涙の行方

野森ちえこ

妹の恋、姉の憧れ

 ノックをして部屋にはいると、妹の実琴みことは制服のままぼんやりとベッドに腰かけていた。きれいに切りそろえられたショートボブからのぞく横顔は虚空をみつめたまま、こちらを振り向きもしない。


 先ほど帰ってきたときは、それはもうひどい顔をしていた。まるで糊ではりつけたみたいに固まっていて、無表情という表情をがんばってつくっているのがまるわかりだったのだけど、今は魂が抜けてしまったようにうつろな顔をしている。

 中学二年生。むずかしいお年ごろである。というあたしもまだ十六歳なんだけど。


「どうしたの」

「……べつに」


 答えてくれたことにすこしホッとする。無反応だったらどうしようかと思った。


「そんななにかありましたって顔しといてなにいってんの。しゃべるまでつきまとうよ。あたし、しつこいよ、本気だよ。ほれ、吐け」


 あたしはどっかりと実琴のまえに座りこんだ。あぐらをかいて、その顔をのぞきこむ。

 実琴はじっとりと半眼になって、細くため息をついた。

 だてに長年姉妹をやっていない。あたしは有言実行の女である。やるといったらやる。実琴もそれをよく知っている。


「告白された」


 実琴はあきらめたように、ぽそりとそういった。

 イヤな予感がした。うつろに沈んだ実琴の顔はおよそ告白された女の子の表情ではない。考えられることはいくつかある。

 嫌いな相手だったとか、友だちが好きな人だったとか。あるいは――


「嘘の告白」


 ああ、秒で予感が当たってしまった。

 親戚とか近所の人とかに、あたしたちはよく似ているといわれる。どこを見て似ているといっているのかは知らないけれど、確かに食べものの好き嫌いとか、服の好みとか似ているところは多いし、仲も悪くない。

 でも、こんなところまで似なくていいのにと思う。


「すぐわかったから断ったけどね」


 告白してきた男子のほかに数名、近くでようすをうかがっているのがバレバレだったらしい。


「……好きだったの? その男の子」


 実琴はこくんとちいさく首を折った。

 聞くまでもなくそうなんだろうなと思った。だからこれほど打ちのめされている。

 もとから嫌いな相手だったら、あるいはなんとも思っていない相手だったら、たぶん純粋に怒れたのだ。ふざけんなと、直接怒りをぶつけることだってできたかもしれない。

 だけど、相手は好きになった男の子だった。そして、そいつは人の恋心を平気でもてあそべるような人間だった。

 怒りよりも衝撃のほうが強くて、やがて怒りはかなしみと失望感に押し流されてしまう。そして、好きだった男の子に踏みにじられた恋心は殺すしかなくなる。人知れず息絶えた恋は、その瞬間から誰にもいえない恋になってしまうのだ。


 なぜそんな知ったふうなことをいえるのかといえば、あたしもやっぱり中学生のときにおなじことをされたからだ。

 でも即座に気がついて、冷静に対処した実琴はすごいと思う。

 バカなあたしは、真に受けてしまったから。真に受けて、よろこんで、クラスの笑いものになった。


 ――おまえみたいなブス、好きになるやつなんているわけねーじゃん!

 ――マジかよ、ありえねえ! 鏡見ろって! ウケる!

 ――本気にできんのがスゲえよ。ソンケーするわー。


 明るくて人気者だった彼に、ほのかな憧れを持っていただけだった。地味で目立たない、平凡な自分が相手にされるなんて最初から思ってなかった。想像すらしていなかった。だから驚いて、すごく驚いて、こんな夢みたいなことがほんとうに起こるのかって、奇跡だって、そう思ってしまったんだ。ほんとうに、バカだった。


 彼らにとってはただのゲーム、遊びだったのだろうけど、あたしにとってはひどい嫌がらせ、悪質ないじめだった。

 あれから、あたしは人を好きになるのが怖くなった。ついでに学校にも行けなくなった。

 ママが早くに死んじゃって、うちにはパパしかいない。心配させたくないし、迷惑もかけたくなかったけど、学校に行こうとすると吐くようになってしまって、それはすぐにバレてしまった。

 ほんとうのことはいわなかった。いえなかった。憧れていた相手に踏みにじられ、殺すしかなくなった恋がかなしくて、かわいそうで、話すことができなかった。だから、ただ学校になじめないということにした。

 それでいろいろ相談して、フリースクールに通うようになって、進学も通信制の高校にした。

 今でも男の子は苦手だ。この先誰かを好きになれる日がくるのかもわからない。

 どうしたらいいんだろう。話を聞いたはいいけれど、あたし自身がこんな状態でなにができるんだろう。経験者として、なにか力になれたらいいのだけど。


「ちょっとやだ、なんで真琴まことちゃんが泣くのよ」

「へ?」


 いわれて気づく。目が熱くて、いつのまにか視界がにじんでいる。


「な、泣いてないよ。まだ」


 目をひらいたままぎゅっと力をこめる。それからゆっくりとまばたきをして涙をひっこめた。大丈夫。水滴は落ちてない。


「まだって」


 ふっと、実琴の全身から力が抜けるのがわかった。そしてたぶん、すこし笑った。


「そうだ。丑の刻参りでもしようか」

「は?」

「呪いの藁人形つくって……って、どうやってつくるんだろ。実琴知ってる?」

「知らないよ」

「ネットで調べればわかるかな」

「いや、しないよ?」

「しないの?」

「そんな不思議そうな顔されても。真琴ちゃん、たまに発想がおもしろいよね」

「そうかな」

「うん」

「……あのね」


 声がかすれて、のどがキュウッとしまる。

 がんばれ、あたし。

 たぶん、あたしが今できることはひとつしかない。


「あたしも、ターゲットにされたことがあるんだ。告白ゲームの」

「え、ほんと?」

「ほんと。それが学校に行けなくなった、ほんとうの理由」


 情けないくらいに声が震えた。もう二年以上まえのことなのに。刻みこまれた傷はまだこんなにも生々しく痛みを訴えてくる。


「なんていうやつ?」

「ん?」

「そいつの名前」

「聞いてどうすんの」

「殴りに行く」

「いや、行かなくていいから」


 姉妹そろってなにをいってるんだか。

 どちらともなく吹きだして、笑っているうちに涙が出てきた。せっかくひっこめたのに。でも今回は実琴も泣いてるからまあいいかと思った。


 思えばあの日、あたしは泣かなかった。あんなやつのために泣いてたまるかと思った。そうやって心の奥に涙を閉じこめた。

 でもきっと、いくら頑丈に閉じこめても、それでかなしみが消えるわけじゃないのだ。ずっとずっと、あたしはかなしかったんだ。そう思ったらなんだか心が楽になった。

 楽になったら、涙が止まらなくなった。

 実琴も泣いていた。

 いつしかふたりとも声をあげて泣いていた。

 ふたりで泣きながら笑った。笑いながら泣いた。泣いて泣いて、わんわん泣いて、ひからびてミイラになりそうなくらい泣いた。

 ほんとうに、姉妹そろってなにをやってるんだか。


 泣くだけ泣いて、目を真っ赤にした実琴はぽつりと「よかったんだよね」といった。


「知らないでずっと好きでいるより、ひどいやつだってわかって、よかったんだよね」


 かすれた声で、だけど力強くそういった。

 わが妹ながらほんとうにすごいなと思う。つらいときも苦しいときも、実琴はいつだって『いいこと』を探そうとする。あたしもパパも、実琴のこういうところに何度も救われてきた。

 今回だって結局あたしのほうが救われているような気がする。

 たよりない姉でごめんねって思うけど、それは口にはださない。いえばまた実琴になぐさめさせてしまうだけだから。

 あたしは空気を切りかえるため、「よし」と声をだしながらぱんっと手をあわせた。


「ケーキとプリンとシュークリーム、どれがいい? おごってあげる」

「やった! えーと、えーと、どうしよう、迷う!」

「じゃあ一緒に買いもの行こうか。夕飯も今日は実琴の好きなものつくろう」

「大サービスだね」

「お姉さまって呼んでもいいよ」

「お姉さま大好き!」


 まだ無理をしている。実琴もあたしも。それはしかたないし、それでいいのだと思う。

 時間が経ってやがて傷口がふさがっても、傷あとはきっと残ってしまう。なにかの拍子に痛みだすことだってあるかもしれない。それでもいつか、この誰にもいえない恋を語ることができるようになったなら、そのときあたしたちはひとつ大人になれるような気がする。


「では妹よ。着替えて顔洗って出発するぞ」

「真琴ちゃん、キャラが行方不明になってるよ」

「ツッコまないで。恥ずかしくなるでしょ」

「あはは。ね、真琴ちゃん」

「んー?」

「ありがとう」


 また泣きそうになって、あたしは実琴のすこし乱れているショートボブの髪の毛をぐしゃぐしゃとかきまぜる。

 ありがとうは、こっちのセリフだ。



     (了)

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涙の行方 野森ちえこ @nono_chie

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