皐月の乙女
菖蒲三月
本編
「おーい、そっちはどうだぁ?」
大きな呼び声が水流のわきに生える雑草の間から聞こえた。
「しぃーっ!」
武琉は草壁へ向けて制したが、焦って手にしていた釣りざおを揺らしてしまう。
ぴしゃん、と銀色のうろこが跳ねて、泳ぎ去ってしまった。
「あぁー! てめぇのせいで、逃がしちまったじゃねぇかぁ!」
「人のせいにすんなよぉっ! 武琉のヘッタクソォ」
草むらの向こうから駆けていく足音だけが残された。
武琉はふうっと息を抜くと、よれた着物の裾をまくり上げ、袖もくるりと腕に巻いた。細いさおを肩にかけて、器用に大岩小岩の間を飛び移る。とんとんと調子よく、わらじの足で川中を渡り、上流へ登った。
山の斜面から伸びる新緑が、高き空から照らす日差しをほどよく遮る。川上から降りる風が土の気配を伝えてきた。
地面を起こされたばかりの匂い。草の青さと獣の息が混ざった、危険な兆候だ。
武琉は注意深く耳をそばだてた。ほんのわずかな音が増幅される。
——イノシシだな、しかも三匹。今夜のメシ、
武琉はさおを地面に寝かせると、懐に隠していたクナイを一本手にする。両刃の小さなその武器は、里の忍びたちが愛用しているものだ。
しかし足音が近づいてくると、樹木の間に見慣れないものを捉えた。
女だ。白い着物姿の若い娘が坂を駆け降りてくる。その背後には丸々としたイノシシが三匹、追ってくる。
あんな身なりの良い、高貴な娘が山から降りてくるとは、何事だろう。とりあえず危なそうだから助けるか。
「おい! こっちに来い!」
武琉は大声で娘の方へ呼びかけた。
「はいっ!」
彼に気づいた娘が澄んだ声で返事し、武琉の方へと駆けてくる。彼は手招きして、大樹の影に沿わせて彼女のたおやかな身体を隠れさせた。追いかけてきたイノシシ三匹は激しい足音を鳴らして真っ直ぐ進み、大樹の横を突風のごとく通り過ぎる。
大樹の脇から武琉がクナイを構え、獣に向かって投げようとすると、その腕に細い手が絡みついた。
「無闇な殺生は、いけませぬ!」
イノシシの群れは目標を見失ったのに、そのまま猛烈な速さで山奥へと過ぎ去った。武琉はクナイが届く好機を逃してしまい、腕を下ろす。
「てめぇ、俺の晩飯だったのにっ」
「えっ? お食事の狩りだったのですか? その、ごめんなさい」
娘は浅黒くたくましい腕をつかんでいた白い手を離した。
「上手いこと助けてやったのに……ちぇ」
武琉は大きなため息をしてクナイを懐にしまうと、彼女に空になった手を差し出した。
「しょうがねぇ。ほら、足、滑らすなよ」
獣道もない山肌は歩きづらい。武琉は忍びの一族が身を隠している、この山里で長く暮らしているから慣れているが、目の前の娘は身なりからして、どこぞの貴族か豪族の姫だろう。きっと山歩きは慣れてない。
「ありがとうございます」
武琉が差し出した手を取った娘は礼を言うと、そっと歩を進めた。彼女の足が少し滑りそうになって、武琉は彼女の手を強く握って腰を引き寄せる。武琉の足の甲に鈍い痛みが走り、思わず顔をしかめる。彼女が武琉の足を踏んでいた。
「きゃっ、あ、ごめんなさい」
娘は彼の表情と感触で、自分が相手の足を踏んでいることに気がついて、真っ白な草履の足を慌てて引いた。
「だから危ないって……」
武琉は改めて注意するよう彼女へ顔を向けた。そこには樹々の緑を映す澄んだ瞳が申し訳なさそうに潤んでいる。
水のように流れる艶めく黒髪、そして白絹の着物がこの荒々しい山には似つかわしくない。ただ周りに咲く桃色のサツキが彼女を飾り立てていて、いっそう輝く緑の瞳からそらすことができなかった。
「あ、あんた、なんでこんな山ん中にいるんだ。どこぞの姫君かなんかだろう。とりあえず里まで送ってやるから、ついてこいや」
しかし娘はその場から動かなかった。縮こまるようにして武琉の手を握っていたのを離して胸元に寄せ、棒立ちになる。
「わ、わたくしは、いいのです。ひとりで帰ります」
「はぁ? こんな山奥から、どこへ帰るんだよ」
「大丈夫ですから……」
武琉は手を再び差し出して先へ進むよう促したが、娘は固まったまま動かない。
「まいったなぁ。陽の高いうちに里へ降りた方が安心なんだが」
差し出していた手を引っ込めて、頭をかきながら少し考えた。時間が経てば彼女の気が変わるかもしれない。それなら釣りの続きをしてから里へ連れて行くか。
「じゃあさ、イノシシは逃しちまったし、少し釣りしてから帰る。付き合えよ」
武琉が不本意ながら提案をすると、娘の顔色が変わった。周りに咲くサツキと共鳴するように鮮やかな笑みを見せる。
「あんた、名前は? 俺は、
彼は何の疑いもなく自然に彼女の名を問うた。しかし娘はその声に再び緑の瞳を潤ませてうつむく。少しして、澄んだつぶやきがこぼれた。
「わたくし……その、よくわかりません」
「はあぁっ?」
そのまま小さく身を固くして娘は下がった。手で口元を覆い、少し震えているようにも見える。
「うーん、名前がわからないって、
武琉は腕を組んで、縮こまったままの娘を見つめた。時折、これまで覚えてたことをすっかり忘れてしまう人間が見つかることがあるが、彼女もそういうものだろうか。言葉は通じる。しかし名前がわからないと言うのなら、どこから来たのか、身内が誰なのかも彼女は覚えてないだろう。
しばらく考え込んだ武琉は、彼女を守るように周りに咲く桃色の花々を見て、ひらめいた。
「それなら、思い出すまでは『
武琉は花の咲く細い枝を折り、うつむいたままの彼女の前に差し出した。
「この花がサツキ。ここで見つかったのも、何かの縁だろう」
顔を上げた娘は緑の瞳を輝かせて返事した。
「はい、ではそうお呼びください。きれいな名前、うれしいです」
武琉は
ふと小枝に添えていた彼女の左手を見ると、さっきまでは無かったはずの銀色の指輪がきらめいた。目の錯覚だろうか。無かったのではなく、元からあったのだろうか。左の薬指ということは、この娘は若いけど誰かの嫁か。
武琉は知らぬ男の影に少しだけ嫌な気分になった。彼女のほんのり紅が差す頬に
「あのっ、くすぐったい、です」
頬がさらに紅く染まってきた彼女は、両手で武琉の手に触れる。初対面でいきなり
武琉は不安にさせないように皐月にひと声かけて、彼女を助ける途中で地面に置いてきた釣りざおを拾いに行った。
それから
「ばあちゃん待ってるから、手ぶらで帰れんし、二、三匹釣っていく」
武琉は勢いよく釣り針を投げる。河岸に転がっている岩に腰掛けて、魚の当たりを待った。
黙って武琉についてきたサツキは上流の滝の方へ目をやると、何やらぶつぶつと、まじないのようなものを唱え始めた。
「お恵みを、お恵みを。父なる山、母なる川よ。どうぞ
サツキはその言葉を何度も繰り返す。武琉は気にしないようにしていたが、美しいささやきが川の流れに溶けていくように感じられて、かすかなしびれが来た。それは人の領域の外にある存在を感じさせる。
突然、川面が弾けた。
何匹もの川魚がひとりでに飛んで、武琉の足元に打ち上がる。陽の光に照らされてぎらつき、ピクピクと身をよじって跳ねていたが、やがておとなしくなった。
「母なる川の、お恵みですわ!」
皐月はびちびちとひれを動かす川魚を両手ですくいあげて、武琉に差し出した。
不可思議な現象に武琉は口をあんぐりと開けてそれを見たが、はっと気持ちを戻して、それを受け取ると腰に下げていたカゴに入れた。続けて地面にのたうつ魚をつかんで入れていく。
武琉は何もしてないのに川から飛び出た魚に気持ち悪さを感じた。でも満面の笑みをたたえて自分を見つめる皐月がかわいいと思うと、どうでも良くなってしまった。
「なんでこう、勝手に魚が飛んできたのかわからんけど、今夜のおかずには十分だな。皐月もよかったら、うちに来て夕飯……」
武琉が魚を腰に下げたカゴにしまって顔を上げると、そこにいたはずの白い着物の娘はいなかった。
草履の足跡はある。確かにそこに立っていた。それなのにすっかり何もない。
いつの間にか陽が傾いていた。武琉の影は伸びて、やがて薄闇に溶けていく。彼は川魚がぎっしり詰まったカゴを大切に抱きかかえて、元来た道を下った。
◇ ◇ ◇
「こんな暮れまで、何しとったんじゃっ」
「悪い、沢で娘っ子ひとり助けてなぁ」
武琉は急いで土間に入る。流しに置いてある木のタライへ持ち帰った川魚を入れて、井戸水でていねいに洗い、串を魚の口から尾へと曲げるように通して、塩をまぶした。
「娘とな? どうして連れ帰らぬ。ようやっと嫁を見つけたかと思うた」
「嫁! いやぁまさか。あれはどこぞの姫君だろう。白絹の高貴な着物を着てたし。左手に婚姻を示す指輪をしてた。それがさぁ、釣りしてたらいつの間にか、いなくなってたんだ」
手早く支度を終えた武琉は婆さまに話しつつ、魚の串を持って板の間に上がり、火がくべられている囲炉裏の周りへそれを差し立てた。
「この魚さ、その娘、えっと
武琉は
「その娘、白絹の着物と言ったな。どんな
「え? 眼?」
そう問われて、武琉は彼女の忘れられない緑を思い出した。
「ああ、里では見たことのない緑の瞳をしてたな。
武琉は川魚の焼け具合を確かめて少し串を動かした。向かいの老婆はシワに埋もれた眼を開いて告げる。
「なんとそなた、水神様、いやまさか竜神様に
彼は老婆に顔を向けた。見たことのない表情をしていたお
「そ、それはどうだろ? ちゃんと人の形をしてたし、長い黒髪で、足も二本あったぞ。真っ白な草履を履いてた。ああでも、自分の名前がわからないって言ってたな。それで俺、それなら皐月って名前はどうだって」
「なんと、
老婆は立ち上がり、拳を握りしめて武琉を凝視した。ただならぬ老婆の様子に彼はたじろぐ。
「あ、ああ……うれしいって、言ってたぞ……」
目の前に皐月の喜ぶ顔がありありと浮かぶ。出会った時、やたら不安そうだった彼女が、名前を仮に決めたら途端に元気になった。
「なんと、なんという。おお水神よ、何かの間違いであってくれ……」
立ちつくしていた老婆は焼き上がった川魚を口にすることはなく、そのまま寝所へこもってしまった。
ひとりで夕飯を済ませた
イノシシに追いかけられて現れた娘。見たこともない美しい瞳と、かわいらしい微笑み。あれはなんの混じり気もない、純粋な乙女だった。
また逢えるだろうか。明日、もう一度沢の奥へ入ってみようか。
あの娘にもう
もう忘れられない、俺だけの
皐月の乙女 菖蒲三月 @iris_mitsukey
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