花と夢路

染井しのぶ

第1話 幻夢郷

 ──ざらり。男がおれの脚を撫でる。

「ああ……瑠璃るり、瑠璃」

 生ぬるい息と、低くこもった男の声。

 毎日毎日、同じことの繰り返し。

 だいきらいな名前で呼ばれて、だいきらいな人間たちに触れられる。

 ──ざらり、ざらり。

 きらいだ。人間も、世界も、なにもかも。

「さあ、鳴き声を聞かせてくれ……人魚さま」

「っ……、」

 いちばんきらいなのは、こんな場所でしか生きられない、自分自身。






「おいっ……、おい、しっかりしろ、」

 揺するように頬を叩かれ、おれはぼんやりとまぶたを開けた。

 目の前には、琥珀色の瞳を不安げに揺らめかせる、くすんだ色の髪の男。

「……朔弥さくや……?」

 名を呼べば、彼は安心したように表情をゆるめた。

 そのむこうには、しみったれた寝台の天蓋が見える。古びた照明のあかりがまぶしい。

「……お客は、」

 おれの問いに、朔弥は顔をしかめた。

「さっき帰ったところだ。……また乱暴されたのか」

「……たいしたことない」

 どうやらまた、お客の相手をしているうちに意識を失ってしまったらしい。

 きしむ身体を起こすと、朔弥が大きく息をのんだ。

「おまえ、脚!」

「……脚?」

 つられて自分の脚を見る。

 何も変わったところはない。痩せぎすで、骨ばっていて、腿から足先までを青いうろこに覆われた、いつも通りのの脚だ。

「怪我してるじゃねえか……!」

「……ああ」

 言われてようやく、お客との行為を思いだす。

「すこしうろこをはがされただけだ。じきに治る」

「ばかいうな! 手当て……いや、そのまえに風呂だ。立てるか、」

 朔弥に支えられ、立ちあがる。

 尻から液体があふれる感覚の不気味さに、背筋がふるえた。足を踏みだすと、うろこのはがれた箇所が痛む。このぶんだと風呂も沁みるかもしれない。

「──何をちんたらやってやがる」

 響いた声に、朔弥が身体をこわばらせた。

 顔をだしたのは番頭だった。

「掃除は終わったのか、朔弥」

 朔弥は「これからです」と震える声で答えた。

 番頭は「はぁ?」と声を荒げる。

「遅えんだよ。瑠璃には次の予約が入ってんだ。さっさとしろ」

「っ……こいつ、怪我してるんです。風呂と手当てを先に、」

「怪我ァ?」

 番頭はおれの脚に目をやり、はん、と鼻で嗤った。

「そのくらい、黙ってりゃわかんねえよ。手当てなんてしたら、目立って客の興を削ぐ。ほっとけ」

「でもっ……」

「うるせえな。てめえは黙って掃除してりゃいいんだよ」

 朔弥の腕に力がこもった。

「あの……こいつの客、やることが悪化してます。一言注意してやってくれませんか。このままじゃ、」

「自業自得だろ。こいつが声を聞かせねえから、お客も鳴かせようとすんだよ。演技でもあんあん鳴いてやりゃあ喜ぶのに。なあ瑠璃?」

 顎をつかもうとする番頭の手から、顔をひねって逃げてやる。

 番頭は「ちっ」と舌打ちをした。

「可愛くねえ人魚サマだ。ま、客さえとれてりゃ文句はねえ。さっさと支度しろ、もうすぐお客がくる。朔弥、てめえは掃除だ」

「でも、」

 なおも声をあげようとする朔弥から、おれはそっと距離をとった。

「平気だ。……自分でできる」

 ふらつく脚を動かし、風呂場へむかう。

 風呂場の扉を閉めると、番頭が「急げよ」とはやしたてて部屋を出ていくのがわかった。すこしして、朔弥が部屋を整える音が聞こえてくる。

 おれはホッと息をつき、ぬるま湯の溜められた浴槽へ身を沈めた。

「っ……」

 びりびりとした痛みに息をつめる。湯にひたったうろこの脚からは、じわりと血がにじんでいた。

 ──ここは幻夢郷げんむきょう。夢とまぼろしにあふれた、すばらしいところ。

 この見世みせにくるまでのことは、あまりよく憶えていない。ただ、ここよりもっと薄暗くて狭いところで、『人魚』と呼ばれていたことは確かだった。

 そこにいた誰かがおれに言った。人魚はふしぎな生きもので、不老長寿の薬だって。だからおれは、みんなに『薬』をあげなきゃいけないって。

 たくさんの人間がおれに会いにきた。おれの『薬』をのんでいった。

 でもおれは、人魚じゃなかった。だからここに売られたのだ。

 ──ここは娼館で、おれは男娼。にせものの人魚として売りものにされている、うろこの脚のばけものだ。

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