第5話 ちっぽけな箱

 外の世界は、幻夢郷の中よりも寒く、騒々しく、明るかった。

 ──これが、外の世界。

 おれは呆然と、あたりを眺めた。

 足もとはざらざらしていて、裸足の裏に、粉状のものがまとわりつく。

 これは『砂』だ。いつもお客や朔弥や、番頭たちの靴についていたもの。

 あたりにはたくさんの、不思議なかたちをした大きな箱のようなものが並んでいる。みんなボロボロで、うす汚れている。

 最後にうしろを振り向いて、おれははじめて外から『幻夢郷』を見た。

 大きな箱だ。ボロボロで汚れた、大きな箱。

 でも、外の世界と比べたら、あまりに小さい。

 これが、おれの過ごした見世。

「おい」と、朔弥がおれの手をとった。「道の真ん中に立ってると、危ない」

 言われてようやく、おれは周囲をたくさんの人間が歩いていることに気がついた。

 人間たちは、おれたちをじろじろ見ながら歩いていく。なかにはときおり、並んだ箱の一つに入っていくものもいる。

 これが道。あの箱は『建物』で、あれらもきっと『見世』なのだ。

「花、朔弥。藤縞が手続きを終えるまで、車で待っていよう」

 夢路がおれたちを手招きする。

 そこには、黒くて平べったい箱のようなものがあった。

 箱のなかから出てきた男が、夢路に頭をさげ、箱についていた扉をあける。

「ありがとう」

 夢路はそう言って、箱のなかに入っていく。そうしてまた、おれたちを手招く。

「おいで。怖くないよ」

 おれたちは顔を見合わせ、おずおずと箱のなかへ入った。

 扉が閉められると、しんと、外の世界の音が聞こえなくなる。

 箱のなかは思ったよりもずいぶん広かった。おれと朔弥は並んで座り、夢路はその向かいに座っていた。

 扉を開け閉めした男も箱のなかに戻ってきて、前のほうに座る。夢路がそちらを手で示した。

「彼は運転手の七緒だよ。七緒、彼らは花と朔弥。屋敷に引きとることになったんだ。よろしくね」

「よろしくお願いします」

 七緒と呼ばれた男は、小さく頭をさげる。藤縞よりは年上に、夢路よりは若く見える。細い瞳は一見鋭いが、不思議と怖い印象はなかった。

「運転手は他にもいるんだ。おいおい紹介していくよ」

 おれはうなずいた。朔弥は「なあ」と声をあげる。

「世話になっておいてだが……何者なんだ、あんた。こんなすげえ車……」

 朔弥の言葉に、おれはおどろいた。

 これが『車』なのか。ときどきお客が乗ってくるやつ。

 夢路はにこりと笑う。

「言っただろう。蒐集家さ」

「そんなわけねえだろ。貴族か何かか」

「まあ、端くれではあるね」

「端くれって……俺はともかく、こいつの身請けなんて簡単にできるもんじゃねえだろ」

「ちょっとした商売をやってるんだ。と言っても、僕は隠居したようなものだけど。ああそうだ、いまのうちに手当てをしておこう」

 夢路は車のなかを探り、膝のうえにおさまる程度の大きさの箱を取りだした。

 丈夫そうなつくりの蓋をあけ、おれの足もとに膝をつく。

 朔弥が「おいっ」と声をあげた。夢路は首をかしげる。

「なんだい?」

「なにってっ……あんたが手当てするのかっ⁉」

「そのつもりだけど……おかしいかな?」

「おかしいだろ! 貴族さま……っつーか、主人が俺らみたいなのにっ……」

「僕は、きみたちの主人になったつもりはないよ」

 夢路が微笑む。

「堅苦しいのは嫌いなんだ。僕は花を蒐集して、朔弥を買いとった。手に入れたものは僕の好きにさせてもらう。というわけで、ごく普通に、友人にでもなったつもりで接してくれ」

「ゆ、友人……?」

「難しいかな? 齢が離れすぎているか……。じゃあ、『家族のようなもの』でいこう。これから一緒に暮らしていくんだからね」

 呆然とするおれたちをよそに、夢路は箱のなかから、見たこともないような、きれいな道具たちを取りだしていく。

「こう見えて、手当てには自信があるんだ。僕にまかせて」

 そう言うと、夢路は言葉の通り、あっという間におれの怪我を手当てした。

 傷口を洗われたときはほんのすこし沁みたけれど、それ以外はなんの痛みもない。夢路の手つきはどこまでも優しく、とてもうつくしかった。

 それこそ、幻や夢や、ふしぎな力があるんじゃないかと思うくらい。

「……ありがとう」

 礼を言えば、夢路は「どういたしまして」と笑う。

 軟膏をぬられ、きれいな白い包帯を巻かれたうろこの脚は、いつもよりすこしだけきれいに見えた。

「お待たせいたしました」

 見世から出てきた藤縞が、車の前のほう、運転手の七緒のとなりへ座る。

「ありがとう、藤縞。では、まずは衣料品店へ向かってくれ。花だけでなく朔弥のものも欲しいから、彼ら二人ともに合うものを扱っている店がいいな」

「でしたら隣町へ向かいましょう。『ささら通り』なら大抵のものは揃うでしょう」

「ああ。そうしてくれ」

「それはそうと、お疲れではありませんか」

「平気だよ。すこぶる気分がいい」

 会話を交わす彼らのうしろで、朔弥がそっと、おれの耳もとに口を寄せた。

「へんなやつだな」

 おれはコクリとうなずいた。夢路は間違いなく、へんなやつだった。

「でも……悪いやつじゃなさそうだ」

 おれはうなずいた。

「あの藤縞って人も、七緒って人も、まともそうだし」

 おれはうなずいた。すくなくとも、幻夢郷の番頭や楼主たちと比べれば、ずっとずっと信用できる人間だということは確かに思えた。

「おまえが身請けされるって聞いたときは、正直、ゾッとしたけど……」

 朔弥がおれの手をにぎった。

 琥珀色の瞳が、じっとおれを見つめる。

「もしも何かあれば、俺が守る。……でも、本当に、……良かった……」

「……朔弥……」

 車が、わずかに揺れる。

「花、朔弥。出発するよ」

 夢路が笑う。

 車はゆっくりと、おだやかに道を進みだす。

 朔弥が、くしゃりと顔をゆるめて笑う。

「改めて、これからもよろしくな……花」

 おれは「ああ」とうなずき、車の窓の外を見た。

 大きな、けれどちっぽけな『幻夢郷』の箱は、ゆっくりと遠ざかっていった。

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花と夢路 染井しのぶ @somei_shinobu

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