言えないこと、もう一つ

六畳のえる

言えないこと、もう一つ

 それは、雨続きの日々も終わり、あとは梅雨明け宣言を待つだけという6月下旬、父母と弟の家族4人で牧場に行ったときのことだった。


「あ……」


 たくさんの牛を見た後、ふれあい広場に向かう途中で一組のカップルを見つけ、思わず漏れてしまった声を、口を押さえて慌てて止める。


 2人とも帽子を被っているけど、あれは間違いない。うちの中学の岸野先生と倉池先生だ。


つむぎ、行くわよ」

「お姉ちゃん、早く行こうよー!」


 楽しそうな母と、はしゃいでいる小学生の弟に呼ばれ、ヤギがいる場所まで駆け足で追いつく。でもその後、ヤギに餌をあげているときも、牧場で取れた牛乳や卵を使ったオムライスを食べているときも、私の頭の中には手を繋いでいる2人の姿が写真のようにしっかり焼き付いてしまっていた。


「どうした、紬。具合悪いのか」

「ううん、別に。大丈夫だよ」


 帰りの車で父に心配され、後部座席で静かに首を振って窓の外を眺める。高速の隣車線を、車がものすごいスピードで飛ばしていった。


 さっきの2人は楽しそうに並んで歩いていた。やはり付き合っているだろうか。


 2人とも、うちの学年の2年生の先生だ。関わりもたくさんあるはず。岸野先生の方がちょっと年上だったはずだけど、どっちも20代だし、そういう関係になってもおかしくない。家から車で2時間のところだから生徒には鉢合わせないと思ってデートに来たのだろう。


 どうしよう。偶然とはいえ、すごいものを見てしまった。


 ちょっとした興奮と、これは誰にも言えないな、というどこか冷静な気分が入り混じり、不思議な感情を抱えたまま、私は車の揺れに体を預けて眠りについた。



 ***



「よっ、むぎ!」


 週明けの月曜日。2時間目の休み時間に机でぼんやりしていると、1年から一緒の悠香が話しかけてきた。


「どしたの? なんか元気ない感じ」

「いや、そういうわけでもない……んだけどね」


 こんな風になっている理由を説明できないまま、少しだけ彼女から目を逸らして時間割を見遣る。3時間目の「日本史」の文字が目に入り、私は悠香に聞こえないよう、鼻で溜息をついた。


 そしてチャイムが鳴り、男の先生が勢いよく入ってくる。


「よし! じゃあ今日も進めていくぞ」

 日本史の担当は、土曜日以来2日ぶりに会う、岸野先生だ。


「じゃあここまで。今日の宿題はないけど、来週期末テストだからな、ちゃんと復習始めろよー」


 授業が終わって、いてもたってもいられず廊下に飛び出すと、ちょうど岸野先生と対面する形になった。


「おお、花森」


 いつもと変わらない、パッと花が開いたかのような笑顔。咲くには少し早い向日葵のような印象を受ける。


 180あるんじゃないかという高身長だから、がっしりした体型だけどスタイル良く見える。少し短めの黒髪に、ぱっちりした目。イケメンというわけじゃないけど、優しそうな顔立ちだった。


「どした? 質問か?」

「あ、いえ……」


 いてもたってもいられなかったはずなのに、こうして目の前に本人が来ると何も言えない。


 岸野先生は私が1年生の時の担任で、今年は担任でないものの日本史の授業を見てもらっている。私の中ではかなり距離の近い先生だ。だからこそ、先生の秘密をおいそれと口にしようとは思えなかった。


「テストがんばりますね!」


 無理やりひねり出した突然の宣言に一瞬ポカンとしたものの、先生はフッと口角を上げた。


「おう、頑張れよ」


 そんな風に言葉をかけてもらえるのが嬉しくて、でも頭の中ではすぐに「倉池先生と普段どんな話をしてるんだろう」なんて疑問が渦巻いて、私は曖昧な表情を作ってニコリと笑ってみせた。




 放課後、悠香たちが私の席まで駆け寄ってくる。


「むぎ、一緒に帰ろ!」

「ごめん、職員室行かなきゃだからちょっと待ってて。週末の課題出してくる」

「あー、英文のやつか。分かった、待ってる!」


 ありがと、と一言謝って、渡り廊下を渡って職員室のある北校舎に向かう。英語係を担当しているけど、同じく英語係である男子の塩谷君は野球部なので、放課後のこういう作業は大抵私が担当していた。


「先生、これ、課題のプリントです」

「あら、花森さん、ありがと」


 銀色の机に座った倉池先生が労ってくれる。急に立ち上がったので、私は思わず一歩下がって距離を取り、小さく会釈した。


 今年英語を担当してくれている倉池先生。セミロングの茶髪はミルクチョコみたいな綺麗な色でたまに後ろで結んでいる。化粧も派手すぎず、でもスレンダーで大人の女性のオーラがあって、密かに憧れている男子も多いらしい。


「授業はどう? 進み方早い?」

「いえ、大丈夫です。be動詞の過去形のところがちょっと難しかったですけど、プリントで復習できたので」


 さっき渡した週末課題を指すと、先生は「そっか」と嬉しそうに微笑んだ。


「倉池先生」

「ん? どしたの?」


「……や、ちょっと英文でわからないところがあって」


 やっぱり聞けない、と思い返して、でも「なんでもないです」なんて誤魔化したら気にされるに決まってるので、無理やり質問でごまかす。


 少なくとも、他の先生に聞こえるかもしれない職員室では、「岸野先生と一緒に牧場に行きましたよね?」なんて話題に出せなかった。





 その日の夜も、誰にも言えない2人の恋のことばかり考えていた。


 いつから付き合ってるんだろう。倉池先生は去年は3年生を受け持っていたから今年より接点は少ないはず。ということは本当にここ最近? あるいは付き合ってるわけじゃなく、ただのデート? 生徒に見つからないように遠出しただけ?


 あの時の岸野先生の笑顔が浮かんだ。お試しのデートだとしても、手も繋いで、心から嬉しそうな表情で、気持ちは筒抜けだ。


 私の記憶は一年生に遡る。


 校区の関係で小学校から持ち上がりの友達が少なく、不安でいっぱいだった私は、岸野先生の明るいキャラクターに助けられたし、面倒見の良さに支えられた。


 特に、文化祭の担当になった私ともう1人の女子がクラスをうまくまとめられなかったとき、たびたびさりげなくサポートしてくれたっけ。怒ったらその後私たちがやりづらくなることを分かって、「俺、良いアイディア考えた!」なんて話し合いの輪に入って、みんなが参加するよう促してくれた。


 準備も遅くまで手伝ってくれて、私たちのクラスのレトロ喫茶は、学年で1番の賞を取ることができたのだ。夜まで教室を装飾してるときのシュークリームの差し入れの味は、今でも思いだせるくらい鮮明だった。



 岸野先生、岸野先生。私が牧場で見たのは、貴方でしたか?


 そのことを思い出すと、なぜか胸が少しだけ軋んだ。



 ***



 そこから1週間、夜は2人のことをぐるぐると思い悩み、昼の学校では2人に会って、言えなくても言えない質問を飲み込む日々が続き、そのまま期末テストを終えた。


「いやー、テスト終わった終わった! 後は夏休みを待つだけね! むぎ、帰り本屋寄ってかない?」

「うん、いいよ」


 グッと腕を上に突き上げて伸びをしながら、悠香と一緒にシューズロッカーに向かう。おしゃべりしながら、彼女の用事で職員室経由でここまで来たので随分遅くなってしまった。


 靴に手をかけようとしたとき、ふと思い出した。


「……あ、やば。親に出す懇談会のプリント、失くしちゃってたんだった。ちょっと机探してくる、ごめんね」

「そっか、分かった。じゃあ本屋は明日にしよ! またねー!」

 挨拶して、悠香は手を振りながら帰っていった。



「えっと、多分この中だと思うんだけど……」


 テスト終わりでみんな早く学校を出たかったのか、教室にはすっかり誰もいなかった。


「あった!」


 机の奥から、教科書に押される形でぐちゃぐちゃになっていたプリントを取り出して、シワを伸ばす。これなら何とか親も書けるだろう。


 帰ろうとした、その時だった。


「おう、花森。居残りかー?」

「あ、先生……」


 教室の見回りに来ていた岸野先生に、廊下から声をかけられた。途端に、私の鼓動はペースを速める。


「日本史、どうだった? ちゃんと解けたか?」

「はい、かなり良い点数いくと思います」


 歴史が苦手だった私を変えてくれたのも岸野先生だ。話も上手かったし、たまに話す日本史小ネタも面白い。時代ごとの大きな流れがどんどん頭に入ってきて、今では得意科目になった。


「そっか、それなら良かった。花森も昔は苦手だったみたいだけど、大分日本史が得意になったもんな」


 ほら、私のこんな細かいことまで覚えていてくれてる。それがすごく嬉しい。


「……先生」

「どうした、花森?」


 2人っきりの教室で、心の中で閉めていたフタが開く。抑えきれなくなる。


「この前の土曜日……松川牧場に倉池先生と一緒にいませんでしたか?」


 途端に先生の表情が固まる。数秒して、唇を内側に巻き込みながら、参ったなという苦笑を浮かべた。


「花森は家族で来てたのか?」

「はい、そこでたまたま見かけて」

「そっか」


 岸野先生は廊下の左右を見渡すと、教室に二歩入ってきた。


「誰にも言うなよ。実はその……ちょっと前から付き合いだしてさ。デートで行ったんだよ。生徒はいないだろうと思ってたけど見つかっちゃったか」


 照れ笑いする先生に、私は胸の前で小さく拍手する。


「おめでとうございます! 先生すごく楽しそうだったし、お似合いですよ!」

「ありがとな。じゃあ気を付けて帰れよ。あと、ホントにナイショだからな」

「分かってますよ」


 牧場のことを思い出したのか、先生はやや上機嫌に教室を出て行った。



「はあ……」


 1人になった教室で、小さく溜息を漏らす。


 予想通りだった。別に驚くことでもない。あれがデートなのは当たり前で、やっぱり付き合っていた。本当にお似合いだもの。幸せそうな岸野先生が見られて良かった。


「あ……う……ふっ……」


 良かった、はずなのに。さっき見つけたプリントみたいに顔がぐちゃぐちゃで、すぐに教室を出られそうにない。


「ふっ……く……うああ……」


 先生が他の人を好きでいることで、こんなに胸が締め付けられる。


 気付こうとしなかっただけで、これはそういう感情だったのだと、とめどない涙が教えてくれた。



「好き……だったんだなあ……」



 誰にも言えない恋を、もう一つ見つけた。



 見つけたときには、もう散っていた。


 <了>

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