南風
えーきち
南風
女は南に焦がれていた。
いつも心が凍えていた。あたたかくなりたかった。
肩を抱き腕をさすり、ずっとふるえるだけの人生だった。
息も凍るような真夜中の薄汚れた路地裏で、白い肌をあらわにゴミの山に寝そべっていた女は、くすんだ色のコートを掛けてやると虚ろな目で起き上がり、赤く腫れた頬をゆっくりと擦った。
つい今し方だろうか。誰かにその頬を殴られたのは。そんな腫れだった。
女はふいっと一度目を伏せると、呂律の回らない口で辛うじて聞き取れるくらいの言葉を並べた。
口調は楽しげに。面持ちは哀しげに。
北の地から、南を目指してやってきた。ひとりで、無骨なデザインのボストンバッグだけを抱えて。バッグに押し込んだ札束から金を抜き、女は夜の街を転々としてきた。
凍えた心をあたためたくて、煌びやかなネオンが輝く街で、ちょうど今のように甘い声をかけられてはいつも、優しく微笑む男のあとをついて行った。
笑みの裏側が見え透いていても。その聖人には下心しかなかったとしても。女にはそれで構わなかった。
ただ、あたたかくなりたかった。それで、南に来る事ができたのだと実感したかった。ようやくあたたかくなれた、と。
しかし、どこまで南に行っても女があたたかくなれる事はなかった。
女はいつも南を向いていた。肩を抱き腕をさすり、ただ真っ直ぐ南を向いていた。
次から次へと男たちの厚意と行為を受け入れて、掠れた吐息をもらしながらも女は南を見ていた。そして数日もすると、肌身離さず持っていたボストンバッグだけを肩に、何の前触れもなく男の元を去って行く。数多の男の元を渡り歩く。そんな暮らしだった。
齢二十五を過ぎても親しい人などいなかった。できなかった。いつも、ひとりだった。
女の心の中には誰もいなかった。だから家を出た。
そんな金などどこにもなかったのに、何の変化も変哲もない生活の中に一度舞い降りてきた大金。路地裏で拾ったボストンバッグ。
女の勤めている会社で一年働いても稼げない――ゆうに五年は遊んで暮らせるような札束が、ボストンバッグには入っていた。
周りには誰もいなかった。誰も見ていなかった。
女はそれを警察に届けなかった。むしろチャンスだと思った。
この金があれば、南へ行ける。この年になるまで自由を奪っていた足かせを自ら断ち切るだけでよい。そうすれば、きっと自分は南であたたかくなれる。
女はそれだけしか考えられなかった。
女の記憶にある限り、最初に家出をしたのは五歳の時だった。
家にいたいと思わなかった。家では痛い思いしかしなかった。
その頃の女はまだ無知だった。南に行きたいとは思ってはいなかった。南に向かえばあたたかくなれるなんて知らなかった。逃げ出す事しかできなかった。
冷蔵庫にあった、父親の酒の肴だったスルメを持ち出して、それで飢えをしのいだ。
寒空の下、公園の遊具の中。丸一日も自由な時間は確保できず、夜中に警察の手によって家へ連れ戻された。それは、保護と言う名の強制送還だった。
女が家を出ていたその間、親は一度たりとも彼女を探さなかったと言うのに。
女は親が疎ましかった。正直、必要ないと思っていた。
それでも女が底辺ながらに生きてこられたのは、毎日酒を食らっているだけの、働かない親に支払われる国からのお金があったから。
ただ生きてこられただけだ。しかし、ただ生きる事が幸せではなかった。
幸せなんて幼いころにはわからなかった。それがある意味一番の幸せだったのに、女は成長するにつれて周りの人間と自分を比べるようになってしまった。
差を感じた。妬んだ。羨んだ。憎んだ。
何で自分だけがこんな暮らしを強いられるのだと、世の中を呪った。
親も、周りも、みんなみんないなくなってしまえばいいのに。そう思った矢先、朝目を覚ますと家から母親が消えていた。女が高校に入学したばかりの頃だった。
元々人間関係が派手な母親だった。頭も股も緩い母親だった。
それでよく父親と喧嘩をしては女に当たり散らすような母親だった。
女は母親がいなくなったのを喜んだ。これでもう、夜中に起こされる事もない。
女にとっては、それが世間の眠る時間であっても安心はできなかった。むしろ地獄だった。眠りたいのに眠らせてもらえない。
毎夜毎晩繰り返される呪詛のような叫声と嬌声。
それがなくなった。これで、ようやくゆっくり眠る事ができる。
しかし、女の暮らしは楽にはならなかった。
母親がいなくなって、当然のように父親は酒に溺れた。昼も夜も四六時中、のべつ幕なしに酒をかっ食らった。禄に食べ物がなくとも酒だけは買ってこさせられた。
家から遠く離れた個人経営の酒屋で。年なんていくらでもごまかせた。母親が残した露出度の高い服を着て、マスクをかければいいだけだ。
そのまま逃げてしまいたかった。しかし、幼い頃のような思い切りが出なかった。偏った常識が身についてしまった。酒を買う程度のお金では生きていく事ができない事がわかってしまった。
国に寄生する父親に、更に寄生するしか女が生きる道はなかった。
酒を買い、サイズの合っていないハイヒールで靴擦れを作りながら家に帰ると、泥酔した父親にのし掛かかられた。
女は抵抗した。殴り、引っ掻き、悲鳴を上げた。しかし、幾度となく殴られてすぐにやめた。女の自由と尊厳は、いとも容易く奪われた。
恐怖と絶望と喪失で、自分から何かが剥がれ落ちていくような気がした。
血が滲むほどの力で唇を噛み、自分の上で臭い息を吐きながら下っ腹を何度も痛めつけてくる父親がただの畜生にしか見えなかった。
気持ち悪くて気持ち悪くて女は吐いた。それでも父親は定まらない焦点を漂わせ腰を動かし続けた。発情した犬のように、母親の名前を連呼しながら。
女の中でプツリと何かが切れた。世界が色を失った。
当事者でなければ誰もが言う。なんで逃げ出さなかったのかと。その頃の女にそんな頭はなかった。ただ何の考えもなしに家出をしていた幼い頃とは違った。
周りの大人が、同級生が、別の生き物のように見えた。そんな別の生き物に自分の苦しみを吐露する考えに至る事はなかった。
女は身を任せた。
黙っていれば、その時だけは父親は優しかった。その時だけは寒さを忘れる事ができた気がした。それもただのまやかしだったのだけれども。
父親は少なくとも女と血が繋がっていた。醜く汚れてはいたが別の生き物ではなかった。
父親が獣であったように、女もまた獣に堕ちていたのかもしれない。
女がなんとか高校だけは卒業して小さな町工場の事務として働き始めた頃、父親が寝たきりになった。
女の世話がなければ何もできない命があるだけの人形になった。
いい気味だと思った。自分の手で生かされている惨めな父親が滑稽でならなかった。
女は働きながら父親の介護をした。何の能力もない高卒女の稼いだなけなしのお金はすべて生活に飲み込まれていった。
日々が霞んでいた。まるで工場のライン作業のような日常だった。
寒かった。あたたかくなりたかった。あたたかかった事なんて一度もなかった。
いつしか女は南に焦がれるようになっていた。
そして女は家を出た。体ひとつ、拾ったボストンバッグだけを抱え。
恨み辛みをかなぐり捨てて。自ら足かせを断ち切って。今までの自分を全部終わらせて。
女は限りある束の間の自由になった。
それは夏の終わりだった。
普段はならば気にも留めないただくだらない情報を垂れ流し続けているだけのテレビ番組を見据えて、女は立ち尽くしていた。そして、女は突然逃げ出した。
父親の元から飛び出した時と同じように、何人もの男のところから逃げ出した時と同じように。着の身着のまま、ボストンバッグに入った金だけを持ち。
あたかも最初から女などいなかったと言わんばかりに、何も残さず自分の存在を消して。
いつだって女は南を向いていた。いつだって女は凍えていた。
外だけではなく部屋の中でも常に肩を抱いて腕をさすっているような女だった。
女はずっと、どんな時も、南へ行く事しか頭になかった。
それなのに見つけた女は、雑居ビルの屋上でジッと南を向いていた。
大きなビルに埋もれてしまいそうな、それほど眺めのよくない雑居ビルの屋上で、星も見えない暗くくすんだ南の空を眺めていた。
春が近づいてはいるものの、それでもまだ凍りつきそうな寒空の深夜に、裾の破れた薄手のワンピースが小さな渦を巻くビル風にはためいていた。
家を出てからずっと南に向かってきた。必要とあらばボストンバッグにあった金を使い、数多の男達の生活に入り込み。
それももう終わり。ありがとう、コートを掛けてくれて。
女はそう言って笑った。屋上の柵の向こう側で振り返って。
柵の上に備えつけられた有刺鉄線に布の切れ端が揺れていた。
柵に近づき暗がりに目を凝らすと、女の華奢な腕や白磁のような足に細かい赤い傷がいくつもあった。大きく大きく裂けた傷もあった。
女の命がとくりとくりと流れ落ちていた。
女はボストンバッグをビルの下に向けてひっくり返した。
何枚もの札束が紙吹雪のように夜の街に舞った。
―― 終 ――
南風 えーきち @rockers_eikichi
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