変わらず揺れているのに、千佳は目も向けない。
「おやすみ」
千佳が言う。ぼくは暗がりからじっと千佳を見つめながら、「おやすみ」と返す。
4
初めて見た時から感じるものがあった。恋、ではない。流れている血が同じというか、同じ空気を吸って育ったというか、そういう不思議な仲間意識だ。向こうもぼくに同じものを感じてくれていたのかはわからない。当時ぼくは十五歳。高校一年生になりたてだった。
ぼくの育った宮古市は、一口に言えないほど広大な町だ。海のイメージが強いが、その範囲は盛岡の手前にまで及ぶ。ぼくが生まれ育ったのも、市街地まで車で十五分はかかる山奥だった。市内にある中学校の、分校は、ぼくの卒業時に生徒が九人。高校なんてあるはずもなく、ぼくは山の中から市街地の高校まで自転車で三十分かけて通う羽目になった。
三人居た同級生は、二人が実家の林業を継ぎ、一人は盛岡の全寮制の高校に通うことになって、必然的にぼくの高校生活は友達0人からのスタートだった。緊張でガチガチになりながら入ったクラスでは、新入生とは思えないほど、生徒がいくつかのグループに分かれていた。ほとんどの生徒が公立の中学校からそのまま上がってくるのだから当然だ。一日目は誰とも話すことがなく、もしかして友達ができないかもしれないという不安は、二日目の実力テストの日に頂点に達した。
その日は朝から自己紹介の時間があった。出席番号順に、生徒が教壇まで出て、名前と簡単な自己紹介をする。和気あいあいとした雰囲気で、何度か、知ってるわ、というはやし立てるような声が飛んだ。ぼくは誰一人として知らなかった。誰もぼくのことを知らなかった。ぼくが自己紹介をした時、それまで教室に満ちていたざわめきが、潮のように引いた。
これは、本当にダメかもしれない。最悪な高校生活になるかもしれない。ぼくも就職しておけば良かった。嫌な予感に怯えながらぼくは席に戻った。自己紹介が進み、終盤に差し掛かった頃、教壇に一人の女の子が立った。一目見た時に分かった。あ、同じだ、と。
黒くて長い髪、指定の長さをきっちりと守った制服。表情は一見明るかったが、頬の強張りや、クラス中に向けられる気づかわしげな視線や、硬い口調が、彼女の出身中学を如実に物語っていた。ぼくの住む集落から、山一つ挟んだところにある分校。ぼくの時よりマシなものの、それでも少ないざわめきを受けながら、彼女はぼくと通路を挟んだ席に座った。
参っちゃうね。
スカートの皺を伸ばしながら彼女は、声には出さず口だけを動かした。
クラスでたった二人の分校出身。ぼくらが話すようになるのにそう時間はかからなかった。それは、暗がりを好む虫が石の下で身を寄せ合うような、消極的な繋がりだったのかもしれない。けれどたったそれだけで、ぼくの高校生活は一気に華やいだものになった。身体測定や部活紹介で昼過ぎの下校が続いていた新学期五日目の朝、彼女は、千佳は、通学カバンを持ったまま身を屈めて、ぼくに耳打ちをした。
「放課後、付き合ってくれないかな」
放課後という単語を聞き逃していたら、ぼくは椅子から転げ落ちていただろう。ドキドキと高鳴る鼓動が聞かれませんようにと願いながら、ぼくは「なんで?」と訊いた。
「私、母っちゃんと一緒に町まで降りてきてるから、母っちゃんの仕事終わるまで時間潰さないとダメなの。今日も学校昼まででしょ。だから暇で」
「自転車登校じゃなかったっけ」
「ああ、うん、それは港に置いてるだけ。というかよく見てるね」
「別に見てるわけじゃない」
嘘だ。見ていた。千佳は「ふーん」と言い、それから「で、どう?」と身を寄せた。長い髪が首をくすぐる。
「今日暇?」
暇に決まっていた。けれど犬が尻尾を振るように付いていくのも嫌なので、ぼくはあたかも他の用事を切り捨てたかのような態度で「忙しいっちゃ忙しいけど、いいよ」と言う。
そうして迎えた放課後は、久しぶりに味わう楽しい時間だった。宮古市の市街地には中学時代に友達と定期的に来ていたが、男と遊ぶのと女の子と遊ぶのとではまるで違う。ゲームセンターもカラオケも、初めて行く場所みたいだった。ぼくは普段絶対やらないパンチングマシンに挑戦したし、ウルフルズは封印して、スピッツのチェリーをうろ覚えで歌った。
お互いに少ない小遣いではどう足掻いてもカラオケ代をねん出できなくなった頃、千佳は「そろそろかな」と言った。ぼくはカラオケボックスの壁掛け時計ではなく、左手首にはめた腕時計で時間を確認して「うん、いいんじゃない」と返す。時刻は三時過ぎ。千佳の母親の仕事は五時で終わるらしかった。
「あ、そうだ、付いてくる? 母っちゃんの仕事、魚の加工だから、切れ端とか貰えるよ」
魚介類は、というか昔からあまり海が好きではなかったが、それでもぼくは「じゃあ、うん」とうなずく。「魚好きだし」という余計な一言まで付け加える。
市内の中心を流れる閉伊川の川岸を自転車で走り、海に突き出した埠頭の水産加工場前で止まった。千佳は「ちょっと待ってて」と言い置いて、小走りで加工場内に駆けていく。すぐに戻ってきた。千佳はごめんと両手を合わせて、心底申し訳なさそうに言った。
「母っちゃん残業みたい。六時くらいまで終わらないって。切れ端、それからじゃないと貰えないって。どうする? 待つ?」
正直魚の切れ端なんてどうだってよかったのだが、ぼくは「待とうかな」と言う。加工場前でダラダラしていてもしかたがないので、どちらからともなく自転車を突いて歩き出した。船着き場には大漁旗を掲げた漁船が数えきれないほど並んでいた。列が途切れた所では、キャンピングチェアに座った人達が釣り糸を垂らしていた。
「どうしよう、暇だよね」
「うーん、まあ」別にあてもなく歩いているだけでぼくは十分だったが、そう言うのも気恥ずかしい。「何かする?」
「って言っても……あ、釣りとかどう?」
思わずゲッと言いかけた。千佳の中のぼくは、海産物好きという設定になっている。
「俺」ぎこちなく発せられた俺が、夕陽で染まった海面に落ちた。「俺、釣りはやったことないけど」
「ほんと? じゃあやってみようよ」
「でも釣り竿とかは」
「それは貸してもらえる」
千佳は自転車をUターンさせると、再び加工場に向けて歩いていった。サイドスタンドを立て、すぐに釣り竿を二本と、バケツを手に戻ってくる。
誘っただけあって、千佳の腕前は確かだった。生餌ではなくルアーだったのも影響していたのだろう。ぼくの糸はピクリともしなかったのに、千佳は次々と釣り上げ、バケツは瞬く間に魚でいっぱいになった。魚は見るからにグロテスクだったから正直釣れないことに安堵していたのだが、一匹も釣果がないというのは、それはそれで悔しい。
「どうしてそんな上手いの」
うんともすんとも言わない釣り竿を睨みながら言うと、ルアーを海目掛けて振り投げていた千佳は得意げに答えた。
「父っちゃんが好きでよくこっちには来てたから」
「父親と一緒にやってたんだ」
「うん、最近はあんまりだったけど」
「なんで?」
「あー、死んだから」
海面を走るさざ波すら止まったような気がした。軽い口調が、父親の死をもう克服しているからなのか、努めて明るく振舞おうとしているからなのか、その時のぼくにはわからなかった。
「……ごめん」
背後からぼくたちを暖めていた夕陽が沈もうとしていた。隣に座っていた男女の釣り人がはしゃいだ声を上げた。その声に負けないくらいの大きさで、千佳は「私こそごめん!」と謝った。
「そういうつもりじゃなくて。とにかく心配しないで。母っちゃんと二人も楽しいから」
「うん」
「そういえばその、ユウちゃんちは何人家族なの? 兄弟とか」
「俺んちは」
言いかけた時、手元にぐっと重みが伝わった。えっ、と思う間もなく、体が引っ張られる。「かかってる!! かかってるよ!!」と千佳が叫んだ。そういう千佳だって、必死にルアーを巻きながら、自分の獲物と格闘していた。
「奥!! 奥に巻いて!!」
奥!? 奥ってどっち!? と頭が真っ白になる。海の方? それともぼくの方!? 試しに回してみたがやたらと硬い。とっさに手を離すとリールがくるくると回って、千佳が悲鳴を上げた。
「逃げられるって!」
それは嫌だと、先ほどまでグロテスクに感じていたことなど忘れてハンドルを再度掴んだ時、ズルリと嫌な感覚がした。堤防を踏み違える自身の右足が見え、千佳が本物の悲鳴を上げて、黒々とした海が迫り、魚の鱗が灯台の明かりを反射して、けれどすんでのところでぼくの体は止まる。ぐっと首が締まった。尻がコンクリートに擦った。ぼくを堤防に引きずり上げた誰かは、ぼくが離さずにいた釣り竿に手を添え、「まだいけっぞ!」とリールを巻く。
先ほど灯台の明かりを反射した魚が海面近くをのたうち、尻尾が飛沫を跳ね上げた。ぼくはあたふたと立ち上がり、夢中になってハンドルを回しながら、チラリと後ろを窺う。ぼくと同い年くらいの男が居た。もうハンドルからは手を放している。坊主頭で筋肉質で日によく焼けていて、どこかで見たことがあるはずなのに思い出せない。
「タモタモ!!」
男が発したその声で、ぼくは魚を釣り上げたことを知る。糸の先でもがく魚は、思わず悲鳴を上げそうになるほど大きい。ぬめぬめとした茶褐色の体はまるで岩みたいで、つぶらな瞳とのギャップが気持ち悪い。けれど自分で釣り上げたというだけで、なぜだが少し誇らしかった。男は千佳から受け取ったタモで魚を掬い取ると、うらやましそうな顔をした。
「アイナメだな。こりゃあ大物だぞ」
「しかも美味しいんだぁこれが」
少しだけ鼻にかかった声の、茶髪の女子がいた。何の躊躇もなく魚に近づき、タモ越しにえいえいと指でつつき始める。パーカーを着ているからわかりにくいが、膝上丈のスカートはぼくたちの高校と同じだ。くしゃくしゃになった白いソックスは膝下の半分くらいしか覆っていなくて、寒くないのだろうかと思ってしまう。
いや、そんなことよりもお礼だ。もし助けてもらってなかったら、ぼくは今頃海に落ちていた。想像してゾッとする。春の海は死ねるほど冷たいし、そもそもぼくは泳げない。
「助かったよ、ありが――」
けれどそれを女子が遮った。ぼくと千佳を見て、「あれ?」と首を傾げた。
「オナコウじゃない? 1Bだよね?」
それがタッちゃん、カエデとの出会いだった。
5
目が覚めても夜だった。まるで昨日の夜と地続きのように、窓の外は藍色の空気に満たされている。いつ眠って、いつ起きたのかまるで覚えていない。頭の芯が麻痺したように、ぼうっとする。のろのろと半身を起こして、ぼくは側頭部を拳で叩く。
最近色々なことがあやふやだ。未だ治りきらない鬱病のせいか、あまりにも長く寝ているせいか、あるいは両方か。見ていた夢を現実だと勘違いしそうになったり、逆に、現実で確かに起こったことすら、夢の一部であるような気がしてくる。
日没を迎えてまだ間もない部屋は、呼吸すらはばかられるほど、深く張り詰めた夕闇に満たされていた。
畳には千佳のパジャマがまるで蝉の抜け殻みたいに転がっている。ポールハンガーには会社の制服数着と、パーカーが一着。昔はもっと服を持っていた気がする。と言っても、カエデと違って千佳はあまり洋服に頓着しないタイプだったから、それほど数は多く……。そこまで考えてからぼくは頭を抱える。いや、どうだったろう。一番お洒落に敏感だったのはタッちゃんだったような気もしてくる。タッちゃんは漁師の息子で、休日は漁を手伝う代わりにお小遣いを多めに貰っていて、だから服も結構……いや、服よりもアクセサリーが好きだったんだっけ。
霧だ。ぼくの頭には霧が満ちている。鬱を発症してからの記憶だけでなく、以前の記憶すら、霧の向こうに遠のいていく。ぼくはがんがんと頭を殴り付ける。風鈴がユラユラと揺れながら、震えるような高音で鳴く。
「記憶ってのは頭ん中にあるもんだからな。魂じゃなくてな。残酷な話だが」
その夜、製作所で親方は、星掛けの準備を進めながらぼくの相談に乗ってくれた。
魂。親方にしてはスピリチュアルな表現だが、要は心だ。鬱病は心の病と表現されるが、実際は脳の病だ。病んでいるところは同じなのだから、記憶にだって影響を与える。そう言いたいのだろう。
星が入ったタライを手に、ぼくたちは庭に出る。広大な敷地の端の方に設けられた、コンクリート製のシェルターにも似た建物に向かう。蒸し暑い空気が足元の辺りに淀んで溜まっているのがわかる。どこかぐったりとした芝生が、踏みつけられてくしゃりと鳴った。
「どうにかならないんでしょうか」
「どうだかな。オレは専門家じゃねえからな。みることくらいしかできねえ」
「医師免許を持ってるなんて知りませんでした」
「なんの話だよ馬鹿。オレがそんなもん持ってる顔に見えんのか」
「いえ、まったく」
「殴られてえのか手前は」本当に殴りかけて親方は、ぼくがタライを持っていると気づいたらしい。ギリギリで踏みとどまった。「まあ、あれだ」
「あれ?」
「思い出し続けるしかねえんじゃねえか。ほら、ボケだってそうだろ。仕事辞めた途端、進行するってえのはよく聞く話で、つまり使い続けるのが大事なんだな」
「脳みそを」
親方は神妙な顔で一呼吸置いた。「そうだな、脳みそを」
建物に入り、マスクとゴム手袋を着けて作業を開始する。機械の電源を入れると、斜めになった巨大な釜がゆっくりと回転し始める。次に、トロを投入する。トロとは、様々な光を生み出す化学物質が調合された粉末に、水を加えて泥状にしたものだ。次に星を入れ、水分を含んだ表面に少しずつ火薬をまぶしていく。火薬は星に付着して、徐々に星を大きくしていく。といっても一日で大きくできるのは、せいぜい0.5ミリなのだが。地味で、慎ましく、けれど何よりも大事な作業だ。
カラコロ、カラコロと、回転窯の中で星が軽やかな音を立てる。ヘラを使ってかき混ぜながら、時々星を手に取って火薬の付着具合を確認する。多く付けすぎると中まで乾燥しないので、注意が必要。と言っても明確な基準はなく、頼れるのは自身の経験だけだ。
「集中しろよ」腕を組んだ親方が、釜を睨みつけている。「一度の失敗でパァだ。青の花火ってえのはただでさえ難しいんだからな。ちょっとでもヘマしてみろ。俺が引き継ぐ」
「わかってますよ」
一色の花火というのは当然存在しない。時間の経過で色が変化するが、それは燃えると特定の色を発する火薬を、何層にも重ねているからだ。どんな化学物質を、どう調合して、どの程度掛けるか。プレビューなんてできない。計算はすべて、頭の中で行われる。
青の花火。夜空の群青に負けず、菊の形に鮮やかに炸裂して、しかし溶けるように消えてしまうと、幽遠な余韻を残す。そんな花火。構造は四層で、それぞれに意匠の違う青を採用する。一年と少しの休職期間があろうと、頭の中に霧がかかっていようと、設計図は体が覚えている。
いい具合だ、と指先が判断したら、星をタライに上げ、木枠に移して、サウナのように暑い乾燥室に置く。本当は天日干しが良いのだが、夜に作業しているため仕方ない。
初日に親方と会った建物――第二作業場に戻り、ぼくは夜露だけを吸う昆虫のように、じっと時間が過ぎるのを待つ。壁掛け時計の秒針の音が、やたらと大きく聞こえる。八時二十分。ぼくの右手首にはまる壊れた腕時計は一時四十分。親方はスルメを噛み切り、日本酒をすする。
時折乾燥室に顔を出し、乾いていたら再び回転窯に持っていく。眠気の限界を迎えて親方がうたた寝を始めても、ぼくは黙々と作業を繰り返した。
終電に合わせて製造所を出る。
青堀駅のベンチに座り、半月によって白々と照らされたホームを見つめた。上りと下りで一線ずつ。ラッシュ時を除けば一時間に一本程度の時刻表は、空白が多くて少し寂しい。
ふと思う、ぼくたちの町に似ていると。あの町だって、似たようなものだった。
6
釣りをきっかけとして出会ったぼくら四人は、それからもことあるごとに集まるようになった。集合場所はあの堤防だ。
タッちゃんもカエデも釣りが好きだった。そもそも、ぼくが千佳と釣りをしていた時、横で釣りをしていた二人組がタッちゃんとカエデだった。ちょっとした勘違いから海産物好きにされてしまったぼくは、以降も度々釣りに誘われた。夏とか海とか、そういうキラキラしたものが少し苦手なぼくとしてはあまり嬉しくなかったのだが、お金をそれほど必要としない遊びが貴重なのも事実だった。通信カラオケは当時世に出たばかりで、扱っている店舗は少なく、今と比べて利用料が高かった。ゲームセンターは言ってしまえば、金を吸い込む沼だった。
一か月、二か月と時が過ぎ、タッちゃんやカエデのおかげでクラスメイトとも話せるようになってきた最初の夏。海は、好きか嫌いかは別として、ぼくらが出会った特別な場所だった。だから、誰が言いだしたかは忘れてしまったけれど、海水浴に行こうという話になったのは、自然な流れだった。
「海が苦手なんだ」
ぼくは反対した。学校の廊下だったのを覚えている。
「釣りは好きだよ」嘘だ。「魚とか食べるのも好きだよ」今更訂正はできない。「だけど、泳ぐのはあんまり」
三人は困ったように顔を見合わせた。海大好き元気っ子達めとぼくは憤慨する。
「まあ、お盆を過ぎればこの町は秋になるし」誰かが言う。
「そう、それもあって」ぼくは、しめた、と同意した。「だからぼくは海が苦手なんだ。海は漁をする場所であって、泳ぐ場所じゃない。夏とか海をありがたがってるやつの気持ちがぼくにはわからない」
「泳げないからじゃ?」煽ってきたこれも誰だろう。
「ちが……っ! わないけど……」
「まあとりあえず行こうぜ。千佳ちゃんの水着も見えるぞ」声を落としてそう言ってきたのは、間違いなくタッちゃんだ。
「じゃあ次の休みな」
ぼくは顔を熱くさせながら渋々うなずく。それは、ズルくないか?
そうして迎えた休日は、悔しいくらいに晴れ渡っていた。太陽は今にも爆発しそうなほど眩くて、入道雲は見上げると首が痛くなった。堤防に沿って走る自転車が、カラカラとタイヤの音をさせていた。Tシャツは汗でじっとりと濡れ、ペダルを漕ぐサンダル履きの足が、日射でヒリヒリと痛んだ。
砂浜に着くと、ぼくたちは防波堤に自転車を立てかけ、我先にと海に飛び込んだ。海が楽しみだったわけではない。暑いからだ。これ以上地上に居たら死んでしまう。岩手の海は夏だというのに冷たかったけれど、熱射病直前にまで追い詰められた体には丁度良かった。浅瀬を中心に、ぼくと千佳は水を掛け合って遊んだ。ジョーズのように近づいてきたタッちゃんがぼくの足をすくい、ぼくはまともに塩水を飲んだ。
「ノーデリカシー!」
カエデが吠え、タッちゃんの坊主頭を掴んで水底に押し付けた。タッちゃんがガボガボともがいた。ぼくは笑った。
内心期待していた水着は、ろくに拝めなかった。千佳も、ついでにいえばカエデも、水着の上にTシャツを着ていたからだ。下半身もジーンズ生地のハーフパンツだった。けれど別に良かった。そんなこと気にならないくらい心が弾んだ。友達と行く海がこんなに楽しいものだなんて知らなかった。山育ちで、海なんて数えるほどしか行ったことがなかったから、きっとひがんでいたのだと思う。泳げないのは事実だけれど。
遊びが一段落すると、体力が無尽蔵のタッちゃんとカエデは、競争すると言って深みまで泳いで行った。ぼくと千佳は砂浜に座り、二人の様子を笑いながら見守った。辺りは小さな湾になっていて、少し先には岩ばかりの小島が見えた。点ほどの大きさになった二人は小島に上がると、ぼくたちに向かって手を振った。青藍の海で無数の光が躍っていた。雲の形の影が、ゆっくりと動いていた。
「最近知ったんだけど、カエの茶髪ってただの脱色らしいよ、塩素の」
体育座りの膝に顎を乗せて、千佳が言う。
「ああ、水泳部だもんね」
「いいなあ、泳げるって」
「千佳も泳げないの」
「そ、ユウちゃんと一緒」
「ふうん」
見つかったささやかな共通点を意識すると、急に千佳のTシャツの下が気になり始めた。Tシャツが濡れて張り付いた胸のふくらみと、うっすら透けた水着。慌てて目を逸らすと今度は、その横顔に視線を吸い寄せられた。すらりとした顔のラインと、艶やかに日光を弾く黒髪。直毛ではなく、毛先がかすかに波打っていて、きっと指を通すとわずかに引っ掛かるのだろうなとか、そんな馬鹿なことを考えてしまう。
今度こそ千佳から視線を外した。太陽のせいだけではない顔の熱さを感じながら、ぼくはふと思った。もしかして、タッちゃんとカエデは、ぼくと千佳を二人きりにしてくれたのではないか。二人は小島の周辺を泳ぎ続けていて、一向に帰ってくる気配がなかった。でも、だからといって、ぼくに何ができるというのか。
千佳のことを頭から追い出そうと努めていたから、千佳がポツリと零した言葉を聞き逃しそうになる。
「私、引っ越しするかも」
「え?」
この時のぼくは相当マヌケな顔をしていたと思う。目を丸くし、口をだらりと開けて、動揺を悟られないように頬を強張らせていただろう。
引っ越し? どうして? どこに?
「あ、その、今すぐって話じゃなくて」千佳はぶんぶんと首を横に振った。「父っちゃんが死んじゃったって言ったと思うけど」
ぼくは固まった顎を引いてうなずいた。
「それで母っちゃんが一人で私を育ててくれてるんだけど、やっぱり色々大変みたいで、それで母っちゃんは元々こっちの人じゃなくて、向こうに家があって」
あの時、千佳もまた動揺していたのだろうか。言うつもりなどなかったのに、つい弱音を吐いてしまったのかもしれない。説明は支離滅裂で、要領を得ず、必死に頭で整理して、それで、知った。
千佳の母親は茨城出身だった。旅行会社で働いていたが、仕事先の宮古市で千佳の父親と出会い、こっちに嫁いできた。千佳を産み、けれど二年前に夫を亡くし、女手一つで育ててきたが、金銭的にも精神的にも限界を迎えている。近いうちに実家に帰りたい。時折そう零すらしい。
「いつ頃……?」
「わかんない。でもたぶん、来年には」
「茨城か。釣りできないね」
「そうだね。それに……」
千佳はつと顔を横向けた。夏空の色に染まった瞳がじっとこちらを見つめてきた。原石のような硬さと輝きを纏った瞳が、訴えかけるように揺れていた。揺れる瞳の意味を――奥に隠れた感情を読み取りそうになって、ぼくは慌てて立ち上がった。
「遊ぼう」
「え?」
「遊びまくろう。一生分遊んでさ。それで茨城行けよ。付き合うから、毎日、何時までだって構わないから」
千佳が目を丸くする。精一杯なのであろう微笑みを浮かべて、少しだけ寂しげに「ありがとう」と言う。
「じゃあ泳ぐよ。浅瀬しか無理だけど、ヘットヘトになるまで泳いで、そのあとはコンビニで花火とお酒買って、それで、それで」
言葉は続かない。喉と瞼に熱く込み上げてくるものがあって、ぼくは目をぎゅっと瞑る。
「私たち未成年だよ?」
そう言う千佳の声も潤んでいる。
その夜、ぼくたちは花火を見た。
日が暮れるまで海で泳ぎ、コンビニで一人一缶ずつ買ったお酒を飲みながら手持ち花火をしていた時、背後で空気の震える音がした。薄闇の空がパッと明るくなり、花火が煌びやかに広がった。
ぼくたちの町に花火は上がらない。毎年この時期に隣町で開かれる花火大会にぼくは一度だって行ったことがなかった。汗だくになって自転車を漕いで、花火だけを見て帰る。そんなの何が楽しいのかわからなかった。
あの夜、見に行こうと言ったのは誰だったのだろう。千佳? タッちゃん?カエデ? いや、それともぼくだったのか。今となっては思い出せないけれど。
今でもそう、一つだけ。
自転車を漕ぐぼくの隣に並んだ千佳の、なびく髪、横顔、瞳の中で広がる花火。
それだけは、それだけは。
7
部屋に帰る。もう何度帰っただろう。
色が抜けた革靴を脱ぎ、キッチンの板の間を音もなく踏んで、畳に湿った足跡を残しながら、ぼくは会話なんてほとんどなくなってしまった居間に入る。
千佳はじっと佇んでいた。タンスの前に立ち、こちらに背を向けて、わずかに俯いている。リィンと、風鈴によく似た、けれどもっと高音で、心が震えるような音がする。
千佳がタンスの前から離れ、畳に座った。タンスには茶色くて四角くて小さい、木箱みたいなものが置かれてある。なんだろう、見たことがない。千佳は座卓の上の買い物袋から、弁当と刺身のパックを取り出した。
「また刺身?」
笑いながらぼくは対面に座る。千佳は顔こそ上げたものの返事はせず、パックの蓋に刺身醤油を流し入れた。
「今日も星掛けをやったよ」
聞いていなかろうが構わないと、ぼくは喋る。
「あと一週間もすれば終わると思う。まあそこからも長いんだけど」
いつから、と思う。いつからぼくたちはおかしくなったのだろう。明確なきっかけなんてたぶんなかった。鳴きもせず木の幹にしがみつくばかりだった蝉が、ある日唐突に落下して歩脚を晒すように、ぼくたちは終わった。それなのに、それがわかっているのにぼくは、未練たらしく足掻いている。意味のない言葉が部屋に積み重なっていく。
「一緒に、花火見に行った時のこと覚えてる?」
千佳がテレビを点け、刺身を口に運ぶ。
「タッちゃんの自転車がパンクしてさ。それであいつ、むちゃくちゃパニクって。俺の、俺のなんとか号がーって。なんだっけ、ほら、自転車に名前つけてたでしょ。すげえダサいやつ。誰が聞いてもドン引きするような……」
どうしても思い出せない。それで、タッちゃんはどうしたんだっけ。どうやって花火の現場まで行ったんだっけ。知り合いの軽トラが停まってくれて、荷台に四人で乗ったような気もするし、カエデの自転車に二ケツしたような気もする。いや、そもそもぼくたちはあの日本当に花火を見たのだろうか。別の日か、次の年か、あるいはすべて夢だったのかもしれない。
両手のひらに汲んだ水が指の隙間から零れていくように、記憶は徐々に薄まって、何もかもがあやふやになっていく。
「なんだっけ、どうしたんだっけ、ねえ千佳……」
いつの間に持ってきたのだろう。千佳は小皿に刺身を取り分けていた。小皿を手に持ち、腰を浮かしかけてから、悲しげに目を伏せる。
「ごめん」
「え?」
「ユウちゃん、本当は魚嫌いだったよね」
ようやく話しかけて貰えたと躍った胸が、困惑ですぐに落ち着きを取り戻す。今はそんな話しはしていない。
まあでもいい。一緒に食べようと刺身を買ってくれたことや、話しかけてくれただけで、十分救われる。海産物が苦手なのを忘れていたのは少し寂しいが、大した問題じゃない。
「嫌いだけど、そもそもいいよ。最近あんまり食欲ないし」
「私、最近ご飯も炊かないから……」
「大丈夫。ほんとに。気にしないで」
自分の食事は自分で用意する。この一年はどうだったか覚えていないが、以前はずっとそうしていたはずだ。
「ねえ、それより千佳、あの日、タッちゃんは」
たぶんぼくは、タッちゃんの自転車の名前なんてどうだってよかった。ただぼくは、今の関係がどれだけ壊れていようと、かつて、確かに、かけがえのない時間を共に過ごしたのだ、という証明が欲しいだけだった。
「千佳……」
千佳は顔をくしゃくしゃにさせ、机に突っ伏した。テレビが無感動な声で淡々と述べる。
「東日本大震災から一年と四か月。岩手県陸前高田市で津波に流されて行方が分からなくなっていた男の子の遺骨が見つかりました――」
「まだ見つかってないんだよね……」
千佳が涙混じりの声で言う。どちらのことだろうとぼくは思う。タッちゃんか、カエデか。配慮が足りなかった。二人の死で心に傷を負ったのは、ぼくだけじゃない。
ぼくはぎゅっと目をつぶる。訪れた暗闇に情景が浮かぶ。寒空、枯れた木々、山に積もった雪。そして防波堤を乗り越える、海。濁流と瓦礫の塊が迫り、大口を開けて何かを叫ぶタッちゃんとカエデを飲み込む。
やめろ、とぼくは己を律する。ぼくはあの日、千葉に居た。自分勝手な妄想で自傷するのはやめろ。
千佳のすすり泣きが聞こえる。ぼくは千佳の肩を抱き、傍に寄り添う。夏なのに、夏のはずなのに、ぼくの体は今にも凍えそうになっている。
8
製造所に通い始めて何日か経った頃だった。あいかわらず星掛けをしていた時、親方がふと言った。
「手前、なんで花火師になろうとしたんだっけか」
「一度話し」たでしょう、と言いかけて不安になった。ぼくもう自分の記憶に一切自信を持てない。「ましたよね?」
ぼくは星に火薬を振りかけながら、声だけで問いかける。
「聞いたような気はする」
「しっかりしてくださいよ」
最初の夏、砂浜で『引っ越しするかもしれない』と言った千佳は、それから一年後、本当に宮古市を去った。お盆の時期、確か雨の朝だった。母親が勤めていたという加工場の屋根の下で、千佳はぼくたちに別れを告げた。
「いつかまた会えるよ」
そう言って千佳は傘を差した。言いたいことも言うべきことも山ほどあったのに、一つも言葉にならなかった。タッちゃんとカエデが散々気を利かせてくれたのに、ぼくと千佳は少しも進展していなくて、だから今更何か言えるわけがなかった。
ただ、それでもぼくは、勇気を振り絞り、千佳の目をまっすぐに見据えて宣言した。
――大学は、東京に行くから。
「泣けるねえ」
親方がからかう。ぼくは肩をすくめた。
「だけど、上手くいかなかったんですよ。親が許してくれなかった。親の知り合いが盛岡にある会社の支社長やってて、そこに就職させるってのがほとんど決まってて。どうしてもって言うなら、東大くらい受かってみろって。それなら認めてやるって。頑張ったんですけどね、でもダメだった。約束を守れなかった申し訳なさで、千佳とも連絡取らなくなって、盛岡の会社に営業で就職して、でもそれから三年後かな。東京の本社に移動になった。それからすぐですよ、千佳と再会したのは」
「連絡したのか?」
「いえ、偶然でした。たまたま入った牛丼屋で千佳がバイトしてて。一目で気づきましたよ。向こうも同じだった。お互いに仕事中だったからとりあえず改めて連絡先交換して、それで」
付き合った。ぼくは社会人三年目で、千佳は大学三年生。ぼくは高校生の頃よりも少し大人になっていたし、向こうも同じだった。相変わらず時間はかかったが、それでも着実に関係を前に進めるくらいの甲斐性は身に着けていた。
「で、それがどう花火と繋がるんだ?」
「簡単に言っちゃえば、病んだんですよ、ぼく」
ぼくは自分で言うのもなんだが、営業の成績がそこそこ良かった。営業なんていうものは、無数のマニュアルを臨機応変に組み合わせて、人となりが良いように見せかければ何とかなる。結局のところ、客は商品ではなく売り手を買うのだ。そんな風にぼくは、言ってしまえば驕っていた。
「井の中の蛙でした。ぼくが営業でそれなりに成績良かったのは、盛岡だからでした。都会って言ってもやっぱ田舎ですからね。話聞いてもらえるし、こっちも肩の力抜けるし。でも東京は違った。まず話を聞いてもらえない。それどころか態度も冷たい。一年頑張ったんですけどね、二年目に限界が来て。そんな時でした、親方の花火を見たのは」
仕事で悩み、口数も食欲も少なくなっていたある日、千佳が半ば強引にぼくを花火大会へ連れて行った。しかも普通の花火大会ではない。競技花火大会と呼ばれるもので、何店もの煙火店が技術の粋を集めた花火を持ち寄って出来を競う。当然その花火は、採算を度外視した、芸術性に偏ったものとなって……。
あんな花火を見たのは初めてだった。ダイナミックな音楽と共に、水平線近くから緑色の火花が断続的に吹き出し、桜の花びらにも見えるピンクの花火が弾ける。七色の光が魚のように夜空を泳ぎ、小ぶりな赤光が煌めいたかと思えば、その光は星のように空中で留まる。音楽が激しさを増すにつれて花火の量は増え、規模も大きくなっていく。
牡丹が次々と咲いた。金色の柳が夜空一面を覆いつくした。滝のように光が落ち、水面に反射した。そして最後に、青と赤が組み合わさった花火が幽遠な余韻を残した。
「圧巻でした。凄まじかった。それでぼく、気づけば泣いてたんです」
「感動で?」
「それもあります。でもどちらかというと……」
ぼくは釜から星をタライに移す。星はいつのまにか二回り大きくなり、色も白から黒に変化している。
「思い出したんですよ。故郷の青のこと。空の色、海の色、青春の色……。親方の花火見てるとそれらがぶわって蘇ってきたんです。不思議なもんですよね、昔は海なんてあまり好きじゃなかったのに、大人になって、変わり映えのしない毎日を送ってると、不意に、ああいいなって思うんです。あの頃は良かったって。それでぼく、泣きながら言っちゃったんです。作ってみたいって。ぼくたちの町の青を再現してみたいって。そうしたら千佳が、仕事やめたら?って言ってくれて。いや、ぼくが先に言い出して千佳が背中を押してくれたのかな。とにかく、気づけばここの門を叩いてました」
「なるほどな」
神妙にうなずいた親方へ向かって、ぼくは問いかける。
「あの、ぼくほんとにこの話ししてません?」
「どうだかな」
親方は星を一つ摘まみ、老眼鏡をかけてじっと観察した。決して褒めはしない。昔からそうだ。ただわずかに目を細め、何も言わずに星を戻す。それでぼくは、仕事を成し遂げたことを知る。
「足場ってのはたまに踏み固めなきゃな」
「はぁ」
「明日からは玉込めに移るぞ」
玉込め。星を火薬玉に詰めていく作業。親方はぼくの背中を励ますように叩き、けれどすぐに声を凄ませた。
「気抜くなよ。安心が人を駄目にするんだ」
そうだ、とぼくは気を引き締めた。
絶対に完成させる。青い花火をこの世に誕生させる。
そのために、ぼくは、戻ってきた。
9
広大な農地沿いの夜道を、ぼくは駅に向かって黙々と歩く。電柱の街灯が青い稲を闇に浮かび上がらせていた。カエルの鳴き声が波濤のように轟き、時折、チャポンという水音が混ざる。
製造所で引き締めたはずの気が、一歩歩く度に緩むのを感じた。
もうすぐ、想像が現実になる。魅了されて以来追い求めてきた青い花火。けれど親方の作品の模倣ではなく、ぼくなりの理想の花火。今年も開かれる木更津港まつりの花火は既に親方が製作しているだろうからぼくの花火を打ち上げることはできないが、それでも別にいい。ぼくは作ることさえできればいい。作って、それで……。
不思議なものだ。完成が見えてくると、途端に欲が出てくる。せめて千佳にだけでも見てもらうことはできないだろうか。そうだ、星を一つ持って帰ればいい。大輪の花とは言えないが、青い火花は楽しめるはずだ。バーナーで少し離れたところから点火すれば危険もない。
歩速が自然と早くなる。カエルの鳴き声がぼくを祝福するように囲む。
ぼくの作品を見れば、きっと千佳も機嫌を直してくれるに違いない。以前のような関係に戻るのは難しいかもしれないが、会話くらいは復活するはずだ。そこからまた始めればいい。
青堀駅の構内に入り、スーツの胸ポケットからSuicaケースを取り出す。製造所に行っていたはずなのになぜスーツなのだろうと思ったが、気にしない。そんなことはどうだっていい。左手でパネルにタッチする。体が無理な姿勢にねじれて、思わず転びかけた。以前は改札で手間取ったことなんてなかったのに、どうやら相当浮かれているらしい。ピッと電子音が鳴り、改札で転びそうになる人なんて珍しいのだろう、駅員が怪訝そうにこちらを見た。
木更津駅で降り、早く千佳に朗報を伝えてやろうと、ぼくは小走りでアパートを目指す。息が上がるが、気分がいいのもあって少しも暑くない。足が軽やかに動くことをよく、足に羽が生えたようにと表現するが、あれは正しくない。まるで足なんてないみたいだ。
交差点を左折する。海の匂いがつんと鼻を突く。古びた住宅とトタン壁が見え、路地の果てにぼくらのアパートが姿を現す。
千佳がいた。背中を丸め、夜道をとぼとぼと歩いていた。
「千――」
喉が引きつる。頭が真っ白になって、急激に足が重くなり、眼前で光が弾ける。
男がいた。今にも肩がくっつきそうな距離で、並んで歩いていた。
10
ぼくは呆然と立ち尽くした。
始めに浮かんだのは、誰だ? という疑問で、次に、誰だっていいという怒りが、最後に絶望がひたひたと押し寄せた。みぞおちが、泥でもねじ込まれたように重たい。吐き気がする。足がいうことを聞かず、ぼくは道端の廃材に倒れかかった。
二人が歩いている。距離はあるし、暗いけれど、二人の様子は辛うじて伺うことができる。ぼくよりも十数センチは背が高い男は、軽く前かがみになって、なにやら熱心に話しかけている。それで、千佳は、千佳は。
胃がひくひくとし、口内が唾液で満たされ、ぼくは吐いた。首を圧迫するネクタイが苦しくて、強引に抜き取った。黄色い胃液が、木材の山を汚した。
千佳は、言葉を返していた。顔を上げ、相手の方を見て、口を動かしていた。会話、ぼくとはまともにしてくれない会話。笑っていなかったことを救いに感じる自分がみじめで、みじめで、みじめで、ぼくは自分でも理由がわからない笑い声を上げる。
二人が外階段を上っていく。二階の、海に面した部屋の扉を千佳が開ける。
千佳が振り返った。笑ってこそいなかったものの、やはり二言三言会話をして、軽く頭を下げた。男の手が伸びる。千佳の髪を、頭頂部から肩に掛けて撫でた。
見ていられなかった。ぼくはよろよろと体を起こし、少しでも二人から離れようと歩き出す。堤防の係留柱の傍で、ぼくは膝をついた。背後の路地から足音と、誰かと電話している様子の男の声が聞こえる。どうやら千佳は男を部屋に上げなかったらしい。でも、だからなんだというのだろう。一緒に帰って、家まで教えて、頭まで撫でさせて、それはつまり――。
ぼくは笑う。そうだよな、最近ずっと帰りが遅かったもんな。今日は星掛けがようやく終わったからたまたま早くて……ああそうか、じゃあこれはたぶん、初めてじゃない。
船底にぶつかっては散る、規則的な波の音が聞こえる。
何度もここで釣りをした。堤防に腰かけて、内港に迷い込んできたハゼやカレイやスズキを狙った。幸福な日々だった。けれど思えば、その釣り竿すらいつのまにか部屋から消えていた。捨ててしまったのだろうか。タッちゃんやカエデが死んでしまったから、あの町に関するものをすべて消そうとしているのだろうか、ぼくも含めて。
背後で気配を感じ、ぼくは緩慢に振り返った。人影がこちらに向かって歩いてくる。ユラユラした覚束ない足取りで、千佳がぼくの横に立った。砂浜で並んで海を見た時よりも少しだけ距離があって、その距離が今のぼくらの関係そのものに思える。
「ごめんね」
海を見つめ、ぎゅっと胸元を抱くような姿勢で千佳が言う。目元のメイクが落ち、頬では涙が黒い筋となっている。
「あの人は、なんでもないの。本当になんでもない。つらかった時期に相談に乗ってくれて、助けてはくれた。いい人なんだなとは思う。でも、ユウちゃんみたいに純粋ではなくて、自分の好きなものに一途ではなくて。だから、だから私、あの人の気持ちに応えるつもりはないから」
つらかった時期。タッちゃんとカエデが死んでしまい、ぼくが駄目になってからの日々。
千佳がこんなにも追い詰められていたなんて知らなかった。知ろうとすらしていなかった。もしぼくが、自分のことだけでなく、千佳のことを少しでも気にかけていたら何か変わっていたのだろうか。
千佳が下唇を噛む。二の腕をぎゅっと掴んだ左手の薬指で、金属質のものが月光を反射する。
婚約指輪。ああそうだ、これはぼくが贈ったものだ、確か去年の頭に。お互いの親へ挨拶はしたのだっけ。ぼくは親と断絶していて、いや、正確には、花火師になると言った時、一人前になるまで帰ってくるなと退路を断たれて。それで確か、二尺を任された夜に電話を掛けたのだ。千佳との婚約を告げて、帰省の日を決めて、それから、それから。
頭の奥に無数の針を刺されているような痛みが走る。霧はいつのまにか分厚い壁のようになって、頭の中を満たしている。後ろも前も見えない。過去は刻一刻と遠のき、未来すら、青い花火を絶対に作り上げるのだという目的意識すら、気を抜くと霧に紛れそうになる。
ぼくはぐっと涙をこらえる。情けない自分を、使い物にならない頭を拳で殴りつける。
「見せるから、青い花火! 打ち上げるのは無理かもしれないけど、星を一つだけ持ってくるぐらいは大丈夫だから! だから、待っててよ……」
今からだって遅くないと信じたい。男を帰らせた千佳の気持ち、千佳の中にわずかに残っているぼくへの気持ちに応えたい。
千佳が呻く。目を見開き、唇を震わせ、次の瞬間、落ちたメイクすら洗い流すほどの勢いで、涙がボロボロと溢れ出す。
11
回転台に乗せた幅24センチの半球の容器、
花火職人の世界では盆と呼ばれる形の花火が最も美しいとされる。言ってしまえば真球で、そして真球を成し遂げるには星を左右対称で配置しなければならない。数ミリの誤差もなく左右対称だ。たった数ミリの誤差が、上空では数メートルの違いとなって現れる。
ぼくはまるでトランプタワーを作るときのような心持ちで、玉皮を睨みつけ、呼吸を一定に保って星を置いていく。納得がいかなければ星を取り外し、また最初から。なんとか形になったら、
これで八寸玉の完成だ。二尺ではなく、八寸。二尺玉は入れ子構造になっていて、八寸玉を一尺玉に入れ、外側に同じように星を詰める。今度は一尺玉を二尺玉に、そして再び星を詰める、という作業を経て完成。八寸玉だけでも完成までおよそ二時間だ。途方もない時間と集中力が要求される。
八寸玉にぶつからないよう慎重に離れ、あぐらを掻いて強張った体の力を抜く。作業中は一切話しかけてこなかった親方が、日本酒をすすってから口を開く。
「それで、星が一つ欲しいと」
第二作業場に入った時に、ぼくは大体の事情を話してあった。
「はい」ぼくは玉込めをしていた時と同じように正座をする。「ダメでしょうか」
「駄目ってこたあねえんだけどな」
親方にしては歯切れが悪い。腕を組み、体を前後に揺らす。
「つらかった時期ねえ。そりゃあ大事な人間を一度に亡くしたらなあ」
「そっちなんですかね、千佳が最近おかしいのは。ぼくはてっきり、そのことでぼくがダメになってしまったからかと」
「手前、鬱なんだっけか」
「ええ」今更どうしたのだろう。そんなこと親方が一番知っているはずだ。「ぼくはそのせいで千佳が愛想を尽かしたと思ってるんですけど」
「手前、その子がそんなことで見限るようなやつだと思ってんのか」
「思ってはないですけど……。でも実際男と歩いてたので……。千佳はなんでもないって言ってましたけど、本当になんでもなかったら一緒に歩かないですよ」
親方が顎の肉を指で引っ張った。険しい顔で唸る。
「ぼくらはもう終わりなのかもしれません」口にすると、ズキリと胸が痛んだ。「でも、でもですよ、思うんです。ぼくが頑張ってる姿見せたら千佳も少しは見直してくれるんじゃないかって。まだどうにかなるんじゃないかって。なので、一つ欲しかったんですけど」
「だがらよ」親方がぼくをキッと睨んだ。少し苛立った風の濁声が鼓膜を揺るがした。「それはいいんだよ。好きなだけ持ってけよ。問題はそこじゃねえんだよ。手前、その子とどれぐらい話してんだよ」
きょとんとする。千佳とほとんど会話がないことは既に伝えてあった。酒のせいで忘れてしまったのだろうか。ぼくが固まっていると親方は「そうじゃねえよ」と低い声で言う。
「量だ、量。一日にどれぐらいなんだ」
「一回……とか」
「それは返事が返ってきてんのか? それとも向こうから話しかけてくんのか?」
「えっと、どうだろう。半々ぐらい……あの、何が言いたいんです?」
「いや……」
目を泳がせて親方は、衝動的な動きでカップ酒を掴む。ぐっぐと勢いよく飲んで、喉の灼熱感に悶えるように、かぁーっと酒臭い息を吐いた。
「まあ、気にすんな」
自分から深堀しておいて何なのだろう。親方はタオルで口を拭い、耳を覆いたくなるほど大きなげっぷをした。顔はもうすっかりと赤らんでいる。
ふつふつと怒りが沸いてきた。ぼくはこんなにも悩んでいるのに、親方がするのは無駄な質問ばかり。若者の恋愛の悩みなんて歳を取った人からすればどうだっていいのだろうが、だとしても酷すぎる。
「いいですよね。奥さんと上手くいっている人は」
嫌味が口を突いて出た瞬間、親方の表情が凍りついた。
「女房なら死んだよ」
「え?」
「ガンだ。去年だ。呆気なかった」
「それは……」知りませんでした。そう続けようとしてぼくは口をつぐむ。知りませんでした? そんなことありえるのか。
親方と同じくらい奥さんとは長い付き合いだ。煙火店は家族経営が多い。子供は店を継がなかったらしいが、奥さんはその分も親方を支えていた。玉込めや後に控える玉貼りという作業は基本的にパートさんの領分で、そのパートさんに仕事を教えるのが奥さんの役割だった。ぼくも昔から良くして貰っていて、なんなら玉込めや玉貼りの技術は奥さん仕込みだ。
その奥さんが死んだ? 去年? いくら部屋に閉じこもっていたとはいえ、奥さんの死を知らないなんて。頭痛がする。昨日、いやもっと以前だろうか、堤防で生じた頭痛と同じ痛みが、内側からガンガンと頭蓋骨を叩く。
「ぼくは……お葬式には……」
頭を利き手で掴み、痛みを抑え込みながらぼくは絞り出す。親方が「出てねえよ」と唸った。
「出れるわけねえだろうが」
それは、そうだ。この一年は酷かった。まるで海の底に沈んでしまったように、暗くて冷たい日々だった。真っ暗で、救いがなく、感じるのは絶望だけだった。ぼくがそこから浮上できたのは、青い花火を作りたかったという後悔で、それなのにすべてのきっかけとなった親方のことを、奥さんの死をぼくは知らなかった。
「すみません」
親方は何も言わない。目を瞑り、あぐらを掻いたまま、即念仏のようにじっとしている。眠ってしまったのだろうか。あれほど飲んでいたのだから仕方ない。いつのまにか痛みは引いていた。ぼくが諦めて、一尺玉の玉皮を取るため立ち上がろうとした時、ポツリと水滴を落とすような声が聞こえた。
「オレなぁ、店閉じようと思ったんだよな」
ぼくは腰を半分浮かせた体勢のまま固まる。親方は目を開けて、観音様もかくやというような笑みを浮かべていた。
「オレもいい歳だからなあ。女房もおっちんじまったし、二人いるガキはどっちも県外だ。店継がせようってやつもいねえ。いや、いたはいたんだけどな……」
「辞めた、とか?」
「まあ似たようなもんだ」
親方はふっと鼻から息を抜いた。
「臆病になんだよな。花火師って。荒っぽいやつがやるような仕事に思われがちだけどな。火薬扱うからよ、とにかく臆病になんだ。手前も心当たりあるだろ」
ぼくはうなずいて再び座る。青春時代、中々進展しなかった千佳との思い出が胸に淡い感傷を残した。
確かに、そうだ。花火師は慎重で臆病な人が多い。そしてこれは十中八九驕りだが、初めから慎重で臆病だったぼくは、花火師が天職だったのかもしれない、なんて。こんなこと口にしたら、絶対親方に怒られる。
「オレは臆病もんだ。天下の臆病もんだよ。女房なしでやってく自信がこれっぽちもなかった。星が上手く摘まめねえ。手が震えやがる。でもな、ふと思ったんだよな」
親方は相変わらず柔らかな表情で言葉を紡ぐ。
「あれ、何かわかるか」
親方は節くれだった職人の指を伸ばした。ぼくは親方の指が差す方向に目をやる。写真だ。額縁に収められて、壁に掛かっている。牡丹、菊、蜂、群蝶、柳、万華鏡、椰子。親方の半生が捧げられた作品群。親方はその中でも一番端に飾られた写真を指差していた。
二尺の菊だ。中心は薄桃、次に唐紅、紺青、千歳緑の四層構造で、同心円状に開いていた。形は見事な真円で、文句のつけようがない。四色も使っていて一見艶やかだが、一つ一つが落ち着いた色合いになっていて、全体で見た時のバランスが絶妙だ。
「これは……花火ですね」
惚れ惚れとしていたせいで、幼児でもわかるようなことを言ってしまう。親方は馬鹿にせず、少しも笑わず、淡々と返す。
「今年の春だ、あれを打ち上げたのは」
「春に花火ですか、珍しいですね」
「ほれ、あれだ、震災の」
ぼくはぐるりと首を巡らせて、親方を見つめた。
「鎮魂、ですか」
日本に数ある花火大会。その中でも三大花火大会に数えられるのが、秋田の全国花火競技大会、新潟の長岡まつり大花火大会、そしてぼくが初めて親方の花火を見た、茨城の土浦全国花火競技大会だ。そしてこの内二つ、新潟のものと茨城のものは、どちらも鎮魂の側面を持っている。前者は第二次世界大戦の空襲で亡くなった人々を、後者は航空隊の殉職者を。
昔から、そうなのだ。古来より炎は、不浄なものを焼き尽くし、闇を照らすと言われてきた。だからお盆に迎え火や送り火を焚くのだし、花火大会はお盆の時期に開かれる。
「元はそうなんだよなぁ」親方はしみじみと言う。「なのによ、女房が死んでからよ、毎日怖え怖え言いながら働いてるとな、そんなことも忘れちまってた」
親方は続ける。ゆっくりと、一言一言、言葉を両手で捧げ持つように。
「花火ってのは弔いだ。死んじまったやつがお天道さんのとこでゆっくりと過ごしてもらえるよう上げるんだ。そう考えると、辞めちゃなんねえって。打ち上げて、打ち上げて、打ち上げ続けて、オレがいつかお天道さんのとこいくまで、あいつらを楽しませなきゃなって」
もしかしてと思う。もしかして親方も、あの震災で誰かを失ったのか。親方は先ほど言った。跡継ぎがいたはいた、と。震災で亡くなったのが跡継ぎだったとしたら? かつての同僚の名を、いや、名前は既に浮かばないから、彼らの作品を頭に思い浮かべる。素晴らしい、ぼくなんかよりよっぽど。誰が跡継ぎ候補でもおかしくない。
どんな気持ちなのだろう。何十年もかけて高め上げた技術を惜しげもなく伝え、でもその弟子が死んでしまう気持ちは。ぼくなんかには想像ができない。途中で逃げ出してしまったぼくには。
花火の本質は鎮魂だ。それなのにぼくは、自分のためだけに青い花火を作り上げたいと願った。自分勝手な欲で作業場に押しかけ、親方を付き合わせた。
いつか、と思う。今すぐは無理でもきっといつか。自分のためではなく、親方の奥さんのために、タッちゃんとカエデのために、その死で深く傷ついた千佳のために、鎮魂の花火を上げたい。そして、一人になってしまった親方を支えたい。
「跡継ぎ……ぼくでは役不足ですか」
親方が深く笑う。「役不足の使い方がちげえよ」と、空になった酒ビンでぼくの頭をこづいた。
12
玉皮にクラフト紙を貼り付ける。こん棒で叩いて馴染ませ、床を転がして空気を抜き、台車で乾燥室に運んで、乾いたらまた同じ作業を繰り返す。
八寸玉を一尺玉に、一尺玉を二尺玉に、そうやって生まれた幅六十センチ、総重量七十キロの大玉を、ぼくは毎夜仕上げていく。終電で帰るなんて甘いことは言わない。乾燥室と作業場をひたすら往復し、親方がこっくりこっくりと舟をこぎ始めても構わず継続する。空が白み始めたらすべての電気を落とし、時には親方に薄手の毛布をかけて、ぼくは製造所を後にする。始発の電車は終電と同じく、数えるほどしか人がいない。
部屋に帰ると千佳は眠っている。眉間に皺を寄せ、幼い子供みたいに体を丸めて、ぎゅっと布団シーツを握り締めている。
玉貼り。花火製作における最後の作業。クラフト紙を糊で何層にも重ね、玉皮を包み込んでいくこの作業は、一見簡単そうに見えて奥が深い。
割薬の爆発力を何層ものクラフト紙で抑え込み、その反発力で大きく開かせる。当然、星が均等に広がるよう、貼る枚数には注意を配らなければならない。どこか一か所でも多ければ、あるいは少なければ、花火は真円にはならない。そもそも全体的に貼る枚数が少なければ、反発力は弱くなって、想定よりも星が詰まった花火になってしまう。割薬の量に対して適切な枚数のクラフト紙を。これもまた、経験がものをいう作業だ。
何層か貼り、乾燥室でカラカラに乾かし、また貼る。蒸し暑い風が庭から流れ込み、カエルの鳴き声と、親方のいびきが重なる。日本酒の匂いが、かすかに鼻腔をくすぐる。
何度夜を越えただろう。何度千佳の寝顔を見ただろう。
板張りに、重厚な二尺玉が、ある。
決して夜空に打ち上がらない花火。けれど完成させたくて仕方がなかった花火。思い描いたとおりの形になっているか確かめる術はないが、でも、分かる。記憶ではない部分から溢れ出してくる経験が、この花火の完成を告げている。
ずっと眠っていたはずなのに、親方が瞼を閉じたまま「終わったか」と言った。新たな花火の誕生を肌で感じ取ったのだろうか。相変わらずカップ酒を何本も飲んでいたのに、親方は二尺を見つめて、「ああ」と、酔いを少しも感じさせない声で言う。
それで十分だ。出来栄えを褒めたりなんか、親方は絶対にしない。これはいわば、去年の春に親方から課せられた宿題で、そして宿題とは、乗り越えられると信じているから出せるものだ。宿題を出してもらえたということが、ぼくにとっての称賛だ。
ぼくは、仕事場の風景を網膜に焼き付けるように、ゆっくりと見回す。飴色の板敷と溝にこびりついた汚れ。棚に収められた多種多様な道具。壁掛けカレンダーのバツ印は、いつのまにか八月十四日にまで書き込まれている。ここに戻って何日が経ったのか、一体どれほど前から作業をしているのか、まるで記憶がない。覚えているのは夏だったということと、千佳が風邪をひかないように吊るした風鈴の音色だけだ。
「明日は確か……港の花火大会ですね」
「あぁ」
「そろそろ寝たらどうです。朝から大忙しでしょう」
「そうだな」
「もしかして名残惜しいんですか?」これで終わりなわけがないのに。ぼくはきっと、この花火をきっかけに再び立ち上がれるというのに。
「そんなんじゃねえよ」
先ほどまで素面に見えていた親方が、急に弱々しくなる。口角が下がり、ほうれい線が濃くなって、肩が細かく震える。
「縄付けとけ」
「縄? なんのために?」
玉は筒に設置することで発射準備が完了するのだが、二尺玉は相当重いので一人では持ち上げられない。そのため、二人で持ち上げることを想定して縄をくくり付ける。でもこの二尺に限っては必要ないはずだ。なぜならこいつは打ち上げない。
「仕舞いやすいだろ、倉庫に」
親方はそれだけを言って顔を背けた。ぼくは釈然としないまま縄をくくる。
最後の作業を終えてからぼくは、色の抜け落ちた革靴を履いた。
三和土にまで親方が見送りに来てくれる。親方は厳つい顔で、ぶっきらぼうに握りこぶしを突き出してくる。とっさに伸ばした手のひらに、星が一粒落ちた。
「無駄かもしれねえがな。まあ持ってけ」
何が無駄かはわからなかったが、ぼくはうなずく。ハンカチで包み込み、スラックスのポケットに丁寧に仕舞った。
「明日、手伝いは」
「来なくていい。手前はゆっくり休め」
そうですかと出そうになった落胆の声を抑え込み、ぼくは「はい」と言った。もし、無理やりにでも来いと言われていたら、ぼくは行っただろうか。いや、そんなことは万に一つもありえない。親方がそこまで言うはずがない。ぼくはきっと、ろくな弟子じゃなかった。
「親方」
「なんだ」
「迷惑でしたか」
「何がだ」
「突然現れて、花火作らせて欲しいって言ったこと」
「どっちの話だろうな。最初か、二回目か」
「どっちもです」
親方がふっと笑う。
「ああ、迷惑だな。迷惑だったよ。いきなり弟子にしてくれだの言いだして、したらしたで勝手に技術盗んで、そんで今度は居なくなって。清々したって思ってたら、まーた来やがる。迷惑だよ、本当に」
作り物めいたしかめ面で、親方は言う。
「だがまあ、それなりの花火師にはなった。また作れよ。――でも」
親方の言葉すら霧に呑まれ、すべてがあやふやになる中で、ぼくは「はい」と声に感謝を込める。
13
終わった。ようやく終わった。
どうやって部屋に帰ったかは覚えていない。終電の時間はとっくの前に過ぎているはずで、歩いて帰るには遠すぎるのに、ぼくは気づけば部屋にいる。体に少しも力が入らず、ぼくはタンスに寄り掛かって、眠る千佳をぼんやりと眺める。風のない夜なのに、朦朧とする意識の中、風鈴の音だけが、絶えることなく聞こえる。
ふっと意識が途切れ、次に気づいた時、窓の外の闇は幾分か柔らかくなっていた。布団はもぬけの殻で、それでようやく自分が丸一日は意識を失っていたことに気づく。
一体何時なのだろう。千佳はいつ帰るのだろう。花火が完成したことを、青を生み出す星を貰ったことを報告しなければならない。右手首の腕時計に目をやってから、壊れていたことに思い当たった。スラックスのポケットから携帯電話を取り出し、真っ暗な画面の意味もわからず何度かボタンを押してから、ふと思う。
ぼくはいつから携帯を使っていないのだろう。もう随分と使っていないような気がする。そう考えてからすぐさま否定した。
いや、そんなことがあってたまるものか。だってメールとか電話とか、この一年と少し、あまりする気力はなかったような気がするけれど、それでも少なからず使用したはずで。
ぼくは這うようにして移動し、畳に伸びた延長コードのソケット部分に触れる。確かここに充電器を差していたはずだ。それなのに指はいつまで経っても充電器を探し当てない。そんなものどこにもない。ぼくは途方に暮れて、薄闇で満ちた部屋を見回した。
畳、座卓、ハンガーラック、引き戸の奥の台所。どこにもぼくの私物はない。布団は一つだけで、座卓には何も乗っておらず、ハンガーラックは千佳の衣服が数着だけで、食器棚には一食分の食器しか入っていない。
部屋、部屋が、この部屋には、部屋からは、ぼくが、ぼくの生活の痕跡が、一つも――。
叫びそうだった。知らないところにいるみたいだった。慣れ親しんでいたはずの場所が、急に酷く冷たい場所に感じられた。
ぼくは、ぼくは、いったい何をしていた? この部屋でどうやって生きてきたんだ?
後ずさる。足が何かに引っ掛かって派手に転んだ。ダンボールだ。それも三つ。わけがわからない。この部屋はなんだ。ぼくは玄関に飛び込み、革靴も履かずにドアノブを掴む。
どうして、なんで、まるで動かない。糊付けされたみたいにビクともしない。居間で、風鈴が、まるで嬲るように、ちりちりと、ちりちりと、ちりちりと。
崩れ落ちた。耳を塞いだ。
「千佳、千佳、千佳。たすけて」
迫る恐怖が一層容赦なく覆いかぶさった。微かな音がして、周囲がわずかに明るくなった。ぼくは差し込んだ明かりを追って顔を上げた。ドアを開けた千佳が、深いため息を吐きながら、しゃがんでパンプスを脱いだ。
千佳が帰ってきてくれた。助かった。安堵で泣きそうで、ぼくは思わず、ストッキングの脚にすがりついた。
「ただいま」
千佳が言った。ぼくには目もくれない。それなのに、声は誰かに向かって発しているような、確かな響きがある。千佳が玄関に上がった。少しも力を込めた動作ではないのに、ぼくの腕の中から千佳の脚がするりと抜けた。
ああ、と、絶望が、ゆっくりと化学変化をしていく毒のように、ぼくの内に広がる。
無視をしないで。お願いだから無視をしないで。それで、聞かせてよ。どうしてこの部屋には何もないのか。ぼくの物だけじゃない。君の物も、どうしてこれほど少ないのか。
衣服、食器、君がずっと好きだったはずの釣り、その釣り竿だってそうだ。この部屋は、この部屋はまるで空っぽじゃないか。
「ユウちゃん……」
千佳がぼくの名を呼ぶ。呼んでいるのに背を向けて、タンスに手を伸ばし、ずっと正体がわからなかった木箱のような物の観音扉を開ける。
ゆらゆらと煙が立ち始める。落ち着いた、けれど郷愁に胸を締め付けられる香り。線香の、香り。
鈴が鳴る。
「ユウちゃん……」
千佳が繰り返す。
中には写真立てが一つ。写って、いるのは――。
ぼくだ。
ひゅるひゅるひゅると音が鳴り、空気が震えた。
花火が、上がる。
カラフルな牡丹、太い花びらが次々と伸びる椰子、小さな菊が無数に弾ける千輪菊、光が不規則に駆け回る蜂。口笛のような音がし、夜空が瞬刻真昼のように照らされて、特大の菊がいくつも花開く。どぉん、どぉんと爆音が追いかけた。菊の花びら一つ一つが尾を引いて、鏡のように花火を映した海面に吸い込まれていく。
ぼくも千佳も窓の外に広がる花火から視線を外すことができなかった。親方の人生の結晶である、鎮魂の花火が夜空を彩っている。弾け、消え去り、また開くその繰り返しの度、部屋が淡く照らし出されて、再び幽冥に沈む。先ほどまで嵐の海のように荒れていた心が、静まっていくのがわかる。凪いだ心が、それこそ鏡みたいに記憶を映す。
「で、よーやく一人前になったわけだ」
いつの記憶だろう。防波堤に座ったタッちゃんが、分厚い雪雲と海を眺めている。短髪で、表情には自信が溢れ、ダウンジャケットの腕は一回り大きくなっている。その隣にはカエデが座っている。学生時代に比べると少しだけふっくらとした頬を、タッちゃんの肩に預けている。
「時間かかりすぎだよねえー」
相変わらず少しだけ鼻にかかった声でカエデが言う。
「そんなこと言ってあげないでよ。ユウちゃんも頑張ってたんだから」
千佳だ。ぼくの隣で、幸せそうに微笑みながら、足をブラブラさせている。
「でもそれで七年も帰ってこないってどーなのよ。そりゃ東京では会えたけども、け、ど、も、よ。やっぱ回数少ないし、お前らがこっち来ればもっと会えたよねって話しなわけで」
「帰っちゃうと決意が揺らぐ気がして……」ぼくは口を開く。
「何カッコいいこと言ってんだか」
「それにお金も無かったし」
「今度はカッコ悪いな」
「うるさい。でも仕方ないんだよ。花火師ってあんまり給料が高くないんだ。で、家に泊まれないってなるとホテルでしょ? 移動費と合わせると馬鹿にならないでしょ? タッちゃんが泊めてくれたなら話は別だったんだけど」
「カエちゃんとのゴニョゴニョがあるから無理ですー」
カエデが勢いよくタッちゃんの頭を叩く。ぼくと千佳が高い声で笑う。
海は、三月の岩手の海は、夏のものよりも色合いが落ち着いて見える。青藍というよりも紺青の海の果てで、次から次へと波が生まれては、ぼくたちの下へやってくる。波は間断なく砂浜で崩れながら、冷たい風に身を震わすように、時折真っ白な飛沫を上げる。
ぼくは左手首にはまった腕時計へ目をやった。その動きを見とがめてか、タッちゃんが声をかけてくる。
「でさ、親には会ったの?」
「今からだよ。ついでに千佳とのことも改めて報告するつもり」
「で、スーツか。自分の親と会うのにスーツってのもないと思うけどな」
「久しぶりだから。そこはキチっとしたくて」
そうだ、あの日のぼくはスーツだった。七年ぶりの帰省だった。少しは立派になった姿を見せたくて、慣れないスーツに袖を通して、車のハンドルを握った。ネクタイは首が締まったし、安物のスーツはペラペラでコートを着ていても寒かったし、革靴は運転しにくかった。けれどその先に両親との対面があるのだと思えば耐えられた。立派になったぼくの姿を、左手薬指に婚約指輪をはめた千佳の姿を、出来るだけ早く両親に見せたかった。
また夜にでも酒を飲もうと二人と別れ、ぼくと千佳は何となしに、港の道の駅に寄った。高校生の時はこんな店なかったよね、なんて言葉を交わしながら散策して、端に設けられたお土産コーナーでそれを見つけた。
季節外れの風鈴。南部鉄器で作られた、釣鐘の形で上品な黒の風鈴。
あの部屋にどうかな?
ぼくが言うと千佳が、ちょっとオシャレ気取りすぎじゃない? と眉間に皺を寄せて、それでもぼくは折角だからと購入する。文句を言いながら店を出る千佳の声は弾んでいて、そんな喧嘩の真似事すら楽しかったのだ、あの頃は。
完璧だった。本当に完璧だった。
親方に任された二尺。
千佳の指の婚約指輪。
中古だけれど、この先家族が増えても十分使える、広い車。
スーツと革靴。電話越しの父の声。そうか、と一言だけ、けれど涙ぐんだ声。
運転席に座り、キーを差し込み、アクセルに足を乗せたその時。
地が、吠えた。
それはまさに咆哮だった。地面が絶叫して、突き上げられるような感覚のあとに、激しい横揺れが始まった。ぼくはわけもわからぬまま千佳に覆いかぶさった。
世界が終わってしまったと思った。いや、揺れの最中はそんなこと考える余裕はなかったから、後から付け足した記憶かもしれない。ぼくは無我夢中で、なんとか千佳を守らなければとそれだけを思って、じっと体を硬くしていた。千佳の震えがぼくに伝わった。
永遠にも思えるほど長い時間だった。収まったかと思えば勢いを取り戻し、先ほどよりも一層激しく揺さぶられる。ようやく揺れが弱くなって、ひとまず安心だと理解できても、そのあとどうすればいいのかがわからない。こんなの初めてで、何が正解なのかがわからない。それなのにぼくの傍には何を引き換えにしても守らないといけない人が居る。
ぼくと千佳はそろそろと顔を上げた。屋外の駐車場はさほど酷い状況ではなかったが、屋内の状況を示すかのように、道の駅から加工場から宿舎から、続々と人が出てきた。いくつかの集団が自然と形成されていった。ぼくと千佳も車を出て、集団の一つに加わった。
情報は錯綜していた。半狂乱になりながら家族に連絡を取ろうとする人。泣き喚く乳飲み子を必死にあやす人。状況を軽視して、笑みまで浮かべている人。その圧倒的騒乱の中でも、なんとか危険を伝えようと声を張る人。
「逃げねぁーどいげねぁー。海がぐる」
老婆が杖を振りながら言った時、港に設置されたスピーカーから放送が流れ出す。
「岩手県に大津波警報が発表になりました。沿岸地区の人は、火の始末をし、近くの高台に避難してください」
放送が早かったのが救いだった。とにかく高い場所に、という情報が共有され、ぼくたちは散らばっていった。何人かが駐車場から駆け出していき、あるいは自転車やバイクにまたがった。
車を発進させる。駐車場から出る何台もの車の列に紛れた時、千佳が言う。
「大丈夫だよね」
ぼくたち二人のことか、それともタッちゃんやカエデのことか。わからなかったけれど、ぼくは力強くうなずく。
避難自体は比較的早く行えた。津波が押し寄せるまで何分なのかや、その高さがわからず、ぼくらはとにかく内陸へ向けて走ったあと、市役所に飛び込んだ。それなりの階層があり、一般人でも出入りができる建物は、市役所くらいしか思いつかなかった。
屋上から、職員たちに混ざって、ぼくは町を見つめた。職員いわく、その時点での津波予報は三メートル。ぼくも千佳もそれほど深刻に考えていなかった。町は出歩いている人こそいなかったものの、何台か車が走っていた。
避難して十五分ほどだった。閉伊川の河口が遠目にもわかるくらい盛り上がり、濁流が川を遡上し始めた。巡視船や漁船が、ぼくら四人が何度も通った川岸に乗り上げた。対岸の町から白煙が上がり、火の手が回った。誰もが言葉を失っていた。波は、いや、海そのものに見える黒い濁流は、市役所の前の防波堤をあっけなく乗り越えた。駐車場の車が飲み込まれ、民家が倒壊し、人が、人が、絶叫しながら渦の中に消えた。
「なにこれ……」
千佳が言った。ぼくは千佳の肩をぎゅっと抱いた。
無数のクラクションが悲鳴のように上がる。町が海になっていく。ぼくたちが生きた町が、黒い牙に食い尽くされていく。
その時だった。ぼくは見た。市役所の直下、濁流に浮かぶワゴン車を。その上にしがみつくタッちゃんとカエデを。
それで、ぼくは、ぼくは――。
制止の声が聞こえた。やめて、行かないで。ぼくの腕が掴まれた。ダメなんだ。二人がいないとダメなんだ。そんなこと、君にだってわかるだろう。
気づけばぼくは、庁舎の二階にまで流入していた濁流の中を進んでいる。
胸元にまで迫った冷水で、息が詰まる。
歯の根が合わず、ガチガチと鳴る。
割れた二階の窓の外にワゴン車と二人が見え、ぼくは窓から身を乗り出して、必死に手を伸ばす。
右手を、花火玉を生み出し、千佳の手を握り、そしてこれから先も二人で未来を作っていく利き手の右手を。
タッちゃんとカエデが大口を開けて何かを叫ぶ。二人は泣きそうな様子で首を横に振る。
うるさい! とぼくは喉を振り絞った。死なせるもんか。
限界まで伸ばした右手が、タッちゃんの衣服を掴む。濁流と共に流れてきたかつての家が、ワゴンにぶつかる。
花火は、上がり続ける。
一時間半にも渡るプログラムのラスト。様々な種類の花火を連続で打ち上げるスターマイン。夜空を埋め尽くす花火たちは、消えていったあとも、ぼくの眼に残光として焼き付いている。次々と弾ける花火が、部屋を鮮やかな色で染め上げる。
ああそうか、と今なら納得ができた。ずっと目を逸らしてきた事実。都合のいい妄想で上書きしてきた真実。利き手であるはずの右手首にはまった時計。もう陽は沈んでいるのに、十五時四十五分を指した時計。反転した、時計……。
そうだ、ぼくはあの日、死んだ。
二〇十一年三月十一日。タッちゃんとカエデを助けようとし、服を掴んで、けれど崩れた家がワゴン車にぶつかって、衝撃がぼくを濁流に引きずり込んだ。
暗くて冷たい水の底。真っ暗で救いがない一年を過ごし、だけど、ぼくはこうして戻ってきた。死装束を左前に着せるように、利き手も、腕時計をはめた腕も、そっくりそのまま反転したけれど、ぼくは戻ってきた。
千佳が畳に膝を付き、呆けたように花火を見つめている。
「ユウちゃん……」
千佳がぼくを呼んだ。ぼくではなく、仏壇に飾られた遺影に向かって。ぼくが死んでから、ずっとそうしてきたように。
どうしたら伝えられるのだろう。タッちゃんとカエデと、そしてぼくを亡くし、絶望と共に暮らしてきた千佳にどうすれば、ぼくはここにいるよと伝えられるのだろう。
そうだ、星だ。星を燃やせば。
ぼくはゆっくりとスラックスのポケットに手を伸ばす。指先で探って、ああ、と力が抜けた。知っていた。覚悟していた。ハンカチで包んでいたはずの星は忽然と消えている。そうなのだろう。仕方がないのだろう。僕の服がずっとスーツだったように、死者は、死んだ時の姿から変われないのだろう。もう無理なのかもしれない。千佳はずっと孤独なのかもしれない。
その時、爆音が一瞬消えた。部屋は再び暗くなり、ひゅるひゅるひゅるとか細い音がして、そして唐突に部屋は、海のような青藍で満たされた。
「なんで……」
自分の見ているものが信じられない。視界が滲んで、でも、少しだって見逃したくないから、ぼくはぐしぐしと涙を拭い、熱い喉に力を込める。
青い、花火。
中心で駆ける空色。追従する水縹色。青藍が大きく広がって、尾を引いた紫苑が余韻を残す。
ぼくの故郷の空の色。ぼくが過ごした青春の色。命を奪い、命を育む海の色。そして花言葉に追憶を持つ花の色。四層すべて青の菊という、型破りな花火は、たった数秒だけ輝いた後に、ユラユラと尾を引いて、幽遠に消えた。中の島から、拍手喝采が地響きのように伝わってくる。夜空は再び静まり返り、港の街灯が柔らかく注ぎ込んでくる。
「ユウちゃん、いるんだね……」
千佳が、泣いている。ぼろぼろと涙を流し、嗚咽しながら、縋るような目をこちらに向けてくる。戻ってきて以来、一度も合わなかった目。今もきっと、ぼくを見ているわけではない、目。でも、ぼくの存在を確かに信じてくれている、目。
「私、わかるよ。ユウちゃんが作りたかった青のこと、ユウちゃんが求めてた色のこと……何度も何度も聞いて、楽しみだなって何度も何度も想像して、だから、わかるよ……」
ぼくも泣く。絶対に重なり合わない涙声を上げ、絶対に重なり合わない体で抱き合う。
きっともうどこにも存在していない体から涙を流し、ぼくは海に還っていくのだろう。
14
夏祭りの後の町はやけに大人しく、魂に染み込んでくるような静寂が心地いい。お互いに枯れ果てそうなほど泣いたあと、ぼくたちは窓辺に腰かけ、夜の海を眺めながら、決して交わらない言葉を宙に解き放つ。
千佳は話す。一人で苦しかったこと。何度死のうと思ったかわからないということ。仕事にのめり込む以外に逃避する術がなかったこと。指輪を貰った時どれだけ嬉しかったか。ぼくの花火をどれだけ楽しみにしていたか。ぼくの夢をどれくらい応援してくれていたか。
「私、思ってたんだよ。一生芽が出なくてもいいや。私が支えてやる。バリバリ働いて、家に金を入れまくってやる。なーんて」
涙の痕が付いた顔で晴れやかに笑いながら千佳は言う。「ユウちゃん昔っからヘタレだったからさあ。一生下っ端とか全然ありえるなって」
流石に酷くない?
「仕方ないよね。高校の時もさ、私なりにアプローチしてたつもりなのに、気づいてないのか気づかないフリをしてるのか、ぜんっぜん、進展しないし。で、東京の大学行くとか言ったくせに、来ないし。連絡も返さないし」
それは、ごめん、本当に。
「だからさ、私驚いちゃったよ。タッちゃんとカエを助けに走ったの。ヘタレだし、泳げないのに、強引にさあ」
それは千佳も一緒でしょ。
「あ、私はヘタレではないと思ってる」
返す言葉が無い。
「あーあ、ユウちゃんがヘタレじゃなかったらなあ。そしたら私驚かなかったし、驚かなかったら止められたし、これも、なーんて、かな……」
千佳が笑う。笑いながら泣く。ぼくは千佳を抱き締めて、決して濡れないスーツで涙を受け止め続ける。ぼくたちの頭上では風鈴が柔らかく鳴っている。
夜が更け、折れそうなほど繊細な三日月が海を渡り、内港の海面を魚が跳ねる。海は巨大な生き物のように超然と、深い呼吸を繰り返している。自身の呼吸を聴いて人が癒されようと、逆に傷つこうと、腹の中で人が死のうと、そんなこと関係ないというように、いつだって、ただ揺れている。
漁船に光が灯り、係留ロープが外され、モーターを回しながら船が早朝の海に繰り出していった。新聞配達のバイクのヘッドライトが路地を照らし、ポストに新聞が投函されていく密やかな音が聞こえた。
太陽が上がる。光はぼくたちのアパートの乗り越え、海を澄んだ青色に変えていく。
「私、帰ろうと思ってるの、あの町に。タッちゃんもカエもユウちゃんもいないけど、でも、あそこが私の町だから。それで、あの町がもう一度立ち上がれるよう、お手伝いができればいいなって。ううん、本当はそんな決意なんて無かった。ただ戻りたかっただけ。タッちゃんとカエとユウちゃんが死んじゃった町だけど、でも私が青春を生きた町だから。私が町の手伝いがしたいって思ったのはね、昨日、あの花火を見たからなんだよ……」
知ってるよ、とぼくは言う。やけに私物の少ない部屋。三箱ものダンボール。君があの町に戻ろうとしていることなんて、とっくの前に気づいていた。でも、町の手伝いの部分は。
ああ、いいね、とぼくは微笑む。素敵な夢だと思う。あの地震と津波で多くの建物が壊れたことだろう。多くの人が町から去ったことだろう。必死に足掻いているであろうあの町に、ぼくたちの町に、千佳のような頑張り屋さんがいてくれるなら、それはとっても幸福なことだ。
言葉なんて一つも通じない。肉体なんてないぼくには、声が出ているのかすらわからない。それなのに千佳は満足そうに笑う。海に伸びる光はついに水平線に達する。
「ユウちゃんの花火ね、話題になってるみたいだよ。ほら」
千佳が見せてきた携帯の画面には、朝のニュース番組が映っていた。昨夜の花火大会が本来のプログラムとは違うフィナーレを迎えたことで、町は大騒ぎになっているらしい。当然、花火を担当していた立木煙火製造所にも取材が入った。今やその作品すらも思い出せない同僚の花火師達は揃って首を横に振り、親方さえも笑って否定した。
「オレじゃねえ。オレにはあの色は出せねえし、作ろうとも思わねえよ。全部が青だ。ふざけてるだろ。こんなことやんのは一人だけ。あの地震で死んじまった、オレの、一番の弟子だけだ」
この言葉はきっと一生忘れない。幽霊が一生なんておかしな話だけれど。だから、そうだ、これが冥土の土産というやつだろう。
アパートの傍の雑木で蝉が鳴き出す。命を燃やして愛を歌う。
「ユウちゃん、行っちゃうの……?」
うん、何もかもがあやふやで、色んなことがおぼろげで、タッちゃんのこともカエデのことも千佳のことも、今にも忘れちゃいそうで。正直もうぼくは、昨日みたあの花火すら、夢か真かわからない。
でも、だから行くんだ。忘れないために行くんだ。それに……。
「親方は最後に言ったんだよ。また作れよって、お天道さんのところでもって。天国が本当にあるかは知らないけどさ。あるなら、ぼくはまた作りたい。タッちゃんとカエデに、親方の奥さんに、死んじゃった人たちに、見せてあげたい」
千佳がうなずく。唇が重なる。この今だけが、ぼくの本当だ。
蝉の音が消えてゆく。
唇が離れ、おぼろげに君が笑う。
少しだけ季節に敏感に、気温の変化で風邪をひかないように。いつか来る新しい夏と、仲良くやって欲しい。
風鈴が鳴る。君が顔を上げる。両の眼に、ぼくたちの町の風鈴がしっかりと映り込む。
ああ、そうだ。
お盆を過ぎれば、ぼくたちの町は秋になる。
揺れる、青 御堂凛 @moriyama1226
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