山羊と羊・下
「だから、純粋な貴方を神様のところにやったんだよ! そしたら、そしたら……我が主も食べ物をくださるだろうと思って」
「外見は上の娘と違って美しくはなかったけれど、でも、貴方は純粋だから!」
僕は少女の顔を見る。母親の言葉の意味がよくわからず、困惑しているようで、助けを求めるように僕を見上げていた。僕は何も言わずに彼女の手をぎゅっと握った。
母親は、ずっとこんな調子で少女を捨てた言い訳を繰り返していた。僕はずっと姿を隠していたが、母親に見せることにした。
「あぁ、あぁ……あのおまじないは間違いだったのね! 豊穣どころか、とんだ悪魔を呼び出しちまった!」
母親は僕を見るなり、目を剥き出し、発狂した。腰が崩れ、無様に倒れ、そうして、言葉にならない言葉で僕を罵倒した。
「まま、こわい」
「何を言っているの! お前はもうわたしの娘じゃないわ! お前は悪魔の
「こわい、やめて」
「わたしは殺されたくない、生きたまま燃やされたくない、怖い、怖い、地獄は嫌だ、苦しいのは嫌だ」
「やめて、まま」
「うるさい! あっ ……うっ……!」
母親は喀血した。血溜まりが少女の靴に垂れる。母親は何回も血を吐いた。過呼吸と混ざって、詰まって、苦しがった。
「やめて」
少女はずっと涙を流して、同じ言葉を繰り返していた。
野次馬たちも騒ぎに集まってきた。やはり、みんな痩せている。生を掴もうとする貪欲な目をしていた。
「え、あの人今悪魔って――!」
「悪魔崇拝……? あの人が……なんで!」
「……まぁ、度々ヒステリーを起こすような女でしたから……前から怪しいと思ってたんですよ……」
「あの子、あの子だろう! あの変な子のせいだろう! あの子はずっと変だった! あの子が母親をおかしくさせたんだろう!」
「い、今もどこかに悪魔がいるのか……?」
野次馬には僕の姿を見せていない。だから母親は、彼らの目からは、まるで幻覚にうなされた
……きっとすぐ、少女の家族は、悪魔崇拝者として殺されるだろう。たとえ他意がなくとも、彼ら彼女らは、僕という悪魔を呼び出したのだから。
僕は少女の腕を引っ張って、言った。
「なぁ、行こうよ。僕の家に。もうここは君のおうちじゃない。こんな母親なんて、いらないだろう? 他の家族だっていらないだろう? 他の人間もいらないだろう? だってみんな君を騙したんだから。君の無垢につけ込んで君を生贄にしたんだよ。とても悪い人たちだ。そして無知だ。彼らはろくに頭もないくせに、悪魔崇拝者に騙されて僕を呼び出す本でもつかまされたんだろう? でもあんな馬鹿は、信仰だけはいっとう強いから、きっと天国に行くよ。あぁ、良かった良かった、馬鹿が地獄に行かなくて。ずっと天国で神に付き従って幸せに暮らしてたらいいさ。僕はそれを心から祝福するよ」
少女は僕の独白を黙って聞いていた。彼女は僕が話し終わったあともしばらく俯いていたが、ふと顔を上げ、僕に訊いた。
「てんごくは、いいところ?」
「あぁ、良いところかもしれないね。君を騙した人にとっては」
「まま、ほんとうにわるいひと?」
「馬鹿なのは悪いことだよ」
「……せいれいさん、あくま?」
それは答えるときは、つい口ごもってしまう問いだった。心がちくちくする。でも言わなければならない。
「……そういうことになるね」
「でも、せいれいさん、いいあくま。たすけてくれた。わるいあくま、ちがう」
「良い悪魔、か」
僕は苦笑した。2つの単語は矛盾しているのに、なぜか自然な言葉に聞こえたからだ。でもそう言われて、僕は嬉しかった。
「さ、行こうよ、僕の家に」
「……」
少女は黙りこんだ。彼女の靴には、いまだ母親の血がこびりついている。
「どうしたの? 行きたくないの?」
少女が何かを話そうと、震えた口を開いたとき。
「あの泣き叫ぶ魔女を捕らえろ! 殺せ!」
群衆の誰かが啖呵を切った。それを合図にして、野次馬はとたんに告発人となった。母親を捕らえようと、数人の男たちが、ヒステリーを起こした母親を取り押さえた。
「わっ……!」
男たちと母親の様子を見ようと、人の波がもっと近づいた。少女はその波に溺れ、僕の手を離してしまった。
「おーい!」
僕は人の間をかき分けかき分け、少女を探す。
しかし、どれだけ探しても見当たらず、諦めようとしたとき、突然視界の端に魔女の影が見えた。魔女は少女と手を繋いでいた。村の外に行こうと、背を向けている。
『怖くなったら、儂に祈れ』
あの魔女の言葉を思い出した。僕は魔女と少女を追いかけた。
魔女と少女の影は、村の外へ、森へ行った。しかし、僕がどれだけ速く走っても、彼女らには追いつかない。
僕は魔女がいた辺りまで行った。しかし、魔女の家はどこにも見当たらなかったし、魔女も少女もどこかに消えていた。探すのに疲れてへたり込んだときには、日が暮れていた。
探し続けて分かったことは、魔女が少女を連れてどこかに消えてしまったということだけだった。それは推測に過ぎないけれど、そう確信させるだけの説得力が、あの魔女の剣幕にはあった。
……僕は独りだ。また独りだ。僕は悪魔だ。だから独りなのか?
僕は僕の在り様に
どうして彼は羊を救って山羊は救わないのだろう? 山羊に変装した羊でさえ彼は一匹も見逃さないのに、山羊は見つけられないのか? 羊が弱いからか? 羊は他人に委託できる強さがあるからか? 僕が弱いからか?
人間でもないから発狂などできるわけもなく、僕はただ無意味な思考を繰り返しながら森の外に出た。
村には細い煙が伸びていた。煙は高く、遠く、天まで続く。僕はそれを見て、ほっとした。少女の母親は、さっきのように発狂しながら死んだだろう。僕は母親を幸福だと思った。痛みも知らずに消えられるなんて。それと同時に、少女のことも思った。彼女もきっと、幸福だろう。魔女に化けた誰かと一緒に幸福な生活を送り続けるのだろう。
……幸福じゃないのは、僕だけでいい。
悪なら悪らしく生きるべきだ。だからこそ僕は強く在らなければならない。今までだってそうしてきたし、これからだってそういう風にして、生きなければならない。ずっと。
そう決意すると、重くのしかかった怒りは消えた。ならやることは、一つだけ。
僕は逆五芒星を飲み込み、目を瞑り、ただ祈る。僕が悪になれるように。
(了)
見失った羊を見つけてから 八百本 光闇 @cgs
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