解れ
平山安芸
解(ほつ)れ
幼馴染のナターシャが大切にしていたぬいぐるみが盗まれたって聞いて、みんな大層騒いでいた。
バランコの叔父さんも、カトリーヌ叔母さんも、二軒隣のオリアさんも血眼になって探していたけれど、もう一週間も見つからなかった。
それなのに、彼女はどこ吹く風。
呆れた顔をして僕に言うのだった。
「あんなに大切にしていたじゃないか」
「小さい頃の話よ。見つからないのなら、それはそれで構わないわ」
夏が近づいていた。
ダルコが久しぶりに話をしようというものだから、僕らはイストラ川から少し離れた渓流の近くに、アルコールランプと小さな竿を持って集まった。
ニコライとはいつも一緒だけれど、夏休みが続いて暫くご無沙汰だったものだから、相変わらず痩せこけていて僕は少し心配してしまった。
彼はいつも決まって『ニジマスを焼くんだ。そうすれば、僕はいつだって元気さ』と宣うものだから、ナターシャが笑いながら『冬は命からがらってわけね』と小馬鹿にする。
一際図体の大きいダルコは、半年前にクリスマスパーティーから更に背を伸ばしていた。
学校を辞め、配管工の仕事をしている彼に、今も昔も力で敵う相手は居ない。彼は野蛮な男だった。
ダルコは『何かあったらすぐ俺に話すんだぞ』そう言って、小柄で泣き虫な僕や華奢なニコライをいつも守ろうとしてくれる。
けれど、僕はそんなダルコの気遣いを、惨たらしくも感じていた。
「あぁ、あの熊のぬいぐるみか」
「えぇ」
「部屋から一度も出さなかったんだろう?」
「えぇ」
「なら、誰かが盗み出したってわけだな」
ダルコは頭も良かった。容姿も統率力も並の人間よりよっぽど優れていて、周りのみんなを纏めてくれる。
きっと、将来は大物になるのだろう。
誰もがそう言った。
僕だけは、そうは思っていなかった。
「さあ、始めようか」
「本当に釣れるのかしら」
「分からないさ。でも、きっと美味しいよ。今までも、ずっとそうだったからね」
ニコライは暢気な面でそう言った。が魚が跳ね、水しぶきが彼女のスカートに飛び散る。夏が終わろうとしていた。
ぬいぐるみが見付かった。
彼女の家からすぐ近くにある、森のなかだった。駐在さんが見回りの途中で、拾って持って来てくれたとバランコ叔父さんが喜んでいた。
ぬいぐるみは、当たり前だけど酷く汚れていて、もう彼女のベッドに置いておくことは出来なかった。
左腕はほつれていて、小さい子どもへプレゼントするにも憚れるほどに。
「いったい、誰がこんなことしたのかしら」
叔母さんは犯人探しに躍起だった。叔父さんは『そんなことしても、ナターシャは喜ばないよ』と窘めていた。
当のナターシャは、相変わらずぬいぐるみに興味を示そうとしなかった。
「だって、ずっと棚の上に置いたままだったのよ。あの人たち、知らないの。そんなこと」
「でも、大切なものだったんだろう?」
「昔の話よ」
僕はなんだか、彼女のことが怖くなってしまって、その場を後にした。
翌日、ニコライが僕の家を訪ねて来た。
彼は僕の顔を見るや否や、こう言い放った。
「君が盗んだんだろう?」
「そんなわけないじゃないか」
「でも、彼女の部屋に上がるのは、僕と君しかいないよ」
「ダルコかもしれないぞ」
そう言うと、ニコライは黙ってしまった。
僕も黙っていた。
彼はなにも言わず、その場を去った。
僕は暖炉の火をくべようと、薪を手に取った。
冬が近づいていた。
ナターシャの家でクリスマスパーティーをするようになってから、もう何年も経つ。足腰の弱い叔父さんたちの代わりに、飾り付けは僕の仕事になった。
僕が作った輪っかの飾りを見て、ナターシャは笑った。『貴方、輪っかだけ作っても、仕方ないじゃない』。
僕は気付いた。二つを繋げなければいけないのに、どうしてこんなことをしてしまったのだろう。
「ガサツなところばかり、ダルコに似てきたわね」
「冗談でもそんなこと言わないでくれよ」
「本当のことよ」
ナターシャは笑っていた。
僕にはそれが、怖くて仕方なかった。
暫くしてダルコも、ニコライも、オリアさんもやってきた。クリスマスプレゼントを渡し合って、美味しい七面鳥を食べた。ニコライが持って来たニジマスは、彼だけが食べていた。
すると、不意にナターシャが立ち上がった。
彼女は僕の前を通り過ぎて、ダルコの元へと向かった。
「私達、春にこの街を出るわ。モスクワで暮らすの」
叔母さんは泣いていた。そんな彼女の肩を支えながら、叔父さんは豪快に笑っていた。オリアさんも、ニコニコと笑っていた。
暖炉の火が、少しずつ消え掛けていることに、僕だけが気付いていた。
春が近づいていた。
彼女が旅立つ日。
駅舎へ向かうナターシャを僕は呼び止めた。
「どうしても、行ってしまうんだね」
「えぇ」
「ダルコは良い奴だ」
「えぇ。頼りになる人よ」
最後の最後に、僕は本当のことを言えなかった。
行かないでくれ。これからもずっと、僕と一緒にこの街で暮らしてくれ。喉の先まで出てきた言葉を、僕はぐっと飲み込んだ。
「一つだけ、聞きたいことがあるの」
「なんだい」
「どうして、左腕だけ取ってしまったの?」
彼女は美しく笑う。
ポケットに忍ばせたソレを、僕は強く握り締めた。
「私の左手は、ずっと空いていたわ」
「でも、もう埋まっているの」
「貴方のそういう意地汚いところ、嫌いよ」
汽笛が鳴り、彼女は街を去った。
春がもう、すぐそこまでやって来ていた。
手紙が届いた。
二人の幸せそうな写真が同封されていた。
僕は封筒ごと手に取って、イストラ川に向かった。
ニコライとは、もう三ヶ月も話をしていない。きっと誘ったところで、彼は釣り竿も、アルコールランプも持って来てくれないのだろう。
投げ捨てた封筒に、何かが食い付いたような気がした。釣竿を放ったとこころで、なにも釣れないのは分かっていた。
水しぶきが飛び散って、顔に掛かった。
明日も来るつもりだ。
変わらないまま、ここで終わらせたい。
解れ 平山安芸 @akihirayama
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