後編
「材料がシンプルのときこそ、料理人の腕が試されるのです」
「シンプルなものこそ、小手先の誤魔化しは通用しません」
理想に近づいてはいても、理想までは遠い。時間は有限です。どこかで、妥協する必要があります。大切な「はなのごはん」をパイナップルケーキ専門店にするわけにはいきません。
水がお湯になっていく音が聞こえて、わたしはジャムを詰めた瓶を沈めました。ちょっとした温泉に浸かっているようです。温度は百度近いですが。透明なガラスに守られた琥珀はキラキラと反射して、とても綺麗です。
タイマーを掛けて、わたしは再び、ケーキのことを考えます。
大きさは、二口くらいで食べられるサイズが理想として。しっとりとしていて、餡を邪魔せずに、包み込むようなケーキ。
そうそう。バターの分量にも気を付けなければなりません。あの香りは、意外と主張が強いのです。それに、混ぜ方も考える必要がありました。
ああ。お菓子作りが、こんなに難しいとは思いませんでした。師匠は、「料理は科学」とおっしゃっていましたが、本当ですね。
タイマーが鳴りました。
火傷しないように瓶を取り出して、蓋をギュッと閉め直します。底のほうを持って、テイッとひっくり返したら、あとはジャムが冷めるのを待つだけです。
さて、手をよぉく洗ってから、生地作りに移りましょう。
バターと砂糖を混ぜながら、時刻を確認します。素っ気ない白いタイルの壁にあるのは、素っ気ない時計です。本当は、鳩時計のように可愛いリスが出てくる時計が良かったのですが、諦めました。ここは、油も使いますから。質実剛健が一番です。
銀の枠に白い盤。黒い針は一時を過ぎています。「はなのごはん」の仕込みまで、そんなに時間はありません。
小麦粉やスターチーなどを入れると、グッと生地に近づいていく気がします。食べられるのに、食べてはいけないような、不思議な感覚です。だからでしょうか。小さい頃のわたしは、これを粘土のように遊びたがったものでした。(もちろん、きっちり叱られましたが)
さて、いよいよ、四角い小さな金属型の出番です。
新しく買ったのに、もう貫禄がついている気がします。ここ最近は、毎日活躍しているせいでしょうか。なかの餡は、昨日つくったものを使います。ちゃんと室温に戻したわたしは、優秀です。そうそう、今のうちにオーブンも温めておきましょう。わたしは、できる子ですからね。隣に
もう一度手を洗ったら、生地がしっとりと指に吸い付くのを確認して、匂いを嗅ぎます。
うん、大丈夫。
バターの香りも小麦の香りも、主張しすぎず調和がとれています。小麦の銘柄を変更したのは成功だったようです。
さてさて、大きな白玉だんごをつくるように、生地を親指と人差し指の輪っかでちぎります。軽く丸めた生地を手のひらで均等に伸ばすのは、餃子をつくるときと似ているかも知れません。
今は、具の代わりにパイナップルの餡を入れて、コロコロと丸めます。コロコロ、コロコロ。ちょっとずつ増えていくベージュの丸を見ていると、愛着が湧いて、顔を描きたくなってきます。このまま焼いたら、どうなるのでしょうか。試してみたいところですが、今日はやめておきます。
出来上がった可愛い子たちを、四角の型に入れて押し潰します。わたしは、この工程が一番、苦手です。可哀想で。
ああ、愛らしい顔が、のっぺりと無愛想になりました。「型にはまる」というのも、あまり好きではありませんでしたが、「型にはめる」というのも嫌なものですね。
さて、あとはオーブンで二回焼いたら完成です。
今のうちに昼食をとって、今日の仕込みの手順を考えて。やることは、一杯です。でも、楽しいので、幸せです。
オーブンが鳴りました。
待ちに待った、小麦色をした四角い焼き菓子、鳳梨酥風パイナップルケーキの完成です。
重たい扉を開けると、甘くて香ばしい、だけどちょっとだけ雑味のある香りが私を手招きしました。かわいい子ネコちゃんが目の前で、お腹を出して撫でてと言っているような誘惑です。
ああ、すぐにでも食べてしまいたい。
アチチと言いながら、ホクホクする焼き立てを口に入れたら、どれだけ幸せでしょうか。
でも、まだ我慢です。冷まさなければいけません。
わたしは生唾を飲んで、硬い意志で天板を引っこ抜きます。ケーキが行儀良く並んでいる姿は、ちょこっとだけ学校集会を思い出しました。校長先生の話が退屈なアレです。あの頃は、制服を着て……。
「あ、ラッピング」
すっかり忘れていました。いえいえ、冷静になりましょう。パイナップルケーキの洋服、ラッピングに貴重なコストを掛けられません。
ここは、昔ながらの和菓子屋さんスタイルでいきましょう。そう、透明パックにそのまま入れるのです。無骨ながら、安心感のあるスタイル。
もっとも、これがちゃんと商品にできるほどの味かどうかは、まだわかりません。わたしは、ジッとケーキを見つめて祈ります。この子たちが、誰かの幸せになれますように、と。
*
「よぉ、はなちゃん! 今日もあついねぇ」
元気よくお声を掛けてくださったのは、オープン当初からの常連さまです。いつも日焼けした顔を和紙のようにしわくちゃにして、笑ってくださる気の良い方です。奥様と仲が良くて、ご夫婦で「はなのごはん」をご愛顧していただいています。
「シンさん、こんばんは! 九月なのに、夏みたいですよね」
「本当になぁ! まぁ、俺は夏も好きだから良いんだけどなぁ」
「シンさんは、夏がお好きなんですか?」
「冬以外は、全部好きよ。冬だけは、苦手なんだわ」
シンさんが横を向きます。それを見て、なぜかシンシンと雪の降る夜の森が思い浮かびました。
「シンさん、甘い物はお好きでしたよね?」
「ん? おう、甘い物は好物だ。でも、よく覚えてたなぁ?」
「甘い卵焼きや大学芋をよく買っていただくので」
「はなちゃんの卵焼きも大学芋も絶品だからなぁ。うちのかーちゃんも大好きなんだよぉ」
「じゃあ、少しだけお待ちいただけますか?」
「お、おお?」
わたしは透明のパックを手に、裏に引っ込みます。黒い天板には、行儀良く並んだ四角いケーキ。食品衛生法を守ってつくっておいて、本当に良かったです。
わたしは、菜箸でケーキを二つ、パックに入れました。もしも、シンさんご夫婦の好みじゃなかったときも考えて、二つです。
店に戻ると、シンさんはショーケースを眺めていました。
パックを開けたまま、ショーケースの上に置きます。
「シンさん、こちら試作品なんですが」
「お? これは、なんだ?」
「パイナップルケーキです」
「パイナップル、ケーキ?」
シンさんは首を傾げています。彼の髪が薄くなった頭の上に、ハテナマークが見えるようです。
「台湾のお菓子なんですが、すっごく美味しくて。それで、作ってみたんです!」
「へぇ。台湾かぁ」
「あ、パイナップル、苦手だったりしますか? あと、アレルギーとか」
「ないない」
シンさんのシワシワの手が、ブンブンと小さな風をたてました。
「よければ、お二人で食べていただけませんか?」
「良いのかい?」
「はい! ぜひ、感想を聞かせてください」
「ありがとよ」
シンさんは、来たときと同じように笑いました。
「じゃあ、はなちゃんのオススメ、いっぱい買ってかねぇとな」
「あ、ごめんなさい」
返って気を遣わせてしまったのでしょうか。申し訳なく思っていると、「ちがう、ちがう」とシンさんが慌てるように言いました。
「なんか、俺がたくさん食べたくなったんだわ。それに、種類が少ないと『試作品を食べたくて早く買ってきたんだろ』って、かーちゃんに怒られっちまう。かーちゃんも、はなちゃんにベタ惚れだからな」
そんな話を聞いたら、嬉しくなってしまいます。
「ありがとうございます!」
「それよりも、ちょっと聞きてぇんだが」
「はい?」
「試作ってことは、販売するんだよな?」
「はい。そのつもりですが」
どうしたのでしょうか? シンさんの真剣な顔が、ホッとするようにシワシワになりました。
「そいつは、良かった。好物になったのに、『これきりです』っつーのは、悲しいからなぁ」
「改良はするかも知れませんが、販売します!」
「うんうん」
シンさんは満足そうにうなずいています。わたしも、嬉しくなりました。けれど、わたしはすっかり忘れていたのです。大事なこと。
「あ、でも!」
「でも?」
「台湾パイナップルがある限り、の販売になってしまいます」
「ん? その、台湾のは、年中買えるのか?」
「えっと、三月から八月頃までですね」
そう。実は、台湾パイナップルの旬は六月がピーク。今の時期は、ギリギリ手に入ったレアものなのです。
「台湾じゃねぇとダメなのかぁ?」
「はい……」
実はフィリピンのパイナップルでも試したのです。けれど、甘味と酸味のバランスが大きく異なりました。つまり、レシピの作り直しです。なによりも、これは台湾のパイナップルケーキ。できれば、現地のものを使いたい気持ちがあります。
そんな思いを汲み取っていただいたのか、シンさんは黙ってしまいました。
目は見開き、口はあんぐりと開いています。カサついた口から、とても大きなため息が流れていきました。素晴らしい肺活量です。
「俺、やっぱり冬は好きになれねぇわ」
「そんな……!」
なんということでしょう。
ちょっとでも、お客さまに幸せを届けたいというのに失敗です。
いいえ、わたしは「はなのごはん」の店主兼料理人。これくらいでは、へこたれません。次は、シンさんが冬をちょびっと好きになるメニューを考えれば良いのです。
白菜、大根、れんこんに寒ぶりもありますね。そうそう、冬のほうれん草も甘くて大好きです。
それから少しの間だけ、わたしは冬の旬に思いを馳せてしまいました。目の前にお客さまがいらっしゃんというのに。
シンさんは笑っていましたが、やっぱりわたしはポンコツです。一人前の道は、まだ遠いのでしょう。だから、
はなのごはん アラカルト ユト (低浮上) @krymk
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