第2話 蒐集家
腹のなかのものを掻きだし、身体を清めて風呂場を出る。
整えられた部屋では、朔弥がおれを待っていた。
「時間か」
たずねれば、朔弥はちいさくうなずいた。
「わかった」
寝台に乗りあがろうとすると、手をつかまれる。
「大丈夫なのか、本当に……」
心底心配そうな顔で、朔弥が言う。
数年前に下男として売られてきた朔弥は、先日十八歳になったと言っていた。
齢はおれと変わらないくらいに見えるのに、おれとちがって朔弥はきれいだ。こんな場所には似つかわしくないくらい。
「平気だ。……お客を呼んでくれ」
手を振りはらい、天蓋の薄布のなかに寝そべる。
朔弥は「……わかった」とつぶやき、静かに部屋を出ていった。
目を瞑り、お客の訪れを待つ。
やがて扉がひらかれた。
「こちらが『人魚』の部屋でございます」
めったにない、番頭の丁寧な声。
薄布のむこうには、番頭とお客の人影がある。
「ごゆっくりお過ごしください」
そう言って番頭は部屋を出ていった。
自ら案内するなんて、よほどの大物なのだろうか。
お客の人影がこちらを見た。
「人魚さま? ……そこにいらっしゃるのかな」
男はふしぎな声をしていた。低く、やわらかく、ふわふわとした……。上機嫌になった客がときおり聞かせる『歌』のような声。
おれは返事をしなかった。行為がはじまるまでは声をださないのが決まりだ。
はじめはただ、口をきくのが嫌で黙っていただけだった。けれど行為がはじまれば、どうしても痛みに声が出てしまう。わけのわからないことに、それが評判になってお客が増えていった。
お客が増えたって、良いことは何もない。でも、『話さない』という決まりはおれにとっても気が楽だった。
話すことなんて何もない。話したって意味ないんだから。
「返事がないけれど、開けてもいいのかな?」
男はやはり歌うように言った。
おれは返事をしない。
「失礼するよ」
そろりと薄布がひらかれる。
あらわれたのは、立派な紳士服に身を包んだ男だった。
帽子をかぶっていて、胸もとにはきらきら光る石の飾り。おれでもひと目でわかるほど、どこからどう見ても金持ちだ。
「はじめまして、人魚さま」
男は帽子をはずし、胸に抱えて頭をさげた。
やけに丁寧な男だ。こんなふうに挨拶をしてくる客は珍しい。
ゆったりとした仕草で顔をあげ、男は微笑んだ。淡い茶色の髪はふわふわと波打っていて、瞳はやさしい色をしている。
なんて言うんだっけ……そう、
男はおれの顔を見て、また笑う。
「黒髪か。神秘的でうつくしいね。ところで、いきなりなのだけど、ちょっと脚を見せてもらってかまわないかな」
「……は?」
思わず声をあげてしまい、おれは慌てて口をつぐんだ。
男はぱちぱちと瞬きをして、にこりと笑った。
「なんだ、話せるんじゃないか。あらためて、脚を見せてもらってもいいかな?」
……なんだ、こいつ。
おれは裸なんだから勝手にすればいい。見るも触るも自由のはずだ。
おれがうなずくと、男は「ありがとう。では失礼して」とひざまずいた。
菫色の瞳が、じっとおれの脚を見つめる。
「……これは……」
男はそうつぶやいて、なおも脚を見つめ続ける。
……へんな感じだ。いままでのお客とちがう。見つめられすぎて、うろこに穴が開きそうだ。
男は「ねえ」と、おれを見あげた。「重ね重ねで申し訳ないのだけど、すこしだけ、触らせてもらってもいいかい?」
なんなんだ、本当に。
うなずけば、男は手袋をはずし、脚に手をのばしてきた。
「っ……、」
おれは無意識に息をつめた。
けれど男の手のひらは、思いがけないほどそっと脚に触れてきた。
いつもお客がするのとはちがう、何かをたしかめるような手つき。
「……すごい」
男はぽつりと漏らし、がばりとおれを見あげた。
「きみ。このうろこは生まれつきなのか」
勢いに驚きつつ、おれはうなずいた。
生まれたときのことは憶えていないが、いちばん古い記憶でもうろこはあった。
男は感心したように、ほうっとため息をついた。
「すごい。まさか本当に、本物の人魚がいるなんて」
「……は、」
本物の人魚? なにを言ってるんだ、こいつは。
男は「ありがとう」と満足げに笑い、脚から手を離した。
「たまには噂も信じてみるものだね。遠出した甲斐があったよ」
手袋をはめなおすと、男は立ちあがって、あらためて部屋の中を見渡した。
「それにしても、こんなところに人魚を閉じ込めているなんて……。値段も安すぎるし、扱いも酷い。きみはいつからここにいるんだい?」
なぜこいつは、べらべらとしゃべり続けている?
なんで何もしてこない?
呆然と見あげるおれに、男は「あれ?」と首をかしげる。
「もしかして、本当に話せないのかな。それとも僕のことがこわい?」
どちらもちがう。でも、おれはまるで声の出しかたを忘れたみたいに、首を横に振るしかできなかった。
男はまた、おれの足もとにひざまずいた。
そうして何かに気づいたみたいに「ああ、」と声をあげる。
「お話もしたいけれど、その前に傷の手当てをしたほうがいいね。この部屋に道具はあるのかな。というか、水につかっていなくて平気なのかい?」
「なんなんだ、あんた」
思わず口をついたおれの言葉に、男はにこりと笑った。
「僕は
「しゅうしゅうか……?」
「面白いものや珍しいものを集めるのが好きな道楽者さ。でも、今日はそんな自分に感謝しよう。なんたって、人魚さまに出会えたんだから」
「おれは人魚じゃない」
男は首をかしげる。
「僕には人魚に見えるけれど」
「ちがう。おれには不老長寿の力なんてない」
「……不老長寿?」
「『人魚』は不老長寿の薬だ。でも、おれはちがった。おれの血をのんでたやつも普通に死んだ。おれは人魚じゃなかった」
「……血を抜かれているのか。もしかして、この傷もそれで?」
おれは首を横に振った。
「いまじゃない。ずっと昔、小さいときにいたところのことだ」
「小さいときに……」
男は確かめるみたいに、おれの言葉をくり返す。
こんなこと、お客に話したって意味はない。それどころか番頭に叱られるかもしれない。
そう思うのに、言葉が止められない。
男がおれを見ている。おれの言葉を聞いている。
「……もしかして、そこを抜けだしたあとは、ずっとこの見世にいるのかい」
おれはうなずいた。
「家族は?」
おれは首を横に振った。
誰かが言っていた。おれは人間とばけものの子どもだから、気味悪がられて捨てられたんだって。
きっとそうだと、おれも思う。
男は「ふむ」と口もとに手をやった。
「きみは、この見世が好きかい?」
「……は?」
男は手のひらで、部屋中をぐるりと示した。
「ここが好き? これからもずっと、ここに居たいかな?」
ひび割れた壁。湿った寝台、ほこりのにおい、古びた照明、しみったれた天蓋。
どのくらい過ごしてきたのかわからない、つまらない部屋。
「……好きなわけ、ない、」
でも、どうしようもない。おれはここでしか生きられない。
ばけものは、外の世界では生きていけないんだから。
男はおれをじっと見つめ、「よし」とうなずいた。
「決めた。きみを蒐集しちゃおう」
「……へ、」
しゅうしゅう。
面白いものや珍しいものを、集める?
男はにこりと笑った。
「本当は見るだけのつもりだったんだけど、気が変わった。きみの生涯を買い取ろう」
「な、なにを言って」
「僕は本気だよ。きみが嫌なら、無理強いはできないけど」
「ばかなのか。あんたが欲しいのは人魚だろ。おれは、」
「不老長寿なんてどうでもいいんだ」
男の声が、歌よりもまっすぐ、低く強く響いた。
男はやわらかく微笑む。
「そんなものあるわけがないし、なくていい。不老長寿の力がなくても、きみは人魚にしか見えないよ」
男がひざまずく。
手袋をはめた手が、おれの脚にそっと触れた。
「うつくしい脚だ。これだけで十分、僕はきみが欲しい」
菫色の瞳が、おれを見つめる。
「どうかな。蒐集されてくれる?」
男がおれに手を差しだしてくる。
この男を信用していいのか。外の世界がいいものなのか、悪いものなのか。
もしかしたら、いままでよりもっとひどいことが待っているかもしれないけど。……でも、それでも。
死ぬまでここで暮らすより、ずっといい。
「……うん」
差しだされた手に、手をのばす。
触れた指先が握りこまれ、男がふわりと微笑んだ。
男の手は、手袋ごしでもわかるほど暖かかった。
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