第3話 尼とお婆婆の昔語り(おかいこ姫)完結
また、うとうとと眠ってしまいました。
でもこうして目が覚めてもまるで何が何やら解りません。
自分が誰なのか、自分の名は何というのか。
ここはどこなのか。
思い出せそうで思い出せないのが辛くて悔しい。
ああ、このモヤを払いのける事が出来たらどんなに良いだろう。
年を取るという事は情けなく心もとないものだ。
あれ?羽虫が飛んでいる。
まるで私と戯れるように。さっきから私の周りを飛んでいる小さな白い羽虫。
お前を見ていると何かが思い出せそうだがやっぱりさっぱり解らない。
あら縁先の尼様、
貴女様の事はボンヤリ覚えておりますヨ。
いつから、ここにおいでに?
ずっと私の側にいて下さったのですか?
私は何か話をしていましたか?
何か夢を見ていたような気がするのですが。
その夢さえ目が覚めた途端、煙が消えるように遠くに流れて行ってしまいました。
私は何を話していましたか?」
「お婆婆様、
大変為になるお話を聞かせていただきました。私はここで次のお話を楽しみにしているのですヨ。」
はて、さて次の話と言いましても、すぐには思いつきませんが、
私のおつむは本当にどうしてしまったんでしょう。
尼様、私はこれからどうなるのでしょう。
私のおつむは何も思い出せなくなって考える事も出来なくなるのでしょうか?
「お婆婆様、何も心配する事はございませんヨ。
安心して全て御仏様に委ねるのです。
全て御仏様が導いて下さいます。
お婆婆様が眠りたくなったらお眠りなさい。
お婆婆様が目が覚めて、何か思いついてお話したくなったら私にお聞かせ下さい。
そして、また眠たくなったらお眠りなさい。
それで良いのですヨ。」
「尼様は何でも心得ていらっしゃるのですネ。
尼様、私はいつこの世を旅立って、あの世に行けるのでしょうネ。
近々でしょうか?いつお迎えが来るのでしょうか?
いいえ、私死ぬのが恐くて言っているのではございません。
ただ、死んだ後どうなるのか本当の所を知っていたいと思いますが、尼様は何かお知りではありませんか?」
尼は笑いながら、
「死んだ後にどうなるかは、やはり死んだ人でなければ解りませんが、“死んだ後はこうなるだろう”というそれぞれが抱えている思いで死への心の持ち様も変わって来るのだと思いますヨ。私が思うに“生”から“死”へはそんなに大層な壁がある訳ではなく、ほんの一足の事だと思っています。
お婆婆様は近頃、ようお眠りになってらっしゃいますネ。
そのお眠りの時間が少々長くなってお目覚めにならない。
それが“死”です。
そんな具合で“死”は私達のすぐ隣にいつも存在していると思います。
“死”というものは本人にとっては悩みも苦しみも痛みも無い安楽な場所です。
ですから決して恐れる事はありませんヨ。
かえって、残された人は暫らくは大変でしょう。
近しい人が居なくなるという事は大きな喪失感を伴いますからネ。
人は誰でもそれから立ち直って生きて行かなければならないのですから・・・。
お婆婆様はよう長生きされました。
沢山の経験をなされました。
そういうお方のお話を聞くのはとても貴重で生きている人達の為になるのですヨ。」
「尼様、私はそんなに為になる事を話しましたか?自分が何を話したのかも、もう何も覚えていないんですヨ。」
「お婆婆様、それで良いのですヨ。無理に話した事を思い出さなくても良いのです。
これからお婆婆様の頭に浮かぶ事から思いつくままにお話し下されば良いのです。
私は、お婆婆様のお話に本当に心がなごみます。」
「そうですか、私のような耄碌した者の他愛ない話でも尼様のお役に立っているというのなら、
そうですネー、何がいいでしょうネ。
あら、やっぱり羽虫が飛んでいる。
この羽虫は私の事が好きなのでしょうか。
さっきから、私の周りを飛んでいるんですヨ。尼様には見えませんか?」
「はてさて?
お婆婆様にだけ見える羽虫なのでしょう。
もしや羽虫も、お婆婆様のお話を楽しみにしているのかも知れませんヨ。」
「あれあれ、私の肩に止まりました。
あら?聞いてくれるの?姫さん?
姫さん?
姫さん?
ああ、この事で思い出しました。
あれは私の小さい頃に婆婆さんから聞いた話だったかどうか。
定かでは無いですが、それでいいですか?
おかしい所があっても笑わないで下さいヨ。
それじゃ聞いていただきましょう。
私もよく婆婆サーから昔話を聞いたものです。
小さい頃の私は昔々で始まって、めでたしめでたしで終わる昔話が大好きでした。
ですからそのようにお話しましょう。
昔々、ある所に貧しい村がありました。
お米を作って、その中から年貢を納めると、もう残りはわずかしか残っていません。
そのわずかなお米と大根や芋等やあわやひえ等でようやく暮らしを立てておりました。
でもそれは今に始まった事ではなく、祖父様のそのまた祖父さまの頃からこの近隣の村はどこも同じような暮らしでしたから。
そんな暮らしを当たり前のように受け止めて貧しい者同志、分け合い助け合って生きていました。
見渡せば周りはのどかに横たわる山々、近くの川には清らかな水がサラサラと流れています。
そういう村には決まって物織りの婆様や、良識のある爺様がいるものです。
そういう一見平和に見える村にもちょっとした諍いや揉め事はあるものです。
そういう時に一番に相談するのが物織りの爺様、婆様でした。
爺様、婆様といって馬鹿には出来ません。
昔から伝わる言い伝えや、変わった事件を記憶していてその記憶の引き出しから出して来てこの場合、あの場合にと人々誰もが納得するような解決の方法を指し示してくれるのですから年寄りこそが知恵袋です。
清池の婆様もそういう一人でした。
婆様の家の前には“清池”というかなり大きな池があり、名前の通りいつもきれいな水を湛えていました。
その水がどこから流れて来るのか、湧き出て来るのか不思議でした。しかしその池では最早間に合わないような日照りが五、六年に一度程の割合であり水不足になる事がありました。
それはチョロチョロの細い小川は勿論の事、あんなに勢いのある大きな川迄が川底の石が見える程、水不足になるのでした。
そういう時は清池の水を誰もが求めに来るのですが、いくら大きいと言っても池一つで村全体の他の水をまかなうのは到底無理な話でした。
そういう年はどうしても米も不作で、例年に増して貧しく、あの唯一のささやかな楽しみの正月の餅さえ食えない有様になるのでした。
育ち盛りの幼い子供達の、がっかりする顔を見るにつけ親達は情けなさを味わうしかありません。
そばやひえでようやっと命は繋いではいますが、それもギリギリの状態でした。
清池の婆様はこう度々の飢饉が来るのではどうにかせにぁあかんと常々思い、村の世話役とも話し合っておりました。
ある日、家の前を通りかかるお坊様がありました。
婆様は、お坊様を見かけると、すぐに声を掛け、お坊様を縁先に腰かけさせて、熱い茶を出しました。
これは婆様の楽しみでもありました。
婆様の家の前はいろいろな人が通って行きます。
その人達からは必ず珍しい話を聞く事が出来ました。
不思議な話や、今、他の土地ではどのような事が起きているのか等。
人は、どのような人でも何か為になる事を一つや二つ持っているというのが婆様の口癖でした。
婆様はそういう茶飲み話を聞き漏らさずに胸の中の小部屋の引き出しにきちんと仕舞っておいて、必要な時に取り出して村の人達に話して聞かせるのです。
そして今も目の前にいて、湯飲み茶碗で両手を温めるように飲んで目を細めているお坊様は、かなり高齢ながら若い頃からいろいろな土地を、もう長い事巡り修行されている事をほんの最初のうちに聞きだしたのでした。
それで婆様は、お坊様に、
「何年か毎に繰り返される水不足には他の所はどうなさっているのかのー。」
と話を向けて見ました。
するとお坊様は、
「それはいろいろですナ。
飢えて口減らしに子供を間引いたり、娘を身売りしたり、それでも足りずに年寄りを山に捨てる所もあります。」と言ってから、
坊様は婆様をチラリと見て、
「ここの村は年寄りが元気だという事は良い事ですナ。」と言った後、
「だが、こういう村がありましたナ。
そういう年を見越して年寄りや子供にかいこを飼わせているのですヨ。
桑の木があれば、かいこは育ちます。そのかいこは桑の葉を食べるとやがて繭を作ります。その繭から絹糸という糸が採れるのですヨ。
その絹糸は織ると高価な反物になるので、その副収入で乗り越えている村がありました。
最初、思いついて始めたのは一軒だったようですが、田んぼの世話をしながら年寄り、女、子どもでも手伝える事なので、みんなも力を合わせて、かいこを飼うようになりました。
そこの村ではやがて娘達も売られる事なく、年寄りも山に捨てられる事もなく、どこの家でも誰もが力を合わせて心穏やかに仕事をしていましたナ。」
何気なく話したその事を清池の婆様は聞き逃しませんでした。
この話を聞いて婆様はすぐに立ち上がりました。
年寄りとは思えない素早さで、
そして世話役の所にお坊様を連れて行きました。
その年は米の方は何とか例年並みになるだろうという見込みでしたが、だからと言って呑気にしていて明日にも来年にも天候はどうなるか解りません。
今年が大丈夫だからとのんびり構えていても翌年には手ひどい打撃を受けた事は幾度も経験して来た婆様でした。
世話役はものの解った人でしたので、忙しい身ではありましたが、すぐに村の代表者を何人か集めて坊様の話を聞いて貰う事にしました。
その事は村人にとって目の覚める一大事件だったのです。
清池の婆様の村は海に近い所にあり、おかいこを飼う習慣はありませんでした。
婆様の年寄りとも思えぬ行動に突き動かされた村人達は、それからは、その村がどこにあり、その村を見に行く者数名を決めて、すぐに行動を起こしました。
桑の木を植える、かいこの作り方、育て方から糸の取り出し方。
それから、その糸を反物にするための織り方等々、それ等を学ぶのには最初から簡単に行かなかったけれど、どうした訳か村人の心が一つになりました。
誰もが自分の子供や自分の老いた親を失いたくない一心で文句を言う者は一人もいませんでした。
学びに行く者達の留守の間、人手不足を皆が助け補い合いました。
そのようにして、あれから何年経ったでしょう。
最初はほんの少しの繭を貰い、その繭からかいこ蛾が出て、ごまのような卵を産みつけ、その卵がさなぎになり、やがて繭を作りました。
最初は見よう見真似で始めたおかいこ様でしたが、ようやくこの頃ではどの家でも天井におかいこ様の部屋を作り、水不足の年が来ても冷害の年が来ても、どうにか乗り越えて行けるという安心した気持ちで暮らせるようになりました。
当然ながら、清池の婆様の所でも、
おかいこ様は大事な働き手として大切に天井裏の部屋に飼われていました。
婆様には四人の孫があり、女の子が三人と男の子が一人でした。
上の二人の女の子は一人前に母親を手伝う年頃になっていましたし、三人目の男の子も父親について外仕事に出ていて、家の中には婆様と一番下の女の子がいるだけです。本当に小さいヨチヨチ歩きの頃からいつも婆様にくっついて歩き婆様に質問します。
婆様はどの孫が一番可愛い等と考える人ではありませんが、一番下に年が離れて生まれたこの女の子がどうしても可愛くて仕方ありませんでした。
この子が嫁に行くまで婆婆は生きておれるだろうか?と時々考えます。あれから何年も経って
清池の婆様も昔のように元気はなくなりました。
やっぱり無理だろうか?と思ったりしました。
女の子の名前はおゆうと言いました。
婆様は桑の葉をいっぱいに摘んで来ては、それをおかいこ様に与えます。
婆様は言います。
「おかいこ様、おかいこ様、たくさんたくさん食べやんせ。」
と声をかけて桑の葉を置いて行きます。
すると、おかいこ様は、サワサワサワと食べるのです。
その音を聞きながら、婆様は、
「ああ、ああ、たんとたんと食べやんせ。」と微笑みます。
幼いおゆうは婆様に聞きます。
「婆婆サー、婆婆サー。どうしてこの虫にはおかいこ様って“様”をつけるの?
畑の葉っぱにつく虫と同じように見えるのに。」
と言いました。
婆様は笑いながら、
「野菜の葉に付く虫は葉っぱを食い散らすけど、この虫はただの虫では無いんだヨ。桑の葉をいっぱい食べると口から白いきれいな糸を吐いてそれで繭を作って、その中で静かにお眠りなさるのだヨ。
その繭を私達に贈って下さるのだヨ。
その繭から糸を採って売れば私らの暮らしは助かるんだヨ。
この虫は私らを助けて下さるんだヨ。
私らの為に一生懸命、糸を吐いて働いてくれる、そういう一生を送るから、皆、有難くておかいこ様と呼んで大事にするんだヨ。
おゆう、解ったかい?」
「うん、解った。」
またある日おゆうが、
「婆様、婆様、
糸を採る時、大きな鍋でグラグラ煮るって姉様達が言ってたけど、繭の中のおかいこ様は熱くねえだろうか?
熱い熱いって泣かないだろうか?」
とおゆうが目をまんまるくして婆様に聞きます。
婆様はいつもの笑顔を少し悲しそうにして、
「それは婆婆にも解らネ。
だけど、おかいこ様はうーともすーとも声を出さないであの世に行きなさる。
きっときれいな糸を吐いて、人のお役に立つ為に生まれて、それが自分の役目で宿命だと解っておられるんだろうヨ。」とだけ答えました。
おゆうは少し悲しそうな顔をしました。
それを見た婆様は、
「おゆう、お前に見せたい物がある。」
と言って、奥の間に連れて行きました。そして、奥の間の小だんすの引き出しから赤いフワリとした布を出し来て、てそれを小さな手に乗せました。
「これが絹という布なんだヨ。
おゆう、私やお前の着ている麻や木綿の着物と全然違うだろ?
天女の羽衣のようじゃろ?」
と婆様は言いました。
おゆうは小さな手の上から今にもふわりと飛んで行きそうなその布をいつまでも、いつまでも見ていました。
「おゆう、お前にも年頃になったら、これで髪結う結び紐を作ってあげるからの。
それ迄は婆様が大事にとってあるからの。心配せんでいい。」
と言って婆様はフワリとしたその赤い布をまた引き出しに仕舞ってしまいました。
おゆうの目の奥にはフワリとした空に飛んで行きそうな、天女の羽衣のような不思議な透けてみえそうな赤い布がいつまでも残りました。
それからまた、
鍋で煮た後の繭から、姉様方やお母や婆様が糸を採っている時、おゆうは、
採り終わった後にうす茶のおかいこ様が死んだのが出て来るのを目にして、
「おかいこ様はかわいそうだの。」
とおゆうが言ってポロリと涙を流しました。
姉様方もお母も困ったような顔をしていました。
すると婆様は、
「おゆうは人一倍慈悲深い心を持っている子だのー。
おゆうや、だから皆は誰でも感謝しているんだぞ。心の中で手を合わせているんだぞ。
おゆう、お前、よーく考えてみろ。
この世の中に数多くいる虫の中で、こんなに感謝されて大事にされる虫は他にあるか?
嫌われたり、うるさがられて死んで行く虫が殆どでないか?
だけど、このおかいこ様は人から感謝されてその体から吐いた糸はきれいな反物になるんだぞ。
しかも高い値で売り買いされる上等な反物になるんだ。
それだから手に入れた人は大事に大切に身につけて自分だけじゃなく更に子供へ伝え、孫にも伝えられ、中にはひ孫にも伝えられる着物だってあると聞くぞ。
私らのようなものはそういう柔らかい絹物を身につける事もなしに一生を終わるが、高貴なお方やお金持ちの人やまた偉いお坊様にまで長い間、大事に大事に扱われるのは、おかいこ様にとっても本望だろうヨ。」
婆様の言う事はもっともだ。
皆、ほんに、ほんにと頷きながら手元の白い糸を見ています。
おゆうは婆様の話は本当だナーと納得しながら、
「だけれども婆様、
鍋で煮られなかった繭はどうなるんだ?」
と聞きました。婆様は、
「そうだのー、次のおかいこ様を育てる為にとっておいた繭をそのままにしておくと、繭を破って白いかいこ蛾が出て来るんだ。
だどもその白いかいこ蛾はどこにも逃げて行かないんだ。
黒いゴマのようなぷつぷつの小さな卵をいっぱい産みつけるとすぐに死んでしまうんだ。
そのかいこ蛾には口が無いんだ。
口が無いから食べる事も出来ね。
卵を産むとすぐ死んでしまうんだ。
どっちみち、おかいこ様は短い一生なんだヨ。」
と話して聞かせました。
皆が一瞬しんみりしました。
おゆうの目からまたポロポロ涙が落ちました。
それを見た婆様は、
「さあ、おかいこ様に改めて手を合わせて感謝したら、供養にぼたもちでも作って食べようかネ。」
と言ったので、
皆は思い思いに手を合わせました。
それからまた数年が過ぎました。
おゆうも年頃の娘になって来ました。
上の姉サ達は二人共嫁に行って、
おゆうは同い年の友達より少し遅れたが月のもののしるしが来ました。
一人前の大人になった印です。
お母も婆様も喜んで赤飯を炊いて家族で祝ってくれました。
おゆうは何だか自分が大人の女になったのが気恥しいような少しだけ嬉しいような気持ちになりました。
婆様は約束通り、
あのフワリと軽い天女の羽衣のような赤い布で髪を結ぶ紐を作ってくれました。
前の髪を一度頭の上で結び、それを一緒に後ろで一つに束ねるのですが、その前髪を一度結ぶ時に赤い紐で結ぶと顔が急に華やかに見えて、花かんざしは無いけれど両脇に結んで垂れた赤い紐が急に娘々して見えるのです。
お母も婆様も大した別嬪になったと喜んでくれました。
結んで垂れたフワリとした赤い布端が丁度、耳の近くに来て揺れるのが何とも言えず嬉しくて、おゆうは自分が急に大人になったようで、しっかりしなければならないと背筋をピンと伸ばしてみたりしました。
おゆうは今ではお母やお父や兄サを手伝って田畑の仕事もしましたが、
婆様が年をとって、かなり弱って来たので、おかいこ様の世話をするのがおゆうの主な仕事になっていました。
それにおゆうはおかいこ様が大好きなのでした。
天井のおかいこ部屋に入って、おかいこ様の様子を見るのが生甲斐になっていました。
「おかいこ様
おかいこ様
いつも、いつもありがとうございます。
おかいこ様
おかいこ様
たんと、たんと食べやんせ。
たんと、たんとあがりやんせ。」
そう言いながら桑の葉を与えて耳を澄ますと、
サワサワ
サワサワ
と美味しそうに食べている音がします。
「たんとたんと
お腹いっぱいあがりやんせ。」
サワサワ
サワサワ
無心に無邪気に食べるその音を聞くと
おゆうは、
嬉しいような悲しいような気持ちになるのでした。
「おいしいかい?おいしいかい?
たんと、たんとあがりやんせ。」
そう言いながら何故かいつも涙がポロポロと流れて来るのはどうしようもありませんでした。
こんな所を見られたら、さぞおかしいだろう。
まだまだ子供だと笑われるだろう。
そう思って涙を拭いて部屋を出るのがいつもの事でした。
そして、その年もおかいこ様はお腹いっぱい桑の葉を食べるとピタリと食べるのをやめて眠りに入る準備に取りかかるように自分の体の周りに白い糸を吐き始めました。
おゆうはおかいこ様達に話しかけました「ゆっくり、ゆっくり、お休みなさい。次に生まれて来る時は、自分のなりたいものにおなり。蝶になりたいものは、蝶におなり。鳥になりたいものは、鳥におなり。
ぐっすり眠って楽しい夢をいっぱい見るんだヨ。」と心を込めて言いました
そして、おゆうのおかいこ様は立派な繭になりました。
婆様は、
「あれまあ、随分立派な大粒の繭だネ。
おゆうの世話が良かったんだネ。」
と誉めてくれました。
家族みんなに誉められ嬉しいには違いないけれど、
その心の底に、おかいこ様ごめんネ
と思ってしまうのはおゆうの弱い心がまだまだ大人になっていないからかナと思ったりしました。
さあ、今日はいよいよ繭から糸を採る日です。
お父が大きなザルに山盛りの繭を、煮立てた大鍋の中に入れるのです。
土間の隅でおゆうはお父がザルを傾けて、その鍋に自分が育てた繭を入れるのを息をのんで見守っていました。
心の中ではごめんネ、ごめんネと言いながら・・・。
するとおゆうの目の端に、
お父の抱えているザルの中から何か白い小さな物がピョンと飛んだように見えました。
お父は気が付いていないようでした。
おゆうはあっと気付いたけれど、気が付かないふりをしていました。
何故かその小さな物が鍋に入るのを嫌がり逃げたように見えたからです。
繭には足が付いていないから、逃げたくても逃げられません。
おゆうは幼い頃からこの作業が苦しくて、どうしても平気で見ている事が出来ませんでした。
ですから、いつも胸を押さえてしまうのです。
そんなおゆうを婆様はそっと見ていました。
土間での作業が板の間での糸取り作業に移る為、皆が居なくなるとおゆうは、
さっき、ピョンと逃れるように飛び跳ねたのが何だったのか確かめようとその辺りの隅を探してみました。
すると気を付けなければ解らないような土間の隅に、豆粒ほどの小さな白い物がまるで人目から隠れるように落ちていました。
おゆうはそれをそっと、つまんで見ました。
それはそれは今まで見た事もない小さな繭でした。
今年の繭はどれも大ぶりで粒ぞろいの立派な繭ばかりでしたが、その五分の一程にもならない、ちんちゃな繭でした。
こんな小さな繭があるのだろうか!
一瞬、家族や、特に婆様に見せてあげたい!
という気持ちに駆られましたが、
おゆうはそれを思いとどまりました。
この小さな繭は逃げて人の目から隠れているように見えたからです。
おゆうはそれをそっとそのままに隠しておきました。
何故かは解らないけれど、これは誰にも知られてはいけないような気がしたからです。
次の日、
朝餉を食べた後、皆がそれぞれの仕事に取りかかるのを確認すると、
自分も手早く後片付けを済ませて、時間が出来たのを幸い、
おゆうはまた、土間の隅に行ってみました。
赤ちゃん繭はまだチョコンとそこに隠れていました。
それが何故かおゆうには、
じっと隠れながらおゆうが来るのを待っていたように思いました。
そっと手の平に乗せると愛らしくて、
おゆうの心にホワンと温かさを伝えてくれました。
「遅くなってごめんネ、待っていたの?」
と小声で囁いて、こっそりそれを持って、おかいこ部屋に上りました。
そこは誰も邪魔する者のいないおゆうだけの世界でした。
おゆうは体は一人前の大人になっても心はいつまでも昔のまんまの子供っぽさの抜けない自分の心を人前では隠していました。
だけれども、このおかいこ部屋ではそんな無理をしなくても良いのです。
おゆうは手の平のちっちゃい繭に話しかけました。
「あなたは何でこんなに小さいの?」
すると手の平の繭が幽かに動いたような気がしましたが、気のせいかも知れません。
おゆうはまた、
でも、「こんなに小さな繭になれたのは、さぞ可愛らしいおかいこのお姫様なんでしょうネ。」
と愛おしむように話しかけますと、
幽かにトントンと音がしました。
それはあまりに幽かでお父やお母、ましては婆様にも聞きとれないような
小さな小さな幽かな音でした。
でも、若いおゆうには確かに聞こえました。
びっくりして、
まさかネと思いながら、
冗談っぽく、
「貴女はおかいこのお姫様なの?」
と話しかけるとまた、
小さくトントン
と音がしました。
偶然に違いない。
空耳に違いない。そう思いながらもまた、
「私はおゆうって言うのヨ、知ってる?」
と聞くと、
また、小さくトントンと幽かな音がします。
おゆうはすっかり嬉しくなって、
「私の事好き?」と聞くとまた、
トントンと音がします。
「大好き?」と聞くとまた、トントンと返事をします。
嬉しくて嬉しくて何度も問いかけてみましたが、
やっぱり小さく返事をしてくれます。
話しかけないと黙っています。
話しかけても返事をしたくない時は黙っています。
おゆうが好きかと聞くと必ずトントンと音がします。
これは夢かも知れない。
でも夢でもいいのだと思いながらも、
自分は“あぶたのアネサマ”のように気がおかしくなったのかナ?」と思いました。
“あぶたのアネサマ”とは気のふれた女の人の事でした。
おゆうの胸はドクンドクンとしました。
きっとこの話をしたら、お父もお母も婆様も兄サも、
私が“あぶたのアネサマ”のように気がふれたと大騒ぎして心配するだろう。
だから、この事はおゆうと、おかいこの姫様の二人だけの秘密だ、そう思うと、
おゆうはいきなり、髪に結んだあの赤い結び紐をほどいて、その端の縫い目を少し広げて、その中に小さな繭を入れました。
それから元のように髪に結びつけました。
繭はあんまりにも小さいので、
そうして髪に結びつけても中に小さい繭が入っているのは誰も気がつかないだろうと思われました。
おゆうは、
“これでよし”と自分にもその姫ちゃんにも言い聞かせました。
それからのおゆうは、
普通に仕事をしていてもワクワクする気持ちは消えませんでした。
時々、頭にそっと手をやって触れてみます。
いる!いる!姫ちゃんがいる!
きちんと私のそばにいる!
誰かに向かって叫びたい気持ちがするのを、それをぐっと我慢しているのですから、つい何か妙な気配になってしまうのです。
きっと顔が笑ってしまうのでしょう。
「どうかしたのかい?」
と何度か家の者に聞かれました。
「何かいい事があったのかい?
何だかいつものおゆうじゃないヨ。変だヨ。」
と言われたりしました。
「何でもないヨ。」と、つっけんどんな返事をしながらも、
誰もいない所で、そっと頭に手をやってしまいます。
いるいる!すごく嬉しい。
自分でも、気が変になるってこういう事なんじゃないかと思ったりする。
でも、それなら、おかしくなるのも悪くない。
人に言わなきゃ、私がおかしいの解りゃしないんだから。
そう思ったりするのでした。
そんなある日、
同い年のおたつが家の前に来て、
ニッコリ笑って、
「おゆうの家の仕事まだ忙しいの?」と聞きました。
おたつの家はもう大分一段落したようでした。
おゆうの家も家族全員が気持ちを一つにして頑張ったお陰であと少しという所でした。
「気晴らしにおゆうちゃんと、たてしのの浜へ行って貝でも拾いたいナーって思ってサ。」と遠慮がちに言います。
おたつはいい子です。
何人かいる同い年の女の子の中でも一番優しくて、おゆうとも気が合いました。
後ろを振り向くと婆様が、
「いいヨ、行っておいで。
みんなも鮑やつぶの煮たのを食べたいだろうから。」
と言ってくれました。
お母達もニコニコ笑っています。
おゆうは嬉しくなって急いで蔵に行って、支度をして出かけました。
たてしのの浜という所は歩いて四十分程もかかる所にありました。
おゆう達の家はかなり上の方にありましたので、下に降りる坂道を駆け降りるように走って行くと、遠くに長い広い砂浜が見えて来ました。
丁度今から行くと海の方に傾いたお日様がまぶしくて、貝を拾って帰る頃には夕陽がとてもきれいな筈でした。
夕方近くになると何故か鮑やつぶ等の貝が浜辺や近くの岩場にぞろぞろと上って来る穴場をおゆうとおたつは知っていました。
気持ちいい程採れるあの嬉しさを思って、息せき切って二人は走って行きました。
おゆう達が砂浜に着いた時、
何故かいつもの砂浜がずっと広く感じました。
岩場も遠くまで波がひいてあちこち飛んで行ける程です。
あれ?おかしいナ?とおゆうは思いました。
こんなの初めてだ。
おたつは喜んでぞろぞろ見えている貝を今にも拾いに行こうとしています。
だけど婆様がよく話してくれた昔話に、
「磯からずっと波が引いた時にはすぐ逃げろ!」
っていう話があったっけ?
おゆうはすぐにその事が頭の中に浮かぶと、
「おたつ!!何か変だヨ!帰ろう!」と言いました。
すると耳の近くの赤い結び紐の中の姫ちゃんが、
トントントン
と、それがいい、それがいいと教えています。
おゆうの胸はドクンドクンとして来ました。
急がないとと思うと、
耳の横でもしきりにトントントンと言っています。
姫ちゃんが、
逃げろ、逃げろ、早く逃げろ。
と教えてくれているに違いありません。
おゆうはおたつの手を掴むと一目散に坂を登り始めました。
おたつのビックリする顔を見ても、
「おたつ、ごめん。
今は私の言う通りにして!!」と言うばかりです。
おたつは何が何だか訳は解らないが、
こわばった顔のおゆうに逆らわないで一緒に坂を登り始めました。
かなり登ってから振り返って沖の方を見ると、
さっきは見えなかった黒い塊のようなものが沖一面に、まるで黒い屏風のように見えたかと思うとそれがどんどんこっちに近づいて来るのが解りました。
おたつが、
「何?あれ!」と指さして見ています。
「あれがきっと津波だヨ。
おたつ、婆様が言っていた。
大昔、津波がお寺の下まで来たって。
それから、お寺もお墓もみんなずっとずっと上に移したんだって。
おたつ、もっともっと上に逃げよう!」
「昔は家もずっと浜に近い所にあったんだって。
でも、今はずっとずっと高い所にあるだろ?」
おゆうは話しながらも、
家のある所まで逃げなければと走った。
おたつと走りに走って必死に上の方へ登った。
やがて、
おゆう達の家が見えて来て少し安心して振り向くと、
何と黒いものがおゆう達がたった今登って来たばかりの道をせり上がって追いかけて来るではないか!。
それは、まるで二人を捕まえようとでもするようにそこまで追いかけて来ているのでした。
その時には何とも言えない気味悪い波の音もゴーッと音立てているのでした。
二人はギャーッと叫びながら手に持っているものも全て投げ捨てて必死で逃げました。
遠い沖で屏風に見えたものが、ほんの少しの間にすぐ後ろ迄迫っていたのには身の毛のよだつ恐怖を覚えました。
結局、体こそ濡れませんでしたが、危ない所でした。
あの時、おゆうが機転を利かせてすぐにおたつの手を引いて逃げなければ、恐らく二人共、あの黒い津波に飲み込まれて死んでいただろうと思います。
もう、ほんの後ろ迄来ていたのですから。
おゆう達の家や殆どの家は上の方に建ててあったので無事でした。
二人は恐ろしさと安心とでお互いしがみつきながら二人抱き合ってへたりこんでしまいました。
その頃には家々から人が多勢出て来ました。
おゆうのお父やお母も、おたつの親達も浜に向かった二人を心配して待っていました。
二人が奇跡的に無事だったので親達は泣かんばかりに喜びました。
翌日の朝になって、
浜の近くや下の方にあった家が流されて、何人かの人が流されて行方が解らないと大騒ぎになりました。
そして、その日から幾晩も浜辺には夜通し、かがり火が焚かれ、海に引きずられて行った人達の遺体があがるのを願ってボンボンとうちわ太鼓の音が悲し気に何日も響き渡っていました。
その暗い悲しみは暫らく暫らく続きました。
とにかく大変な大津波でした。
おゆうは自分に昔話をしてくれた婆様と耳の近くでトントントントンと鳴って危険を知らせてくれた姫さんに助けられたのでした。
おたつには婆様の昔話を思い出した事を話し、かいこ姫の事は内緒にしましたが、
年とった婆様とおかいこ姫は命の恩人だとしみじみ思ったのでした。
その事があってから増々、おかいこの姫さんはおゆうの大切な話相手になりました。
何かあると姫さんにそっと相談しました。
何も音がしない時は反対なのだと思いました。
些細な事でもトントンと音がする方を選ぶといつも良い事がありました。
それは、もう秋の借り入れも済んで一段落して、正月が来る前に村で女達だけの集まりがありました。
毎年その集まりは、主に若い娘や、若い嫁、または中年のおばさんもいたりで結構賑やかな村の女達の早めの年忘れ会のようなものです。
その大きな楽しみは、
中に何が入っているか解らない「福袋とり」でした。
何が当たるかは開いて中を見る迄は全く解らないように大きな白い袋で作ってあります。
参加人数はその年は八十人程でしたので、八十程用意された袋の中には大抵は家事に必要な物や日持ちのする食料品が多い中で、きれいな着物が入っていたり、かんざしのようなものが入っているのも、ほんのいくつか混じっているので、まあ、若い娘や嫁さん達にとってはそれが大当たりという事になります。
ズラリと並ぶ福袋、どれもみんな同じように見えます。
女達は皆、血まなこで選びにかかります。
手に持って確かめる事は出来ません。
手をつけたらそれを選ばなければなりません。
どれがいいだろう?
おゆうとおたつもワクワクしながら見て回っていると、
一つの袋の前でトントンと姫ちゃんの音がしました。
おゆうは、
「おたつ、どれにする?私はこれがいいと思う。」と言ってその袋を取りました。
おたつはまだ迷っています。
もう少し見て歩くとまた一つの袋の前でトントンと音がします。
その時ばかりはおゆうが、
「おたつ、これにしたら?」と言ってしまいました。
いつもはそんな差し出がましい事をするおゆうでは無かったのですが、
姫ちゃんの言う事を聞いていれば良い事がありそうな気がしたのです。
おたつも素直にニッコリ笑ってそれを取りました。
おゆうは二つの袋を両手に持って、
おたつの好きな方を選べばいいヨと言うと、
おたつは、
「私、もともとクジ運が無いんだ。どっちでもいいヨ。」と言って一つを取りました。
それから二人は隅の方へ行って袋を開いてみました。
すると何て事でしょう。
おゆうの袋にも、おたつの袋にもきれいな着物が入っているではありませんか!
二人は抱き合って喜びました。
それを見ていた周りの人達は、
あれまあ、二人共揃って大当たりだなんて!と驚きました。
その偶然はそれから暫らく何年も福袋選びの日が来る度に話題になったものです。
だけどおゆうはあの後は何があっても、姫ちゃんがトントンと教えてくれる事があっても、得する事をしないように心掛けました。
何か自分がズルをしているようで、
教えて貰って得をするのは卑怯な気がしたからです。
それからも、
人と競ったりするときはトントンと教えてくれる姫ちゃんに、
「ありがとう。だけどいいのヨ。そんなに得ばかりしていたら姫ちゃんが居なくなっちゃうようで心配だから。」
と話しかけました。
本当にそんな気がしたからです。
婆様が話してくれる昔話には、
あまり欲をかくと終いにはとんでもない悪い事が起こるという話があったような気がするからでした。
とにかく今まで大して特別運の良い訳でも無かった平凡なおゆうが、
津波で命を助けて貰ったり、福袋選びではおたつと揃って大当たりして喜び合った。
その事だけで充分なのだから、これ以上得をしようと欲を出してはいけないと思いました。
そのようにして月日が流れて行きました。
おゆうもおたつも年頃の娘になりました。
他の同い年の娘達の中にはポツリポツリと嫁の口がかかるようになりました。
おゆうにも話が一つありました。
同じ村の結構物持ちの家の跡取り息子で、お父はすぐに乗り気になりましたが、
お母と婆様は一生の事だからおゆうが自分で決めろと言いました。
おゆうは正直、嫁入りの事はまだよく解りません。
特別好きな人がいる訳でもないし、そういう相手が居なければ親の決めた相手に嫁がなければなりません。
多くの娘は親の決めた相手に嫁ぐのが当たり前でした。
お父は末娘のおゆうに、
「無理にとは言わない。だけど、どこの娘もそうしているが、特別問題のない相手なら早く嫁入りするに越した事はないぞ。」と言いました。
おゆうはその相手を見た事がありましたが、好きとも嫌いとも思えない相手でした。
迷いに迷っても心は決まりませんでした。
ついにおゆうはおかいこ姫に聞いてみました。
聞くというよりも話しかけてみたのです。
「おかいこの姫さん。
私、お父のいう人に嫁に行った方がいいと思う?」と聞いてみました。
姫さんは何も言いません。
姫さんはもう死んでしまったのだろうかと心配になって、
「姫さん、姫さん、おゆうの事好き?」
と言ってみました。
するとトントンと音がします。
いる、いる、まだ私の所にいる。
もう一度念の為聞いてみました。
「姫さん、姫さん、
今度の話、受けて嫁入りした方がいいだろうか?」と。
だけど姫さんは黙ったままで答えてくれませんでした。
結局おゆうはその話を受けない事にしました。
それはおかいこ姫が返事をしないという事よりも何だか相手を好きになれない気持ちだったからです。
縁談を持って来た人にお父が、
「まだまだ、わらしだすけ、嫁なんて務まりません。」と返事をしているのが聞こえました。
その後、すぐに違う娘がその家に嫁入りする事が決まったと話に聞いたがおゆうは何とも思いませんでした。
ただ、村のおばさん連中が集まると、
何であんな良い話を断るのかネとヒソヒソ話している事はおたつから聞いて少し悲しい気持ちがしました。
そうしているうちにも、
おたつにも隣村から嫁の話があり、
あっという間におたつは嫁に行ってしまいました。
おたつがいなくなると、おゆうの身の周りは急に淋しくなりました。
お母もお父も何も言わないけれど、
あれからおゆうの所には誰も縁談の話を持って来なくなったので、残念に思っているに違いありません。
近々、断った相手の所では盛大に嫁ぶりがあるらしいと話を聞きました。
おゆうが淋しく見えたのでしょう。
婆様が、
「何事も縁というものがあるすけネ、今におゆうが嫁に行きてーと思えるお方が、きっと現れるヨ。」
と励ましてくれました。
「おゆうの嫁入りは何としても見届けねばならねーからの。」
そう言う婆様は今ではかなり老いてしまって、おゆうはそんな婆様を見て力なく笑いました。
おたつも居なくなって、
急に皆、同じ年頃の娘達はバタバタと嫁入りして、
おゆうは急に一人ぽっちになりました。
秋風の吹く夕暮れは家にいるのも辛くて何となく浜の方へ降りて行きました。
つい、この間まで無邪気な子供でいたのに、自分はいつの間にか大人の女になってしまって、どこかに嫁に行かねばならないのです。
今度こそ話があったら何が何でも受けねばならない年です。
砂浜に腰を降ろしていると、
吹いて来る弱い風でさえ何か寒々しくて、おゆうには冷たく感じられて、淋しくて泣きたいような気持ちになって来るのでした。
おゆうは誰もいない砂浜で少しだけ泣いてみました。
ちょっとだけ泣いてみようと思ったのに、泣き始めると、堰を切ったようにどんどん涙が溢れて来ました。
誰もいない事に安心して少し声を出して泣いてみました。すると、次から次と悲しみが押し寄せて来て、こらえきれなくなって、
誰もいないので思いっきりオイオイ泣きました。我慢が切れてオイオイ泣きました。
思いっきり泣くと少し気持ちが楽になりました。もう、日が暮れ始めています。
砂を払って立ち上がりながら、
「姫ちゃんごめんネ、泣いたりして。
もう、大丈夫だから。さて帰ろうかナ。」
と言うと、耳元でトントンと音がしました。
もう夕暮れだよと教えてくれているのです。その音を聞くと、
おゆうは元気が出て来て、話し相手の耳元の姫ちゃんに話しかけます。
人が見ていたら独り言に聞こえたでしょう。
「さて、どっちを行こうか?
あの崖下の道は近道だけど草が深いから、やっぱり遠くてもこっちを行こうかナ?」
と話しかけると何も音がしません。
「エー?崖下の道がいいの?」
と言うと、トントンと音がしました。
「本当に崖下の道がいいの?」
と念を押すとやっぱりトントンと音がします。
もう陽も大部海に沈んで薄暗くなりかけています。
日の暮れるのが早くなって来ているので、おゆうは崖下の道を急ぎ足で駆けるように行きました。
人が殆ど通らない道なので草の丈もおゆうの背丈程もあって気持ちが悪い道でした。
心細さを紛らわすのに相変わらず話しかけます。
「だけど姫ちゃんがいいって言うんだからこの道にしたのヨ。」
時々心細いので、耳の横の姫ちゃんに触れながら話しかけながら急ぎ足で行くと、
崖の真下になって草のまばらになっている所に人がうずくまっているのが見えました。
こんな所でしかも薄暗がりの中では、人がいないのも淋しいけれど誰かに会うのも正直恐ろしい気持ちでした。
だけれども、
その人は、「ううう。」と呻いています。
怪我をしているらしいのです。
おゆうは恐ろしさを我慢して、
「どうしたんですか?」と声を掛けながら、
草をかき分けて近づいて行きました。
この夕闇の中で、いきなり声をかけられ、それに驚いて振り返ったのは若い男の人のようでした。
男の人は足を怪我していました。
おゆうは駆けつけて傷を見てみました。
「この崖からうっかり足を踏み外して、ここまで落ちてしまいました。
困っていたのです。
連れが二人いたのですが、急に私が消えたので心配しているでしょう。」とその男の人は言いました。
きちんとした話し方の、声も身なりも、この辺の男の人とは違っていました。
傷は崖から落ちた時に何か鋭い物が刺さったのか左足がかなり出血しているようでした。
すぐに出血を止めなければと思ったけれど、おゆうは何も持っていませんでした。
ふと、頭の結び紐を思い出し、それをほどいて傷の上の太ももを強く縛ると出血は止まったようでした。
その時のおゆうは必死でした。
「もう少し行くと大きな道に出ます。
近道があるので私の肩につかまって下さい!」
おゆうはその若者に肩を貸して薄暗い草の道を一足一足登って行きました。
急に暮れて行く登り坂を必死で歩きました。
ようやっと登り切って広い道に出る頃にはもうすっかり暗くなっていました。
安心と疲れで座り込んでいる二人の目に遠く灯りが見えました。
提灯を掲げて、「おーい、おーい。」と叫びながら来る多勢の人達です。
「若さーん、若さーん。」と呼んでいる人もいます。
おゆうは安心して力が抜けるのを感じました。
すると怪我をした若者が、
「あなたの名前は何というのです?」
と聞きます。
「おゆうです。」
「どこのおゆうさんですか?」
「清池のおゆうです。」
と答えている間にも迎えの人達が二人を見つけて走ってやって来ました。
口々に無事を喜んでいます。
おゆうはその人達から離れて、一人先に自分の家に急いで帰って来ました。
家の前に来て頭に手をやって初めて、姫ちゃんの入った結び紐をあの人に貸してしまった事に気がつきました。
おゆうは後悔しました。
何故私はあの時あの結び紐を貸してしまったんだろう。
何故姫ちゃんの事を思い出さなかったんだろう。
大事な大事な姫ちゃんはどうなってしまったろう?
だけどあの人の足を縛った時も手に姫ちゃんのコロリとした手ごたえはありませんでした。
あったら結ぶ時に気がついたはずなのに、あの時夢中で少しも気がつかなかったのです。
ああ、どうしよう。
後悔は次から次へと襲って来ました。
でももう遅い。
おゆうは力無く家の中に入って行きました。
家の者達が口々に帰りの遅くなった訳を聞きましたが、
それにもろくろく返事をしないで婆様の部屋に入って布団をかぶって寝たふりをしました。
おゆうは婆様と一緒の部屋だったのです。
おたつも居なくなって、
唯一、心の支えだった姫ちゃんの入った結び紐まで無くしてしまいました。
あの赤い紐は仕方が無いけれど、姫ちゃんだけは無事でいて欲しい。
姫ちゃんが居なくなったら私はどうして生きて行けばいいんだろう?
たった一人の話し相手だったのに・・・。
おゆうは布団をかぶって泣き声を出さないようにしながらもこらえきれずに嗚咽は体から容赦無くせり上がって来て泣いてしまうのでした。
そのおゆうの気持ちは誰よりも婆様には解るらしく、
「おゆう、人間が生きて行く上にはいろんな事があるもんだヨ。
悲しい事も、苦しい事も、淋しい事も。
悔しい事も。沢山、沢山、あるもんだヨ。
そういう事が次から次とやって来て、それに耐えて行く事が人間が生きるという事なんだ。おゆうにもそんな日がやって来たという事だろうネ。
だけどネ、おゆう。
苦労も幸せも、きちんと平等にあるもんだと思うヨ。
雨降りの後におてんとう様が顔を出すように。
冬の後には春が来るように。
おゆうにもきっとまた、嬉しい事が来るヨ。
絶対来るヨ。来ない筈ない!
そういうものなんだから、さあ、今晩はぐっすりお眠り。
自分の大好きなものを思い出して眠るんだヨ。」と言いました。
だけど、おゆうは大好きなものを思い出そうとすると、
それはやっぱり、おかいこの姫ちゃんなのでした。
そう思うとまた泣いて泣いていつまでも泣いて、そのまま泣き疲れて眠りました。
その晩おゆうは夢を見ました。
おゆうが大鍋で湯がいたおかいこから糸を採っているのです。
繭から糸端を見つけて糸車に巻いていると、最後にちんちゃい、ちんちゃいあの繭が残っていました。
「ああ、おかいこの姫さん、この鍋に入ってしまったの?
死んでしまったの?
もう私にトントンと返事をしてくれることは無いの?」
と言って泣きながらおゆうは小さな繭から糸端を見つけて糸車に巻いているのでした。
こんなに小さな繭なのだから糸はすぐに尽きると思ったのに、
巻いても巻いても糸は尽きません。
おゆうは、
「姫さん、こんなに頑張って糸を吐いたんだネ。」
と感謝と別れの悲しい涙を流して、いつまでもいつまでも糸を引いている夢でした。
やがて朝になりました。
おゆうは涙に濡れた頬で目を覚ましました。
ずっと泣き通しだった事は家族の目にもその顔でよく解りましたが、
何があったのかを誰も聞きませんでした。
だけど誰もが髪の赤い結び紐が亡くなっている事に気付いていました。
おゆうは朝餉も食べる気になれず、
二階のおかいこ部屋に行って魂の抜けた者のように体を横たえていました。
この先、自分はどうなるのだろう。
とても心細くてこの世の中から消えてしまいたいような気持でした。
すると、
階下でガヤガヤ幾人かの人の話し声がします。
誰かお客様のようでした。
少しすると、
その人達が帰ったのか静かになりました。
それでもおゆうは、夕方迄、力が出て来ないでおかいこ部屋にいました。
夕方、お母が迎えに来ました。下に降りて行くと、
丸一日、ご飯を食べていなかったので食べなきゃいけないと皆に叱られました。
その時に、
今日来たお客が、
怪我を負っておゆうが助けた人の連れの人達や見送りの人達だった事。
怪我人はまだ歩ける状態ではないので元気になったら改めてお礼に伺います。
と挨拶に寄ったという事を知らされました。
それでもおゆうの心は元気になりませんでした。
それから少ししてかなり立派な品々がお礼としておゆうの家に届けられました。
お父もお母も兄サも婆様も、
おゆうが大変な人助けをした事をその時初めて知ったのでした。
皆が騒いで喜んでいても、おゆうは前のように元気にはなれませんでした。
悩みや悲しみを経験し、おかいこの姫さんも失った今、前のような子供らしい無邪気さや気楽さが消えて、おゆうは愁いのある娘になっていました。
それからまた数か月して、
ある日、
連れの者二人を従えて、
目も覚めるような様子の若者がおゆうの前に現れました。
怪我をしている所を助けられたという若者でした。
あの時は薄暗くてお互いよく顔が解りませんでしたが、声を聞いておゆうは確かにあの時の人だと思いました。
そして、、急に何か懐かしいような切ないような想いが溢れて来て顔が赤くなりました。
それは相手も同じようでした。
その人は遠く離れた城下町で手広く生糸や反物等を商う大きな店の若旦那だという事でした。
この度、父親から本格的に店を任せられるに当り、生糸の産地を使用人二人と見回って歩いている最中の事故だったようです。
思わぬ事故だったと使用人は不思議がり、
「何故あんな所で急に消えたのか?未だに不思議で仕方がありません。」
連れの男二人は首をかしげていましたが、
当の本人はおゆうの顔を見つめながら、
「そういう運命だったんでしょう。」とサラリと言って、
おゆうの目を見てニッコリ笑いました。
おゆうは、その人の顔を見、声を聞いた時、こんな人が世の中にいたのか、この人のお嫁さんになりたいナと心の底から思いました。
その人も同じ気持ちのようでした。
それからトントン拍子に話が進み、おゆうは大店の若旦那様の所に嫁ぐ事になりました。
その事はもう小さな村では大騒ぎになりました。
大変な玉の輿です。大出世です。
一人取り残されて心細い想いをしたおゆうが、本当の心から好きな人と巡り逢ったのです。
婆様の言う通りでした。
悲しい事の後には嬉しい事がやって来ました。
おゆうは、
これは姫ちゃんが私を導いてくれたのだと確かに思いました。
姫ちゃんはあの時、夕暮れの中で頭から結び紐をほどいてあの人の怪我した足を縛る時、自分の役割を果たしてするりと抜けて飛び立ったに違いありません。
そう言えば、
怪我したあの人を肩で支えながら一足一足進む自分の周りを小さな白い羽虫が励ますように飛び回っていたっけ。確かに飛んでいたのを今、思い出しました。
草むらの事だったので不思議にも思わなかったけれど、
「姫ちゃん、あれはあなただったの?あなたはあの後どうなったの?
姫ちゃん、あの後小さな卵を沢山産み落とす事が出来ましたか?
そうだったらと祈ります。」とおゆうは心で話しかけました。
嫁入りが決まると、
婆様も凄く喜んでくれました。嫁入りは盛大でした。
おゆうの豪華な嫁入りを見届けた後、まもなく清池の婆様は安心したようにあの世へ旅立ちました。
おゆうは幸せになったその後も、婆様と姫ちゃんの事はいつまでも忘れませんでした。
そして、
もう一つの婆様の言葉も忘れませんでした。
“良い事の後にはまた悪い事があると心しておくように”
と言った言葉です。
その思いを大切にしたおかげで、おゆうは大きな災いも無く幸せに一生を過ごす事が出来ました。
はい、これで昔話はおしまいです。
尼様、楽しんでいただけましたか?」
「はい、本当に良いお話でした。
これはお婆婆様のお話ではございませんか?」
「あら、そうでしょうかネ。」
「お婆婆様のお名前はもしやおゆうさんというのではありませんか?」
「おゆう?おゆう?おゆう?
ええ、ええ、そうです。確かに私の名前はおゆうです。
思い出しました。ええ、ええ、そうです。
ああ良かった。何だかホッと致しました。
でも、安心したらまた、眠くなって来ました」。
お婆婆様、
ゆっくり、ゆっくり
お眠りなさいませ。私はいつまでもここでお待ちしておりますから。
おわり
昔話/尼とお婆婆の昔語り やまの かなた @genno-tei70
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