コウモリになるとは・下(本編)
船溜まりを見つめながら佳穂はまたしてもため息をついた。
ランカスターから渡された懐中時計を確認する。残りあと十数分。
ぼんやりしている暇など無いはずだ。
だが、張り詰めていた気持ちは、先程の衝撃が全て持って行ってしまった。
(なんで、犬上くんが……)
佳穂に向けていたその背中。
頭の上には犬のような耳。お尻にはシッポもあった。可愛いと思えなくもない姿。ちょっと、笑えてしまう。
『逃げろ! コウモリ!』
その言葉通り、逃げて来た。
背後に感じたのは、
犬上は無事なのだろうか。
その時、見える音が輝いた。
近づいてくるのは、見知った感覚。佳穂はその影に声をかけた。
「便利屋さん……」
「うわわっ!?」
途端に、雨粒の水色が煌めいた。
「いきなり声をかけんなよ! おい、とか、あのうとか言いようがあるだろ!?」
「ごめんなさい。見えているものだと思ってました」
街灯からの死角の茂み。辺りは思った以上の暗闇だった。
「………ったく! 無事だったのかよ。ガッカリだな」
「余計なお世話です。それより、ありましたか? 顔を隠すもの。無いとまともに逃げられません」
「ケッ! 要求だけはするんだな。丁度いいのがあったから、ちょっと目を閉じてろ」
「え、え!? どうするんですか!?」
「つけてやるんだよ! いいから目、瞑りやがれ! 大声出すぞ!」
「…………」
それは普通、逆じゃないかと佳穂は思った。
仕方がなく目を瞑る。
「じっとしてろよ」
「…………」
額の辺りに便利屋の手が触れる。
昨日出会ったばかりの男に頭を触られている――。あり得なさに、顔が火照る。
「は、早くしてください!」
「動くなよ! 歪んじまうじゃないか! って、意外に難しいな、コレ」
本当に何をやっているのだろう。近すぎて見える音もぼんやりだ、かえって想像が掻き乱される。
「よし、これでいいだろ。目、開けてみろ」
言葉と共に便利屋の手が離れていく。
「…………」
佳穂は、恐る恐る目を開けた。
(なんかいつもより、視界がはっきりしているような……)
目の前には、くっきり見える便利屋の顔があった。
(この人、こんな顔をしているんだ……)
佳穂はそう思いながら、その理由を考えた。
「!?」
答えに思い至った佳穂はパニックになった。
佳穂の前髪――暖簾のように瞳を隠していた髪が、あろうことか左右にすっきりまとめられてしまっている。前髪を分けているのはヘアクリップだ。
「ななな、何ですかこれ!?」
「何って、シルバーだ。白いのは……なんかわかんねぇが花だ」
「そんなこと聞いてません! こんなのありえません! なんて事、するんですか!?」
恥ずかしすぎて、自分でも何を言っているのかわからない。
「バレなきゃいいんだろ!? その鬱陶しい前髪、無いだけで全然違うじゃねえか」
「あるとか無いとかの問題じゃないんですよ! ヘンでしょ? おかしいでしょ? だから、恥ずかしんです!」
ずっとこの恥ずかしさに悩まされてきた。
それを、いとも簡単に破られてしまった―――。
考えれば考える程、顔が熱くなって来る。やり場のない憤りで、思わず便利屋を睨みつけてしまう。
「……そ、そうか?」
便利屋は視線を外すかのように宙を仰いだ。
――やっぱりだ。
便利屋の態度からして、自分には、なにかヘンな所があるに決まっている。
「……ま、いいんじゃねえのオレは、よく知らねえが」
何がどういいのかさっぱりわからない。いなされてしまったようで、余計に腹立たしい。信じてしまった自分を呪いたい。
「……外しますよ!」
佳穂は、自分の前髪を分けているヘアクリップに手をかけた。
「外すのは勝手だが、代金の請求はさせてもらうぞ」
「え? なんの代金ですか?」
「それだ、それ! ヘアクリップ! 2つで、1万な」
「代金とるんですか!? 使わないのに!?」
「たりめーだろ! オレは、お前さんの要求通り、正体を隠すものを買ってきた。使う使わないは関係無い」
「私がお願いしたのは、顔を隠すものです! 晒すものじゃありません!」
「正体隠すって目的が達成できりゃ、どっちだっていいだろ!」
「これじゃあ、速攻でバレてしまうに決まってます!」
「ほう。そうかい…………。んじゃ、試してみるんだな!」
そう言うと便利屋は上の方を見上げ、背後に飛び退いた。
「「コウモリ!?」」
突然、橋の上から風の緑と炎の緋色が降ってきた。犬上とニワトリが同時に声を上げる。
口論のせいで、頭上の橋に二人がいたことを全く気が付かなかった。
「獲った!」
「させねえ!」
目にも止まらう速さで繰り出されるニワトリの蹴りが、空気を切り裂く。
「熱っ……!?」
緋色の見た目だけじゃない本当に熱い。その熱量は、犬上の背後にいる佳穂にさえ届いていた。
「喰らえ!」
ニワトリが、翼を閃かせジャンプした。
前宙の体勢から、発火点に達した踵が犬上へと落下する。
「
弧を描く炎が、鶏の尾羽根のように燃え上がる。
「そうか! それがアンタの技か!」
犬上が大きく腕を振って応戦する。腕に風を纏わせ、そのままそれを叩き込む。
「っ!」
空気が爆ぜ、爆風に押される。
出鱈目だ。こんな人たちの相手ができるわけがない。想像を超えた力の存在が、佳穂の気持ちを削いでいく。
しかし、恐怖心に囚われかけていた佳穂を見える音が揺さぶった。
何かが空気を切り裂いて来る音がする。
(コルク弾!?)
遠距離からの狙撃。描かれる軌跡の先、狙われているのは自分ではない、犬上だ。
当たる! そう思った瞬間、佳穂は半ば無意識に声を上げていた。
「…━━━━━━ッ!!!」
発せられたそれは、聞こえる声にはならなかった。無窮の声は、真鍮色の光を発しながら矢のようにコルク弾を射抜いた。
「サンキューな! コウモリ!」
女の攻撃を受けながら犬上が笑う。その表情も一瞬だ。真顔に変わって犬上が叫んだ。
「来るぞ! コウモリ!」
佳穂は頷いた。
地鳴りのような轟音を響かせ、山下埠頭に巨大なトレーラーが現れた。
それはタイヤを軋ませながら、突堤に急停止する。
「姐さん!」
焦げたタイヤの臭いの中、ニワトリの部下が佳穂に向かってコルク弾を撃ち放つ。
だが、攻撃は当たらない。
今度は犬上が腕を振るう。弾き飛ばされたコルク弾がバラバラと地面に落ちていく。
「大丈夫か!? コウモリ!」
「だ、大丈夫! ありがとう!」
佳穂は頷いた。
その間に、ニワトリの女はトレーラーに向かって駆け出した。
「ガツ! バイク出すよ!」
「応よ! 姐さん!」
ニワトリの部下がトレーラーのゲートを開ける。
「逃げろ! コウモリ!」
犬上が叫んだ。
「はい!」
佳穂は駆け出し、地を蹴った。体が地面から舞い上がる。
「オラぁ!」
トレーラーのゲートを蹴破って、女のバイクが飛び出した。
「追わせねえ!」
犬上が行手を塞ぐ。
だが――――。コルク弾がそれをさらに制止する。
「オオカミ! お前の相手は俺たちだ!」
続いてニワトリの部下のバギーが飛び出した。
コルクの弾幕が犬上に集中する。
「くそっ! 逃げろ! コウモリ! 絶対、逃げ切れ!」
――――来た!
地面を切り裂くナイフのように、炎の緋色が近づいてくる。
女のバイクだ。ただの一人で追いかけてくる。
犬上は大丈夫なのだろうか? 背後が気になるが、振り向く余裕は全くない。
「逃すか! コウモリっ!!」
女のバイクから何かが撃ち出される。
聴こえた音は、コルク弾でも、網でもない、今までとは全く違う感触。
数は6発。コルク弾に比べれば多くはない。
翼を閃かし、それを躱す。
だが――――
(え、え?)
やり過ごしたはずの弾は、今までのもののようには躱せない。
「ついて来る!?」
追跡装置が付いているのだろうか、弾の軌跡は互いに絡まりながら、佳穂へと向かって追いすがる。それだけではない、戸惑う佳穂へ、追い打ちのようにコルクの弾幕が重ねられる。
逃げられない! 絶体絶命だ。
「っ…………――――!」
見える音の指し示す幾通りもの
このままじゃ、当たる。
湧き上がった恐怖が、翼の先まで覆い尽くす。
「ダ……メ…」
思わず目を瞑ったその瞬間――――。
「逃げろ! コウモリ! 絶対、逃げ切れ!」
犬上の声が響いた。
そうだ。負けられない。負けるわけにはいかない。
逃げろ!!!!
目を閉じてなお見えている、輝く視界。
その中にたった一つ、真鍮色に輝いているルートが見えた。
逃げろ!!!!
「― ―― ―― …‥!」
佳穂はその光の道に飛び込んだ。
翼を翻し宙を返る。空気の圧力に腕が軋む。
(くうっ……!)
佳穂は目を見開いた。
鼻先を擦りそうな程、地面すれすれの滑空。横から追手のバイクが迫っていた。ニワトリの女は真っ直ぐこちらを見据えている。
チリチリと焦げるような強い意志の眼だ。
怖い。
だが、もう目は閉じない。
猛スピードのバイクを躱し、翼一重ですり抜ける。
「… … … …━━━━━!!」
佳穂は、声にならない声で叫んでいた。体が震える。音のすべてが視覚となって返ってくる。
真鍮色の光の道は、埠頭に置かれたコンテナの群れへと続いている。佳穂は迷うことなく、その中へ飛び込んだ。
ドドド!
背後で衝撃がした。感じられる追尾弾の数が減っている。
3発だ。残りは半分!
女のバイクはついて来ていない。
コンテナの通路は曲がる。まるで迷路だ。ジグザグ道を、右へ、左へ。一瞬でも気を抜いてしまえば、壁に激突するか、追尾弾の餌食。恐怖が頭をもたげて来そうになるが、それを無理やり抑え込む。
今は、目の前に聞こえている光の道に集中する!
「!?」
コンテナの角を曲がった途端だった。
目の前の道を完全にコンテナが塞いでいる。
行き止まりか?
だが――真鍮色の光の道は突き当りの壁へと伸びている。コンテナの間の隙間の中へと。
道は続いている!
佳穂は目を瞑り、見える音に全神経を集中した。
通れる。輝きは、そう聞こえている。
聞こえた通り体を動かす。強く羽撃き、体をひねる。大きな掌を目一杯広げ、翼を伸ばす。体を薄く、垂直に。
隙間に入った!
ドドン!
背後で2つの爆発音。残りは1発!
真っ暗な視界のはるか先に一筋の光――出口だ!
コンマ1秒、コンマ2秒。
永遠とも思われる時間が過ぎていく。
ドン! 最後の衝撃が走る。
「…― …━━ッ!」
そして――視界が輝いた。
佳穂は目を開けた。そこに――光の船があった。
「氷川丸!」
佳穂はコンテナの群れを抜け切ったのだ。
だが、気が緩む間もなく、背後に緋色の炎が燃え上がる。
鶏禽の女だ。コンテナの上に立ち、諦めることなく佳穂を狙っている。
「これで! 終わりだ!」
瞬きする間もなく、女が叫ぶ。
「婆・山・冠!」
次の瞬間、女の姿が消えた。
――見失った!?
佳穂は腕を強く振るった。
来る! これまで以上の覚悟とパワーで、
「……━━……━━━!」
佳穂は出せる最大限の声を発した。全神経を研ぎ澄ませ、コウモリの耳でエコーを待つ。
――――いた! 真下だ。まっすぐこちらへと向かう軌跡が見える。
ゴオ!
轟音と共に視界に火球が奔った。炎が尾を引き、火の粉が舞い散る。
引き伸ばされた時間の中、持てる感覚すべてを翼に集中し、炎の軌跡を撫でるように、翼を運ぶ。熱い。火傷しそうなくらいだ。
そして――火球の中から伸びる腕。
身を捩って翻った佳穂の脇腹を、紙一重ほどの隙間で掠めていく。
――躱せた!
佳穂は掠めたものの行く先を見た。
帳の降りた夜空を背景に、それは佳穂の目に飛び込んできた。
眩い光を放つ火球。大きく弧を描きながら、再びこちらへ向かって来る。
「ちぃいいいくしょおおおおおおおおお!!」
鶏の翼を広げ、額から伸びる焔の尾を曳き、猛烈な推力でこちらへ向かって来る。追手の女だ。ニワトリは飛べないはずではなかったか。
だが、その道理を超えて、女は飛んでいる。
「――――っ!」
佳穂は身を翻し羽撃いた。躱せる! 佳穂は確信した。
ニワトリの動き、速度こそ圧倒的だが致命的に小回りが効いていない。不意打ちの初撃を躱した今、勝負はついたようなものだ。
だが――――。
翼を幡めかせながら、佳穂は見た。鶏の女の表情が苦悶に歪んでいるのを。
それだけではない。腰まであった女の髪が、明らかに短くなっている。背中が完全に見えるほどに、だ。考えられる事はひとつしかない。女は、自分の髪の毛を代償にしながら飛んでいるのだ。
「どうして……?」
佳穂は思わず声に出した。
自分の飛び方では、コウモリを捕まえるのが難しいことは、当の本人が一番よく知っているはずだ。
それでも、女は諦めない。
「ク、ソっ、たれええええええ――っ!」
焔が勢いを増しているのが、ハッキリと感じられる。
どうして、こんなに必死なのだろう?
いや、そもそもこの追いかけっこは一体なんなのだ?
だが、しかし――――
だとしたら負けるわけにはいかない。
佳穂は翼を翻し、女に背を向けて羽撃いた。
向かうは、照明煌めく海面だ。一直線に急降下する。
「チキンレースってか!? バカにするなあああっ!」
叫び声はすぐ背後に吠え、海は壁のように目の前に迫ってくる。
まだだ、まだ、まだ!
もたげてくる恐怖心を抑えつけ、落ちる様に飛翔する。
視界が海面で覆い尽くされる。背後のニワトリも諦めない。
今、ここで決着をつける。
気持ちを奮い立たせ、集中する。できるかどうかもわからない。それでもやるしかない。
喉の奥にエネルギーが
「━━━━━━━━ッ!!!」
佳穂は歌うように叫び声をあげた。
真鍮色の光が喉を通って迸る。無窮の声が波頭を切り裂き、海を大きく抉っていく。
「なっ!?」
佳穂を海へ叩き落とそうとしていたニワトリが叫んだ。突然掘り下がった海面に、大きく体勢が崩れている。
海が作り出すハーフパイプの中、佳穂は羽撃いた。
撒き散らされた水滴が、ニワトリの焔に降りかかり、激しく蒸気を上げる。
「ちいくしょおおおっ!」
叫び声と共に、失速したニワトリは海へと落下した。
ジリリリリリリ――!
同時に、ポケットの懐中時計が鳴りだした。
逃げ切れた!
だが、安堵も束の間。
(声が、出ない!?)
無窮の声が急激に減衰する。ガス欠のように力が入らない。
たちまち、ハーフパイプが崩れてくる。
「きゃああ――!」
普通の悲鳴なら出るが、それでは全く意味はない。迫る海面を目近にし、たまらず翼で頭を覆う。
これで、明日のニュースは『怪奇! コウモリ女、山下公園に浮く』だ。
そして――衝撃が走った。
だが、その衝撃は身構えていたものとはかなり違うものだった。
「すまん、コウモリ! 遅れた――」
たまらず目をあける。
「!?」
風の緑がキラキラしている。間近にあったのは、元委員長の顔だった。
氷川丸の甲板。犬上は佳穂を抱えて立っていた。
本当に間近だ。近すぎる。それに……よく見える。
前髪がないからだ。
佳穂は赤面すると同時に、暴れ出した。
「お、おろしてください……」
かろうじて声を出す。
「あ……。ごめん!」
犬上は慌てて佳穂を甲板に下ろした。
「ご、ごめんなさい。助けてくれたのに……」
佳穂も慌ててお辞儀した。 落下寸前、助けてくれたのは他でもない犬上だった。
「いいよ。無事だったか? コウモリ」
犬上は屈託のない顔で笑った。
(……コウモリ)
犬上はずっとそう呼んでいる。もしかして、本当にバレていないのか。
「な、なんだよ睨むような顔をして!? なんか余計なこと言ったか? オレ?」
犬上が訝しむ。
「嫌だって言っても、明日も来るからな!
オレ、もっと強くならなきゃいけないんだ。だから、明日はもっと近くでお前を守らせてくれよ!」
犬上は言い捨てるとそのまま踵を返し、駆け出した。
緑の風が山下埠頭を吹き抜けていく。
月のない空には、星が瞬き始めている。
後に残された佳穂は困惑していた。
これから帰らなくてはいけない。犬上の家に。
「家で会ったら、どんな顔したらいいの!?」
明日も、また鬼ごっこはある。
コウモリになるとはどのようなことか What a bloody answer ! 【サクッと読める読切版】 〆野々青魚-Shimenono Aouo @ginrin3go
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