罪づくりな曖昧さを、その音で包んで

雪子

罪づくりな曖昧さを、その音で包んで

 名前を付けてしまいたい感情がある。


 例えば、お腹いっぱいなのになぜだか何かを食べたくなるときの気持ち。こういうときは大体、衝動食いした後で『食べなきゃ良かった』と後悔することが多い。


 例えば、すごく楽しみにしていた約束が近づくに連れて、なんだか行くのがめんどくさくなってくるときの気持ち。こういうときは大体、約束の場所に行って、約束の人に会えば『あ、なんだ、やっぱり楽しいじゃん』ってなるときが多い。


 例えば、よくわからないけれどある人から目が離せなくて、もっと一緒に居られればいいのにと思う気持ち。


 そんな気持ちに名前を付けてしまえたら、なんだか納得してすっきりするような気がするのに、名前が付いていないからもやもやする。


 ああ、誰か。この感情にぴったりな名前を付けてくれる人はいないだろうか。






 3コマ目の授業は、幸せで満たされたお腹を抱えながら、眠気と闘うのに忙しい。


 講堂の左側は一面窓になっていて、昼下がりの陽気な日差しが差し込んでくる。元気のよい太陽の光を一身に浴びた大きな木々は、私と同じようにまどろんでいるように見える。こすれる葉っぱの音は心地よく、時折髪を揺らす風は生温かい。木々の隙間から見上げる空は澄んでいて、柔らかそうな雲は『雲に乗ってみたい』と願った幼き頃の私を思い出させる。


 教授が授業開始時間に間に合ったことはなかった。いつも5分くらい遅れてやってくる。やってきたかと思えばまた廊下に消えていき、5分くらい戻ってこない。きっと教授も、昼時の悪魔に取りつかれているのだと思う。


 時間の流れは平等ではない。吹き込んでくる風からかすかに感じる夏のにおいに心を躍らせ、教授の足音がこの講堂に戻ってくるのを待っている私の周りを流れる時間の速さは、たぶん世間一般のそれよりずっと遅い。


「遅くなってすまないね。始めようか」

 

 教授は、不思議な人だった。授業をする気なんて初めからまるでないような、自分の心の内を丁寧な言葉で生徒に投げかけるような不思議な講義。教授の中で伝えたいことははっきりしているけど、その解釈は学生にすべて委ねて、どんな解釈をしても優しく微笑んでくれそうな余白のある授業。答えのなさを楽しむような、考えることをそっと求めてくるような彼の話は、いつも私を引き込んで揺蕩う海の上に浮かんでいるような気分にさせてくる。


「私の授業は寝てもいいですよ。本当に寝てもいいです。単位は絶対あげますから。私が学生の頃にしていたことは、学生にも怒りません。皆さんが勉強してくれればそれでいいんです。その場が大学の授業である必要は、私の授業である必要はありません。友達と話すこと、一人になってみること、恋人と過ごすことの方がよっぽどいい勉強ですよ」


 彼の口癖だ。彼は冗談ではなく、本当に寝てもいいと言ってくる。揺蕩う海のような彼の言葉は、昼下がりの瞼を重くするには十分すぎるくらいに心地よく、大半の生徒が半分夢の世界に足を突っ込んでいる。教授の『寝てもいいですよ』という免罪符を手に入れた彼らは、罪悪感に襲われることもなく、心地よさに身を任せている。


 その中で私はいつも背筋を伸ばして彼の言葉に耳を傾ける。木々のこすれる音が柔らかく私の耳を刺激して、教授の声を際立たせる。彼の話の心地よさをずっと味わっていたくて、眠ることができない。


「みなさん、歴史とは何だと思いますか。過去の出来事の客観的記述でしょうか。語り手の主観の混じった記述でしょうか。語りたいように語られてきた物語でしょうか。僕はね…」


 歴史とは、何か。この授業の大きなテーマだ。毎回彼は少しずつ自分の考えをヒントとして語ってくる。でも、あと一歩のところで寸止めをするようなきわどいヒントしかくれないのだ。一体、かつて生きた人々はどんな事柄に対して『歴史』という名づけをしたのだろうか。客観的にも主観的にも思えるそれは、説明するにはあまりに複雑で曖昧だった。


 おそらく彼は、最後まで正解など教えてくれないのだと思う。正解など、ないのだと思う。


「そもそも過去の出来事ってどこから歴史たり得るんでしょう。過去の出来事を歴史だと言ったら、昨日私が青椒肉絲を食べたことも、もう歴史と呼べるということになりますか」


 私は話をしながら黒板の前を何度も往復する彼の姿を自然と目で追ってしまう。足のラインの強調された黒いズボン、アイロンのかけられた白いシャツ。くっきりとした2重瞼から覗く瞳はどこか幼い。黒板に丁寧に書かれた整った文字。右利きなのに右手に付けられた腕時計。


「今日も早めに終わりましょう」

 

 彼は授業開始時間も守らなければ、終了時間も守らない。毎回15分くらい早く授業を切り上げてしまう。


 でも、それでいいのだと思う。伝えたいことは決まっているのに、わざわざ時間に囚われる必要はない。終了時間を意識して、やたら間延びのした授業というものは学生にとって苦痛でしかないのだ。早く終わってほしい気持ちが思考を侵食して、内容が入ってこなくなる。


 授業を終わらせた彼は、講堂のピアノを弾き出す。彼の奏でる音を聴きながら、私は歴史とは何か、考える。他の生徒は授業が終わるとすぐに講堂を出て行ってしまうので、私と教授が2人で取り残される。


 誰が講堂から出ていこうと、誰が講堂に残ろうと、彼にとっては関係のないことなのだろう。


 だけど、ひっそりここにとどまる私の存在が、彼が奏でる音に少しだけでいいから影響を及ぼしてはいないかと考えてしまう。少しだけでいいから、私に聴かれているという意識が、彼の中に生まれていてくれないだろうか。私と教授がいるこの空間でしか響かない音が、あってはくれないだろうか。


「孤独はいいものです。学生のうちに孤独を味わいなさい。社会に出たら、社会にくくられて一人になることもできません」


 彼のピアノの音は講堂全体に反響して、中心にいる私に集まってくるようだ。その音はさらっと私の肌を撫でた後に、体の中にしみこんでくる。


 暗くなった会場で、ステージだけが切り離されたまばゆいコンサートのように、先生とピアノがライトで照らされているように淡く光って見える。それはまるで私のためだけの演奏のようで、心地いい。


 そう、この感じ。変ホ短調のこの響き。もっと、明るい音を奏でればいいのに。なんでこんなに遠ざけるような音を奏でるの。心地いいのに、なぜだかとても悲しくなる。


 私を遠ざけるような音色でいて、否が応なく私を包み込んで離さない柔らかいタッチの彼の音は、どこか暴力的であった。


 講堂の窓からいっぱいに差し込む昼下がりの太陽。風に身を委ねる木々の葉。揺蕩う雲。講堂の真ん中で考える私。


 この瞬間、今だけは私が世界の中心にいるみたいな穏やかな時間。

 

 もっと。もっと。弾いて。優しく弾いて。力強く弾いて。私のために弾いて。私を包んで。離さないで。


「あ…」


 ふと、音が消えた。教授がそっとピアノの蓋を閉める音がする。『カコン』というその音は、私を現実に引き戻すようだった。


 彼の左手の薬指で何かがきらめいた。


「出席カードは出したかな」


「はい…」


 19歳、7月。歴史とは何かも分からない私には、説明しきれないどこまでも曖昧で複雑なこの気持ちに名前を付けることが、とても罪なことのように思えた。名前を付ける行為は、きっと人を悩ませることだから。


 曖昧なまま、はっきりさせないまま、このままで。


 窓の外で風が強く吹いて、真っ青な空に透ける緑が舞い上がった。

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