ひと、でなし

石濱ウミ

・・・


 熱のあるからだを横たえた布団から、気怠げに、開け放したままの窓の外、朝月夜の浮かぶ沁みるような薄花色うすはないろの空に、軒から吊された金魚玉の中、ひらと泳ぐ更紗の琉金の朱と白がなびく様を眺めていますと、


「空を泳ぐ金魚だな」


 声が、聞こえた気がしました。

 しかし、そんな筈は、ありません。

 わたしがひとり寝ているのは母屋から遠く離れにあります四畳半の部屋で、お空に月がまだ残っているような明け方に、誰が、このようなところへ顔を出すというのでしょう。

 熱で、芯の方からぼうっとする重たい頭を、戸惑いながらも声のした方へ廻らせたそのとき、深い水に似たくらがりに沈むこの部屋の片隅、その蒼い闇の中に美しい青年の姿を認めたのです。


「……だあ、れ?」


 渇いた口のなか、粘ついた舌を上手く動かせず、問いかける掠れた声は、期せずして、甘たるくこびを含んだようなものに、なってしまいました。


「さて、誰だと思う?」


 その低すぎず耳に心地よい声色に、春の頬を撫でる柔らかな風のような、暖かくも、どこか冷たさをはらむものを感じながら、応える形のよい口の端を僅かに歪めた、美しい青年は、わたしの愚かな問いに笑ったのでしょう。けれども、そう応える自身のことを笑うような寂しいものにも見えて、途端に、自ずと答えは分かってしまったのです。


「人では、ないわね」

「人の姿をしているのに?」

「どんなに人の姿をしていても、人とは限らないと、わたしは知っているもの」


 わたしの生意気な言葉に、ふっと、その人の目が細められたのが見えましたが、いっそ優しげにも似たその眼差しは、久しく、忘れようとしていた哀しみを、思い出させるものでありました。

 堪らなく目を逸らせば、甘く苦い痛みと共に、どっと何かが胸の中を通り過ぎ、虚しく空いた穴ばかりを、残してゆきます。


「なぜ、おそれない」


 得体の知れない青年の問いかけに、貴方が美しいから、それに、もう怖いものは無いから、と口を開きかけてやめます。

 薄く開けた唇を閉じ歯でもって噛み締めたとき、ぷつり、と乾いた薄い皮膚が破れ、金気を含んだ塩からいものが舌の上に、じわと広がりました。

 嗚呼、そうです。

 あのときも、同じ味が。

 混じり合う、ふたり、のものだったら、真っ赤な柘榴のように酸味が強く、仄かに甘い味がしたのかもしれません……いえ、似ても似つかぬ、苦いものだったのでしょうか。


「もう一匹、泳がせたらどうだ」


 物思いに耽るわたしの目を逸らした先が、浮かぶ金魚玉に泳ぐ更紗の琉金だと、目敏く見て取ったのでしょう。

 硝子ガラス玉に閉じ込められた琉金が、こぽ、と透明な空気を吐きだすように、その人の声に含まれるものは、何も無かった。

 ですから、わたしも自然と言葉を返すことが出来るのです。


「少し前まで……二匹、いたのよ」

「ならば、寂しいだろう」


 琉金が、寂しいというのか。

 わたしに、寂しいと尋ねるのか。

 

 最初から最期まで、ひとりであれば、孤独というものを、知らずに済んだのに。

 裂けた唇が熱を孕んで、ぼうっと痛みます。

 まなじりで耐えていた涙が、溢れ、冷たい道筋を描きながら、耳へと流れ落ちました。



 ――あの夜、金魚を求めて、お祭りの宵宮に二人きり内緒で、寝静まった家を抜け出す手を差し伸べてくれたのは、あの人でした。


「金魚すくいを、しよう」


 悪戯な笑みを含んだ、瞳で。

 初めて触れあう手を、当たり前のように、ふたり繋いで。

 闇のなか、仄かな光と並ぶ夜市の前を、そぞろ歩いたのは儚い夢のようでした。それでも、その後のことを思えば、あれが夢であった方が、どれほど良かったでしょう。

 わたしは、紺地に梅の花と雪輪紋様の中に撫子が綺麗に咲いた浴衣で、あの人は、黒に染めた先染めの糸と白の織り糸の、細い縞の浴衣を着ていました。

 あの人の手のひらに、わたしの指先は心地良く収まり、地面を蹴る下駄の音が、どくどくと耳の奥に脈打つ心臓に重なります。

 歩くたびに汗と石鹸の混じる匂いが鼻先を掠め、わたしは俯き、普段は目にすることのない、あの人の素足に下駄を履いた足元ばかりを見ておりました。


 初めて、あの人を見たのは春。


 あの人が、我が家に住み込みの庭師として雇われた、わたしが女学校に通い始めて三年になったばかりの頃のことでした。

 学校から帰り、お母さまに挨拶を終え、顔を上げたその先。茶の間の前庭を手入れしているあの人の姿を、目にした途端、わたしは眩暈を覚えたのです。

 藍染の腹掛けの上に半纏はんてんを羽織り、同じく藍染の股引きに、脚絆きゃはんと黒地の地下足袋に包まれた、動くたびに獣を思わせる、しなやかな軀。わたしよりも、五つほど年嵩としかさの、きらめき、きりとして涼やかな目元と、整った精悍な美貌。

 いつのまにか日を追う毎に、わたしの目は、心は、広い庭のどこかに居るあの人の姿を求めて、彷徨うようになっておりました。


 家には住み込みの雇い人が何人もいて、子守や家事に勤しむ姿は、そこかしこにあり、当たり前に、互いの領分には線が引かれています。勿論、同じようでいて種類の全く違う太くて見えない線は、あの人とわたしの間にも、くっきりと引かれておりました。

 お父さまも、お母さまも無論のこと、お兄さまでさえ、家で働く雇い人を気に入りはしても、人として見ていたかどうかといえば、自分たちと同じ、人として見てはおりませんでした。給金を与えてさえいれば、雇い人は家のために働くのが当然と思っている人たちです。

 ですから家の者は、誰ひとりとして、あの人の腹掛けの内側には常に本が差してあり、仕事合間の木陰で、それを取り出し読んでいることも、それが、あるときからわたしの貸した本や詩集になったことも、知りはしなかったのではないのでしょうか。


 あの人とわたしが、いつしか想い合うようになっていたのを、知らないように。


 わたしの部屋がある窓の下の地面には、少しの雑草も、どんなに小さなつぶてもありません。

 日中、わたしは、部屋の開け放した窓のそばで、勉強や読書、縫い物をするふりをしながら、方や、あの人は、窓の下、見当たらない雑草を抜くふりをしながら、ちらりちらと視線を交わします。


 夜になるのを、待ちどおしく思いながら。


 昼間には、お日様に照らされ濃く引かれた線も、夜になれば、お月様の淡い光で薄くなるのを、わたしたちは知っていました。


 たとえ、それが錯覚だとしても。


 俥の置き場である納屋の二階の片隅に、ただ寝るだけの、あの人の部屋があてがわれております。

 夜中になる頃あの人は、その部屋を抜け出し、薄くなった線を軽々と跳び越え、本の貸し借りや他愛ない話をする為だけに、わたしの部屋の窓の下に座り「お嬢さま」と囁くのでした。

 部屋の灯りを消した、暗がりから顔を出すわたしに、青い闇の中、月に照らされ微笑みを浮かべる、あの人の姿。

 

 人知れず繰り返される逢瀬は、やがて、それだけでは満たされぬものを感じるようになるのは、自然のことわりにも似て、仕方のないことだったのかもしれません。


 宵宮に行ったあの夜、あの人の闇の中に浮かぶ白い踵を見つめながら、お宮に向かって石段を登り御手洗みたらしの水で口を濯ぐ間も、ふたりの手は、互いに、二度と離れないかのように固く結ばれておりました。

 探していた半身を、繋ぎとめている手。

 離したら、ふたり、ばらばらに砕けてしまいそうで、離すのを怖がり、手を洗うときになって、一寸、迷いのあとに離れた手は、また直ぐに互いを求めて繋がります。


 誰かに見られていたらと考えそうなものですが、どちらも、目に映っていたとしても見えてはおりませんでした。

 見えているのは、互いの姿だけ。

 お宮に参拝したあと、あの人は拝殿の横手に回り立ち止まると、しばらく黙ったまま、背を向けておりました。

 気まずくも心地よい沈黙に、高鳴る胸。

 突然、振り返ったあの人の、恐ろしく美しい目に射竦められたわたしは、気づいたときには衿の合わせに頬を埋め、深くあの人の匂いを吸い込んでいました。

 

 嗚呼、あゝ土の香りとも深緑とも水にも似た、懐かしい匂い。背に回る力強い手のひらの、布を隔てて肌を焼くような、熱さ。

 降り落ちる、あの人の唇を受けて、わたしの薄い皮膚が破れます。

 伏せた目を上げ、互いの唇の端を赤く染まるのを目にした、そのとき……。


 わたしたちに、襲いかかるものが。

 

 藪の方へ引き摺られそうになる、わたし。

 

 殴られ蹴られる、あの人。


 殴り返す、あの人。


 這うようにして、わたしに追いつき。


 わたしに纏わりつく手を、払い。


 逃げろと、突き飛ばされ。

 

 逃げた。


 あの人を、置き去りにして。


 振り返りも、せず。


 わたし、は。


 

 無我夢中で家まで帰り、泥だらけの浴衣を隠しました。

 あの人は、もう、おりません。

 あの夜を境に、姿を見て、おりません。

 お父さまも、お母さまも、お兄さまも、突然に姿を消したあの人を、蔑み罵っておりましたが、また新しく雇い人を入れた後は、すっかり忘れておしまいになりました。


 世の中には、様々な人でなしが、おります。


 あの人を見捨てて逃げたわたしも、また。

 所詮は同じ、人でなし、だったのです。


 あの夜、半身を失ったわたしは、ばらばらに砕けてしまった軀を布団に横たえ、軒先に吊るされた、水で満ちるだけの金魚玉を見上げるのでした。



「……そう、金魚すくいは出来なかった」



 美しい青年は、いつのまにか、涼やかな目元に柔らかな笑みを湛えたあの人に、姿を変えておりました。

 もう二度と、逢うことの叶わないと思っていた、愛しいあの人。

 足元に立ち、わたしを見下ろしていました。今度こそ、わたしは、あの人に向けて手を伸ばします。

 


 軒先に吊るされた金魚玉に、仲良く二匹の更紗の琉金が翻るのを見たのは、消えゆく白い月だけでした。








《了》







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ひと、でなし 石濱ウミ @ashika21

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