常世へと伸ばす枝

 未散みちる様のために私ができることは、すべて済ませた。

 白い棺にふたが被さり、男性の神職者たちによる釘打ちが始まろうとしていた時。


「――裏切り者」


 地を這うような低い女声が、やけにはっきりと私の鼓膜を震わせた。

 聞き間違えるわけがない。

 ――母上……?

 咄嗟に振り向いても、母の姿は付近には見当たらない。納棺は、絢芽あやめ神社の神職者全員に見届ける義務があるのに。

 違和感を打ち消すように、突然誰かの悲鳴が上がった。

 巫女装束をまとった徒花アダバナが、周囲の人間を襲っていた。

 ――そんな……!

 あの徒花の正体など、確かめるまでもない。

 待機していた殺芽衆あやめしゅうの仲間がすぐに応戦するが、敵はそれを難なくいなして搔い潜ってくる。

 狙いは、未散様の命。

「納棺中止! 未散様を避難させる!」

「はッ!」

 納棺責任者のご指示で、私たちは蓋を外しにかかった。

 その間にも、徒花は殺芽衆の精鋭をも蹴散らして迫ってくる。

智枝ともえ、未散様を頼んだぞ!」

「お任せを!」

 戸惑われた表情の未散様に、私は呼びかけて手を差し伸べる。

「未散様、お逃げくだ――」

 だが、言葉は途切れた。

 私の胸を、土気色の腕が貫いていた。

 ごぼり、と口からも大量の血があふれ出て。上半身が、棺の中へと倒れ込む。

 ――ここで終わりなのか。未散様を救えないまま、こんなところで……。

 無念にさいなまれながら、意識が闇にさらわれていく。


 厳重な結界が、何故綻んだのか。

 母が何故徒花に変貌したのか。

 答えも見つからないまま、私の命は尽きようとしていた。


   ◆


 誰かのやわらかなてのひらが、頬に添えられているのがわかった。

 重いまぶたをゆっくりと開ければ、ひらひらと白いものが闇に舞っているのがぼんやりと見えた。

「ふふ。智枝、やっと起きた」

「未散、様……?」

 どうやら、私は未散様に膝枕をしていただいているようだ。慈悲深い微笑みに見下ろされ、安堵する。

 だが、私は確かに母の――徒花の攻撃を受けたはずだ。これは、都合のいい夢なのだろうか。

 視線を動かすと、信じがたいものが目に飛び込んできた。

 とっくに散ったはずの神桜カンザクラが、満開になっている。白い花弁の一つ一つが輝き、一片ひとひらずつまばらにどこかへ飛んでいく。

 未散様の額のあざも、同様に淡い光を放っていた。

 朝だったのに急に訪れた夜は、黒い霧にも満ちている。

 ――いや、これは……瘴気か?

 儀式が失敗してしまったのだとすれば――。

 不吉な予感が脳裏に走った直後、人間とは思えない奇声が鼓膜を刺した。

 境内けいだいに現れた複数の徒花が、私たちに迫ってくる。

「うるさいなぁ」

 未散様が不満げに呟くと、素早く飛んできた神桜の花弁が、徒花の全身に一斉に貼り付いた。

 生気を奪われたのか、徒花たちは次々に力なく倒れていく。

「智枝と話してるんだから、黙っててよ」

 今までに聞いたこともないほど、未散様の声音は冷え切っていた。

 ――どうなってるんだ……。

 今倒れた者たちも、きっと日頃関わっていた神職者だっただろうに。未散様は、村の住民のことも常に祈ってくださっていたのに。

 愕然とする私に、彼女はまた花開いたような笑みを向ける。

「智枝、もう戦わなくていいんだよ」

「え……?」

「桜の神様が、わたしにお力を分けてくださったんだ。徒花も疫病神やくびょうがみも、すぐやっつけられるからだいじょうぶ」

「そんな……ッ」

「智枝の傷も、わたしが花びらで治したんだよ。もう痛くないでしょ?」

 確かに、胸や背中の痛みは消えている。巫女装束の黒い小袖には、血痕がこびり付いているが。

 身を起こして胸元の布地を片手で握りしめ、私は眉根を寄せる。

「あなたにだけは、このようなことはさせたくありませんでした……!」

 手を汚し、血を浴びるのは私だけでよかった。未散様がご無事であれば、心身ともに己がどれほど傷を負っても構わなかったのに。

 心境を苦々しく吐き出す私の頬を、未散様の手が繰り返し撫ぜる。

「わたしだって、智枝にずーっと守ってもらってばっかりなのがつらかったんだよ。やっとちょっと恩返しできたかなって」

 愛しげな眼差しにも癒されるはずなのに、今は受け止めることすら難しい。

「それにほら、見て」

 未散様の視線につられ、境内を見渡す。

 先の徒花たちの亡骸なきがらもいつの間にか消え、地面には色とりどりの花が咲き乱れていた。時期的、地理的に育つはずのない品種も入り交じり、状況の異様さが伝わってくる。

「きれいでしょ」

「……はい」

「徒花は『咲いても実を結ばない花』とか『咲いてもすぐ散るはかない花』って意味だけど。神様のお力だと、こんなふうに新しい花が咲くんだよ。死んだら神桜の養分になるんだって」

 無邪気な未散様の解説も、瘴気まみれの夜気に流れていく。弾むように、軽やかに。

 それを聴いても、私には疑念が浮かぶばかりだ。


 ――神桜に宿る存在モノは、本当に『神』なのか?


 神桜と桜憑きの伝承を、記憶から参照する。神桜自体が疫病神をはらう力を元々持つのなら、そもそも生贄いけにえを定期的に取り込む必要もないはずだ。遺骸が土に還り養分になるとしても、植物としての神桜の生長に大きく関わるとも考えにくい。未散様に力を分け与えるのも、儀式が失敗した現状では無意味だろうに。

 ――まさか。

 そこまで思考した瞬間、背筋を悪寒おかんが駆け抜けた。

「智枝、どうしたの?」

 黙り込んだ私を、未散様はきょとんといぶかしむ。

「申し訳ございません、少々考え事を。それより、社務所へ入ってもよろしいでしょうか」

「うん。智枝が行くとこなら、わたしも行きたい」

 私は、立ち上がって彼女に手を差し伸べた。

 千里花村の隣町に救援を要請すれば、未散様だけでも救助してもらえるかもしれない。明らかな怪奇現象の渦中だが、試す価値はある。

 巫女装束の腰に差した脇差かたなも、今まで以上に重さを増した気がした。

 社務所へ向かう間にも徒花が現れるが、神桜の花弁がすぐに飛んできて撃破し、私は抜刀せずに済んだ。鎮花祭はなしずめのまつりのために臨時で働いてくれたあの子たちも、もはや手遅れだった。

 ――すまない……。

 悔やみながら胸中で謝罪し、刀や足を使って社務所の扉を抉じ開ける。鍵を探す余裕はない。

 事務机の黒電話に近づき、受話器を取って耳に当てる。

 だが、その瞬間に絶望した。

 発信音が、全く聞こえない。電話線を確認しても、配線に問題はなく繋がったままなのに。

 受話器を置いて歯噛みする。壁に取り付けられた、防災用の懐中電灯を取った。

 こうなったら、未散様を強引に連れてでも山を越えるしかない。

「智枝?」

「未散様、ご一緒に村を出ましょう」

「え、なんで?」

 未散様は、やはりきょとんと目をしばたかせる。

「儀式が失敗した以上、もはや村に留まる理由などございません。あなたも桜憑きの運命さだめから解放され、新たな人生を――」

「そんなの、いらないよ」

 未散様の顔から、一切の感情が消え失せた。

「わたしは、智枝がいてくれたらそれでいいもん。幸せだもん」

「未散様……!」

「智枝だって、わたしを置いてかないでしょ? せっかく景色もきれいになったんだし、ずっとここにいようよ」

「――申し訳ございません。未散様の達てのご要望であっても、それだけは応えられません」

「あっ」

 ぐいっと強引に彼女の手を引き、私は駆け出した。

 神社の裏手の山道を抜ければ、隣町へと繋がる街道が延びている。神社関係者は、その事実を桜憑きには当然秘匿し続けていたが。

 隣町まではかなりの距離があるものの、夜明けまでには辿り着きたい。

 二人分の足音が反響し、足元に咲く草花も、踏まれて折れては散っていく。

 長年鍛錬していたおかげで、山道も含めて長距離を走るのも自信がある。だが、灯りもほぼない中では、速度を多少落として慎重に進まざるを得ない。肉食系野生動物に遭遇したら、斬らなければ。

 移動中も何故か全く息は上がらず、未散様も同様のようだった。母の攻撃を受けた時点で、私は即死していたのかもしれない。人体に悪影響があるという瘴気を吸っても何ともないのも、未散様の御力と神桜の加護の影響なのだろうか。

 互いに無言で走り続けるうちに、街道案内の看板が見えてきた。鬱蒼とい茂る森から、開けた場所へ出られる。この時間帯にも車が通っていれば、事情を打ち明けてどうにか頼み込んで乗せてもらえるかもしれない。

 だが、看板の手前まで来た時、不意に瘴気が濃くなった。前方の風景をろくに視認できないまま、私はそれでも足を止めない。

 強い風が一瞬通り過ぎ、再び開けた目を思わずみはった。


 眼前には、神桜が堂々と直立していたのだ。


 ――馬鹿な……境内にのか……!?

 瘴気に千里花村自体を外界から隔離する効果があるのなら、村外への脱出も不可能ということになる。

「だから言ったでしょ」

 くすくすと、未散様が愉しげに笑みをこぼす。

「でも、智枝と一緒に走るのは楽しかったなぁ。今までは、境内を散歩するだけだったし」

「……っ」

「神桜もね、もう絶対枯れないんだよ。花びらが散ったり飛んだりしても、またすぐ新しい花が咲く」

「左様だ」

 不意に、別の声が割り込んできた。艶やかな女声。神桜から発せられているのか。

「誰だ!」

「刀を抜かずともよいぞ、巫女」

 居合いあいの構えを取る私に、声は愉しげに答える。

「我は、おまえたちが桜の神として崇めてきたものだ」

「何……?」

「ほんとだよ、智枝。神様が、わたしたちを助けてくださったんだ」

 先日、未散様と入浴した時の彼女の違和感も――こいつのせいか。

 神桜の周囲に視線を走らせても、相手の姿は見えない。

 鞘を固く握りしめたまま、私は神桜を睨む。

「それが事実だとして、貴様は未散様に何をした……!」

「ふふ。おまえたちの言葉では、人聞きが悪い、と言うのだったか」

「質問に答えろ」

「よかろう。だが、話を聴く姿勢ではないな」

「っ、うあッ」

 突如、足元の土中から伸びてきた木の根が、鞘を握っていた腕に絡みついた。

 地面に引き倒され、うつ伏せの頬に草や土が擦れる。

「安心して、智枝。神様は、わたしたちを生かしてくださるから」

 屈んだ未散様の手が、私の頭を優しく撫でた。

 それにすら絶望感を煽られ、私は歯噛みする。

「桜憑きは、聞き分けがよいな。さて、語ろうか」

 神を名乗る声は、御伽噺おとぎばなしでも読み聞かせるかのように切り出した。

「おまえたちが疫病神と呼ぶあれとは、この地でや縄張りの奪い合いを長年続けておってな。我は、この桜を依代よりしろとして生きることにした。彼奴きゃつほど常に飢えてはおらぬが、村の人間たちが捧げてきた桜憑きを糧として、機を窺っておった。この地のすべてを我が物とするために」

「そのためだけに、未散様を利用したのか……!」

「おまえたちの働きのおかげで、村はこの通り『常世とこよ』になった。感謝するぞ」

 その言葉で、理解してしまった。先の己の仮説が、覆しようのない真実なのだと。

 相手は桜を司る神などではなく、別の

 桜憑きを定期的に取り込み、千里花村を救うと見せかけていた。彼らや村人の魂さえも取り込み、推定樹齢千年を超える巨樹の寿命や自身の力を維持し、村に巣食っている。

 木の根のいましめの痛みをこらえて身を起こし、私は問う。

「貴様の目的が常世の実現ならば、未散様や私は用済みのはずだ。何故生かす」

「神様が、わたしを気に入ってくださったからだよ。わたしが智枝を大事に想ってるのも、人間として面白いんだって」

 答えたのは、未散様だった。

「あと、神様の国の導きを任せる、とも言われたかも」

「導き?」

「左様。この桜憑きは、我が眷属けんぞくとしての相性も申し分ない。我が力の真なる解放には、桜憑きの願望と巫女――おまえの命が必要でな。おまえの死に触れ、現世との橋渡しである桜憑きが心を解き放ったことで、常世を創るに相応ふさわしい条件が整った」

「おかしいとは思った……護符や注連縄しめなわによる結界が意味を成さなかったのも、母が徒花になったのも、貴様の企みだったのだな」

「あの程度の結界を破るなど、造作もない。疫病神あれも当然桜憑きを狙うからな」

 未散様と私が特別視して想い合い、桜憑きや巫女としての役目を一時的にでも放棄してしまった。それは事実だ。母が徒花と化す直前、私を裏切り者となじった理由も納得がいく。

 村が常世――死後の世界である黄泉とも同義の神域になったのなら、私たちも人ならざる存在として留まり続けるのかもしれない。


「これでわたしたち、ずーっと一緒にいられるね」


 満面の笑みでぎゅうっと抱きついてくる未散様の背に、私もためらいがちに腕を回す。

 村はその名の通り、皮肉にも一面の花畑になろうとしていた。花の一つ一つが、私が護れなかった命の数でもある。

 罪滅ぼしになるとも思えないが、今後も未散様に仕えることが、少しでも彼女や村の平穏に繋がるのなら。

「未散様。取り乱してしまい、申し訳ございませんでした。未来永劫、あなたのおそばにいると誓います」

「うん。ありがとう、智枝。だーいすきっ」

 私の胸に頬をすり寄せてじゃれる未散様の髪を撫で、私は神桜を見据える。

「桜の疫病神、貴様の好きにはさせない。未散様に害をそうものならば、私はこの刀で貴様を斬る」

「威勢がよいな。だが、おまえの望みも叶っただろう」

 二の句が継げなくなる。

 そうだ。私はもう、家柄、村の掟や風習に縛られることもない。

「我が力と常世の時の流れにより、おまえたちは不老不死の身となった。心ゆくまで好きに過ごすがよい」

 気が遠くなるほどの年月を、私は耐えられるだろうか。いっそ、狂ってしまったほうが楽だろうか。

 未散様からいただいた折り鶴は、今もたもとで身を潜めている。

 決意を嘲笑うかのように、幹も枝も花も、只々私たちを見下ろしていた。


   ◆


 暗い森の中を、一人の若い女がおそるおそる歩いている。

 ――何だろう、この黒い霧……なんか息苦しいし。

 千里花村の鎮花祭はなしずめのまつりに参加したまま帰らない恋人を捜しに。

 けれども、辺りは異様な空気に包まれている。

 ――やっぱり、夜に来ないほうがよかったかな……。

 村では薬草類も多く採れることから、近隣地域の製薬会社との関わりもある。恋人もそこに勤務していた。今回も泊まり込みになるとは聞いていない。

 しばらく進むと、人影が見えた。

「あなたも、だれかに会いにきたの?」

 死装束しにしょうぞく姿の、三つ編みの少女が。

 安堵して答えかけるが、彼女は微笑んで不思議なことを言う。

「だいじょうぶだよ。ここにいた人たちは、みんなきれいな花になったから。あなたもね」

 どこからか急速に飛んできた大量の花弁が、女の全身を覆い尽くしていく。

 悲鳴を上げることもできないまま、意識が途絶えた。


 花散る里に、光る桜の花弁が舞い続ける。

 花々の香りも夜風に乗り、月が浮かばず鶴も飛ばない漆黒の空へ吸い込まれた。

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ハナチルサト 蒼樹里緒 @aokirio

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