死んだらいい人

木内一命

1

その遺影はまるで夜空の一番星みたいで、少しだけうっとうしくて、それよりもっと、うらやましかった。

由紀子姉が言うので手を合わせた。本当は嫌だった。なぜなのかはわかっている。きっとナオが死んだのが受け入れられないんだろう。もう半年も経ったのに。

大げさに手を振りながら由紀子姉が歩いていく。ぼくは相変わらず、取り残されたまま、ぼんやりと空を眺めている。

今日は暑い。もう少しで夏休みだ。

少しずれた眼鏡を直して、ああ、寝ぐせを直してない、でもまあいいや、と思った。


ぼくの席は、皮肉にも教室のど真ん中で、ただ入って席に座るだけのことくらいでクラス中の注目を集めるのだ。

うんざりする。

「死ね」

机の上にマーカーペンで書かれた文字が、目に飛び込んだ。いつものことだ。

ただなんとなくむかつくから、弱そうだから、陰キャっぽいから、理由はなんでもいい、とにかくぼくはみんなに好かれているらしいのだ。

ありがとう!

大きくお辞儀をした。そういう儀式なのだ。この教室では、ぼくは何をされても感謝をすることになっている。

がんばってねー!

と、陽気な返事が返ってくる。

仕方がないので、笑った。


ナオが死んだのは、ちょうど半年前、まだ寒いクリスマスイブの日だった。

普段は嫌がってメールすらしないナオが突然送ってきたのが、駅のホームの写真だった。

少しだけ雪が降った景色、ちょうど向こうに住宅街が見える、家から一番近い駅。ピントがしっかり合っていて、なんてことはない普通のもの。

きれいだな、としばらくぼんやりと眺めていた。たぶん、部活の帰りに珍しく雪が降っていたから撮ったんだ。

そのあとだった。由紀子姉が慌てて連絡をしてきたのは。

人身事故。よくあること。ひとつだけいつもと違うのは、死んだのがナオだったこと。

そのあとのことはよくわからなかった。大人の言うことは難しい。なにか、難しい漢字がたくさん並んでいるんだろうな。

お葬式の時、ぼくはちっとも泣けなかった。雪のことばかり考えていた。


視界が横に傾いた。椅子を蹴られたんだ、と気付いたのは、床に倒れこんで、左半身が痛みを訴えてからだ。

サッカー、と言いながら、誰かがぼくのお腹を蹴った。そのあと誰かが足を蹴った。背中を蹴った。わき腹を踏みつけた。ガタンガタン、と他の人の机にぼくの体がぶつかる音がする。

みんな笑いながらこっちを見ている。そうだ、感謝しなくちゃ、と思ったけれど、お腹が痛くてそれどころじゃない。

ぼくがぐちゃぐちゃになるのは別にいいけど、教室がぐちゃぐちゃになるのはなんだか申し訳ない。誰に謝ればいいんですか。

壁にぶつかった。ゴール、と誰かが言った。ウイニングラン、と言いながら、誰かがぼくの首を踏みつけた。苦しいので口を開けた。かわいいー、と女の子が言う。

何回目かわからないけど、お腹を蹴られた。もうちょっとボールみたいに跳ねたりするといいよ、と言われた。

眼鏡が歪んでいる。仕方がない。

ミッチーでサッカー、と黒板に大きく書かれている。今日のお題だ。

首が苦しい。

知っていますか。蹴られると痛いんです。

知っていますか。痛いと苦しいんです。

苦しいと、なんだろう。


ぼくはどうやら、あいさつすらまともにできないみじめな人間になってしまったらしいと気付いたのは、お葬式の次の日だった。

しゃべろうとしても、空気の音しかしない。

まるでだめだ。インクの切れたペンじゃないか。白紙のページばかり積み重なっていく。


下を向いたまま朝食を黙々と食べていると、由紀子姉は、頭を撫でながら、優しく笑ってくれた。


インクが出ないので、仕方がなく手首を切った。

少し痛いけれど、ナオが死ぬのに比べたらよほどましだ。

ぼくのインクは赤い色。鉄分の色なんだってね。学校で教わりました。

学校はいろいろ教えてくれます。暴力を振るう人にはありがとうって言います。死ねって言われたら笑います。

教科書に血が落ちた。赤は学校の色。


今日はトイレの水を飲んだ。

髪の毛を無理やり掴まれて、もともとぐしゃぐしゃだったから別にいいのだけど、あーんして、と言われて口を開けたらコップの水が流れ込んできた。

わはは、トイレの水でーす、だそうだ。味は普通だった。

古い便座だからとか、そういうのとは別に、飲んでも大丈夫なのかな、と思った。

トイレだから、と体を、たわしとかブラシとか雑巾とか、そういうので擦られる。たわしは痛いし、ブラシは痛いし、雑巾もその後だったから痛かった。

そのあとはおしっこを飲んだ。トイレだから。なんだか未知数の味がしたけど、健康にはいいと思う。

何人かいた気がする。学校のトイレだから狭いけど、みんな楽しいからいっぱい遊びに来てくれる。ありがとう。

腕が赤くなった。擦られたから。


ナオはサッカー部のエースだった。

学校でも一番強い、クラスの人気者だった。

ここには書き忘れていたかもしれないけど、ナオの方が弟なんだ、双子の。違うのは髪の毛の長さと、ナオには泣きぼくろがあること。

勉強は文句を言いながらやっていた。体育の授業の時、部活の時は、夏でも冬でも、いつも楽しそうだった。

ラブレターももらったらしい。ぼくには隠しているけど、同じ部屋で生活しているんだからばれてるよ。だって明らかに照れてるんだもん。

お母さんとお父さんは、もう何年も前に事故で死んでしまった。交通事故だった。もう小さい時だから覚えてないけど。

今日はゴールいっぱい決めたよ、とか、そういう話をいっぱい聞かせてくれた。

ぼくはナオに比べたらずっと中途半端だ。学校の成績も普通だし、人に見られるのはあまり好きじゃないし、と言うと、ミチもがんばってるのに、もっと自分に自信持ちなよ、と言われる。

オレより勉強できるし、字もうまいし、本もいっぱい読んでるのに、だって。

照れるな。

でも、ナオの方がずっと輝いてるよ。


今日は部屋をずっと暗くして過ごしていた。

布団の中なら安心できると思ったけど、そうでもなかった。なんだか、一人になるとナオのことばかり考えてしまう。

朝ごはんだよ、お昼ごはんだよ、お夕飯だよ、と言われても部屋から出なかった。外は怖い。

蹴られたところ、いっぱいあるな。痛いよ。みんなに言ってもわからないだろうけど、痛いよ。しばらくあざが残るんだろうな。

みんな、当たり前のように僕のことを殴ったり蹴ったりするんだ。ちょっとだけ多めにおこづかいをもらって、わくわくしながら駄菓子屋さんに向かうこどもみたいに、楽しそうで、うらやましい。

そして軽蔑している。

軽蔑って、漢字で書くのは大変だけど、今はスマホがあるから便利だね。難しくても大丈夫。軽んじて蔑む。今のぼくにはちょうどいい。

みんな嫌いなんだ。ぼくのことが。いつも本ばかり読んでいて、頭がいいくせに運動はからっきしで、そう、がり勉ってやつらしいんだ。

授業で指名されたとき、ちゃんと答えると、みんなじろじろぼくを見てくる。きっと嫌いなんだ。頭がいいのが。

それで、キャッチボールの相手がぼくになると、わざと体にぶつけてくるんだ、ボールを。全力で投げてくるからすごく痛いです。


誰も読んでないからいいんだけど、わざわざひらがなでぼくって書くのは、なんだか弱い人間にはちょうどいいと思っているから。


今日は学校に行けなかった。朝ごはんを食べて、玄関で全部吐きました。トーストと、スクランブルエッグと、ヨーグルトと、グレープフルーツ。食べたばっかりだから全部そのままでした。分かります。

三年生だからがんばらなくちゃ、受験するのはすごく遠いところがいいです。みんなとはもう二度と会えないくらい、遠いところがいいです。

授業には間に合いません。吐いても吐いても、このまま一生吐き続ける人生を送って、そのまま火葬されるのかと思うくらい吐きました。

由紀子姉は、せっかくの会社をわざわざ休んでくれました。素敵な洋服を汚してしまってすみません。吐きながら、背中をさすってくれました。ちゃんと抱きしめてくれました。

どうしたの、と聞かれたのですが、怖くて言えません。ごめんなさい。たった一人の家族に、言えませんでした。

殴られたり蹴られたり、そういうことをされるのと同じくらい、優しくされるのも怖いです。


目が悪いのは、本の読みすぎのせいなんだろうか。でも、遺伝かもしれない。お母さんは眼鏡だし、由紀子姉も眼鏡だよ。

ぼくは、今の眼鏡を買うときに、少しおしゃれな青い奴と迷って、結局、黒い縁取りのにした。なんで壊れたのかは言わなかった。

そういえば、黒い縁取りって、お葬式のお知らせだね。

ぼくの人生は、お葬式です。


学校に行けなくなって何日か経った。もう一週間になる。


ナオはお父さんによく似ていた。運動が大好きで、観るのもやるのもどっちも好きだった。

いつもサッカーの中継を見ながら、ああでもないこうでもない、と口喧嘩をしあっていたけど、お父さんが死んでからは、テレビでサッカーを見るのはしなくなった。

部活動はやめなかった。ナオは強いから、やめたくてもやめられなかったのかもしれない。

お父さんが死んでからしばらくしたあと、泥だらけのユニフォームで帰ってきたことがあった。背中もおなかも、転がされたみたいに汚れていたけど、ぼくは何も言わなかった。言えなかった。

運動部は、上級生が下級生をしつけるのは当たり前だから、きっとしつけられて帰ってきたんだ、と思った。でも、ナオはいつでも、なるべくユニフォームを汚さないようにしているのに、どうして今日に限って、と考えたけれど、何も言えなかった。

ナオは笑って帰ってきたけど、僕には分かる。

だって、布団の中で泣いていたから。


朝は必ず「死ね」ってメッセージで起こされる。メッセージなんて使って、あとで訴えられたらどうするんだろう。そこまで考えてないんだろうな。

名前がなんだかアイドルみたいで覚えにくいので、誰なのかはすぐに分かる。クラスで一番人気で、チョコレートをいっぱい配っている女の子。長い髪の毛をいつも手入れしている女の子。先生に叱られながら、スカートをギリギリまで短くしている女の子。眉毛をそって、メイクしているのは丸わかりだけど、みんな言わない女の子。

今日は「早くしろ」だった。みんな楽しみなんだ。ありがとう。

メッセージアプリはよく分からないけど、既読無視をすると何をされるか分かるから、ちゃんと返事をする。

待っててね。


初めてのキスってどんな味なんだろうね。

ぼくのキスはスポーツドリンクの味だったよ。


由紀子姉がおかゆを作ってくれた。でも、吐きました。ごめんなさい。おいしかったです。でも吐きました。しらすとたまごが入ってすごくおいしかったけど吐きました。ごめんなさい。

トイレにこもりながら、ごめんなさいと心の中で謝りながら、吐きました。

でも、まわりを汚さなかったので、ぼくはえらいです。

お夕飯も吐きました。何だったかは書きません。申し訳ないからです。

この世界でいちばんやさしい人がいるとしたら、それは家族かもしれませんが、ぼくはそこにいなくてもきっと困りません。

生きていても意味のない人は死ぬべきだと誰かが言っていましたね。

ぼくは早く死ぬべきだと思います。


ポカリスエットとアクエリアスのどちらが好きか、サッカー部でけんかになった、とナオが言っていた。きのこかたけのこかみたいだね、とケラケラ笑っていた。

ぼくはたけのこが好きだけど言わなかった。ナオはきのこ派だから、きっときのこがどのくらいおいしいか、サッカーの話をするときみたいに熱弁する。そうなるとナオは面倒なのだ。長いんだもん。

この前は、誰だかという選手のすごさをものすごく力強く語っていたけど、ぼくはサッカーが苦手なのでちょっと嫌だった。ごめんなさい。

そしたら、ポカリスエットとアクエリアスの違いを、熱く語られた。長かった。

でも、こういうときのナオはものすごく楽しそうだ。


ぼくは友達と外で遊ぶのが大嫌いだった。お母さんが買ってくれた絵本を読んでばかりいたので、怒られるかと思ったけど、そうでもなかった。お母さんは嬉しかったのかもしれない。

虫も苦手だし、人と話すのも苦手だから、休み時間はずっと本を読んでいた。

中学校に入ったら、図書室の中身ががらりと変わってびっくりしたのを覚えている。見たこともない作家の名前がいっぱい並んでいた。

こころ。中学校で初めて読んだ本。

なんで先生はいなくなってしまったのか、とんと見当がつかなかったけど、今なら分かる。

ぼんやりした不安。

生れてすみません。

さて、問題です。ぼくは誰でしょう。


友達がいなかったし、今もいないので、仲がいいのはナオと由紀子姉くらい。でもナオは死んじゃった。

ナオが死ぬ前の日、いつも通り部活から帰ってきたナオは、スポーツドリンクを飲んでいた。どっちだったっけ。

シュートをいっぱい決めて、ものすごくほめられたんだって、言っていたっけ。

それだったら女の子にチョコレートいっぱいもらえるね、とぼくが言った。そしたらナオは。ミチのチョコレートの方がよっぽど欲しいよって。

冗談だと思った。

あはは、と笑ったら、目の前にナオの顔があった。

スポーツドリンク味のキス。

ちょっとだけ、待った気がする。

そのあと、ふたりで二の字に寝たんだ。ぼくは恥ずかしくて何も言わなかったし、ナオは早々に寝付いてしまった。疲れるんだ、運動は。

あの時、聞いておけばよかった。

好きな人は誰ですか。


犬が死ぬ映画を、小学校の時に見せられた。

ぼくはちっとも泣かなかったけど、隣の隣に座っていた女の子は、鼻をすすりながら泣きじゃくっていた。

なんでですか。死んだだけなのに。


何を食べても、吐いてしまう。今日は学校に行って、がんばって給食を食べたけど、教室のど真ん中の席なのに、吐きました。

みんなは、つまらないのか何も言わなかったし、何もしてくれなかったので、自分で掃除をした。

本当はちゃんとした方法でやらなきゃいけないんだ。危ないもん、病気になったら。

でもこれは、お医者さんならこう言うだろう。

病気ですね。

お薬、出しておきますね。

ぼくが出しているのは、宿題と、吐瀉物ですが。

冗談。


命に価値があるとしたら、ナオはきっと値段が付けられないほどすてきで、ぼくは100円で売られている古本みたいなものなのかもしれないし、ナオは大きな大きな一等星で、ぼくは道端の石みたいなものかもしれない。


朝、新聞を見た。自殺者の数が載っていた。

ナオはこの中のたったひとつなのだと思うと、あまりにもかわいそうだ、もっと大事に、一面で扱ってください。ひとりにつき一冊、本を出してあげてください。国の税金でも、町の税金でも、なんでもいいから、全員ちゃんとお葬式をしてあげてください。

ぼくはいいです。


頭の中がぐちゃぐちゃになっている。食べ物が喉を通らないせいかもしれない。もう何日、吐き続けているか分からない。

そういえば、あまり食べ物を吐いてばかりいると、脳がそういう風になって、食べられなくなるんだってね。確かテレビで見ました。

頭じゃないし、体じゃない、心がぐちゃぐちゃになっているんだ。

こんなにしたのは誰ですか。

あなたですね。


ずっと食べ物を食べようとしないので、由紀子姉が、何かあったの、と聞いてきた。

ぼくは、何もないよ、そのうちよくなるよ、と思った。

由紀子姉が珍しく、笑っていない。何。

何かあったね、と言った。

背中を向けて逃げ出した。そんな場所、このマンションにはないけど、逃げ出した。でも遅い。由紀子姉は運動も得意なんだ。

諦めて、ぼくは笑いました。

由紀子姉が言った。

そんなの、嘘じゃないの。全部分かってるよ。


いつだか、学校は好きですか、と聞かれた。

助けてください。

ぼくは、学校が嫌いです。


由紀子姉がぼくに見せたのは、ナオの遺書だった。なんてことない普通のノートの切れ端に、書かれていた。




急にごめんなさい。

明日死ぬことにしました。

なぜかというと、死んだほうがいいからです。みんなそう言います。昨日は部長にそう言われました。おとといも言われました。

サッカーは嫌いだよ。みんな、よってたかって、人気者だからバカにする。

学校は助けてくれません。大人はあてになりません。運動部はそういうものだからだそうです。


由紀子姉。いつもおいしいごはんをありがとう。あと、いろいろしてくれてありがとう。

由紀子姉がいなかったら、みんなどうなっていたかわかんないね。

いつもおしゃれだけど頭もよくて、あこがれていました。オレは苦手だから。勉強。

なんかすごい会社で働いてて、がんばってくれて、すごいと思います。


ナオへ。

昨日はごめん。

もう少し、なんかクッションとか、そういうのあればよかったね。

でも、最後なので伝えたかったけど、直接ははずかしいので、あんな形になってしまいました。

なんか、すみません。

急にかたくるしくなっちゃったな。


オレは運動は得意だけどバカだから、運動バカって言われます。

人気者なのは、サッカー部のせいです。そういうものなんだそうです。いけにえというやつです。むずかしいね。


くるしいよ。

部室にいると、なんだかいろんな人にいろんなことを言われます。

おもちゃにされます。でもなぐられたりはしません。言葉のなんとかというやつです。

才能が吸われるー、とか、双子だからチヤホヤされているだけだろうとか、でも、気持ち悪いとかは言われません。


オレももっと、ナオみたいに勉強できればよかったな。


明日はいい人になりたいです。




学校に久しぶりに行った。かすれた声で、おはよう、と言えたのに驚いた。

みんな、何もかも忘れてしまったみたいに、何もなかった。

お葬式のあと、ナオのことをかわいそうだ、いい子だったね、と言っている人がたくさんいた。

死んだらいい人になれるのかな。

ナオはいい人になってしまった。


ぼくは、いい人になれません。

悪い子で、すみません。

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死んだらいい人 木内一命 @ichimeikiuchi

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