第7話 ノアは
「お前、この話が分かったか?」
元也は神妙な顔で言った。アリヤは頷く。
「わあ。アリヤちゃん、頭がいいんだあ。ゲンちゃんとおんなじ!」彼女は一人何も分かっていない様子で、呑気だった。
「ツヅ子はおかしいと思わないの? この話もう聞いたんでしょ?」
「んー。分かんないな。何がおかしいのかな」
変わらずにこやかに、朗らかに笑みを浮かべているだけだ。アリヤは彼女が気の毒になってしまった。元也が言う。
「お前、何で地下に降ろされたんだ? その歳じゃ変だろ」
「ごめん、よく分かんないんだけど、その歳でってどういうこと?」
お互い共通の認識が出来たことで多少打ち解けた風になっていた。アリヤの問いに、元也は表情を曇らせる。
「……お前が来たとこ、あそこは天の贈り物が来る場所なんだ。簡単に言うと、ノアから子供が降ろされてくる場所」
「は? 何それ」
アリヤは聞いたことの無い話だった。あんな公園の物置にある穴に、誰が子供を落とすのだろう。元也は脅したり嘘を吐いたりしている様子もなく、腕を掻きながら言った。
「いらない子供だか、よく知らねえけど、生まれたばっかとか、三歳くらいまでの小さい子とかがよく来る。そうするとブザーが鳴って教会の奴らが拾いに来るんだよ」
「その子供はどうなるの?」
「さあ。詳しくは知らねえけど……」
元也は言葉を濁した。アリヤは質問を重ねようとして、やめた。知ったところで意味がない。代わりに気になっていたことを問う。
「天人様ってのは何?」
「ああ、俺らはノアに住んでる奴らは天人様だって教わってんだよ。俺らより偉い人で、俺らはその天人様のために働くのが使命なんだと。そうやって嘘吐かれてんだ」
「嘘じゃないよぉ。アリヤちゃんは天人様だもんねえ」
「私は、人間だよ。天人様なんかじゃない」
そう言ったアリヤの声は力なく、浮ついていた。現実味の無い、現実味の薄れるような“本当のこと”を聞いて、アリヤの思考は鈍く、働かなかった。
何百年も昔、全ての人類がノアに移り住んだ。新たな地上、ノア。その地下では、僅かに残った陸地で多くの機械が農作物を育てている。人類は今、かつて住んでいた大地に支えられながらも、空で生きているのだ。幸福な未来が約束された、空に。……アリヤが知っているのはそれだけだ。だからこそアリヤは疑いもした。しかし本心では、それが真実と信じてもいたのだ。疑ったのは、こんな真実のためにではない。
「……帰るんだろ」
元也が気まずそうに言った。アリヤは混乱したままで頷く。
「か、ど、どうやって帰ればいい?」
言いながらも、アリヤは喉が詰まっていくのを感じた。泣きそうだった。元也の話が、脳に染み込むにつれて、恐ろしくなる。早く帰らなければいけない。
アリヤは、地上に戻れば今までと同じ生活を続けることになる。真実も何もかも忘れて生きていく。それが一番賢い選択だ。何故ならアリヤは生まれた時点で恵まれた、幸福な未来を約束されているのだから。
―――幸福な未来って何だ?
疑問を振り払い、アリヤはツヅ子に向かって言う。
「あの、さ、ありがとうね、色々。私、ツヅ子に会えて良かったよ」
「ううん。私も天人様に会えて良かったぁ」
「私は……」
人間だよ、と言いかけた口を噤んだ。ツヅ子にとっては、世界が
「ねえ、ツヅ子は今幸せ?」
「うん。幸せよ。何も困ることなんて……あ、人手が欲しいくらいで。他にはないかな」
何が正しいのだろう。何も分からないままで朗らかに笑みを浮かべるツヅ子と、大昔の伝言から真実を知ってしまった元也とアリヤと。
アリヤは一人、坂を下りて、元也に教えてもらった方向へ向かう。農作物をノアまで上げるためのコンベヤに乗って帰るのだ。コンベヤの詳細な場所は不明だったが、近くに行けば分かるだろう。
「アリヤちゃん」
「ひゃあ!」
肩に触れられアリヤは飛び上がった。ツヅ子だ。元也と一緒にその場に残ったはずだった。
「な、何でいるの」
「一人じゃ怖いかと思って」
「もう大丈夫だよ」
「……あのね、本当は、私、寂しくて追いかけてきちゃったの。ふふ」
ツヅ子は照れ臭そうに言った。そして目を伏せた。
「もう会えない、ね?」
「うん。もう、会えないよ」
「そっかあ。しょうがないね、アリヤちゃんは、天人様だもんねぇ。私とは違うから……」
ツヅ子の言い方は、自分を説得するようなものだった。それがアリヤには引っかかる。しかし、また会いにくるとも言えない以上、黙っているしかない。
「もしアリヤちゃんが良ければ、一緒に住んで、一緒にご飯食べて、そしたら楽しかっただろうなあって……」
ツヅ子はそう言って、口の端を持ち上げた。笑みを浮かべてるつもりらしいが、アリヤには笑顔に見えなかった。
想像してみる。二人、畑で仕事をして、家に帰り、一緒にお風呂に入る。ツヅ子は毎日朗らかに笑っているだろう。そんな日常を、アリヤが求めてはいけない。
「無理だよ、出来ないよ。だって、私がノアに戻らなかったら、私のずっと昔の……先祖の人がノアに乗った意味が無くなっちゃう」
わがままを言えるわけがない。元也へと伝言を残した人は、ノアに乗れなかったことを悔やんだだろうとアリヤは思う。アリヤの先祖は、そんな人たちを踏み台にして空に飛んだ。地下の人々を踏みにじりながら何百年も続いてきたことを、アリヤ一人のわがままで捻じ曲げるわけにはいかない。地で生まれたら地で、空で生まれたら空で生きていくしかないのだ。
ツヅ子は、アリヤの言葉がよく分からないらしく、目を瞬かせていた。どうしてこんな簡単なことも分からないのだろう。アリヤは歯噛みした。分からないのは、世界が、ツヅ子に何も分からないようにしているからだ。学校に通えない、文字の読み書きも出来ない。ツヅ子はこれからも、ただ人と触れ合うことだけを娯楽にして、天の人たちに捧げる食物を作り続ける。彼女はノアも未来も恨まない。今のままで幸福だと言うのだろう。
地下の人々はそうやって何も知らないままに、ゆるやかに数を減らしていずれは消える。地が海に沈むのとどちらが早いかは分からない。空の住人であるアリヤはそこに含まれていない。アリヤは子を産み、空の地上、ノアで人類の未来を作らなければならない。
アリヤは冷静になろうと大きく息を吸った。ノアよりもずっと気持ちの良い空気だ。
「ツヅ子、あのね、私はノアでやらなきゃいけないことがあるの。ツヅ子が畑仕事をしないといけないのと同じで」
本当にやらなきゃいけないことだろうか、とアリヤの頭に疑問が浮かぶ。すぐに考えを追い払った。
アリヤはツヅ子に背を向けた。別れの挨拶はいらない。
そして、走り出した。ずっと先まで続く道を。アリヤもツヅ子も、道が一瞬でも交わったのが間違いだったのだ。アリヤは何も考えずに、ひたすらに走った。
「はっ、はっ、はあっ……。うっ、あ、ああっ、う、うぐ、うっ……」
涙が溢れた。たった一度触れ合っただけでどうしてこんなに悲しい気持ちになるのか、アリヤの頭はぐちゃぐちゃで、自分でも上手く説明出来なかった。寂しいからなのか、名残惜しいからなのか、もう触れられないからなのか、もう会えないからなのか。
鼻水で呼吸が詰まる。アリヤはやっと立ち止まった。息が苦しかった。そしてまた走り出す。止まったら、気持ちが揺らぎそうだった。真実を知った以上、立ち止まることは出来ない。早くノアに帰らなくてはいけない。ノアに帰って、残りの人生を未来のために、
「あれ」
未来って何だっけ。ノアにいる全ての人類に幸福な未来が約束されている。幸福って何だっけ。
「あは、やめろ、馬鹿、やめろ馬鹿私」
考えるな。考えてはいけない。ノアに住んでいる以上、全ての人類は幸福であるべきなのだ。何故ならノアにいること自体が幸福だから。
「駄目、私は、人類のために、未来のために生きなきゃ」
アリヤが出会った少女は、地下によくいるありふれた人間だ。自らの境遇にも気付かずに、何も知らないまま朗らかに笑っているだけの。
十五年の人生、ノアで生きられる権利、踏みにじった地下の人々。
「ああああああ! ああああーーっ!!」
アリヤは大声で叫びながら走った。何も考えないように、何も感じないように、叫ぶ。喉がひりひりした。それでもやめない。
アリヤは、来た道を全力で戻っていた。頭を真っ白にして、足を動かした。呼吸の苦しさも、喉の痛みも感じない。その勢いのまま、歩いていたツヅ子の背中に衝突した。揃って地面に倒れる。彼女が何か言ったが、アリヤには聞こえない。アリヤは叫ぶのをやめ、ツヅ子の背中にしがみつきながら言った。
「ねえツヅ子、私って何? 教えて!」
「アリヤちゃんは……」
ツヅ子はアリヤの頭を見ていた。アリヤが何なのかは知っている。あまり賢くないツヅ子でも理解していることだ。すぐに答えようとして、はっとした。正しいことを言ったらアリヤはどうするだろうか。
ツヅ子は、アリヤの頭を撫でた。
「アリヤちゃんは、私と同じ人間で、それで、い、今は、私と一緒に暮らしてる、の」
嘘を吐いた。ツヅ子は緊張していた。こんなあからさまな嘘を吐くのは初めてだ。間違ったことをしてはいけないはずなのに。アリヤがかすれ声で返した。
「うん、そ、そう。そうなの。私は、ツヅ子と一緒に暮らしてて、一緒に畑のこととかしてるの。それが、正しい」
「うん、うん」
ツヅ子も相槌を打った。ぎこちないやり取りだった。空は晴れ渡っていて、ノアがくっきりと見える。地上の楽園は、未来を乗せて空にあった。
ノア 波伐 @wanwanowan
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