第4話 旅立ち

「さて。ここにはろくな医療道具もないようだから、傷の手当ては車でしよう。行こうか、花」

 男──夢路に手をひかれ、おれははじめて『人魚』の部屋を出た。

 幻夢郷の廊下は、薄暗く、人けがなかった。けれど各部屋の扉からは、誰かの喘ぐ声や、うめく声、話し声も聞こえてくる。

 裸足で歩く廊下は冷たかった。男が「あとで靴も用意しよう」と囁く。おれは靴を履いたことがない。ばけものの脚でも履けるのだろうか。

 階段を降りていくと、たくさんの人間たちが、ずらりと並んで頭をさげていた。

 夢路はそれも気にとめず、平然と歩いていく。一方おれは、頭をさげているのが番頭や楼主たちだと気づいてぎょっとした。

「夢路さま」

 一人の男が声をかけてきた。

 黒い紳士服姿で、黒い髪をきちんと撫でつけた、細身の若い男だ。

「藤縞。どうかな、手はずは」

「つつがなく。表に車を用意してございます」

「ありがとう。そうだ、花」

 夢路がおれを振り返り、男を手で示した。

「紹介しよう。彼が藤縞だよ」

「……ふじしま……」

「よろしくお願いいたします。……花さま」

 藤縞は、きびきびとした仕草で頭をさげた。おれも思わず頭をさげた。

「では、そろそろ行くとしよう。そうだ藤縞、途中で衣料品店に寄ってくれ。花の服を買いたいんだ」

「かしこまりました」

 夢路がおれの手を引いて、見世の出入り口へと歩きだす。

 番頭たちは頭をさげたまま、黙っておれたちを見過ごそうとしている。

 たったの一度も出たことのなかった扉が、いま、おれの目の前にある。

「──っ……待ってくれ!」

 見世の奥から響いた声に、おれは足を止めた。

「……朔弥……っ」

 そこには、心配そうな顔をした朔弥がいた。番頭が「てめえ」と声をあげたが、朔弥はその前を駆け抜けておれのもとへやってくる。

 朔弥がおれの手をとった。

 その顔は、いつも見ていた、おれを心底心配してくれる、やさしくきれいな朔弥そのものだった。

「おまえっ……急に身請みうけなんてっ……、」

「朔弥……」

「大丈夫なのか。ちゃんと、おまえが望んだことなのかよ、」

 琥珀色の瞳が、夢路を見つめ、それからおれを見る。

 このときおれは、朔弥だけはおれを『瑠璃』と呼ばなかったことに気づいた。

 もしかしたら朔弥は、おれがその名前をきらっていることを知っていたのかもしれない。

「てめえっ……引っ込んでろ!」

 番頭が朔弥の首根っこをつかみ、引っ張った。

「やめなさい」

 声をあげたのは夢路だった。番頭はぎくりと身体をこわばらせ、顔をゆがめて朔弥から手を離す。

 夢路が朔弥をじっと見つめる。

「なるほど。きみが花の心残りか」

 朔弥が「え……?」と戸惑うような顔をする。

 夢路は一歩前へ進み、じろじろと朔弥を眺める。

「ふむ……なかなか利発そうな青年だ。見栄えもいいし、度胸もある。栄養状態はあまり良くなさそうだが、それでも健康そうだし丈夫そうだ。うん、悪くないな」

 つらつらと歌うように話す夢路を、朔弥は訝しげに見つめている。

「きみ、この見世が好きかい?」

「は……?」

 夢路はいきなりたずねた。

「好きか、って……そりゃあ……」

 朔弥は困ったような顔で視線をうろつかせた。

 夢路は言葉の続きを待たずに、次の質問をした。

「家族は、いるのかな?」

「……いない……」

「花のことは好き?」

「……花って、」

「彼のことだよ。僕がつけた名前だ。彼のことは好き?」

「……好きだ、もちろん」

「じゃあ、僕のところにくる気はある? 花と一緒に」

 朔弥は、ぽかんと静止した。

 番頭が「おいっ」と声をあげた。

「ふざけるな! そんな次々とっ」

「黙って。僕は彼に質問してるんだよ」

 番頭が、うぐっと言葉をのみこむ。

 夢路は朔弥に視線をもどした。

「僕は花丘夢路。蒐集家なんてやっている道楽者だが、きみに仕事を与えることはできるよ。どうかな。僕のところにくる?」

 朔弥はちらりとおれを見やり、それからすぐに夢路に目をもどした。

「いく。俺も、連れていってくれ」

「よし。決まりだ」

 夢路は満足げに笑った。

「というわけで、彼も引きとろう。いいよね、藤縞」

「私には、貴方の決断に文句をつけることはできませんよ」

「いつもお小言だらけのくせに。この間、手が足りないと言っていただろう。彼に手伝ってもらおう。仕込めば化けるかもしれないよ」

 談笑する二人に、番頭が割り込んでくる。

「待てっ、そんな勝手に……」

「困るかい? 二人を同時に失って」

 夢路は笑っている。

「だが、彼らには自分の居場所を決める権利がある。そしてきみたちには、彼らを止める権利はない」

「っ……そいつらはウチが買ったものだ! 権利ならっ」

「金なら払おう。それで文句はないだろう」

 夢路の言葉に、藤縞がため息をついて、ずいっと前に出た。

「正当な手続きでもって二人を引き渡すことと、我々を敵にまわすこと。どちらが損か、考えるべきですよ」

 藤縞の冷ややかな声に、番頭は口を閉ざし、楼主は「申し訳ありません」と頭をさげた。

 こんなにしおらしい彼らの姿を見たのははじめてだ。

「では、あとのことは頼んだよ、藤縞」

 夢路が言うと、藤縞は「かしこまりました」とお辞儀をした。

 呆然と見ていたおれと朔弥に、夢路が向き直る。

「朔弥と言ったね。持っていきたいものはあるかな? あればまとめておいで」

「いや。特にない……です」

「無理に敬語は使わなくてもいいよ。では行こうか。朔弥。花」

 夢路が両手をおれたちに差しだす。

 おれと朔弥は顔を見合わせ、それから同時に手をとった。

 藤縞が見世の扉を開ける。

 歩きだした夢路に誘われ、おれたちは外へと踏みだした。

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