僕のお姉ちゃん

snowdrop

僕のお姉ちゃん

 僕には年の離れた、姉がいる。

 心と体を癒やすリフレクソロジーサロンで働く、セラピストだ。

 キュッと後ろで束ねた黒髪。凛とした表情に笑みをたたえた唇に紅をさす。まばゆく真っ白なシャツの袖に腕を通し、襟をピンと立てる。細長いシルエットがわかる黒パンツを履き、胸を張って颯爽と歩く姿は実に凛々しく、華やかである。

 でも普段は、呆れるほどのぐうたらだ。

 朝は僕が学校へ行く時間になっても起きないし、帰りは夜遅い。

 休みの日は一日中ゴロゴロ寝てるか、動物の動きのマネをしたヨガやドイツ人看護師が負傷兵のリハビリのために開発したピラティスをしたり、撮りためた深夜アニメや山積みされた文庫本を読んではニヤつき、流行りのスイーツを頬張っている。たまに一人で旅行に出かけることもあり、以前は海外のお土産を買ってきてくれたこともあった。

 僕が小さかった頃は、よく遊んでくれた。

 甘える年ではないけど、最近はかまってもくれない。

 両親は「早く見つけないと婚期を逃す」とか「どこで育て方を間違えたか」とボヤくにとどまらず、「お姉ちゃんを見習わず勉強に励みなさい」と何かにつけてやかましく言われてきた。



 そんな姉の一日は、怪しげな儀式に満ちている。

 バレないようにこっそり部屋を覗くと、目を覚ました姉が最初にするのは、ベッドの上でうつ伏せ状態から四つん這い。からの、膝を曲げては両腕を前へと伸ばす。その後、今度は両腕を突き立てながら膝を伸ばし、仰け反ってみせる。

 まるで寝起きの犬や猫がする柔軟体操みたい。

 洗面所へ行くと、顔を洗い、口をゆすぎ、喉うがいをして、歯を磨き出す。

 まだ食事前なのにおかしい。夜中にこっそり美味しいスイーツを食べたに違いない。

「姉ちゃんだけずるい」と文句をいったら、「寝起きが一番雑菌が多いから綺麗にしてるの」と、寝ぼけた顔で睨まれた。

 そのあと、つま先立ち、かかと立ちをして、奇妙な屈伸運動をはじめる。

 何をしているのか尋ねると「仙骨起こし」だそうだ。

 寝ぼけ顔でキッチンへ向かった姉は、シンクへ向かう。グラスに水を一杯注いで飲み干すと、システムキッチン台の上にバナナとキウイフルーツのスライス、ゆで卵を並べ、立ったまま食べはじめる。

 姉の話によれば、立っていると代謝や血流が良くなり、体重を減らせるとかで、ダイエット効果があるらしい。

 はじめは「行儀が悪い」と注意していた両親も、今ではすっかり諦め、見て見ぬ振りだ。

 出勤の遅いシフトのときは、おにぎりを頬張ってから出かけている。姉のおにぎりは白米ではない。もち米のブレンドに、もち麦や十六穀米、黒豆も混ざっていて、見た目が赤飯みたいに赤い。どうして赤いのか尋ねると、赤米も混ざっているせいらしい。

 R1の飲むヨーグルトを一気飲みした姉は、手早く洗い物を済ませ、そそくさと洗面所へ向かう。

 歯を磨きながら、つま先で立ってはかかとを下ろすをくり返す。回数が決まっているらしく、十五回。なぜ回数が決まっているのか尋ねたら、「やりすぎは太くなる」だそうだ。細い脚をしているのに、何が太くなるのかさっぱりわからない。

 着替える前に、姉独自のダンスがはじまる。

 両腕を横に伸ばしては、まっすぐ天井に向けるをくり返すと、今度は天井に突き上げた両腕の手のひらを外側へ向け、肘を曲げながら下ろし、手の甲を外側に向けながら天井へ腕を突き上げるをくり返す。両肩回しの後、体の正面につき出した両腕を肘を曲げながら後ろを引くをくり返す。

「平泳ぎの練習?」

 気になって尋ねたら、「肩甲骨剥がし」と教えてくれた。

 骨は剥がれたりしないのに、姉は何を言っているのだろう。

 他にも、アキレス腱伸ばしよりもさらに後ろに脚を下げて片膝を曲げたり、つま先を上げた状態の片足を前に出して上体を倒したりする。仰向けになって寝転ぶと、下半身を垂直に起こしては、脚を左右に開いては閉じるをくり返す。

 今度は何をしてるのと尋ねれば、「脚を細くしてるの」と返事。これ以上細くしてカモシカにでもなるつもりなのだろうか。

「継続は力なり。怠けると、体はすぐに裏切っちゃうから」

 裏切る? 自分の体は裏切るとか裏切らないとか、そんな関係のものじゃないのに。姉のいうことは、本当によくわからない。ちなみにこれらのダンスは、朝と夜、必ず行っている。

 ダンスが済むと、熱めのシャワーを浴びて汗を洗い流す。

 ついでに、両手や腕を揉みほぐすらしい。

 温めると血行が良くなり、動かしやすくなるという。

「自分の手、自分の体が商売道具だから。メンテナンスは大事なの」

 メンテナンス? 車や機械じゃあるまいし、調子が悪いからといって部品交換や修理をするものでもないのに。ひょっとすると、姉はアンドロイドなのだろうか。生まれたときから姉はいるので、あながちあり得るのではないだろうか。

 髪を乾かしている姉に「姉ちゃんってアンドロイド?」と聞いたら、「こんな人肌で柔らかいお姉ちゃんが、アンドロイドなわけないでしょ」と抱きついてきた。姉弟だからって、やめてくれ~。恥ずかしいじゃないか。

 着替えとメイクは自分の部屋で行う。

 弟とはいえど、立ち入ってはならない不可視の領域である。

 入れてくれないので、他に何をしているのか教えてもらうと、腹式呼吸しながら呼吸を整え、窓の向こうから注がれる太陽の光に向けて両手を突き出しては太陽の、足裏からは大地のパワーを吸収して一日の元気をもらっているらしい。

 太陽は元気玉じゃないし、部屋の中だから大地の上じゃないと笑ったら、理不尽にも頭を叩かれた。

 他には、爪削りと鏡を見ながら笑顔の練習。それと、「最大の尊敬と敬意を払い、誰かの為、何かの為に自分のもてる最大限を発揮し、元気になる手助けができますように」と自己暗示をかけているそうだ。

 身支度を整えた姉は、黒いジャケットを羽織ると水筒を小さなカバンに入れて、黒革靴を履いて出かけていく。

 色が黒いからカラスみたいだねと言えば、「シャツは白いから、せめて可愛らしい『パンダやペンギンみたい』と呼んで」と注文を出された。

「どちらも丸々太ってるけどいい?」

 僕の言葉に姉は、泣きそうな顔で首を横に振った。


     ◇◆◇◆◇


 ある日曜の朝食でのこと。

 僕の隣に座る寝癖頭の父が、背中を丸めてパンをかじるや顔をしかめ、「凝ったかな」左肩に手を当てながら首を右や左に倒し、腕を回した。

「歯が浮いているわけでもないんだが」左頬に手を当て、「顎が痛いような、歯がしみる気がする」頬杖をついて息を漏らした。

 心配した向かいの席に座る母が「虫歯? 家で仕事ばかりしてないで、歯医者に行ったら」と声をかける。

「そうだな」

 うなずく父だったが、

「たしか日曜は、歯医者が休みだ。明日にでも行くよ」

 息を吐き、眉間に皺を寄せてはパンをかじった。

 そんなとき、

「おはよ……」

 寝ぼけ顔した姉が、大きなあくびをしながらキッチンに現れた。

「今日は早い日?」

 母の問いかけに姉は、

「今日は午後シフト。二度寝したかったけど、布団がストライキを起こして」

 寝言みたいな声で返事すると、いつものようにシンク前に行き、グラスに水を一杯注ぎ、飲み干す。システムキッチン台の上に、バナナとキウイフルーツのスライス、ゆで卵を並べ、立ったまま食べはじめた。

 早々に食べ終えた姉は手早く洗い物を済ませ、そそくさと洗面所へ向かうのがいつものルーティーン。

 だけど、今日に限っては立ち止まり、背中を丸めて朝食を食べる父に目を向けている。

 そのあと、ペンギンみたいにポテポテと歩きながら父の後ろへ回り、肘を抱えるように腕を組みながら、しばらく黙ってみていた。

 すると今度は、リビングのサイドボードへ行き、引き出しを開けてピンク色の大きな封筒を取り出し、中から用紙を抜き出しては眺めはじめた。

「姉ちゃん、なにしてるの?」

 食べ終えた僕は、そばに寄って声をかけてみた。

「父さんの健康診断の結果……特に以上はなさそう。鬱や花粉症でもないから……」

 一人でブツブツつぶやいている。

「父さん、歯がしみて痛いんだって」

「でしょうね」

 封筒に入れ直した姉は、元の引き出しに戻した。

「姉ちゃん、虫歯って知ってたの?」

「ううん。知らない」

 当てずっぽうで言ったのかな?

「明日歯医者に行くんだって。今日休みだから」

「行っても良くならないよ」

 姉はソファーの上にある大小のクッションを持って父の元へ行き、口の中を覗き込んだ。

「左の奥歯がしみるみたいに痛いのね」

「そ、そうだけど」

「それなら、こちらに立ってもらえますか」

 父は姉に言われるまま、テーブルから離れて立った。

「右足を上げて、片足でケンケンしてみてください」

「ここでか?」

 黙って姉がうなずくのを見て、父はよろけながら右足を上げ、その場で飛び跳ねてみせた。数回跳んだだけなのに、ふらついて倒れそうになり、すぐに姉は手を伸ばして支えた。

「体が固いから、バランスが」

 苦笑いする父を、舐めるように頭の先から脚まで姉は見る。

「歯痛は、どうですか」

「ん? さっきよりは痛みが気にならない……気がする」

 姉は小さくうなずき、「クッションを体の前に抱えて、おかけください」ソファーから持ってきた大きいクッションを父に手渡した。

 抱きかかえ、言われるまま椅子に座った父の背後にまわり、「背中に枕を挟ませていただきます」背もたれと背中の間に小さなクッションをはさみ、父を少し前かがみにさせる。

 姉は父の両肩に手を乗せ、リビングの壁に掛けられた時計に目を向ける。長針が真下を指していた。

 姉は肩に指を引っ掛けながら、親指でゆっくり揉みはじめる。

「特に左の僧帽筋が、固く張ってますね。力加減は大丈夫ですか」

「あぁ、気持ちいい」

 肩の上部をつまむと、ゆっくり左右に動かしていく。そのあと、同じ場所を親指でじっくり押しては抜いてをくり返しながら、首元から方の方へと場所をずらしていく。

 終わると、父の左右の両腕部分を手で挟むように摘んだあと、背骨沿いに背中を押していく。

 次に姉は、左腕を父の額に付け、右手の指先を父の頚椎沿いに当て、押して離しをくり返しながら頭の付け根から首元に位置をずらしていく。

 今度は、父の左右の耳上辺り、側頭部に指の腹を当てては押し回していく。その後、首、背中、両腕をもみほぐし、両肩に手を乗せて左右同時に撫でるように下へ払い、最後にピタッと手を止め「以上終了致しました」と告げた。

 壁時計を見ると、ちょうど五分経過していた。

 気持ちよかった、と漏らす父の目線よりも下になるよう片膝をついてしゃがんだ姉は、「歯痛は大丈夫でしょうか」と問いかける。

「しみてないし、痛くもない。あれ……」

 不思議がる父に、姉は涼しげに告げる。

「右側よりも左側の首や肩の筋肉の方が、すごく張っていらっしゃいました。長時間座りっぱなし、パソコンを使ったデスクワークが原因と思われます。ノートパソコンを使われて作業なされる場合、どうしても前傾姿勢になりがちです。右手はマウスやじを書くなどなさいますので、左腕で体を支えることになります。その結果、左奥歯を噛み締め、顔がこわばり、首や肩も固くなったのでしょう」

「自宅で仕事をするようになって、座りっぱなしの状態が増えたのは確かだ」

「成人男性の頭の重さはおよそ六キロあります。二リットルのペットボトル三本分ですから。片手で持ってみればわかると思いますが、かなり重いです。垂直に立っている状態でしたら支えやすいですが、前傾姿勢になりますと筋肉の緊張が増し、支えづらくなります。これが緊張型の肩こりの原因です」

「肩こりの原因はそれか……」

「さらに、首が前傾した姿勢ですと首と下顎は筋肉でしっかりつながってますので、下顎は首方向、つまり後方へ引かれます。引かれるということは、わずかですが後ろにずれます。すると下顎にのっている下の歯も一緒に後方にずれますので、上の歯とのかみ合わせもずれてしまい、歯が浮くと感じたり痛くなったりするのです」

 父は口元に手を当てながら、胸を張って姿勢を正す。

「デスクワーク、パソコン、車の運転、それに食事の時間など、一日を振り返ると座っている時間が多い生活をされているのではないでしょうか。一時間に一度は席を立ち、腕や肩を回し、胸を張ってそらすなどのストレッチや柔軟体操をされるだけでも軽減すると思いますのでお試しください。それでも良くならないのでしたら、専門医に診てもらうことをお勧めします」

 父からクッションを受け取った姉は、背中に挟んでいたクッションとともにソファーに戻し、歯を磨きに洗面所へと歩いていった。



「姉ちゃん、どうしてわかったの?」

 洗面所へ行き、姉に声をかけてみた。

 いつものように姉は、歯を磨きながら、つま先で立ってはかかとを下ろすを十五回くり返していた。

「わかったって何が?」

 歯を磨きながら、姉が僕を見る。

「ほとんど家にいないし、いても部屋で寝てるか、漫画やアニメ見てるだけなのに」

 姉はコップの水を口に含んでは、ぷっと吐き出した。

「左右のバランスが歪んでたし、内巻き肩で猫背だったから」

「内巻き肩って?」

「長時間デスクワークする人は、肩が内側に入る人が多いの。内巻き肩だと、連動して首も前に傾き、背中も曲がって猫背になる。コロナ禍でリモートワークが増えたのもあって、似たようなお客様をよく見かけるから。そもそも、父さんは食事中でも姿勢がいい人だったのに変だなって思ったの」

 言われてみれば確かに、そうだった気もする。

「自分では楽な姿勢でも、体にとってはよくない姿勢だから。それが続くと、骨盤もずれて腰に掛かる負担も増えて、真っ直ぐな姿勢がどんどん取れなくなる。怠けると、体はすぐに裏切っちゃうからね」

 以前、姉が言っていた言葉だ。

「見ただけでわかったんだ。凄いね。あっという間に治しちゃうなんて」

 横目で僕を見るなり、姉は首を横に大きく振った。

「医療行為はしてない」

「でも、父さんは良くなったよ」

「そうね。そんなに酷くなかったから」

 三面鏡になっている洗面台の左側の鏡を開けて、歯ブラシとコップをしまって閉じると姉は、タオル掛けにかかったタオルで口を拭った。

「人は無理をして体調が狂うと、疲れやすくなったり肩が凝ったり不調が現れる。そんな流れの不調を整える手助けをしたの。もっと以前に、体は悲鳴を上げて伝えていたはず。耳を塞ぐのではなく傾けてほしい。怠れば不調が悪化して、病気になっていく。私ができるのは、病気にならないよう、できることを精一杯するだけ。自分を大切にするのは自分自身なのだから」

 姉はきっと、さっきみたいなことをサロンで毎日しているのだ。

「へえ。姉ちゃんて凄いんだね」

「ありがとう」

 歯を磨き終えた姉は、

「この家で素直に褒めてくれるのは、あなただけだよ」

 僕を抱きしめながら、そっと耳元で囁いた。



 僕には年の離れた、姉がいる。 

 世界で一番の、自慢の姉である。


                    〈了〉

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