あした天気になぁれ
その日は久しぶりに清々しいほどの晴天であった。
2月に入り、寒さも和らいできたのは良いが、この一週間というものウンザリするほどに毎日雨が降り続き、部屋中に吊るされた生乾きの洗濯物と相まって、部屋の空気と私の心を重くしていた。
気分が重いと筆も乗らず、遅々として進まない原稿に辟易としていた私にとって、窓から差し込んでくる光は、まさにかけがえのない宝物のように思えた。
ロクに着替えもせずに洗濯物を一つ残らずベランダに吊るすと、部屋中の窓を開けて澱んだ空気を入れ替える。
ジットリとしていた室内の空気が、爽やかな陽光を浴びた風に洗われるような気がして、私は久しぶりに人心地ついた気分がした。
気分が良くなると筆も進むもので、私は早々に原稿を書き終えると、そこで初めてまだ朝食すら摂っていない事に気付いて、一人苦笑を浮かべた。
遅い朝食兼昼食を摂り、書き上げた原稿はひとまず置いておいて、私はこれも一週間ぶりになる外出をする事にした。
向かう先はもちろん黄昏坂であり、その中腹に建つアンティークショップ『法倫堂』である。
タクシーで黄昏坂の麓まで移動し、私はその急勾配な坂道を一心に上り続ける。
やはり一息では上りきれず、何度かの休憩を挟んで、ようやく目的の場所へ辿り着いた。
そして店内に入ろうとドアに手をかけた時、一枚の貼り紙が目に入った。
それには手書きの文字で『甘酒あります』と書いてあった。
私は思わず立ち止まって考え込んでしまう。
ひな祭りに合わせているのであれば、少しばかり気が早すぎるような気がする。いや、それ以前に普通はアンティークショップで甘酒は扱わないであろう。
まあ、全ては店主に直接聞けば分かる事なので、私は思考を中断し、店内に入っていった。
店内は相変わらずひんやりとした空気が流れているものの、肌寒いとは特に感じない、絶妙なる室温であった。
はたして店主は珍しく接客中のようであった。来客用のソファーに腰をかけて、客と思しき人物と楽しげに話をしている。
私が声をかけるタイミングを計っていると、あちらから先に声をかけてくれた。
「ああ、保科さん。お久しぶりですね。どうぞ、こちらへ」
この店の店主である天人君は、先客の隣のソファーを指し示して私を招いてくれた。
「ほしな? よもや、保科総一郎先生ですか!?」
天人君の言葉に、先客の人物が勢いこんで私の方を見た。
私はその人物の顔を正面から見て、思わず絶句した。
そこにいたのは、『てるてる坊主』であった。
厳密には、てるてる坊主の頭を模した被り物を被った人物がそこにいた。
その人物は私の姿を認めると、ソファーから腰を上げ、私の方に近付いてきた。
「むむ、まさしく保科先生! おお、何たる幸運!」
黒い燕尾服を纏ったその人物は、私の眼前に立つと、白い手袋をはめた右手を差し出してきた。
首から下だけ見れば、オーケストラの指揮者のようである。
しかし、首から上はてるてる坊主という、何ともシュールな格好をした人物である。
「私、先生のファンなのですよ。握手していただけますか? ああ、失礼。私はこういう者です」
その人物は懐に手を入れると、名刺を一枚取り出す。
受け取った名刺には『よろず事引き受けます。 TERU《テル》』と書かれていた。
「私、TERUと申します。本業は別にあるのですが、普段はよろず屋の真似事などをさせてもらっております」
TERUと名乗った人物はそう言って再び私に右手を差し出した。
私は条件反射的にその右手を取ると、呆然としながら握手をした。
「ああ、感激です。あっと、手袋をしたままで失礼しました。しかし、諸事情により手袋を外せない身でして。無作法をお許しいただければ幸いなのですが……」
TERU氏は申し訳なさそうにそう言った。表情は変わらない(まあ当然の事ではある)のだが、声のトーンで『申し訳ない』という気持ちが伝わってきた。
手袋よりも、その被り物の方が気になる所ではあるが、私だってファッションには無頓着だし、お世辞にもルックスが良いとは言えない。
そもそも、些か変わった格好ではあるが、TERU氏からすれば何らかのポリシーがあっての事かもしれない訳で、私がとやかく言う問題ではないだろう。
何よりも、私は俗な性格をしているので『ファン』というその一言で、大概の事が許せる気分になっていた。だから手袋も気にならなければ、てるてる坊主の被り物も……これはどうしても気になるが、出来るだけ気にしないように努めた。
「ああ、いや。その……気にしていませんよ。こちらこそ、光栄です」
私はあまりジロジロと頭部を見ないよう注意をしながら、TERU氏に向かってほほ笑みかけた。
「いやはや、保科先生にお会い出来るのが分かっていたら、色紙か著書にサインをいただきたかったのですが、こんな時に限ってどちらも持っていないとはツイてない」
TERU氏は苦笑するように後頭部を掻いた。
「ああ、いや、私ごときのサインでよろしければ、いつでもさせていただきますよ」
「『私ごとき』などと、ご謙遜される必要はありませんよ。私、保科先生の作品にはデビュー作から、ずっと注目しておりました。現在連載中の『闇の翼』シリーズも、毎月楽しく拝読させていただいております。最新作の『迷い坂の少女』も実に素晴らしかった!」
TERU氏は拳を握りしめて力説する。それらを書いた身からすれば、目の前でこうまでベタ褒めされると、ありがたいやら、恥ずかしいやらで、何とも面映い事である。
そんな私たちの様子を楽しげに眺めていた天人君は、再びソファーを指し示した。
「立ち話もなんですし、保科さんもTERUさんも座ったらどうです? 僕はその間に保科さんのお茶を持ってきますので」
そう言って天人君は腰を上げると、店の奥にある居住区へと向かった。
私はTERU氏と顔を見合わせ、お互いに苦笑しながら(TERU氏から苦笑するような気配が伝わってきた)ソファーに腰を下ろした。
私はしばしTERU氏と世間話に興じていたが、やがて天人君が人数分の湯呑みを持って戻ってきた。
「どうぞ。お口にあえば良いのですが」
そう言って私の前に置かれた湯呑みは、湯気を立てる白い液体で満たされていた。
口を近付けると、ほのかに生姜が香る甘い匂いが私の鼻腔に入ってきた。
「これは……甘酒かい?」
「ええ、自家製ですよ」
私は感心したように甘酒に口を付けた。実に美味い。
「うん、美味い! こんなに美味しい甘酒は初めて飲んだよ」
「そうですか。お口にあったようで良かったです」
そう言ってほほ笑む天人君に、私はふとドアの貼り紙の事を思い出した。
「そういえば、表に『甘酒あります』って貼り紙をしていたけど、これの事かい?」
「ええ、そうですよ。いつもなら梅雨の時期に作るのですが、今月は雨続きでしたからね」
「梅雨? ひな祭りではなくて?」
「ひな祭りに供えるのは『甘酒』ではなくて『白酒』ですよ。まあ似たようなモノですが、白酒は立派なお酒なので、造ったりしたら酒税法違反になってしまいますよ」
「そ、そうだったのか……」
白酒と甘酒の区別もつかなかった自分の無知に、私は恥じ入った思いで甘酒を啜った。
しかし、やはり疑問は残る。なぜ雨が続いたからといって、甘酒を造るのか?
そんな疑問が顔に出ていたのか、天人君はクスリとほほ笑み言葉を続けた。
「保科さんは浅原鏡村が作詞した『てるてる坊主』という童謡をご存知ですか?」
『てるてる坊主』という単語に反応して、私は思わずTERU氏の方を見てしまった。
TERU氏は私の視線に気付いたのか、私の方を見て小首を傾げた。「?」という記号が顔の横に浮かんでいるのが見えるような気がする。
「て、てるてる坊主といえば、『てるてる坊主 てる坊主 あした天気にしておくれ』とかいうヤツかい?」
「ええ、そうです。そのフレーズの後に『いつかの夢の 空のよに 晴れたら金の鈴あげよ』と続いて1番が構成されています」
そう言って天人君は、てるてる坊主の歌を口ずさんだ。
正直な所、後半部分は今初めて聴いた。私は前半部分だけで終わりだと思っていたのだ。
「この歌詞は『てるてる坊主が翌日を晴れにしてくれたら、ご褒美に金の鈴をあげよう』という意味です」
天人君は一度甘酒で喉を潤し、また話し始めた。
「1番といった以上、当然ながらこの童謡には2番が存在します。前半部分は同じですが、後半は『私の願を聞いたなら 甘いお酒を たんと飲みましょ』と変わります。『晴れてほしいという私の願いを聞いてくれたなら、甘酒をあげますよ』という意味です。つまり、てるてる坊主は天気を晴れにすると『金の鈴』と『甘酒』をもらえるという事です。さて、保科さん。てるてる坊主を作るのは、どんな時でしょう?」
「それは……晴れてほしい時…………」
そこで私はハッとなった。
「ま、まさか……てるてる坊主にあげる為の甘酒を造って……?」
「ええ、そうです。ウチで甘酒を造って、希望する方にお裾分けしています」
天人君はサラリと言ってのけたが、私にとっては衝撃の答であった。こう言ってはなんだが、近所にてるてる坊主を作るような人物がいたとして、その願い通りに晴れたとしても、わざわざ甘酒をてるてる坊主に与える(供える、というのが正解か?)とは思えない。
用が済んだてるてる坊主は、そのままゴミ箱行きというのが現代人の感覚ではないだろうか。
そんな私の内心を知ってか、TERU氏が不意に口を開いた。
「保科先生、『人形供養』というのがあるじゃないですか」
突然出てきた『人形供養』という言葉に、私は思わずポカンとしてしまった。
だが、そんな私を尻目にTERU氏は言葉を続ける。
「人が関わった物には、すべからく人の想いが宿ります。人形やぬいぐるみみたいな物には特に宿りやすく、それらに感謝の気持ちを込めて丁重に供養するのが『人形供養』です。そう、人の想いが宿ったものは、ちゃんと供養するべきなのです。それが例えてるてる坊主であっても」
TERU氏は手元の甘酒に視線を落とし、一息つくと再び言葉を紡ぐ。
「晴れても晴れなくても、てるてる坊主には強い想いが宿ります。晴れれば感謝の想いが宿るし、晴れなければ残念な想いが篭る事でしょう。宿る想いがプラスであれ、マイナスであれ、それをちゃんと供養しないのは、非常に良くない事なのです……」
TERU氏はふと遠い目(をしているような気がする)で彼方を見た。
「実は私の本業はそちらの方なのです」
「そちら……と言うと?」
TERU氏は私の方に向き直り、グイと顔を突き出した。
「私の本業は、用件の済んだてるてる坊主を回収して、供養する事なのですよ」
TERU氏の言葉に、私はどう返答して良いものやら言葉に迷った。そんな私の心中などお構いなしに、TERU氏の言葉は続く。
「まあ、本業と言ってもボランティアみたいなモノですがね。副業の方で得たお金で金の鈴と甘酒を仕入れ、てるてる坊主を回収しては供養してあげるのです。もっとも、甘酒の方はいつも法倫堂さんがタダで譲ってくれるのですけどね。金の鈴の仕入れに結構お金がかかるので、助かっています」
TERU氏は天人君の方を見て、カラカラと快活に笑った。
「いえいえ、TERUさんも色々と大変でしょうし、これぐらいの協力はさせてもらいますよ」
そう言って天人君も静かに笑う。
「お言葉に甘えさせていただきます。おっと、もうこんな時間か!?」
TERU氏は腕時計を見て、慌てたように立ち上がった
「副業の方の依頼で、これから人に会う約束があるのです。申し訳ありませんが、お先に失礼させていただきます」
TERU氏はペコリと頭を下げると、足元に置いてあったポリタンク(大きさから察するに、18リットル容器であろう)を片手で持ち上げ、空いた手で頭にちょこんとシルクハットを乗せた。
「では、保科先生。次の機会にはぜひサインをお願いします」
「え、ええ。お仕事頑張ってください」
私は再びTERU氏と握手をし、彼が店を出るのを見送った。
TERU氏が辞去した後、私はしばらく天人君と近況報告などの世間話に興じていた。
何杯目かの甘酒で喉を潤した際に、ふとTERU氏に出された湯呑みが視界に入った。
私は強烈な違和感を覚え、その湯呑みを見つめる。
何という事はない。普通の湯呑みがそこにあるだけである。しかし、何かがおかしい。
私は甘酒を飲み干すと、湯呑みを目の前のテーブルに置いた。そこで違和感の正体に気付いた。
TERU氏の湯呑みが空になっているのだ。
私はずっとTERU氏を観察していた訳ではないが、彼の湯呑みにも甘酒が入っていたのは覚えている。
ならば、TERU氏はいつ甘酒を飲んだのか?
あの頭の被り物では甘酒など飲めないが、彼がアレを脱いだ気配は全く無かった。
ならば、ストローなりで啜ったのか? それもおかしい。どこにもストローなど無いし、彼がそのような物を出す気配も無かった。
「TERUさんは……どうやって甘酒を飲んだんだ?」
私は思わず声に出して言ってしまった。ハッとして天人君の方を見ると、彼はきょとんとした表情で私の方を見ていた。
私は思い切って天人君にTERU氏への疑問を聞いてみる事にした。
「天人君、TERUさんはどうして『てるてる坊主』の被り物なんか被っているのだろう?」
私の質問の意味が分からないかのように、天人君は私を見てポカンとしていた。
しかし、何かに思い至ったのか、合点がいったような表情を浮かべ、それからクスクスと笑い始めた。
「ああ、確かに……被り物に……見えますね」
なおもクスクスと笑い続ける天人君は、やがて耐え切れなくなったように大笑いを始めた。
「まあ、知らない人にはそう見えても仕方ありませんね。ところで、保科さんなら『付喪神』は知っていますよね?」
「付喪神? 古くなった器物が妖怪になるとかっていうアレかい?」
意外な言葉が飛び出し、今度は私はきょとんとした表情を浮かべる事になった。
「まあ、そうですね。さて保科さん、てるてる坊主が付喪神になったら、一体どんな姿になるのでしょうね?」
「どんなって――」
私は思わず絶句した。私の脳裏に浮かんだのは、紛れも無くTERU氏の姿だったからである。
「ま、まさか……TERUさんは付喪神……なのか?」
「さて、どうでしょうね。事実は本人のみぞ知る、ですよ」
そう言って天人君は心底楽しそうに笑い続けた。
結局、TERU氏についてはそれ以上の事は聞けなかったが、充分に気分転換にはなった事もあり、私は日が暮れる前に法倫堂を辞去し、そのまま帰宅した。
洗濯物を取り込みつつ、何気に見ていた天気予報で、また明日から雨が降ると知り、ウンザリとした気分でテレビを消す。
そして、不意にTERU氏の事を思い出した。
私は使い古した布巾を手に取ると、何とはなしにてるてる坊主を作り、それを窓に吊るす。
これで明日もし晴れたなら、甘酒と金の鈴を供えてやろう。金の鈴を探すのに手間を取りそうだが、最悪はTERU氏に任せればいいだろう。
しかし、晴れなければ? 私はTERU氏の事を聞こうとしていた折に、話のついでに天人君から聞いた事を思い出す。
「てるてる坊主の歌には3番がありましてね。これも前半は同じなのですが、後半がこう変わります。『それでも曇って 泣いたなら そなたの首を ちょんと切るぞ』とね。晴れなければ、首を切って始末してしまうという事ですね。残酷な話かもしれませんが、まあ、それも供養の一つですよ」
同じ供養ならば、首を切るよりは甘酒と鈴を供える方が、供養する側も気分が良いだろう。
私は幼い頃によくやった、靴を飛ばしてお天気占いをする遊びを思い出し、心の中でつぶやいた。
あした天気になぁれ!
法倫堂夕闇奇譚 十六 @16sabou
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