両思い的片思い
なしもと
本文
同じクラスの宮内が、どうも俺のことが好きらしい。
別に、痛い思い込みでそんなことを言っているんじゃない。あくまで客観的に見てそう思うだけだ。
例えば、俺が宮内に話しかけると、彼女の友人たちが無駄に囃し立てる。例えば、彼女の友人たちが、無駄に俺と宮内の接触の機会を作ろうとする。
宮内が俺のことが好きだという話は、かわいそうなくらいにクラス中知れ渡っていた。
宮内は、地味で目立たない女子だ。ブスでない代わりに、特別かわいいわけでもない。成績は良い方だろうか。周りの友人たちはどちらかというと派手なため、大人しい彼女は若干浮いていた。
彼女とは、一年の時もクラスは同じだった。話した記憶はほとんどない。あっても、全て事務的な内容だ。はっきり言って、俺は彼女の存在を今まで意識したことがなかったのだ。
宮内自身の態度を見る限り、彼女が俺に好意を寄せているとは思えない。俺と話すときはいつだって素っ気ない。それは彼女にとって、相手が男子なら誰でも同じだ。だから、俺と宮内を巡る女子たちの振る舞いが意味することを、なかなか気づけずにいたくらいだ。
「なぁ林、数学の課題やってきた?」
「課題なんてあったか?」
「……ごめん、俺、おまえにはもう頼らないわ」
「はぁ?」
化学教室への移動中、隣を歩く白井になぜかため息を着かれた。何となく気にくわなかったから、肘でつついてやる。彼はその俺の肘を絡めとると、
「昼休み一緒に勉強しようね」
と言った。
白井を適当に受け流しながら渡り廊下へ曲がると、前方に女子のグループが笑い声を上げながら歩いているのが見えた。宮内もいる。近頃は嫌でも宮内を意識してしまうようになった。
急に、白井の歩くペースが遅くなる。女子たちから距離を取ろうとしているのだ。これが宮内に対する彼なりの配慮であったことに、当時気の利かない俺は気づかなかった。
突然、カシャーンと缶の筆入れが落ちる音が廊下に響き渡った。軽い悲鳴と笑いも起こる。女子の誰かが落としたらしい。
落とした拍子に蓋が開いたのだろう。ころころと水色の蛍光ペンが俺の足元まで転がってきた。それを拾い上げると、女子たちは一瞬動きを止めた。そこで初めて俺たちの存在に気づいたらしい。
何となく、嫌な予感がした。白井も同じように感じたのか、自然と目が合った。
次の瞬間、目だけで合図を交わした女子たちは、キャハハと笑い声を立てながら走り去っていった。散らばった筆入れの中身と、一人、宮内を残して。
「あ~あ」
と白井が呆れたように呟く。
何が起こったのか理解できないというように呆然と立ちすくんでいた宮内は、後ろの俺たちに気づくと、はっとして散らばっているペン類をかき集め始めた。俺と白井も手伝ってやる。俺たちからペンを受けとった彼女の手は、震えているようだった。
「ありがとう」
宮内は小さく礼を言うと、逃げるように走っていった。
「ヤな感じ」
「あれはもはやいじめだよな」
宮内の消えた廊下で、彼女への同情を言い合う。
「放っておいてやればいいのにね。かわいそうだよ。もうみんなに知られちゃってるじゃん」
白井の言葉に頷く。宮内が俺のことを好きだというなら、それ自体は素直に嬉しい。それにしてもあのからかいの受け方はかわいそうだ。
「あいつ、本当に俺が好きかな」
「どうだろうね。周りの反応さえなければ、とてもそうは思えないけど」
「だよなぁ」
「あ、何? 肯定してほしかった?」
「うっせ」
白井は嫌な笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んでくる。非常に気にくわない。
無視を決め込んでいると、白井は諦めたように苦笑した。
「でも、まぁ、好きなんだろうね。じゃなかったら、宮内だってちゃんと否定するはずだもん」
俺は頬が熱くなるのを気取られないように
「どうだか」
とそっけなく返すことしかできなかった。
俺と目の合った宮内は、本当に嫌そうな顔をしてそっぽを向いた。
いやいや。その反応ってどうなのさ。仮にも君は俺が好きということで通っているんだからな。もうちょっと嬉しそうにするとか恥ずかしがるとか、かわいい反応みせたらどうだよ。
定期考査が終わり、教室の席替えが行われた。俺は真ん中の列の一番後ろ。そして隣が宮内だったのだ。くじ引きではあったが、それが偶然なのか、それとも女子によって仕組まれていたのかはわからない。
「あー、よろしく……」
机を並び替え、落ち着いたところで宮内に話しかけてみる。話しかけられるとは思っていなかったのか、宮内はびくりとして顔を向けた。
「あ、うん」
そして強ばった表情のまま、小さく頷いた。あまりにぎこちないため、それ以上何か言うのは躊躇われた。宮内も、すぐにうつむいてしまった。
ふと、視線を感じた。教室を見渡してみると、こちらを見てニヤついている女子が数人。宮内の友人たちだ。
急に不快な気分になる。
宮内が嫌そうな顔をするのも当然だ。
数学の教師が教室に入ってきてから、教科書を家に忘れてきたことに気づく。たまには勉強しようと思って持ち帰り、そのまま置いてきてしまったのだ。通りで俺は成績が悪いはずだ。
隣のクラスに借りに行く時間はもうない。隣の宮内をうかがう。見せてもらうしかないな。数学担当の教師は厳しい人で、居眠りや内職を許さない。自分の授業に集中していない生徒には「次のテストが楽しみだな」と嫌みを言うのだ。
「なぁ、教科書見せてくれねぇ?」
両手を合わせ、上目遣いに宮内に頼み込む。彼女はちらりと俺を見やると、黙って開いた教科書を俺の方に寄せた。机を合わせ、間に置いてもらう。
「ありがとな」
礼を言っても彼女は何も反応しなかった。ただじっと、手元のノートを見つめていた。
どことなく気まずいまま、授業は終わった。
教科書を片付ける宮内にもう一度礼を言うが、やはり無視される。聞こえていないわけではないだろう。さっきもそうだったのだが、瞬きが増えるのだ。
それにしても、と俺は眉をひそめる。感じが悪い。声をかけているのだから、何かしら返してくれたっていいではないか。迷惑をかけてるのはこっちだから、俺が怒るのは筋違いだけど。
次の授業も教室だった。俺は頬杖をつき、宮内を横目に観察していた。
彼女は機嫌が悪いのか、ただ落ち着かないのか、シャープペンシルのペン先で机をカツカツとつついていた。やがて無意味にノートをガリガリと塗りつぶしては、消しゴムで消している。そして時折、ゆっくりため息を吐く。授業なんて、全く聞いていない様子だ。
これは、あれだろうか。俺が隣にいて緊張しちゃってる、なんてことじゃないだろうか。だとしたら、さっき無視されたのも、緊張でどうしたらいいかわからなくなっちゃったからだ。なぁんて。
あり得る。十分、あり得るよな。だって、宮内は俺のことが好きなんだから。
宮内とは席が隣にも関わらず、全く会話も交わさないまま数日が過ぎた。白井にも、変に話しかけることはないと言われていた。宮内の方が気を遣っちゃうだろうから、と。
「では、まとめの問題を解いてみてください。解き終わったら隣の人と確認して、わかんないところを話し合ってみてくださいね」
今は英語の授業中。
担当の女性教師に指示された問いを見てみるも、さっぱりわからない。文法問題だから法則さえわかればいいのだろうが、それが理解できない。
宮内は、ささっと教科書に何かを書き込んで、ペンを置いた。考えるまでもないと言いたいのか。
周囲では、隣の席の人と自分の解答を見せ合っている。しかし宮内は、話しかけるなオーラ全開で電子辞書をいじっている。
聞きたいのだけれど、聞きづらい。先生に当てられたら困るんだけどな。
「じゃあ一問目を……、杉田くん、お願いします」
嫌な予感。杉田は俺の列の先頭に座る生徒だ。この先生は、列に沿って問題を掛けていく。列の人数と問題数を考えると、やはり俺も当たる。しかも、全くわからない問題だ。
そこだけこっそり宮内に教えてもらおうと思ったのだが、全然目を合わせてくれない。「なぁ」とか「おい」とか、小さく呼び掛けても無反応だ。瞬きの回数は増えているくせに。
「はい、いいですね。では次が、林くん」
結局、答えのわからないまま当てられてしまった。
幸い、四択問題だ。あてずっぽうでいける。
「……三番」
「う~ん。ちょっと違いますね。じゃあ隣にいって、宮内さん、どれだと思います?」
「二」
「はい、正解。この問題は……」
思わず、舌打ちをしてしまった。宮内の肩が跳ねたように見えたのは気のせいではないだろう。
別に、自分が間違えたことを彼女のせいにしようなんて思っちゃいない。はっきり言って、間違えたことなんてどうでもいい。頭の悪い俺が間違えたことを気にする人は、このクラスにはいない。だけど、なぜだろう。なぜか、苛立つのだ。
横から見る宮内は、俺の舌打ちに一瞬怯えたような表情をしたくせに、すぐに唇をきゅっと結んで、泣きそうにも見える顔で前方を睨み付けた。
あぁ、その表情は、割と好きかも。
「ミヤ~!」
その日の放課後、帰り支度をしていると宮内の友人のうち二人が彼女に駆け寄ってきた。そして振り向いた宮内に突進する。
「きゃあ!」
細身の宮内は猪どもに突き飛ばされ、隣に立っていた俺にぶつかった。
「うわっ」
不意討ちを喰らったようなものだ。俺は宮内を支えることなんてできず、一緒に倒れ込んでしまった。倒れる時にどこかをぶつけたのか、机と椅子がガタガタと音を立てた。もしかしたら、宮内がぶつかっていたのかもしれない。
かなり勢いよく倒れたせいで、一瞬呼吸が詰まった。そして、俺の中で何かが弾けた。
「いってーな! おまえらいい加減にしろよ! うざいんだよ!!」
しん、と教室内が静まる。いきなり俺が怒鳴ったことで唖然としていた女子たちは、言葉の意味を飲み込むと、キッと俺を睨み付けた。
その態度にさらにイラッとして床から立ち上がると、まだへたりこんだままの宮内が俺を見上げ、焦ったように言った。
「あっ、ごめん、林くん、ごめんね」
へたりこんだ姿勢のまま謝り続ける宮内を見ていると、さっきとは違う類いの苛立ちが込み上げてきた。
おそらく俺は、宮内には謝ってもらいたくないのだろう。
なぜ? 知るか、そんなこと。
「本当に、ごめんね」
目に涙が溜まってきた宮内は、それが零れる前に立ち上がると、走って教室を出ていった。逃げたのだ。
教室の空気は最悪だった。もとはといえば明らかに女子が悪いのに、宮内が逃げたせいで俺まで加害者のように見られてしまっている。
あぁ最悪。気分が悪い。
その後女子たちに何か言われる前にと俺もすぐに帰ったが、下校中、白井にはさんざん説教された。
「おまえ、ホントにバカだよな。バカなのは知ってたけど、もっとマシなバカだと思ってたよ」
彼の言わんとしていることはなんとなくわかっている。だけど俺はそれを素直に聞き入れられなかった。
「俺は悪くないだろ」
「そういうこと言ってる時点でバカなんだよ。宮内泣きそうだったろ。怒る相手ははっきりさせろ」
「俺が怒ってたのは宮内じゃねぇよ」
「そんなこと知ってるよ。でも宮内はわかってなかっただろ。跪かせて謝らせてさ、それを上からおっかない顔で見下ろして。何、林くん、目覚めたわけ?」
「何にだよ……」
引いたような顔をして、白井は俺から二歩距離を取った。そして「最低、鬼畜、変態」とぶつぶつ言っている。言っておくが、俺に変な性癖はない。
白井はしばらく黙って歩き、また口を開いた。
「小学校にさ、ああいうの、いなかった?」
先ほどまでの説教口調ではなく、どこか寂しげな物言いだった。
「ああいうのって?」
「大川たちみたいに、友達の恋を応援するとか言って、本人置いてきぼりにして暴走しちゃう子」
大川は宮内の友人の一人だ。
白井の話を聞いて、そういえば、と思い出すことがあった。確かにそんな子がいた。俺には関係のない所でやっていたため、見ている分には面白かった。
「じゃあ、あいつらのやってることは小学生レベルってことか」
白井は俺の言葉には即答せず、間を置いて、首をすくめた。
「……だと、いいけどね」
「……どういう意味だよ?」
「あいつらが本当に、宮内のために行動しているつもりなら、まぁ、いいかなって」
「……は?」
「ただ面白がってるだけにも思えない? いじめてるっていうか」
面白がっているだけ。あぁ、そうだよ。俺だって昔は面白がっていたではないか。他人の片思いは面白い、そういうことだ。
「だからさ、林は巻き込まれた被害者だろうけど、宮内だって被害者なんだから、その辺わかってやれよ」
白井はそれ以上何も言わず、交差点に差し掛かると、「じゃあな」と手を振って角を曲がって行った。
「では、この文の訳を隣の席の人と考えてみてください。そのとき、文法的要素も意識してくださいね」
次の日の英語の授業。また、ペアワークだ。
宮内は頬杖をつき、ボーッとしていた。昨日のような緊張感はない。隙だらけで、今日なら話しかけてもいいかなと思う。
「なあ、今のとこ、どう訳せばいいんだ?」
声をかければ、宮内は大げさなくらいに肩を跳ね上げた。完全に自分の世界に飛んでいたらしい。両手で教科書を持ち、しどろもどろに俺に応えようとする。
「えっ、と、どこ?」
「だから、今先生が言ったとこ」
「ごめん、聞いてなくて……」
「ここ、ここ」
自分の教科書の一文を指し示すと、宮内はそれを覗き込んだ。
思いがけず顔の距離が近くなり、どぎまぎする。おそらく宮内は無意識だろう。彼女の視線はひたすら教科書をなぞっていた。
彼女が俺から見える側の髪を耳に掻き上げたとき、思わず喉がコクっと鳴った。
「ここは、……」
おかげで、宮内が日本語訳を言ってくれていたのだが、ほとんど聞き流してしまった。
「あー、悪い、もう一回言って?」
やましい気持ちを隠して頼むと、宮内は困ったように黒目を泳がし、さっきよりゆっくりな口調で繰り返した。速くて俺が聞き取れなかったと思ったらしい。後ろめたい気分になり、今度は英文と見比べながら真面目に聞く。
「後半のこの部分、なんでそうなるんだ?」
「えっと、そこは、付帯状況だから……」
「ふたい?」
聞きなれない単語が出てきて首を傾げる。一般的な言葉なのだろうか。
「つまり、状況の追加って言うか……」
そのなんとか状況を俺がわかっていないことを悟ったのだろう。宮内は説明を始めた。
「何々をしながら、とか、何々の状態で、みたいに、」
しかし、説明の途中で先生が授業を進めてしまった。
「では、訳の前に文法事項の確認をしましょうか。林くん、この“with”はどういう役割で使われているでしょう」
先生に当てられ、内心で「げっ」と声を上げる。だが、ちょうど今説明してもらっていた部分だ。宮内を見やると、彼女も俺の視線に気付き、「ふたい」と口を動かした。
「ふたい、状況?」
「はい、そうです。よく覚えてましたね」
覚えていませんでした。以前に授業で習っただろうか。
先生は黒板に写した文に「付帯状況」と書き込んだ。
「じゃあ水野さん、訳をお願いします」
宮内に「サンキュー」と口パクで伝える。すると彼女ははにかんだように笑って、小さく頷いた。今回は無視されなかった。
なんだ。なぁんだ。なんか、なんて言うか、結構普通じゃん。
その日以来、授業のペアワークはちゃんと行うようになった。無理にでも話しかければ、宮内は案外普通に答えてくれた。英語ではほとんど俺が教えてもらっているだけだが。数学の課題でわからなかったところを聞いても、丁寧に説明してくれる。宮内は口下手なところもあり説明はたどたどしいが、要点を突いて教えてくれるのでわかりやすい。
今では宮内の態度はだいぶ柔らかくなった。朝「おはよう」と挨拶をすれば、ちょっと前までは躊躇いがちに返していたのに、最近では彼女の方から挨拶してくれることもある。
進歩したものだ。これを進歩と呼んでいいのかわからないが。
「林ってさぁ、宮内のこと好きなの?」
ある日の下校中、会話が途切れたところで白井に宮内について話を振られ、首を傾げる。しかも、俺が宮内を好きだって?
「好きなように、見える?」
「見える」
逆に聞き返せば、白井は事も無げに頷いた。
「なんで?」
「だって、林、やけにあいつに構うじゃん」
「いや、普通だろ」
「普通だけど、相手が宮内なら普通じゃないよ」
「えぇー?」
「前は宮内のこと、態度悪いとかいろいろ言ってただろ」
「言ったっけ?」
「言ったよ。話しかけても無視されたとか」
「あー、言ったかな。……そういうおまえこそ、随分宮内のこと気にしてんじゃねぇか」
俺が反撃に出ると、白井は言葉をつまらせた。
「いや、それは、まぁ、気にするでしょ」
「なんでだよ」
「だって、宮内って、保育園から一緒なんだぜ? 情が湧くっていうか、ね?」
俺は「えーっ」と驚きの声を上げた。そんなこと、知らなかった。だが、思い返せば白井は結構宮内を気に掛けた発言をしていた。
「マジで? え、じゃあ、幼馴染みなわけ?」
「馴染むことはなかったかな。あいつ、昔からあんな感じだし」
「へぇ、でも、保育園からってことは、もう十五年くらい一緒ってことか?」
「そうなるね。あ、家に卒園アルバムあるよ。見る?」
「見る」
俺が即答すると、白井は苦笑した。
「やっぱり好きでしょ」
「ちげぇよ。俺は小さい頃の白井を見たいんだ」
「う~ん。それはちょっとキモいかも……」
白井は腕を擦って寒がるジェスチャーをした。失礼なやつめ。
その後も白井と他愛のないことを話しながら、幼い頃の宮内はどんな子だったのだろうと考えた。かわいかっただろうか。
今だって、笑っていればかわいいのにな。初めて宮内が俺に笑いかけてくれた時のことを思い出す。いつぞやの、付帯状況を教えてもらった時のことだ。あれからも何度か彼女の笑顔を見てきた。
笑顔に惹かれるって、ありがちだけど。でも、笑うって、嬉しいとか楽しいとかおかしいとか、心の中が幸せなときに自然に起こる現象だから。だから、惹かれるんだろうな。
俺は、宮内の笑った表情が好きだ。もっと言えば、俺だけに笑いかけてくれる時が好きだ。だって、俺と話していることで心が幸せを感じているなら、俺だって嬉しいだろ。
「じゃあな。あ、休みの日、俺んち来いよ。アルバム見せてやるから」
いつもの交差点で白井と別れる。彼の後ろ姿を見送りながら思うのは、やはり宮内のことだった。
次の日、朝学校に行くと、宮内は先に来て勉強をしていた。
いつものように「おはよう」と声をかける。宮内は俺をちらりと見て、それからサッと教室内に視線を走らせた。そしてやっと小さな声で「おはよう」と言った。つかの間申し訳なさそうな顔をした彼女は、またすぐに参考書とノートに向き直ってしまった。
不自然だ。
彼女を真似して教室を見渡して見る。別に、誰もこちらを見たりなんてしていない。
でも、まぁ。頭の悪い俺にだって、原因は予想がつくけど。
窓際で談笑している二人の女子。教卓の前で騒いでいる三人の女子。宮内の「友人」たちだ。
彼女たちをしばらく観察していると、教卓の前にいた大川が不意にこちらを向いた。勉強している宮内を見据え、そして俺に視線を移す。目が合うと、すぐに逸らされた。その目は、感情のこもっていない、冷たい目だった。
厄介なことになったかもしれないな、と俺は頭を抱えた。「いじめ」という単語が脳内に浮かぶ。
近ごろ、以前のように女子たちが宮内を俺絡みでからかうことはなくなっていた。だから、俺は何も気にすることはなく宮内と話したりしていたのだが。それが女子たちは気に入らなかったのだろうか。
女子って、面倒くさい。
だが昼休み、俺の心配は杞憂であったことに気づいた。宮内は普段と変わらず女子たちと一緒に弁当を食べていた。和やかに笑いあったりなんてもしている。
なんだよ、と宮内を見ながら俺は内心で舌打ちをした。いじめかも、なんて心配したのがバカみたいだ。だったら、朝のあの微妙な態度はなんだったんだ。周りの女子は関係ないのか。
なんとなく、苛立つ。以前にも似たような苛立ちを覚えたような気がする。いつだっけ。ちょっと考えて、思い出した。宮内が謝った時だ。突き飛ばされた彼女と共に転び、俺が女子たちに怒鳴った時だ。
あぁ、俺、宮内には俺のことを見ていてほしいんだろうな。きっと、そうなんだ。
昼休みが残り数分になり席に着くと、隣の宮内は授業の準備をしていた。彼女が俺を意識した素振りを見せないのが気に入らなくて、手元の数学の教科書を掴んで無理に話しかけてみる。
「なぁ、昨日の授業の内容だけど……、ここ、なんでルートなんか出てくるんだ?」
話題がなくて勉強の質問になってしまうところが、我ながらなさけないけれど。
宮内はごく自然な動作で教科書を覗き、俺の質問に答えた。
「図を描くとわかりやすいんだけど……」
宮内は自分のノートの後ろのページを開くと、そこにささっと単位円を描いた。
俺は思わず感嘆のため息をもらした。彼女は気づいていなかったが。
宮内の描いた図は、適当なのに上手かった。定規を使わずとも直線を引き、円はちゃんと丸いのだ。そして、その円の中心に原点がある。
どうして成績の良い人は、こういった図も上手く描けるのだろう。俺の描く直線は曲線だし、円は楕円ならまだしもへこんでいる。
宮内は、その図にさらに書き込みながら説明を続けた。
「これってつまり、この部分の長さになるんだよ。だから、三平方の定理が使えるでしょ? そうすると、こういうふうになるの 」
「あー、そっか。なるほど」
「ありがとう」と言えば、宮内は「どういたしまして」と冗談っぽく笑った。
いつも通り、いや、むしろいつもより調子が軽い。朝のアレは、俺の気のせいだったのだろうか。
ちょっとだけ気分が良くなり、俺は鼻歌を歌っていた。すると、今度は珍しく宮内の方から話しかけてきた。しかも、若干興奮気味に。
「今の、 『silver moon』だよね?」
「あ、知ってる?」
「うん、大好き」
『silver moon』とは、今俺が鼻歌で歌っていた曲のアーティストのバンド名だ。バンド名自体は有名だが、中高生にはそれほど人気がない。俺が興味をもったのも、父がCDを持っていたのがきっかけだった。後で聞いた話だが、宮内も元は両親の影響で好きになったという。
ていうか……。大好き、だってさ。しかも、すっごい笑顔で。なに、それ。かわいいんだけど。ドキッとしちゃうんだけど。俺に対しても言わせたいよ。
「俺も好きだよ。あ、じゃあさ、先月発売されたCD買った?」
「うん、買った」
「マジで? いいな。今度貸してよ」
「いいよ。明日持ってくるね」
「やった! サンキュー」
ついガッツポーズをすると、宮内はニコニコ笑った。
その後、授業担当の先生が来るまで、宮内とそのバンドについて語った。今まで話の会う人がいなかったから、嬉しかったのだ。だから俺は気持ちが弾んでいて気づかなかった。大川が無表情でこちらを見ていたことに。
宮内とは、事務的なことや勉強のこと以外にも、もっと他愛のないことまで話すようになった。つまり、友達になった……とまでは言いがたいけど、仲良くなったのは確かだ。
白井には、妙に感心されたのを覚えている。よくあの宮内を懐柔したな、と。別に、宮内は普通の女の子なんだけどな。ちょっと大人しいだけで。俺以外の男子とは、あまりしゃべらないだけで。
うん、ここは重要だ。宮内と一番仲の良い男子は、おそらく俺だ。それを考えて、一人優越感に浸る。
そういえば、とふと考える。宮内は本当に俺が好きだろうか、と。女子たちがからかわなくなってから、肯定しかねるようになっていた。もしかしたら、初めから全部誤解だったのかもしれない。それか、以前は本当に好きだったが、心変わりしたというのもあり得る。
ところで。
俺は、どうなんだろう。宮内からは好かれたいと思う。そういう俺自身は、宮内をどういうふうに見ているのだろう。
考える。考えて、考えて……、あぁ、俺、やっぱり宮内のこと好きなんだなって気づいた。やっぱり、っていうか、なんていうか。本当はもう少し前から自分の気持ちをわかっていたような気もするのだ。それを受け入れられなかったのは、自分への見栄か。尊厳か。宮内の友人たちに対する文句を言い、彼女自身にも不快感を覚え、それなのにまさかこんな感情を抱くなんて予期していなかったのだ。
宮内を好きになったって、過去の自分を裏切るわけじゃないさ。それはわかっている。わかっているから、今認めたのだ。
「なぁ、どうしよう。俺、宮内のこと好きかもしれない」
帰り道、戯れに隣を歩く白井に話すと、彼は一言「そう」と言った。
「いや、反応薄すぎるだろ」
「驚いた方がよかった?」
「それはそれでめんどくさいな」
「だろ?」
だろ? じゃねぇよ。
「あー、でも正直びっくりした。いや、好きなんだろうな、とか思ったことはあるけどさ。まさか本当に好きになるとは」
「そうか」
「で、どうしようっていうのは?」
「どうしたらいい?」
「おまえはどうしたいんだよ」
白井は呆れたようにため息をついた。
「俺は恋愛指南なんてできないからな。……ところで宮内はさ、林のこと、まだ好きなのかな?」
「さあ……」
「最近、大川たちも静かだもんね」
俺の気にしていることをさらっと言いやがって。
宮内が俺を好きって、確信が持てればいいんだけどな。でも、こんな考え、なんだか馬鹿馬鹿しい。
白井は俺の考えていることを見通したかのように、クスッと笑った。
「林の好きなようにしなよ。……まぁ、とりあえず、おまえが今一番に考えなきゃいけないことは、宮内じゃなくて来週の期末考査だけどな」
「……」
「明日は化学の小テストだってあるし。定期考査で点とれないんだから、小テストくらい合格しておけよ」
「……俺、化学のテキスト学校に置いてきた」
俺が足を止めると、白井は本気で呆れたような目つきで振り返った。
「取ってくる」
「あぁ、そうしな。俺は先に帰る。ちゃんと勉強しろよ」
父親も大変だ、なんて言いながら、白井は本当に俺を置いて帰って行った。
誰がおまえの息子だ。
テスト前で部活動は停止なため、ほとんどの生徒が帰った校内は静かだった。しかし、二年三組のプレートのついた教室は、明かりがついていた。
カップルでもいたら嫌だなぁと思い、後ろ側の入り口からそっと中を覗く。
そこにいたのは、宮内だった。一番後ろの自分の席に座り、勉強していた。
十秒ほど、俺はその場から動かずに彼女の横顔を眺めていた。やがて俺の気配に気づいたのか、宮内は顔をこちらに向けた。もろに目が合ってしまう。
「あれー、宮内、何してんの? って、勉強か」
今初めて彼女の存在に気づいた体を装って、教室に入る。我ながら、非常にぎこちない。
「林くんは、どうしたの? 忘れ物?」
宮内の口調にも、どこか固さが残っていた。そういえば、今は二人きりなのだ。
「あぁ、ちょっとね」
宮内の隣、自分の席に腰掛け、机の中を漁る。
「あったあった」
目当てのテキストを取り出した俺は、座ったままなんとなく宮内の方に体を向けた。立ち去るタイミングがわからなくなったのもあるが、宮内と何か話したいというのもあった。
「宮内は……、いつも放課後、勉強してるのか?」
「ううん。今日は、たまたま。……友達といるの、楽しいんだけど、ちょっと、疲れちゃって」
宮内は肩をすくめると、弱々しく笑った。
廊下の窓から差し込んできた西日が、教卓や机を赤く染める。
「でも、家より学校の方が勉強しやすいかな。テスト前は、よく学校に残ってやってる」
「……えらいよな。もともと頭いいのに、それでも勉強して」
もともとバカなのに、それでも勉強しない俺とは雲泥の差だ。
褒めたつもりなのに、宮内は少し寂しげな表情をすると、首を横に振った。
「勉強くらいしか、できないから」
宮内の言葉に、俺は眉をしかめた。こういう自虐的な物言いは嫌いだ。
「んなこと、ねぇよ」
強めの口調で言うと、宮内は不思議そうに俺を見たが、ふっと笑ってまた首を振った。
「ごめんね、気を使わせて。……でも、ありがとう」
俺は内心で舌打ちした。全然、わかってないだろ。
「だから、そんなことないんだって」
「……じゃあ、他にわたしに何ができるの?」
宮内は口調こそ穏やかだが、瞳には強く訴え掛ける色があった。責められている。彼女は怒っている。はからずも、彼女の内側の柔らかい部分に触れてしまったらしい。
「えっと……、そういう努力できるとことか、すごいなって思うし……」
「だから、それしかないって言ってるでしょ」
「あ、でも、勉強の教え方上手いよ。俺、宮内に教えてもらったとこ、すぐに理解できたから」
「やっぱり、勉強なんだね」
宮内はクスクス笑った。俺としたことが、大失敗。無責任に適当なことを言ってしまった自分に、嫌悪感を覚える。
「しかたねぇじゃん。宮内のこと、まだよく知らねぇんだから」
拗ねたような声を出すと、宮内は無表情で俺をじっと見つめた。それから彼女は黒板を向いて頬杖をつき、ふぅと息をついた。
普段の授業を受けている錯覚に陥る。と同時に、期末考査が終わればまた席替えをするかもしれないなと思い至った。
席替えをして宮内と離れれば、以前のようにほとんど会話を交わさなくなるだろう。そんな未来がリアルに想像できた。
嫌だな。そんな終わり方、嫌だ。……だったら、自分で変えるしかないではないか。
「なぁ……、宮内はさ、俺のこと、好きか?」
問いかければ、宮内は一瞬固まった。そして、ゆっくりこちらを向く。彼女の目は、俺が本気で言っているのか、それとも冗談なのかを見極めようとしているようだった。生憎、俺は本気だ。
「ごめんね」
宮内はなぜか謝った。意味がわからないでいると、彼女はさらに続けた。
「ごめんね。うるさかったよね。わたしも、やめるように何度も言ったんだけど……」
どうやら宮内が言っているのは、彼女の友人たちのからかいのことのようだ。
しかし、もちろん俺は謝罪がほしいわけではない。
「宮内は、俺が好きか?」
もう一度同じ質問を投げ掛ける。宮内は泣きそうに顔を歪ませた。まるでいじめているみたいだ。でもそんな表情も可愛く思ってしまう。
宮内がすぐに答えられないだろうことは知っている。だから、彼女が答えてくれるのをじっと待つ。
やがて宮内は、躊躇いがちに小さく頷いた。
「好き……だよ」
やっと待ち望んでいた返答がもらえ、俺はほぅっと息をついた。うつむいている彼女に笑いかける。
「じゃあ、付き合おうよ」
顔を上げた宮内は、怪訝そうな表情をしてみせた。
「どうして?」
「俺、もっと宮内のこと知りたいから」
「どうして?」
「俺も、宮内が好きだから」
「……どうして?」
三度目のどうしてに、俺は答えられなかった。だって、どうして好きかなんて、上手く説明できないよ。
「レナちゃんたちに、何か言われた?」
レナとは誰だ、と考え、大川の下の名だと思い出す。そして、宮内が俺を信じていないのだと気づいた。彼女の言う「どうして」の意味が、やっとわかった。
「あいつらは、関係ないよ」
この気持ちが誤解なく伝われと願い、宮内の目をしっかりと見て話す。彼女も、そらさなかった。
「俺頭悪いから、好きな理由とか上手く説明できないけど、大川たちは関係ないんだ。ただ宮内と隣の席になって、話をするようになって、いつの間にか好きになってただけだから」
俺を見つめたまま、宮内の瞳からは涙が零れた。えっと驚き、思わず彼女に手を伸ばす。しかし彼女は俺の手を避け、両手で顔を覆った。そして「ごめんね、ごめんね」と繰り返す。
「好きになって、ごめんね。巻き込んで、ごめんね。……だから、わたしなんかを好きにならないで」
「……何、言ってんだよ?」
「わたし、本当はこの席じゃなかったの。席替えのとき、引いたくじ、友達に勝手に取り替えられてここになっただけだから」
それを聞いて、あの席替えはやっぱりそうだったのか、と思った。
「でも、そんなこと、関係……」
「関係あるよ。じゃなかったら、林くんはわたしのこと、好きになったりなんてしなかった」
そうだろうか。そうかもしれない。だけど、きっかけって、そんなに重要だろうか。
宮内の手首を掴み、優しく顔から引き剥がす。彼女は怯えたように濡れた黒目を泳がし、恐る恐るといった風に俺の目を見つめ返した。
「俺は、宮内が好きだよ。宮内も、俺が好きなんだろ? それだけで、いいじゃないか」
二秒。三秒。五秒。
沈黙の後、宮内はやっと頷いた。
「林くん」
「ん?」
「わたしのこと、好きって思ってくれて、ありがとう」
「あぁ、うん」
照れくさくなって、頬を掻く。だが俺の浮かれた気持ちは、宮内の次の言葉で消え去った。
「でも、付き合えない」
「……なんで?」
宮内は、もう泣いてはいなかった。きゅっと唇を結んで、俺を見上げた。
「わたしたちが付き合うことは、誰も歓迎しない」
「……大川たちのことか?」
宮内は間を置いて、頷いた。さっきの席替えの話はただの言い訳で、本当の理由はこっちだったのか。
「なんだよ。そんなの、それこそ関係ないだろ」
おかしい。両思いのはずなのに。俺たちは、どこかずれている。
「あいつら、前はずっと宮内のことからかったりしてただろ。席替えのことだってそうだし。それって、恋の応援してるつもりじゃねぇの?」
「……応援なわけないじゃん」
宮内はぼそりと呟いた。
「でも、」
「あの子たちは、わたしの片思いがおもしろいんだよ。成就するはずないって確信しているから、あんなことしていただけなの。わたしが不毛な恋をしているって思うから、関心をもってくれているの」
「……宮内は、俺よりも、そんな『友達』が大事なのかよ?」
嫌みのつもりで友達を強調してみる。宮内は睨むような目つきで俺を見据えた。
「大事だよ」
カッと、怒りに似た感情が湧いた。裏切られた気分になった。
「なんでだよ! 付き合う付き合わないは、俺と宮内の二人の問題だろ? 第三者なんてほっとけよ」
「友達も含めて、わたしの問題なの!」
「あんなの、友達じゃねぇよ! おまえをからかって、楽しんでるだけじゃねぇか」
「『第三者』が適当なこと言わないでよ!!」
宮内が声を荒げ、ハッとする。言葉のブーメラン。しかし、やはり納得はできない。
なあ、宮内。俺を見てくれよ。間に誰かを置かないで、今おまえの目の前にいる『俺』を、ちゃんと見てくれよ。
宮内は手のひらで目元をぐいとぬぐった。
「わたしには、レナちゃんたちしかいないの」
「……え?」
「林くんとは違うんだよ。林くんみたいに、無条件に信頼し合える友達が、わたしにはいないの」
震える声で、宮内は訴えた。
あぁ、そうか、と。一つだけ、わかったことがある。
俺も同じだったのだ。俺も、宮内の思いを無視していた。自分の思いばかりを押し付けようとしていた。
俺たちは、お互いに片思いをしているんだな。両思いなのに、俺たちの気持ちは違う方向を向いているんだ。
「だから、今はレナちゃんたちといる時間を大切にしたいの。わたしが林くんと付き合うことをあの子たちが不快に思うのなら、林くんとは付き合えない」
宮内はそう言い切ると、力が抜けたように項垂れた。「ごめんね」と、涙声が聞こえる。
「わかったよ」
俺がそう言うと、宮内は不安そうに顔を上げた。
「宮内の気持ち、わかったから。俺も、押し付けるようなことばっかり言って、ごめん」
宮内に頭を下げる。だが、まだ言いたいことはある。
「でもな、俺の気持ちも、無視しないで。今日話し合ったことを、なかったことにしないで」
数秒見つめ合い、宮内はふっと頬を緩めると、頷いた。
「なかったことになんて、しないよ。わたし、本当はすごく、嬉しかったから。……それでね、一つ、お願いがあるんだけど……」
「何?」
聞き返すと、宮内は躊躇うように口元をもごもごと動かした。急かさずに待つ。やっと言葉にした彼女の声は、思いの外はっきりしたものだった。
「あのね、待っててほしいの」
「待つ?」
「うん。あの、わたし、今はまだ林くんの思いに応えられないけど、でも、いつかちゃんと応えたいって思ってるから。いつになるかわかんないけど、それまでに卒業しちゃうかもしれないけど、待っててくれたら、嬉しいな、って……」
徐々に尻すぼみになっていく宮内の声を聞きながら、俺は考えを巡らせる。
「……なぁ、さっきの話だと、遅くても卒業したらオッケーだよな?」
「……うん」
恥ずかしげに小さく答える宮内に、俺は初めて愛しいという感情を抱いた。彼女を抱き締めたい衝動に駆られるが、じっと耐える。
「了解。俺、待ってるから。宮内も、待たしてること忘れんなよ」
俺が笑いかければ、宮内もつられたように笑った。
そっと右手を差し出す。宮内は「握手?」と笑いながら、そこに自分の右手を重ねた。ゆっくり握ると、彼女も握り返した。初めて触れる彼女の手は、想像以上に指が細く、それでいて柔らかかった。
「約束な」
「こういうのって普通、指切りじゃないの?」
「だって、恥ずいじゃん。指切りって」
「握手の方が、逆に恥ずかしいよ」
宮内はクスクス笑い、けれど握った手を離そうとはしなかった。
三年になる時のクラス替えで、俺と宮内は別々のクラスになった。廊下ですれ違ったときくらいしか顔を合わせることはないが、俺たちの距離感はなんら変わらなかった。
宮内は、今ではもう大川たちとはつるんでいないらしい。同じクラスの女子二人と、三人でいるところをよく見かける。一度、彼女に聞いたことがある。あの二人は、宮内の信頼し合える友達なのか、と。宮内は答えた。
「わからない。でも、わたしは二人を信じてる」
変わったな、と思う。強くなった。うつむきがちだった彼女は、前を向いて歩くようになった。信頼できる人がいるというのは、自分に自信を与えるものなのかもしれない。
冬が来て、国立大学を志望している宮内は、今受験勉強の大詰めだ。偏差値の低い私立大で妥協した俺とは、緊張感がまるで違う。正直、話しかけずらい日々が続いている。「がんばれ」とも「がんばろう」とも、気安く言えない。
しかし例の友達といる宮内は、いつも笑顔だ。精神的に滅入っていないか心配はあるが、彼女の笑顔が見られるたび、ほっとしている。その友達も、宮内と同じ方向を目指していると聞いた。「方向」というのが、大学を指すのか職種をさすのか、わからなかったが。
一月の第三金曜日。センター試験の前日だ。
俺はセンター試験がどうしてそんなに重要なのかよく理解していなかったが、国公立を目指す人たちはみんなしてセンターが大事、というのだから、まぁ大事なのだろう。
センター試験を受験する生徒は、金曜日の午後、まとまってバスで試験会場近くのホテルへ出発する。もちろん、宮内もだ。
昼休み、俺は宮内のクラスへ足を運んだ。宮内は、まだ友達と昼食を食べている最中だった。宮内一人を連れ出すのもかえって目立ちそうで、あえてその場で彼女に話しかける。
「宮内、ちょっと渡したいものがあるんだけど」
「なに?」
大事な日の前日ということで、ぴりぴりしていたらどうしようと危惧していたが、宮内は案外普段通りだった。同じくセンター試験を受けるという二人の友達も、顔つきは柔らかかった。
持ってきたカバンから、目的の物を取り出す。折り鶴を五羽繋げたものだ。
「何これ? 千羽鶴? って、千羽はないか」
「高校受験の時に、中学の先生から教えてもらったんたけどさ。鶴が五羽だから、『五鶴』で……」
「『合格』?」
クイズの答えがわかったみたいに、宮内はぱっと笑って言った。
「そう。ダジャレだけど。……これ、お守り」
「わぁ。ありがとう、林くん」
宮内は、本当に嬉しそうな表情で五鶴を受け取った。胸の内がくすぐったく疼く。
「もう完全にカレシだよね」
「ねぇねぇ、わたしたちにはお守りないの?」
側で見ていた宮内の友達がからかう。彼女たちが俺たちの関係をどこまで知っているのかわからないが、嫌みは感じられなかった。
そのからかいに動揺したり言い訳したりしているうちに、なぜか彼女たちにも余っていた折り紙で一羽ずつ鶴を折る羽目になった。なぜ。
「一羽なら何だろう。いっかく?」
「一攫千金?」
「それ受験関係ないよ」
あはは、と楽しげに笑い声をあげる彼女たちを見ていると、やってよかったかなとは思えた。宮内が信じているこの二人のことは、俺も信じられる気がした。友達も含めてわたしの問題、という宮内の言葉を思い出す。宮内の大切にしているものを、丸ごと俺も大切にできるような男になれたらいいなと思う。
「一攫千金してこいよ」
と言い残してその場を去ると、後ろで「何の応援だよー」と笑われた。
教室から一歩出たところで、後ろを振り返る。宮内もこちらを見ていた。目が合った宮内は、顔の横に鶴を掲げ「ありがとう」と口を動かした。俺は彼女にニヤッと笑い返して、自分の教室へと帰った。
卒業したら。そしたら、また話し合おうと思う。一年半待たされた話の続きを。これからのことを。
だが、その前にやらなければならないことが残っている。自分自身のことだ。
受験で俺が失敗するわけにはいかない。宮内との学力の差は埋められなかった。それでも彼女の隣にいて恥ずかしくない人間になろう。彼女が安心して笑えるように。笑い合えるように。誰よりも彼女と信頼し合えるように。
春が来る。
まだまだ寒いし雪も舞うが、確実に春は近づいている。
本当の春が来た時、笑って迎えることができればいいな、と思う。
両思い的片思い なしもと @misamisa245
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