僕と天野さんの片思い協定。

加藤ゆたか

僕と天野さんの片思い協定。

 天野あまのさんは保健室登校をしていた女子だ。

 どういうわけか今学期からクラスに復帰した。

 でも声が小さくて、よく聞かないと聞き取れなくて、同じ班の僕はいつも苦労していた。


「……日下くさかくんって好きな人いる?」


 だから、天野さんが僕にそんなことを聞くなんて意外だった。

 僕は書く手をとめて、天野さんの顔を見た。天野さんは少し笑って、じっと僕の顔を見ている。まるで僕を試すように。

 二人きりの教室。

 風がカーテンを揺らす。

 窓の外では、サッカー部か野球部か、グラウンドの声が遠くに聞こえる。

 その日、僕と天野さんは班の当番で、放課後、クラス日誌と教室の施錠をすることになっていた。

 あとはこのクラス日誌を書き終われば、僕らの仕事は終わるはずだった。


「私はいるの。」


 僕が答える前に、天野さんは言った。

 机を挟んで向かい合わせ。距離が近いと思った。

 僕の視線は無意識に天野さんの唇に向いていた。

 いつもは小さい天野さんの声は、なぜか僕の耳によく響いた。


「……誰?」


 僕は聞いた。

 なぜだろう?

 それはきっと天野さんが聞いて欲しそうだったからだ。


「……言えない。」

「言えない?」

「誰にも言えないの。」

「誰にも?」

「片思いなの。」


 でも、天野さんの答えはそれだった。

 何が言いたいんだ?

 真意を測りきれず僕は天野さんの目を見た。

 天野さんは僕から目を逸らさず、もう一度聞いた。


「日下くんは?」

「僕は、……いるよ。僕も片思いだ。」


 天野さんは僕の答えに満足したかのように口角を上げ、目を細め、笑みを作った。


「……じゃあ、私たち片思いの仲間だね。ねえ、お互いにずっと秘密にしよう。協定を結ぼう。片思い協定。私も日下くんも、誰にも言ってはいけないの。」

「相手にも?」

「そう。」


 それが始まりだった。


          *


 半ば強引に、天野さんは僕とスマホのIDを交換した。

 天野さんはスマホでさっそくグループを作って僕を招待した。

 グループ名は、片思い協定。二人だけのグループ。

 そして最初の投稿には、協定のルールと書かれていた。



 一、片思いしていることを誰にも言ってはいけない。

 二、片思いの相手に想いを伝えてはいけない。

 三、片思い協定で知ったことは誰にも言ってはいけない。



「……協定を破ったら罰則があるから。」

「どんな?」

「……世にも恐ろしいこと。」

「ええ?」


 天野さんはいたずらっぽく言った。

 本気だとは思わないけれど、僕は天野さんの提案に乗ってしまったことを少し後悔した。

 僕に好きな人がいること、片思いしていること。

 それは嘘だった。ちょっと魔が差した嘘だ。

 確かに少し前ならクラスの佐藤さんが好きだった。

 二年生になってからずっと好きで、気付いたら目で追っていた。

 でも失恋した。

 告白して振られたのだ。

 今の僕に好きな人はいなかった。


「これからよろしくね。」


 そう天野さんが嬉しそうに言ったので、僕は嘘だと言い出せなくなった。

 ずっと保健室登校していた女子。声も小さい。同じ班だけど、席は真後ろ。

 僕は天野さんのことを何も知らない。

 こんな提案をされるなんて。

 天野さんはクラス当番の仕事をさっさと片付けると、教室の鍵とクラス日誌を持って一人で職員室に行ってしまった。

 まあ、でも、僕にはこの協定を破る心配はない。

 だって好きな人がいなければ、誰にも言いようがない。

 天野さんは誰が好きなのだろう?

 誰にも言えないって、そんなことあるのか?

 僕にはその答えがすぐにわかった。


「その人は学校の人気者で、この間も授業を盛り上げていた。」

「その人は運動ができて、逆立ちを披露することもあるの。」

「その人は誰にでも優しい。私だけじゃないの。」

「その人は同じクラスではないから、会えない日もある。それが寂しい。」

「その人は笑顔が可愛い。ずっと眺めてしまうの。」


 片思い協定のグループは、天野さんからのメッセージで埋め尽くされた。

 僕は相づちを打つだけだった。

 天野さんは僕にも同じように気持ちを吐き出していいと言ったけれど、僕にはそんなものはない。

 きっと、本当に片思いをしていたって書かないと思う。

 天野さんのメッセージで気になったキーワード。人気者。会えない日もある。逆立ち……。


「その人は海の近くの公園が好き。意外だけど。よく遊びに行くんだって。」


 それで僕はピンときた。

 あれはいつだったか。雨の日。体育の外での授業が無くなって教室での授業になった日。

 クラスの女子が、体育の杉田先生に質問をした。


「先生。日曜日に、海浜公園にいましたよね? 一緒に歩いていた女性は誰ですかー?」

「おいおい、見てたのか? あれは先生の奥さんだ。」


 その話題で、クラスは大いに盛り上がった。

 杉田先生は体育の先生で隣のクラスの担任だ。杉田先生の話は面白い。授業でもおちゃらけて、逆立ちを見せてくれることもある。体育の授業は週に三回だ。女子にも人気があった。

 僕は見た。体育の授業で、杉田先生と嬉しそうに話している天野さんを。



 天野さんの好きな人は杉田先生だ。



 でも杉田先生は年上で、学校の先生で、奥さんがいる。

 天野さんの恋は誰にも言えない恋……。


「私ね、その人に助けてもらったの。保健室で、毎日、毎日、元気づけてもらって。それでまた教室で授業を受ける勇気が持てたの。」


 決して報われない恋だ。


           *


 それからの僕は、体育の時間、気付くと天野さんと杉田先生の姿を追っていた。

 僕は、杉田先生と話している時の天野さんの笑顔を可愛いと思った。

 杉田先生は罪深い。奥さんがいるのに、一人の少女を夢中にさせている。そしておそらく、そのことにも気付いていない。世界中で、天野さんをあの顔にさせられるのはただ一人、杉田先生だけなのに。


「もしも、その人と付き合えたら……。」

「今は無理だけど、いつか……。」


 片思い協定の天野さんのメッセージは次第にエスカレートしている気がした。

 思春期の少女の暴走に、いつしか僕は危機感を持っていた。

 片思い協定は、天野さんが自分に課した枷ではなかったのか?

 杉田先生に思いを伝えてしまったら、全部終わってしまうのに。


「私、今度の日曜日、海の近くの公園に行ってみようと思うの。」


 は?

 そのメッセージを見て、僕は慌てて天野さんに音声通話をかけた。

 数コールあとに、天野さんは通話に出た。


「天野さん、公園って?」

「……行ったことないから。」

「だけど、もしも、その人に会っちゃったら?」

「……。」

「それが狙い?」

「……違うの。」

「じゃあ……。」

「……うん。ごめん、やっぱりやめておく。」


 天野さんとの通話が切れた。

 でも僕は嫌な予感がして、日曜日、一人で海浜公園に行った。



 はたして、天野さんは海浜公園に現れたのだった。


「日下くん、どうしてここにいるの?」

「それは僕のセリフ。」


 僕と天野さんは公園のベンチに座った。

 ここからは公園の全体がよく見える。大きな砂浜。船の形の遊具で遊ぶ子供たち。その向こうには海が広がっている。


「……私の好きな人を見に来たの?」

「知ってるよ。杉田先生だ。」

「……海浜公園のこと、日下くんも知ってたんだ。」

「ここで杉田先生に会えたらどうするの?」

「……別に。会えたらいいなって思っただけなの。」


 天野さんの横顔は、杉田先生を見ている時のあの顔だった。

 それが僕はちょっと悔しかった。

 だから言ってしまった。


「どうせここで会えても、杉田先生は奥さんと一緒じゃないか。」

「……え?」

「え?」


 天野さんは目を見開いて僕の顔を見た。

 そして天野さんの瞳からは、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。

 ……知らなかったのか。

 そうだ、あの日の授業。あれは一学期。天野さんはまだ授業に復帰していなかった……。天野さんはあの杉田先生の話を聞いていなかったのだ……。


「杉田先生に奥さんがいるって……。」

「そうだよ。クラスのみんな知ってる。天野さん、知らなかったんだね……。」

「……どうして、私に言ったの?」

「天野さん……。」

「……知らなければ、こんな気持ちにはならなかったのに。ずっと片思いでいられたのに。」

「……ごめん。」


 天野さんはずっと泣き続けた。

 僕はハンカチを手渡したけど、天野さんはそれを受け取っても涙を拭こうとはしなかった。

 僕は胸が痛んだ。天野さんを泣かせるつもりなんてなかったのに。


「……私、帰るね。」


 次の日から、天野さんは学校に来なくなった。


           *


「天野さん。」

「ごめん。」

「学校に来て。」

「みんな心配してる。」

「杉田先生も。」

「お詫びに、僕の好きな人も言うから。」


 ずっと未読のままだったメッセージが、既読になった。


「知ってる。佐藤さんでしょ。ずっと見てた。私、後ろの席だから。」


 やっと来た天野さんからのメッセージ。

 そして続けて、

「でも、佐藤さんは山本くんと付き合ってるよ。」

と送られてきた。

 ……知ってるよ。


「僕の好きな人は佐藤さんじゃないよ。」

「じゃあ、誰?」

「学校に来たら教える。」

「わかった。」


 天野さんは僕の片思いを知っていた。そして、それが叶わない恋であることも。

 天野さんは、自分の恋心を誰にも言えなくて、苦しくて、苦しくて、僕を仲間に引き入れた。

 同じ悩みを抱えている仲間を欲して、少しでも楽になりたかった。

 女の子は残酷だ。

 僕にも自分と同じように、決して叶わない恋を強いた。

 それが片思い協定……。

 でも結局、自分の気持ちを抑えきれずに暴走した……。



 次の日も、天野さんは学校に来なかった。

 僕は誰も座っていない後ろの席をじっと見つめた。


「あ、あれ天野さんじゃない?」


 クラスの誰かが、窓の外を指差して言った。

 僕は窓の外に身を乗り出すようにして、その姿を確認しようとした。

 校門のところ。制服姿の女子が一人立っている。

 天野さんだ。

 ここまでは来てくれたんだ。

 でも、校舎までは入れない。躊躇している。

 僕は教室を飛び出した。

 僕が天野さんにしてあげられることって何だろう?

 僕は杉田先生みたいな人気者じゃないし、ユーモアもない。天野さんに勇気を与えることもできない。

 でも何もしなかったら、このまま天野さんが学校に来なくなったら、きっと後悔する。

 もしも、天野さんの心が折れてしまっていたら、僕はその添え木になりたい。

 せめて失恋の傷が癒えるまでは。


「天野さん!」


 僕は呼吸を整える間もなく、天野さんに声をかけた。


「……日下くん。」

「天野さん。見てて!」


 校門から入ってすぐは床がタイルになっている。

 僕は床に手をついて、気合いを入れて、地面を蹴った。

 今だったら、僕にだって出来る気がする!

 逆立ちだ!



 地面を蹴った僕の足は、そのまま天を目指したかと思うと反対側に傾いていって、僕は背中から倒れた。

 ぐぇっ!

 バシーンと大きな音がした。僕の目にはピカピカと星が散った。

 逆立ちは失敗した。

 背中も痛いし、ダサすぎる。


「……大丈夫? ふふふ。」

「起き上がれない……。」

「ははは……何それ、カッコ悪い。はははは。」


 しばらくの間、天野さんの大笑いは止まらなかった。

 天野さんのこの笑顔を見たのは、きっと世界中で僕だけだろう。


「……ありがとう。なんかすっきりした。」


 僕は大きな音を聞きつけて駆けつけた先生たちに支えられてやっと起き上がれた。

 天野さんは、そのまま教室まで行けて授業を受けた。

 それ以来、天野さんは学校を休んでいない。

 今も、片思い協定のメッセージは続いている。


「ねえ、結局誰が好きなの?」

「まだ、誰にも言えない。」


 でもいつか、君にだけは伝えたいと思う。

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僕と天野さんの片思い協定。 加藤ゆたか @yutaka_kato

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