第3話 花

 その後の男の行動は、驚くほど素早かった。

「そうと決まれば、善は急げだな」

 男は脱いだ上着をおれの背中にかけると、「見世のものと話してくるよ」と言って部屋を出ていった。

 おれは頭がついていかず、呆然と見送るしかできなかった。

 思わず手をとったものの、おれを『しゅうしゅう』するって、いったいどうやって? 見世のものと話をするって、いったい何を? いまおれは、ここに居ていいのか?

 しばらくすると、男が本当に戻ってくるのか不安になってきた。

 都合のいいことを言っておいて、あとで裏切って楽しむつもりかもしれない。

 そう考えたところで、男がおれに上着をかけていったことに思い至る。

 これがある限り、部屋に戻ってくるはずだ。

 寝台のうえで膝をかかえて男を待つ。上着からはほんのりと甘い香りがして、なんだかとても暖かかった。

 すこしすると、また不安になった。

 男が本気でおれを連れだそうとしていたとして、番頭や楼主がそれを許すだろうか。

 やさしげで、いかにも弱そうな男だった。

 あいつらに乱暴されていないだろうか。

 いてもたってもいられなくなって、おれは寝台から降り、扉に手をかけようとした。

 すると、ノブをまわす前に外から扉がひらかれた。

「お待たせ。さあ、ここを出る準備をしよう」

 男は顔をだすなり、晴れ晴れとした笑顔で言った。

 おれは唖然として男を見あげた。

 男は「おや」と首をかしげる。

「不安にさせてしまったかな。大丈夫、話はまとまったよ。きみはもう自由だ」

「自由……?」

「そう。……いや、僕が蒐集するんだった。ひとまず僕の屋敷にいこう。さあ、荷物をまとめて」

「荷物……?」

 わけがわからず、おれはただ、男の言葉をくり返すしかできなかった。

「ここに戻ることは、おそらく二度とないよ。持っていきたいものはないかな? 服とか、大事なものとか」

 おれは首を横に振った。この部屋にあるのは、すべてこの見世のものだ。服も家具も、おれのものは一つもない。

 けれど、一つ思い浮かぶのは。

「……朔弥」

 ぽつりとつぶやく。男が「サクヤ?」と首をかしげた。

 ここを出たら、朔弥に会えなくなってしまう。

 でも、朔弥は『おれの持ち物』じゃない。

「どうかしたかな? 『サクヤ』って、昨夜のことかい?」

 男がおれの顔をのぞきこんでくる。

「……なんでもない」

 おれは首を横に振った。男は「そう?」と首をかしげる。

「じゃあ、行こうか。服はあとで藤縞ふじしまに用意させよう。なにせ長旅だ。裸では身体にさわるからね」

「ふじしま」

「僕の従者だよ。……ああ、そうだ」

 男がおれの手をとり笑う。

「大事なことを忘れていた。きみの名前を教えてくれ」

「……名前……」

 おれは、喉がつまるような感覚をおして、「瑠璃と、呼ばれてる」と答えた。

 男が首をかしげる。

「本当の名前じゃないのかい?」

「……わからない。うろこが青いから『瑠璃』だって、ここの楼主ろうしゅにつけられた。……前のところでは、人魚と呼ばれてた」

 『名前』は、その存在をあらわす言葉だと聞いた。

 だからおれの名前は『瑠璃』なのだろう。

 でも、おれはそれが好きじゃない。その名前も、おれをそう呼ぶやつらも。

「『瑠璃』か……」

 男は「うーん」と唸ると、ベストの胸ポケットから何かを取りだし、おれの足もとにひざまずいた。

 おどろいたおれの脚に、何かがかざされる。

「ごらん。これが瑠璃の石だよ」

 男の手には、深い青色をした、きらきら光る石の首飾りがあった。

「きみのうろこは、確かにうつくしい青色だ。けれど瑠璃とはまったくちがう色だよ。花色はないろよりももっと薄い……僕には『薄花色うすはないろ』に見える」

「うすはないろ……」

「そう。淡い青色の花の色だ」

 男がおれを見あげて微笑む。

「僕はきみを『はな』と呼びたい。『薄花色』の『花』だよ。どうかな」

 はな。薄花色の、花。

 おれはコクリとうなずいた。男はにこりと笑って、「花」とおれを呼んだ。

「あらためて、僕は花丘夢路。夢路と呼んでくれ」

「……夢路」

 口に出してみれば、華やかでやさしい響きのその名前は、いかにも男に似合っているような気がした。

 ……花。おれの名前。

 不思議だ。何度も聞いてきた呼び名より、『おれ』に思える。


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