神様の贈り物
楠瀬スミレ
神様の贈り物
「つらいことや嫌なことは神様からの贈り物なんだよ」
祖母は私を膝にのせて、よくそう言っていた。そのころの私にはその意味がよくわからなかった。
*
「雨の予報、当たったわね。結構降るみたいだから、気を付けて帰ってね」
パートの先輩、田中さんの言葉に、一瞬息を止めた。1年生の梨乃に傘を持たせていない。
今朝、私は15分だけ寝坊してしまった。そういう日に限って、梨乃がなかなか起きなかったし、4歳の拓哉はご機嫌斜めで服を着せてくれと駄々をこねるし、いつものようにスマホで天気予報を見る余裕がなかった。
「ありがとうございます。雨、憂鬱ですね」
「あら、そう? 私は嫌いじゃないよ。子供たちと雨の日の思い出がたくさんあって、思い出すから」
田中さんのお子さんはもう成人している。
「大人は雨が降ると残念に思うけど、子供たちは案外楽しんでいるのよ。雨の日しか見られないものがたくさんあるし」
パートを終えた私は、急いで着替え、車に乗り込んだ。田舎なので、車は必須。車で通勤させてもらえるのは本当にありがたい。
運転している間に、空は暗くなり、雨が降り出した。家に帰ってみると、やはり梨乃の傘は傘立てに立ててあるままだった。
「ああ、やっぱり迎えに行かないと」
拓哉の幼稚園バスがまもなく到着する。私は急いで外に出た。お迎えの場所は家のすぐ近くだし、傘をささなくても歩けるほどの雨だったが、私は傘をさして待った。
汽車の形をした幼稚園のバスが来た。黄色い帽子をかぶった子供たちの頭が見える。バスがとまり、降りてきた拓哉は、嬉しそうに私のお腹に飛び込んで抱きついた。
「たっくんお帰り」
「おはなをつくったんだよ」
いつものマシンガントークが始まったが、私は梨乃のことが気になって気もそぞろだった。梨乃を迎えに行くには車なら学校まで7~8分だ。その時、ふと思い出した。私が小学校1年生のある雨の日、教室の外で、祖母が私の赤い傘を持って手を振っていたことを。
「おばあちゃん、いつも歩いて迎えに来てくれてたな」
通学路にある、紫陽花の葉にいたカタツムリを一緒に捕まえたことを思い出した。
「たっくん、歩いてお姉ちゃんを迎えに行こうか」
私は、帰ったらすぐお風呂に入れるよう準備をし、玄関にもタオルを置いた。そして、拓哉にレインコートを着せ、長靴をはかせた。歩いていくなら、今すぐ出ないと間に合わない。拓哉の足では30分近くかかるだろう。
「ねえ、ママ、きょうは、くるまじゃないの?」
「そう。今日は歩こうね」
玄関のドアを開け、外に出てみると、傘がないと歩けないくらいの雨になっていた。拓哉はどこへ行くのも車に乗っているので、傘をさして歩くことがほとんどない。お気に入りの戦隊ヒーローの絵の傘をさすことができて、ご満悦だった。
しばらく歩いていると、拓哉が傘をくるくると回し始めた。
「ママ、見て見て!」
傘からしぶきが勢いよく飛んでいくのが楽しくて仕方ないらしい。
『雨の日しか見られないもの』
田中さんの言葉を思い出した。普段の私なら、傘を回し始めた瞬間に、やめなさいと注意していただろう。
小学校までは坂を下り、小学校の手前からは、細長い階段を上らなければならない。私は参観日のたびに、この階段の上り下りで足が筋肉痛になってしまう。
「梨乃は毎日ここを上がるのよね」
私はため息をついた。
拓哉のペースでゆっくり上ったが、私の足はだるくなり、息は弾んでいた。少し休憩しようと立ち止まり、ふと視線を上げると、雨に濡れた木々や草の緑色が生き生きとしていて、目に染みるようだった。拓哉は意外にもご機嫌で、疲れた様子はない。
校門を入ると、他にも傘を届けに来た保護者が数人待っていたので、一階にある1年生の下駄箱のそばで世間話をしながら待っていると、まもなくチャイムが鳴った。
「たっくん、もうすぐお姉ちゃん出てくるよ」
2階の教室から1年生が出てきたようだ。一度に階段を下りてきたので、見逃すまいと梨乃の姿を探していると、梨乃が下りてきた。
「梨乃ちゃん!」
私が手を振って呼ぶと、梨乃が私たちの姿を見つけた。二重瞼のくりんとした目がまんまるになった。
「ママ!」
梨乃は、サンタさんのプレゼントを見つけた時と同じくらいうれしそうな顔でかけよってきた。
「傘を持ってきたよ」
梨乃が私の腰に抱きついた。
「ママ、ありがとう!」
「さ、帰ろうか」
私が傘をさして校門に向かおうとすると、梨乃が驚いた。
「ママ、車は?」
「今日は歩くの。雨の日に梨乃ちゃんとたっくんとお外を歩きたいなって思ったから」
梨乃は笑顔になった。残念な顔をされたらどうしようかと心配していたが、それは私の思い込みだった。
階段は人が二人並んだら一杯になるような細い階段だ。拓哉に合わせて一段一段降りていると、梨乃が言った。
「このかいだんはね、あめの日はお花がさいてるみたいになるんだよ。ママにもみせてあげたいな」
朝、登校する時、階段の下から見上げると、階段を上っていく大勢の子供たちの傘で埋め尽くされ、色とりどりの花が咲いているように見えるらしい。
「へえ~、それはとってもきれいでしょうね」
胸がじんとした。
雨はだんだん強くなってきた。傘に当たる雨がボツボツと大きめの音を立てる。
「こうやるとぬれにくいよ」
梨乃は傘を前に斜めにして進んで見せた。教えたことはないのに、自分で考えたのだろうか。日々の通学で少しずつ成長していることを感じ、誇らしくなった。
坂道を登り始めるころには、ますます雨は強くなり、土砂降りになっていた。
「わあ! ママ、みて!」
拓哉が興奮気味に指をさした。アスファルトで舗装された坂道の端の方を、雨水が勢いよく流れていた。
「うわあ! 川みたい!」
梨乃も大喜びで指をさした。
「本当だ! 川みたいねえ!」
私もめったに見られない光景にうれしくなった。
しばらく行くと、梨乃がよそのお宅のガレージの方に歩いて行った。
「ねえ、ママ、見て見て!」
ガレージの屋根の端から大量に落ちてくる水の下に傘をさすと、傘がボボボボと音を立てて大きく震える。梨乃は雨の日はいつもこれをやっているに違いない。私も昔やっていた。あの感触が癖になる。
「うわ~! おもしろいねえ!」
拓哉もやりたがって、きゃあきゃあ言いながら楽しんでいた。
土砂降りの中、私達親子は靴の中までズブズブに濡れていた。でも、子供たちの笑顔はおひさまのようで、私の心は快晴だった。
私は今まで子供たちの話を今日みたいにちゃんと聞いていただろうか。子供たちが見ているものを同じ目線で見て、一緒に喜んでいただろうか。
雨なんて大嫌いだった。雨は憂鬱なものと決めつけていたし、雨が降ったら早くやんでほしいといつも思っていた。でも、今日は違う。やまなくていい。家に帰るまでずっと降っていてほしい。
冒険旅行から帰ってきたような気分で家に到着し、玄関に用意しておいたタオルでふくと、お風呂に直行した。いつもは義務のように入っているお風呂も、今日はとても楽しかった。
お風呂から上がってホカホカになった子供たちはご機嫌でおやつのドーナツを食べていた。あんなにザーザー降っていた雨もやんだようだ。
「ママ、きょうはたのしかったね」
「たのしかったね」
ふたりのこぼれるような笑顔を見て祖母を思い出した。私は祖母を見る時はいつもこんな顔をしていたと思う。だから祖母が死んだとき、誰よりも泣いた。その時、私は小学校三年生だった。
祖母は口癖のように、
「つらいことや嫌なことは神様からの贈り物なんだよ」
と言っていた。だけど、祖母との別れの辛さが、神様からの贈り物だとしたら、神様ってひどすぎると思っていた。でも、今日はこの言葉の意味をちゃんと理解したいと思った。
私は父に電話した。私は父が苦手で、今までずっと避けてきた。父は単身赴任が長かったため、ほとんど家にいなかったので、どう接していいかわからなくなったのだ。今思えば私と妹の学校のことを考えての単身赴任なのだが、思春期に娘のそばにいなかった父の居場所は、我が家にはなくなった。父が帰ってきてからも、話さなければならないことは、ほとんど母を通していた。でも今日は直接父に祖母のことを聞きたいと思った。
「お父さん、おばあちゃんって、いつもつらいことや嫌なことは神様からの贈り物なんだよって言ってたでしょう? あれってどういう意味なのかな」
「ああ、おふくろの口癖だったなあ。それは……」
あまり笑わない父が笑顔になっているのが声で分かった。
父は幼いころから、つらい時や悲しい時、祖母に相談すると、いつもその言葉をもらっていたという。そこには三つの教えがあった。つらいことは人を成長させてくれるということ。悲しいことは人の心がわかる優しい人にしてくれるということ。そして、つらいとか悲しいということはその人がそう思って決めつけていることが多くて、何でも感謝できるということ。この三つの教えなのだそうだ。
「でも、お父さんは、おばあちゃんが死んだことを、神様の贈り物って思える?」
「そうだなあ。とても悲しかったけど、思えるよ。おばあちゃんは病気で、しばらく入院していただろう? その間、おじさんやおばさんたちが来てくれたの、おぼえてるか?」
私は幼かったから、ぼんやりとしか覚えていないが、それまで父と疎遠だった父の姉や弟が、交代で祖母の病院に行っていたそうだ。祖母の看病を通して、兄弟の絆が強くなったのだという。そして父は、医療スタッフや友人たちの温かさに触れ、とても感謝したそうだ。
「おばあちゃんは亡くなることでいろんなことを教えてくれた。何より、兄弟が仲良くなるようにしてくれたんだ。あれ以来みんなで海水浴に行ったりしてるだろう? それに、あの時みんなでおばあちゃんを一生懸命お世話させてもらえたから、悔いはないよ」
目頭が熱くなってきた。
電話を切ると、さっきまでの大きな雨音は聞こえなくなっていた。私の膝の上にのっていた拓哉が立ち上がって向こうへ走って行き、入れ替わるように、梨乃が膝の上に滑り込んだ。しっかりしているようだけど、まだまだ幼い。
「ママ、おじいちゃんと、なんのおはなししてたの?」
「あのね……」
私は声をつまらせてしまい、梨乃をぎゅっと抱きしめた。
優しかった祖母、いつも自分のことより人のことばかり考えていた祖母。最後までみんなのことを思っていたに違いない。
私は父を避けてきたことを後悔した。もっといろんなことを相談すればよかった。そうしたら、もっと早くに祖母の教えを理解できただろうし、何よりも、父ともっと仲良くできただろう。今からでも遅くないだろうか。
「……あのねつらいことや嫌なことは神様からの贈り物なんだって」
「ふうん」
梨乃はよくわからないという顔をしていた。
「ねえ! ママ! 見て! 虹が出てるよ!」
ベランダの窓のところから拓哉が叫んだ。膝の上にいた梨乃がぴょんと立ち上がったので、私も後を追った。
「わあ! きれい! ねえ、ママ、大きな虹だね!」
梨乃が目をキラキラさせている。
雨はすっかり止んで、向こうの山の上に大きな虹がかかっていた。
「ほんとだ。すごく大きな虹だね。これも神様からの贈り物かな?」
私は虹を見ている子供たちを後ろからぎゅっと抱きしめた。
――おばあちゃん、ありがとう。私もおばあちゃんの思いを子供たちに伝えるね。それからお父さんのこと、好きになれそうだよーー
終わり
神様の贈り物 楠瀬スミレ @sumire_130
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