お酒は二十歳になってまで

沈黙静寂

第1話

 仕事終わり、横浜駅近くの飲み屋に千鳥足を踏み入れた。飲む前というのに覚束ない足元はアルコールへの嫌悪感と集合時刻を既に五分過ぎた焦りに由来する。フェスやらライブやらのイベントポスターが貼られた外の広場は、梅雨明けや休日相俟って人通りが多い。土曜日なのに駆り出された新人社員はハンカチーフで汗を拭って「ごめんごめん、お待たせ」乱れた化粧で登場する。

「主役が遅れてやって来たね」「お疲れ様ぁ」先に入店するように伝えておいた面々が奥の座敷から振り返る。薄っぺらいメニューを眺めるだけで机上にはまだ何も届いていない。

 今日は私の生誕二十周年を記念して、会社の同僚女子等が酒と共に祝してくれるらしい。正直気は進まなかったけれど「誕生日くらい祝わせてよぅ」と言って太めの腕が私を離さないので、来てしまった訳だ。

「私はお冷で」皆が騒がしく注文し始めるのに呼応すると「何言ってんの。水は割るもの、あんた悪者?」冗談が通じない代わりに判然としない韻文をくれる金髪キャミソールの隣で、小太りな女だけが笑っていた。グレープフルーツジュースの表記に助けを請うが、仕方ないから「モスコミュールで」と聞いたことのある名を、殆どの酒の名を知らない、興味の無い私は小声で呟いた。店員の耳には届かなかったようで声を張り直した。

「それではメアリの誕生日を祝して、カンパーイ!」各々ドリンクが揃うと、黒髪ロングの音頭に合わせてテーブル席を囲む四人が手を伸ばし、私もそれに同調した。グラスを戦わせるこの無駄な動きには何の意味があるのだろう。注文した品からライムを外して、クラッシュド・アイスに溶ける残り汁を啜ってみる。酒は九歳の頃、父親の好むアサヒスーパードライを強制的に取り込まれ、舌周りの風味に嗚咽した経験がある。子供に酒を教えたがるタイプの大人の思考法を知るのは面倒だけど、それ以来マトモには飲酒していない。

「どう?」対岸からフードに吊り目を隠す女が、私がビギナーと知りながら感想を尋ねる。

「ジンジャエールに近いけど少し辛口で、まぁ悪くはないです」一口ずつゆっくり飲み、様々な食材を口に入れてきた今ではこれが酒の味かと冷静に分析出来る。

「ほふぅん」彼女は相好を崩して私に上から目線を投げ掛ける。そのしたり顔はこの世で最も気色悪い表情だと思えた。

 私は酒が嫌い、というより酒飲みが嫌いだ。理由の一つは飲み会文化。酒が入れば親交が深まる?酩酊状態で作り上げる絆なんて大した絆ではないだろ。コミュニケーションツールは酒に限らず、コーヒー牛乳でハイになったって良いだろ。飲める・飲めない、強い・弱いと能力のように偉そうに他者判定する輩が多いけど、ALDH2の有無や強弱が人類の価値を決めると思うか?飲酒のメリットを挙げればメンタル面は気の持ちようとして、適量飲めば心筋梗塞等を予防出来る程度で、大抵デメリットの方が大きいだろボケ。飲む奴は口を付ける前に「アルコール依存症ですごめんなさい」と一言詫びてから静かに飲め。吐いたらゲロも飲め。そもそも飲み会が当たり前に開かれ、皆が平気な顔して参加するのがオカシイ。人間関係含めて仕事に多少なりとも関わるなら給与が払われる時間で催せよ。それに往々にしてアルコール許容量も話のネタも終了時刻も男子向け、女の私は今回みたいな女子会でしかリラックスし得ない。

 理由のもう一つは味。基本味やその濃度と言った味を構成する要素がある中で、酒にも種別、個別に味の違いが存在し、発泡酒はビールより薄味である訳だけど、コクや深みと表現されるような濃味のみを良とする上戸が多い。だけど特定の味に固執する、つまり好き嫌いがある時点で感覚の鈍い馬鹿だよね。味と栄養は酸味や苦味に毒物が多いという点で交わるけど、毒さえ回避出来きれば幅広く味わえる方がそれこそ味覚能力が高い。食の安全が確保される現代で酸味や苦味を嫌うのは愚かとしか言いようがない。野菜をメインに据えない一方で酒の苦味に媚び諂うのはどういう心理が生み出した習慣だろうね。何が言いたいかと言えば、大抵の酒飲み、に限らず人類の大半は味覚のセンスが無いということ。太古より人々は酒を飲み過ぎている。禁酒しろとは言わないけどもう少し舌先の神経に気を配ったらどうかな。以上、纏めると酒は凡人飲料、呑兵衛は全員馬鹿です。

「何で皆酒なんて飲むんだろう」頭を劣化させつつ日々連ねる思考を整理する内に、気付けばそれは音となって現れた。酒を飲むにつれ気を高める下戸が、酒批判の風呂敷を広げるこの現象はアルコール・パラドクスと名付けよう。

「飲めたら楽しいぞ?」不満気に口を曲げる金髪のグラスのデザインは有色を残り僅かとしていた。世間への批判は適量に留めて、私と私の誕生を祝う心優しき女性四人を紹介しようか。

 初刃はつじんメアリこと私は、幼少期から培ったプログラミング技術で高卒ながらIT企業に入社し、二年目の今は休日出勤に駆られる週が無い程、ボロ雑巾のように重宝されている。とは言いながら実力主義でフラットな人間関係は、私の性に合っていて良い会社を選んだと思う。

 前方左でラガービールを飲んで、早速酒の咎を見せるのは木根洲きねすあさひ。何と私と同学年、同じ高卒という貴重極まりない存在で仲良くしているが、ミスを頻発する為社内ではお荷物扱いされている。

「わたしの成人も祝って欲しかったぁ……」厚めの脂肪を横たえて、童顔から愚痴を垂らす彼女はこの中で最も酒に耐性が無い。その割に毎度相当数注文する結果ベロベロに酔いながら、後日記憶は抜けているので懲りずに次の罪へ向かってしまう。周囲もそれが通例と分かっているようで今更注意する者は居ない。彼女を担いで帰る羽目になりそうだけど、私以外は全員二十歳を超えているので、警察にナンパされようと捕まる心配は無い。

「まだロゼ達が集まっていない時代だったから仕方ないね」正面に構えて名を一人称とするフード姿は斜塔しゃとうロゼ。彼女は専門卒の二つ上の先輩で出会ったのは最近、元来私達四人の付き合いが主だった所に参入した形となる。

 仕事のオンオフがはっきりしているタイプで、今は穏やかに応えてくれるが共同作業中に何か失敗すれば舌打ちと共に「糞が」を届けてくれる素敵な仲間だ。有能なのは確かに認めるけどあまり好きにはなれず、部署の違う他の皆は腹の底に勘付いているのか気になる。因みに酒は少し弱いようで、目をトロリと歪曲させる。

「あ、あたしブラックニッカハイボール」新たに注文するそれなりに酒に強い金髪女、獺祭うそまつり黄桜きざくらは七つ上の大先輩だけど、コミュニケーション障害を抱える男子に囲まれて木根洲しか話す相手の居なかった私を見つけて、可愛がるようになった精神衛生上の恩人。根暗な私やADHDの木根洲と違って、話し掛け易く誰からも人気のあるちょっとした有名人だ。

「オレも同じので。サクラ、初っ端から飛ばすねぇ」黄桜を弄った愛称で反応するのは、黒髪高身長の角腐すみのふ央香おうか。ウォッカやブランデーを頼もうと浅黒い顔は変わりなく、酔っている姿を殆ど見たことが無い一番の強者で、スピリタスを水のように飲む様で一躍有名になった。最後は嘘を吐いたけれど本性違わない鷹揚自若の人物だ。獺祭とセットで見掛ける機会が多く、仕事上では沢山お世話になった。

 これら五人が数少ない女子社員として、また武蔵小杉、登戸、平間、鶴見、川崎と全員が神奈川在住である都合もあって結束を図った流れだ。これまでも社内全体の飲み会やランチでの集まりはあったが、夕方からこの五人で飲むのは二年目にして初となる。

「コンビニで酒買うならストロングゼロは止めておきな」

「メアリ、年齢確認されそぉう」

「あたし未成年だけど酒買っていたわ」角腐、木根洲、獺祭が順にコンビニ酒の話題とありがちな不良自慢を送ってくる。壁面を侵食する酒コーナーが全てソフトドリンクに化けるように願う私が缶を取ることは無いだろうけど、善意は飲み干してあげた。

 パクチーやオリーブの何たら漬けをつまみに飲んでいると、段々と酔いが回ることを自覚し始めた。成程、これが酔うという感覚か。「ねぇ毎日が誕生日だったらぁ皆驕ってくれる?」発言には阿呆さ加減が増してくる。

「どんどん飲んじゃえ飲んじゃえ」落ちぶれる様に眼を輝かせる木根洲と斜塔は、了承も得ずに追加の酒を注文しやがった。その煽りに気持ち良くなり、酒に強いかどうかも知らないのに目の前の物を吸い続けた。朧気な記憶の景色には彼氏居ないの、最近何買った、流行りのドラマはと言った会話を溶かしながら、苦味がじんわりと手を振った。

「もっと気持ち良くなりたい?」眼を閉じる。


 目が覚めると見知らぬ部屋に居た。

 上半身を起こして誰の部屋か、誰が居るのか分からないこの空間を確かめる。白い壁に囲われ小さい机、旧式の受話器があり、寝ていたキングサイズのベッドにはシーツの捲れた跡があるだけ、隣は誰も居なかった。よく見ると私は裸で、「やっちまったか」即座に最悪の事態を想定した。身体を確認すれば目立った害は見当たらないけど油断出来ない。

 カーテンを開けると商店街のような街が伸びている。見覚えがあるのでまさかと思いGPSを調べると間違いない、伊勢崎町だ。そして恐らくここはアダルトなホテル。つまり私は誰かと一夜を共にした訳だ。こんなに大きい寝床で一人泊まるはずは無いし、皺や枕の位置、部屋の不整然さからして誰か居たのは明白だ。

 誰だ、誰がやった。考えたくはないが可能性が高いのはあの四人だ。とすれば誰が、何故、どうやって。一人か共犯か、集団とすれば何も信用出来なくなるけど。私を好む人間か嫌う人間か、私が緩む内に加虐心をそそれたのか、初めからこれを計画していたのか。酔っていようと性的欲求の少ない私から誘うことはあり得ない。最寄りの関内駅は直ぐそこに見え、横浜・関内間の電車移動は約五分、店からそう遠い距離ではないが全員帰宅の方面は異なる。肩を担がれたのは私の方で、酒で失敗する馬鹿は正に私のことだった。

 裸ということは普通に考えればそいつは私を愛し、一線超えようとした訳だ。これまで友達だと捉えていた観念が反転して別の意味で緊張してくる。木根洲だとすれば友達の延長線上、斜塔とすれば予想外の恋慕、角腐や獺祭とすれば昼ドラ臭漂う大人の愛憎劇を想像して、二日酔いの気はしないのに顔が赤くなった。それぞれの過去の記憶が伏線に思えてきてキリが無い。

 推理を巡らせていると、ベッドの下に口紅を見つけて確信した。犯人は一緒に飲んだ四人の中に居る。女と失敗して良かった、なんて喜ぶ余裕は無い。身支度を整えてさっさとここを出ることにしよう。幸いにも財布や時計と言った所持品に不備は無く、盗まれたのは私の無垢な心だけだった。

 出口手前、従業員の話を伺うと私は犯人と二人で二十四時にチェックインしたらしく、どんな奴と一緒に居たかを訊いてみたが帽子とマスクで顔立ちは不明瞭、ジャンパースカートを着ていたようだが四人の服装には合致せず、女であること以上に手掛かりは無い。予約の名前は恐らく偽名、着替えた上で犯行に及んだのだろう。社内で四人同時に居合わせることは滅多に無いので、明日それを利用して探り当ててみよう。嘘吐きと他の三人の証言を照らし合わせれば何か不整合が生まれてくるはずだ。

 賑わいのある商店街を遠目にさぁ行こうかと、高速道路沿いを歩く。

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