事故物件
不二川巴人
事故物件
世の中、いわゆる『事故物件』ってのがある。
要するに、その部屋で過去、何か物騒なことがあったってことだ。たいがい、借り主がそこで『自殺』したりするケースが多いと聞く。「幽霊が出るかも知れませんよ」、「薄気味悪いですよ」ということなのかどうか、そういう物件の賃料は、たいてい安かったりする。
俺が新しく借りたのも、その事故物件ってレッテルが貼られ、条件がいいにもかかわらず、空いていたマンションの一室だった。
俺は今まで幽霊の類をまるっきり信じていなかったから、立地が良くて家賃が安けりゃ、細かいことは気にもしていなかった。
「いい部屋じゃないか、うん」
荷物を運び終えた後、俺は部屋の中をぐるりと見渡してひとりごちた。築十年未満、十畳のリビング、プラス三畳のダイニングキッチン。日当たりも良好。交通至便。独り者が悠々自適に暮らすには、十二分以上だった。
不動産屋での入居手続きには何の問題もなかったんだが、ささくれ程度、妙なことがあった。
それは、契約前の内覧の時だった。やけにオドオドした、いかにも気の小さそうな、おまけに体つきまでペンペン草みたいにヒョロい担当者が、部屋の南側にある窓を指さして言った。
「この窓だけは、何があろうと絶対に開けないで下さいね。いいですか? 何があろうと絶対に、ですよ?」
そりゃあもう、貴様は十戒を説くモーゼか? ってな調子で言われた。内心俺は、
「ンなもん知るか」
と言いたかったんだが、その場で口に出すほどガキでもない。とりあえず、
「はぁ」
ってな生返事で返しておいた。
だが、だ。禁じられてるとなるとやりたくなるのが、ヒトのサガって奴だろう。そんな念押しなんざ、やっぱり知ったことか。
開けちゃいけない窓、というと、サッシが壊れてるとかだろうか? 最初はそう思った。ざっくり荷物が片付き、一息ついたところで、俺はその窓を見た。
中から外が見えないようになっている、エンボス加工のありふれた窓だ。鍵も一般的で、ツマミを半回転させればいいだけ。
鍵をひねり、左から右へスライドさせると、あまりにあっけなく窓は開いた。
いい感じの風がそよぎこんで部屋中を撫で、とても気持ちが良かった。こんな窓を開けるなとは、わけの分からない話だった。
その窓から身を乗り出して、周囲の景色を見た。
しかし目の前、割と至近距離だが、隣のマンションが迫って見えるぐらいで、別にどうと言うことはなかった。
窓を開けたからと言って、騒音がやかましいと言うこともなく、本当にどうもないようだった。
そして、あれはある日のことだった。
俺が、例の窓を開けて換気を良くしてから、窓際でタバコを吹かしていると、目の前に見える隣のマンションに、何やらただならぬ雰囲気を察した。
まさしく視線の延長線上。部屋の中には、一人の初老の男と、若い女がいた。夫婦ではないのが、何となく分かった。それは、不倫現場だった。
「お、ちょっと待てよ?」
ただの一般人の不倫なら、別に興味は湧かなかった。しかし、俺はその男の顔に見覚えがあった。
男は、しょっちゅうテレビや新聞に出てきている、大物の現役閣僚のセンセイだった。しかも、情報源は週刊誌だが、おしどり夫婦として有名なはず。しかし相手の女は、同じくメディアに露出している妻とは別人だった。
「おいおい、マジかよ?」
俺は、スマホのカメラを望遠にして、その部屋と男を眺めてみた。人物に間違いはなかった。
「クックック、こりゃあスクープだぞ!」
別に俺は記者じゃなかったが、素人でも、どこぞにタレコミをすればカネになることぐらい知っていた。
「その前に、ちょいとばかり楽しませて貰うか」
それから、俺の日常に楽しみが増えた。暇だなと思った時には、例の窓から隣を見て、大臣センセイが女をとっかえひっかえしているのを見た。
まったく、そのセンセイの好色ぶりたるや、拍手したくなるほどだった。愛人の数は十人を超えていた。おしどり夫婦が聞いて呆れるぜ。
俺は、スマホでその現場をたんまり写真と動画に撮ってストックした。これだけ撮れば、週刊誌に特集記事が組めるだろう。そして、俺には小遣いが転がり込んでくる。そのはずだった。
「明日あたりにでも、マスコミに送りつけるかな、クククッ」
ところが、俺にその明日は来なかった。
深夜、何者かが部屋に侵入し、寝ている俺の胸に無造作かつ深々とナイフを突き立て、目覚めを永遠に閉ざしたからだ。
なるほど、不動産屋の言葉の意味が分かった。だが、分かった時には全て手遅れだった。
俺の死は『自殺』として偽装され、新聞記事にさえならなかった。
そしてこの部屋は、やはり事故物件として、今も不動産屋にひっそりと陳列されている。
おわり
事故物件 不二川巴人 @T_Fujikawa
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