ほのかな、青苦み。

待居 折

高2の夏

 5、4、3、2…1!


 時計の秒針をじっと見上げながら、ゼロになったタイミングで席を立った。

 都合良く、僕の席は後ろのドアに一番近い。休み時間を知らせるチャイムを聴きながら廊下に出ると、隣のクラスに、前のドアからずかずかと入り込んだ。

「なぁ、昨日の配信観た?凄かったよな、決勝戦の神エイム!」

「あー…昨日だったっけ。忘れて寝てた」

「嘘だろ?観てないなんて損してるって!だって因縁の対決だよ?」

 さっきの授業はきっと現国だったのだろう、顔にしっかりと居眠りの跡を付けたまま、中学からの腐れ縁は僕の話を「へー」と「ふーん」のみの薄い反応で聞き流している。

 でも、僕は全く構わない。そもそも、この教室に事あるごとに通うのは…ちょっと申し訳ないけど、目の前で大欠伸をしてるこいつと話したいからじゃない。

 こいつの左斜め後ろに座る神崎さん。学年でも指折りの才色兼備な彼女をひと目見たいが為の訪問だった。

 ハードカバーの本を開いてうつむく睫毛は、ここからでも分かるぐらい長くて、

 肩より長い綺麗な黒髪が、窓からそよぐ五月の風にそよいでて、

 肌なんて本当に透き通るみたいに白いし、

 こんなに素敵な女の子が何でこの時代に生まれたんだろう…とか、湯船に浸かりながら真剣に考えたほど、僕は彼女から目も心も離せなくなっていた。

「神崎さーん」

 教室の後ろの方からクラスメイトに呼ばれると、彼女は振り向いて微笑みながら席を立った。友達とはどんな話をするんだろ…流石に内容まで想像すると自分でも気持ちが悪いので、ここらへんでやめておこう。

 とにかく、偽装工作はしっかりしておかないといけない。

 神崎さんを目で追い過ぎてた事に気付いた僕は、どうでもいいトークのギアを上げる事にした。依然眠そうなこいつには申し訳ないけど、神崎さんを好きな気持ちは、絶対にバレるわけにはいかない。

「でさ、公式から次のアップデートが発表されたんだけど、新キャラ二体だって!」


 …うちの高校に限った話かどうかは分かんないけど、「〇組の誰かが〇組の誰かを好き」といった恋愛ゴシップは、とにかく広まるのが早い。

 何が楽しいのか、噂好きの誰かが愉快犯的思考で、意図的に流してるんだと思う。その証拠に、正式に付き合ったカップルについての噂話は全く流れない。

 この校内ワイドショーの餌食にでもなった日には、どっちも意識してギクシャクする…なんて程度で済むならまだ軽傷。おおっぴらに冷やかされたり、最悪、話に尾ひれが付いて「キモい」だのなんだの、妙な糾弾を受ける事にもなりかねない。

 まだ二年の春だ。今から卒業まで、約二年もそんなレッテルを貼られたら、たまったもんじゃない。

 頭じゃそう分かっているのに、気が付けばまた、神崎さんに見とれてる自分がいた。クラスメイトと仲良さそうに話す彼女が不意に笑った。それを目にして胸の真ん中らへんがカーッと熱くなったからか、急にあの日を思い出した。

 四月。

 移動教室で理科室に向かう途中、僕は何人かのクラスメイトと廊下を走ってた。休み時間中、くだらない話に没頭した結果、授業開始に間に合いそうになかった為の全力疾走だったんだけど、その様子をたまたま神崎さんは見てたらしい。

「田中くんの走り方ってなんだか面白いね」

 腐れ縁の席の前、取り留めもなくゲームの話を垂れ流してた僕に、彼女は急に話しかけてきて、にっこり笑った。

 僕は全く運動が出来ない。だから、走るフォームが人とちょっと違うのは、小さい頃から引きずる立派なコンプレックスだった。

 中学では友達に茶化されて、本気で怒ってしまって大問題になった事もあるし、つい最近で言えば、クラスが代わって初回の体育の授業の時、同じ様にクラスメイトにからかわれ、二週間ほどぼっこりヘコんで世界を呪った事さえある。

 なのに。

 ”こんな可愛い子を笑顔に出来るなんて運動音痴で良かった”

 冗談みたいな話だけど、その時、心からそう思えた。

 そして、恋に落ちたんだ。




「ねぇ田中くん」

 六月。いきなりの土砂降りに、それでも無理矢理帰ろうかと玄関で考えている時、声をかけられた。

 振り向くと、僕よりちょっと大きな身長のショートカットの女子が、大きなバッグを肩に担いで微笑んでる。良く日焼けしたその顔に見覚えがあった。確か、陸上部で隣のクラスの…、

「松山…さん?」

「私の名前知ってるんだね、意外ー」

 そう言ってまた笑った松山さんは、僕にとんでもない爆弾を放り投げてきた。

「田中くんさ、琴音の事好きでしょ」

「や…え?はぁー?な、なに言い出してんだよ急にー!」

 神崎さんを下の名前呼びしつつ核心を突いてくる、とんでもない威力。

 誰にもバレていない自信があっただけに、僕は声を裏返して取り乱した。顔も相当引きつっていたに違いない。

 そんな僕をじっと見ていた松山さんは、更に畳みかけてくる。

「見てたら分かるよ。隠さなくても良いって、誰にも言わないからさ、ね?」

「…絶対、内緒にしといてよ」

 自分でも早いなと思えるほど、あっけなく陥落した。

 僕の名誉の為に言わせてもらうけど、遅まきながら恋をするのも初めてなら、それを見透かされるのも当然初めてな上に、明らかな奇襲。この状況なら対処出来なくても致し方ない。はず。

「だいじょぶ、約束するから!…でね?」

 少しだけいたずらっぽく笑った松山さんは、僕の顔を覗き込んでくる。

「私、琴音と同じ地元で友達なんだ。だから色々と手助けできると思うよ」

「い、色々って…なに?」

「例えばそうだなぁ…遊ぶ約束したりとか、紹介するぐらいならいつでも」

「え…?!」

 思わず言葉を失った。まさか隣のクラスに慈悲の神様がいらっしゃったとは…。実に魅力的な提案なのは間違いない。

 でも、大概こういった上手い話には裏がある。油断は出来ない。

「…その代わりに僕は何をしたら良い?」

 警戒心が顔に書いてあったのか、松山さんは「ははははっ」と大きな声で笑った。

「やだなぁ、交換条件なんてないよ。たださ、見てらんないぐらい『好き』が溢れちゃってるから、みんなにバレちゃう前になんとかした方がいいかなって…それだけ」

「そんなに?!」

「あれで隠せてると思ってるの?」

 焦る僕を横目に、松山さんはまた愉快そうに笑った。…そうか。自分で思っている以上に、僕の演技力はゴミだったんだな。

 うっかり隠し通せなかったらと思うと、にわかに怖くなった。追い詰められたこの状況下、目の前に差し出された助け舟に乗らない手はない。

「…じゃあ…お願い」

「了解!お任せあれ!」

 覚悟を決めたはずなのに、なんだか恥ずかしくてぼそぼそとしか喋れない僕に、松山さんは笑顔で自分の胸をドンと叩いてみせた。




 秘密の契約が結ばれたその翌日から、勤勉な僕は松山さんから神崎さんの情報収集にいそしんだ。

 遊ぶどころか、紹介してもらう事ですらまるで現実味が伴わなくてふわふわするけど、いずれは来るだろう会話の瞬間に備えて、まずは基本的な部分を知っておかなくては。

 帰宅部の僕は、陸上部の練習が終わるまで図書室の隅でうとうとしたり、友達と無駄に喋ったりしながら時間を潰して、松山さんと一緒に帰る道すがら、神崎さんの話を聞いた。

「やっぱり良い家柄なんだ…そうだよなぁ、納得だよ」

「まぁ見るからにお嬢様だもんね。小さい頃から可愛くて有名だったよ、地元でも」

 神崎さんと松山さんの地元は、電車で西にふた駅行ったところだった。学校から駅までの短い時間をなるべく有効に使う為、僕は授業中から何を聞こうかまとめたりもした。

 貴重な情報源と毎日一緒に帰っているおかげで、色々な事が分かってきた。

 中学から学年トップクラスの秀才だった事、

 四つ離れた妹がいる事、

 駅前にあるケーキ屋のシュークリームに目がない事、

 家が日本舞踊の教室をやってる事、

 大人しそうに見えるけどホラー映画が好きな事。

「彼氏、いた事ないよ」

「急に何言ってんの…あんまり驚かさないでよ」

「いやほら、そういうのって人によっては気にするじゃない?だから一応、さ」

 彼氏、という言葉を耳にした途端、なんだか心がずっしりと重くなった。僕が急に黙り込んでしまったからか、松山さんはあの時、慌てていた気がする。

「田中くんは告白とかしないの?」

「しないよ。絶対しない」

 この質問は即答出来た。

 もしこの世界が漫画になったなら間違いなくモブキャラの一人になる事以外、僕には何ひとつとして自信がなかった。

 運動は出来ないし、勉強だって並の下程度。特技のひとつもなく、ただただゲームしかしない、ごく普通の目立たない学生。

 そんな僕があんな高嶺の花を手にしようだなんて、思い上がりも甚だしい。きっと罰が当たる。

「釣り合わないのは分かってるし」

「そっか」

 僕のどろどろした思いなんて、当然、松山さんは知らない。だから、返ってきたのはいかにも彼女らしいドライな言葉だった。

「ま、後悔しないようにね」

 夏休みに入るまでの間、松山さんの部活が長引いた日以外、殆ど毎日、駅までの道程を一緒に帰った。

 話す量と回数が多くなれば、自然と話題は脱線していく。神崎さんの話に留まらず、僕たちはお互いの話もした。

 僕は、いつも陽気な父さんの事、母さんが砂糖を入れ過ぎた煮物の話、なんにも見えてこない進学の不安なんかを。

 松山さんは、髪を伸ばすか迷ってる事、三人きょうだいの真ん中の苦痛、インターハイに向けてのタイムの話とかを。

 そして、駅に着くと「また明日」と手を振ったり、急に恥ずかしくなって振らなかったりして帰る。

 そんな夕焼けの風景を、夏休みが来るまで繰り返した。

 



 夏休みのある日。クーラーの効いた部屋でアイスをくわえながら、僕はいつもの様にぼぉっとゲームをしていた。


「…松山さん、今日も部活かな…」


 …ちょっと待って。今、僕なんて口走った?

 自分の独り言に混乱した僕は、慌ててキッチンに行くと、水をがぶ飲みした。飲み終わる頃には、もう答えが出ていた。いつの間にか、松山さんの事が気になって仕方なくなっている。

 ちょっと会わなくなっただけで、意識せずに口から名前が出るなんて…やっぱり携帯の連絡先ぐらい聞いておくべきだった。SNS自体やってないからそっち経由も無理。

 …それ以前に、神崎さんは僕の中でどうなったんだ。

 自分の移り気の酷さに呆れながら、それでも僕は松山さんに会いたかった。あの少し鼻にかかった声を、大きな笑い声を聞きたかった。

 陸上部は間違いなく夏休みでも絶賛部活動中のはずだ。行けば間違いなく会える。かと言って、帰宅部の僕が学校で友達にでも目撃されたら始末が悪い。「何しに来たんだあいつ」ってところから変に勘繰られたらと考えると、もうお腹が痛い。

 一旦落ち着いた末に出た答えは、学校に行かざるを得ない日…つまり「補習の日まで待つ」というものだった。

 自分の不出来な頭の閃きに感謝する日が来るとは思わなかったけど、その日から、カレンダーとにらめっこしながら、補習までの日にちを数えた。

 自転車を飛ばし過ぎたのか、補習の時間よりだいぶ早く着いた僕は、グラウンドの方へとこっそり歩いてみた。

 遠巻きに見てみると、炎天下にも関わらず、サッカー部も野球部も、勿論陸上部もしっかり練習している。不屈の根性に舌を巻きつつ松山さんの姿を探したけど、どうにも見つからない。

 補習が終わった後、また来よう。そう思っていたけど、友達に捕まってそのまま帰ってしまった。

 補習は全部で四日あったけど、グラウンドまで彼女を探しに行ったのは、この日ともう一日だけだった。

 誰かに見られた時の怖さと気恥ずかしさが、どうしてもつきまとってしまい、自然とグラウンドから足が遠のいたところもあった。

 結局、その二日間とも、僕は遂に松山さんを見つけられなかった。




 新学期初日。僕はいつもの様に隣のクラスへと向かった。ただ、夏休み前とは目的が変わっている。

「おはよ。昨日アップされた対戦動画、観た?」

 正直、目の前の腐れ縁が見てようが見てなかろうが、どうでも良かった。話しながら視線だけで教室にいる一人ひとりを順番に見ていった。…松山さん、いないな。

「田中くん」

 急に話しかけてきたのは神崎さんだった。

「あ、神崎さんおはよう。松山さん今日いないね。欠席?」

 ふわふわしたまま返事をした僕に、神崎さんはなぜか申し訳なさそうな顔をした。

「あのね…璃子、転校したんだよ」

「え…」

 血の気が指先から引いていくのが分かった。そのぐらい、僕にとっては衝撃的な事態なんだなと思う間もなく、神崎さんは小さな封筒を差し出した。

「でね、これ璃子から」

 返事する事すら忘れて、僕は彼女の手から封筒を受け取った。

 松山さんらしい、シンプルなデザインの淡い水色のそれを開くと、同じ色に統一された便箋が一枚入っていた。開いた真ん中には、文章がたった一行だけ。


『私のはバレてなかったでしょ?』


「見てたら分かるよ」初めて話した時、松山さんは確かにそう言った。

 それはつまりそういう事だった。僕を、僕と同じように目で追ってたんだ。

 今更の真実に呆然とする隣で、松山さんの親の会社が倒産してしまい、親戚がいる東北へと身を寄せる事、四月にはもう日取りが決まっていて、夏休み中に引っ越した事を、ぽつりぽつりと神崎さんが話してくれた。

「…璃子、一年の頃から田中くんの事、好きだったからね…きっと辛くて言い出せなかったんじゃないかな…」

 そう呟くと、神崎さんは目尻をハンカチで拭った。


 泣きたいのは、僕の方だ。

 自分に寄せられた想いにも気が付かず、能天気に自分の好きな人の話ばっかりして、やっと自分の本心に気付いたと思ったら、もう伝える相手がここにいない。


「ま、後悔しないようにね」


 そう言った松山さんの横顔を思い出した。

 夕暮れの眩しさで良く分からなかったけど、ドライに言ったのはいつも通りなんかじゃなかった。

 きっと、自分に言い聞かせてたんだ。

 今だけうぬぼれるけど、どうしても面と向かって伝えられないから、ちょっとふざけた形にした手紙で伝える事しか出来なかったんだ。


 でも。

 この形の最後が、後悔しない、本当に望んだ形なの?

 僕には、後悔しか残らないよ。

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ほのかな、青苦み。 待居 折 @mazzan

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