栞を挟む余地もない

織川ゆうひ

栞を挟む余地もない

 急いでお弁当を食べ終えて、図書室までの廊下を足早に歩く。職員室に向かうのに急いで走っていたら生活指導の先生に見つかって叱られてしまったのは記憶に新しい。私は同じ過ちは繰り返さないぞ。もしまたここで見つかったらタイムロスになってしまうし。

 昼休みの時間は四十五分と短いからできるだけ急がなくちゃいけない。見つかってもギリギリ怒られないくらいのペースを保ちながら、階段をひとつ飛ばしで上がっていく。

 図書室があるのは教室から一番遠い三階の隅っこ。私の憩いの場所をそんなところに追いやるなんて。一応校舎の建て替え工事が終わるまでという話だったけど、それが終わる予定の来春には私はもう卒業してしまっている。つまりこの図書室に通う間は常に三階まで上らないといけないのだ。食後のいい運動になるといえばなる、けど。

 ようやく辿り着いた図書室の扉は木でできているせいか他の教室の扉に比べて少し重い。引くときに何かに引っかかっているような突っ張り感もある。カラカラというよりグワラグワラと表現した方がしっくりくるような音を立てる扉を開けると、かすかに図書室特有の本の匂いがした。私はこの匂いがとても好きだ。

「こんにちは、倉田さん」

「あ。こんにちは」

 扉を開けてすぐ、目の前のカウンターの中から声をかけられる。司書の椎名先生だ。本当は司書さんって先生とは違うから「椎名さん」って呼んでいいらしいんだけど、私はなんとなく先生をつけて呼んでしまう。

「毎日早いね。他の生徒たちも倉田さんくらい本に関心があればいいんだけどねえ」

 そう言って椎名先生が目を伏せると、長い睫毛がそっと目の下に影を落とした。

 椎名先生はまだ若い男の先生で、去年の春からこの学校に赴任してきた。たぶん他の先生たちよりも私たち生徒との年齢の方が近いんじゃないかと思う。身長は高いけど線が細くて、髪はふわふわで少しだけ茶色っぽい。前に気になって尋ねてみたら「地毛なんだよ」と笑ってくれた。黒縁の眼鏡なんて人によってはダサく見えてしまうはずなのに、椎名先生には不思議なくらいよく似合う。眼鏡をかけ直したり本を取ったりする仕草もいちいち様になっていて、若手の俳優さんが司書の役を演じているような雰囲気があった。女子とかきゃあきゃあ言いそうな見た目なんだけどな。でもあんまり校舎内をうろうろしない人だし、図書室に来ない生徒たちには知られていないのかもしれない。私は一年生の頃から図書委員をしているから椎名先生ともだいぶ親しくなっているけど。

「そういえば倉田さん、今日も一番乗りだよ」

「ほんとですか?急いで来た甲斐があったぁ」

「もう少しゆっくりでもいいのに。お昼ご飯とか急いで食べてない?」

「……えへへ」

 まさにその通りなので笑ってごまかす。困ったように眉を下げられたから、何か言われる前に逃げるように奥の本棚へと向かった。

 私が急いで来ているのは、本当は本を読むためだけではないんだけど。でもそれは誰にも秘密だ。一番仲良しの友達にだって言っていない。

 お気に入りのテーブル席で、読みかけだった本を一冊手に取る。まだ私しかいないせいか椅子を引く音が妙に響いた。

 この席からだと本棚と本棚の間にちょうどカウンターが見える。当然、そこにいる椎名先生も。先生、今日は何の本を読んでいるんだろう。ここからだとさすがにタイトルまでは見えないな。

 気になりつつもページを捲って読みかけていた箇所を探していると、またグワラグワラと扉を開ける音がした。続いて聞こえてきた椎名先生に挨拶する声は男子のもの。

「こんにちは、矢野くん」

「こんにちは」

 本日二人目の来室者は隣のクラスの矢野だった。椎名先生は挨拶するときに知っている生徒の名前は必ず呼ぶから誰が来たのかすぐに分かる。そうじゃなくても、ここからだとしっかり姿も見えるけど。二人はできるだけ声を落として話しているけど、静かな室内ではそれなりに内容が聞こえてくる。

「あ、その本って俺がこの前紹介したやつですか?」

「そうそう。矢野くんプレゼンが上手だからね、気になってつい買っちゃった。面白いし、今度図書室にも入れてみようか」

「うわ、マジっすか。椎名さんに気に入ってもらえるの嬉しいな」

 にこにこする椎名先生と、同じくらい笑顔の矢野。そっか、先生が読んでいるのは矢野が紹介した本だったのか。そういえばこの前のビブリオバトル、矢野がクラス代表だったっけ。そのときのやつかな。矢野が本を紹介するなんてって意外だったのを覚えている。

 矢野はクラスで一番、いや学年で一番と言ってもいいくらいモテる。女子からの人気が誰よりも高い。背が高くてスポーツが得意で、サッカー部のキャプテン。しかも、たぶんここが東京みたいな大都会だったらモデルとか俳優とかにスカウトされてただろうなと思うくらいのイケメンだ。残念ながらここは九州の片隅にある田舎だからそんなことにはなっていないんだけど。

 そんな矢野が昼休みになると図書室に通うようになった。それまでは休み時間なんて教室で友達と喋っているか、体育館でバスケをしているかだったのに。いつからなのかとか、どうしてなのかとか、理由は知らない。一年生の頃から、矢野のことは誰よりもずっと見ていたつもりだったのに。私が気づいたときにはもう図書室の常連になっていたし、椎名先生とだってすごく仲良くなっていた。それはもう、端から見ても明らかに距離が近いくらい。

 いつだって誰にだって明るくて優しくて人気者の矢野が、椎名先生にだけは誰にも見せないような柔らかい顔をするのだって知っている。図書室の矢野しか知らない椎名先生はきっとそんなことに気づかないんだろうけど。

「俺、今日こそ一番乗りできました?」

「残念だけど、今日も倉田さんが来てるよ」

「あ~、また倉田に先越されたかぁ……」

 ちょっと大げさにため息をついた矢野がこっちに向かってくるのが分かって、慌てて視線を本に落とす。本棚の間を抜けながら近づいてきた矢野は私の真正面の椅子を引いて躊躇なくそこに座った。じっと見てくるのが分かったから仕方なく顔を上げる。

「倉田」

「……何?」

「お前すごいな、どうしたら毎日そんな早く来れるんだよ。ちゃんと昼飯食ってる?」

「食べてるけど」

 声を潜めて、こそこそ話す。ちらっと椎名先生の方を見ると、にこにこしながらこっちを見ていた。青春してるなあ、とでも思っているんだろうか。私につられるようにして矢野も先生の方を振り返る。だけどすぐ私に向き直って、ちょいちょいと手招きした。

「ちょっと耳貸せ」

「は?何よ」

「いいから」

 ぐっと顔を近づけられて心臓が一気に跳ね上がる。ほんとにすぐ近くに矢野の顔があった。どうしてそんなに睫毛が長いんだとか顔は赤くなってないかとか急いで来たけど汗臭くないかなとかそんなことが一瞬で頭の中を駆け巡る。

「お前さ、もしかしてだけど……」

 矢野の低く抑えられた声が耳に触れて、全身が緊張する。

「椎名さんのこと、好き、とか」

 ……その緊張が一気に抜けていくのを感じた。

「……はあ?」

「いや、こんなに毎日早く来てるってことは何か理由があるのかなと思って」

「それ、もしそう思ったとしても普通真っ正面から聞く?」

 デリカシーって言葉をどこかに捨ててきてしまったんだろうか。だけど私がジトリとした視線を向けたら、すぐに「ごめん」と頭を下げてきた。こういうところがちゃんとしてるんだよなあ。

「確かに軽はずみに聞くことじゃなかったかも。悪いな」

「どう考えてもそうでしょ。気をつけてよね。あと変な誤解されたくないから一応言っておくけど、違うから。椎名先生のことはかっこいいなと思うし綺麗だなとも思うけど、好きとかそういうのは無いから」

「……マジで?少しも?」

「少しも」

「……そっか」

 私の答えを聞いたときの矢野のほっとしたような顔といったら。

 少女漫画だったらここで「もしかして矢野って、私のこと……?」と思うような展開なのかもしれないけど、現実はそんなに甘くない。矢野の安堵の表情だって、私に向ける好意から来ているんじゃないことくらい分かってる。もし私のこと意識してくれているなら、あんなに平然と顔を近づけることなんてしないだろう。椎名先生が近づいたときには一瞬唇を引き結ぶくせに。

「ありがと。変なこと聞いて悪かったな」

「別に。それより、私なんかよりもっと警戒した方がいい相手、たくさんいると思うけど」

「へ?」

「音楽の佐々木先生と現国の水島先生。椎名先生に彼女がいるかどうか気にしてた」

「え……、あ、いや、えっ?」

 こんなに分かりやすくうろたえる人っているんだなってくらいに分かりやすく動揺する矢野に思わず笑ってしまった。ごまかすのが下手すぎる。私も人のこと言えないけど、態度には出していないつもりだし。現に矢野は絶対に私の気持ちに気づいていないし。

「やっぱりそうなんだ。矢野に彼女ができない理由、やっと分かったよ」

「倉田、お前気づいてたの?」

「なんとなくね。サッカー馬鹿の矢野が図書室に通い詰めるなんて、それこそ理由がないとおかしいもん」

 そんな馬鹿の姿が見たくてつられるように早々と図書室に向かうようになった私が言えたことではないんだけど。でも椎名先生と話してるときの矢野、悔しいくらいかっこいいからついつい見てしまいたくなる。矢野に憧れてる他の子たちが知らない矢野の恋してる顔も、私だけが見ているわけだし。

「……あのさ、誰にも言わないでおいてくれるか?」

「当たり前でしょ。ただそんな分かりやすい反応してたら気をつけないとすぐ誰かにバレるよ。椎名先生は全然気づいてないっぽいけど」

 私は矢野と違ってデリカシーを捨ててはいないから、胸のうちにしまっておいてあげる。ついでにアドバイスもしておいてあげた。学年一の人気者がまさか誰にも言えないような恋をしているなんて、きっとみんな夢にも思わないだろうけど。でもあまりにも分かりやすすぎるから、念には念を、だ。

 私と矢野のひそひそ話を打ち切るように、グワラグワラと例の音がした。入ってきたのは下級生の女子が二人。椎名先生に軽く会釈をして、お目当ての本棚へと向かっていくのが見えた。

 まあ普通、司書さんと生徒の距離感なんてあんなものだろう。

「じゃあ私、この本の続き読むから。矢野は?」

「俺は適当に何か借りてく。……あ、なあ、佐々木先生と水島先生の話って本当のやつ?」

「それは本当のやつ」

 素直に答えてやれば頭を抱えて小さくうなり出す。こんなとこ、矢野ファンの子たちが見たらどう思うんだろう。私のライバルは減るんだろうか。いやでも椎名先生がいる限りはどんなにライバルが減ったって意味無いか。

 椎名先生はというと少しずつ増えてきた生徒ひとりひとりに律儀に挨拶をして、その合間に矢野が紹介したという本を読んでいた。

 矢野は椎名先生のどこに惹かれたんだろう。いつ好きになったんだろう。聞いたら教えてくれるんだろうか。それともごまかしたりはぐらかしたりするんだろうか。

 聞いてみようにも、矢野はさっさと立ち上がってカウンターへと向かっていた。相変わらず悔しくなるくらいのいい笑顔で椎名先生と何か話している。

「……好きだなぁ」

 思わずこぼれた呟きは、誰かが出入りするグワラグワラ音にかき消された。

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