未来に散る花

 ついに、鎮花祭はなしずめのまつりの前日になった。

 絢芽あやめ神社の境内けいだいや、本殿と拝殿もお祭り用の飾り付けが済まされている。鳥居までの石段の手すりや神社を囲む木々にも、注連縄しめなわがたくさん巻かれて張られていた。

 忙しそうに動き回る関係者さんたちの邪魔にならないようにしながら、わたしは朝から智枝ともえに案内してもらっていた。

「注連縄とか護符おふだとか、増えたねぇ」

「祭本番では、神社の敷地全体が神域になりますから。疫病神やくびょうがみ徒花アダバナが侵入しないよう、結界を厳重に張るのです」

「村のほうは、殺芽衆あやめしゅうの人たちが見回るんでしょ?」

「はい。私は未散様の納棺をお手伝いいたしますので、神社におりますが」

「そっか」

 お祭りの日くらいは、徒花は出ないでほしい。智枝とわたしの最後のお別れを、平和にさせてほしい。

 わたしが桜の神様のもとにいけば、疫病神も力をなくして、もう村の人たちが徒花にならなくて済むかもしれないんだから。

 話しながら歩いて社務所の前まで来ると、若い巫女さん三人がぱたぱたと小走りで寄ってきた。お祭りの日には、神社も疫病除けの『鎮花御幣ちんかごへい』と忍冬スイカズラ酒を売ってかなり忙しくなるから、その時だけ巫女さんとして働ける人を毎年集めているらしい。

「智枝様、お疲れ様です!」

「今日もかっこいいですねっ」

「様は要らないって言っただろう」

 ちょっと苦笑いして答える智枝も、年下の女の子たちへの接し方は慣れているみたいだった。

「それと、未散みちる様の御前だ。私より先に、きちんと[[rb:挨拶>あいさつ]]してくれ」

「あ、し、失礼しましたっ」

「おはようございます、未散様!」

 あわてて頭を下げる巫女さんたちには、わたしも無言で笑ってうなずくことしかできない。しきたりさえなかったら、この子たちともおしゃべりできるのに。

 ふと思い出して、わたしは白装束のたもとから折り鶴を引っ張り出す。巫女さんそれぞれに渡すと、みんな顔を見合わせて喜んでくれた。

「未散様のお心遣いに感謝します!」

「これで明日の本番もがんばれますっ」

 きゃっきゃとはしゃぐのを見ると、毎日地道に作っていてよかったと思える。

 智枝が、小声で聞いてきた。

「よろしいのですか?」

「うん。やっぱり千羽は間に合わなかったし、部屋に置いとくよりこの子たちに持っててもらったほうがいいなって」

「なるほど」

 智枝にこの前あげた一羽も、お守りにでもしてくれたらいい。わたしの代わりにはならないかもしれないけど。

「ところで君たち、私に用があるんじゃないのか」

「あ、そうでした」

「御幣の扱いについて、ちょっとわからないことが……」

「そうか。中で説明しよう」

「ありがとうございますっ」

「というわけですので、未散様、少々お待ちください」

「うん、いってらっしゃい」

 巫女さんたちと並び歩いて、智枝は社務所に入っていく。

 その後ろ姿を見送るわたしの胸が、どうしてかまたチクチクと痛み始めた。

 ――あれ……?

 手で胸元を押さえても、痛みは治まってくれない。

 この前、智枝の友達が神社に来た時と同じ。しかも、あの時よりトゲがさらに深く刺さるみたいな感覚になっている。

 ――やだな……。

 神桜のほうへ歩いて、その近くの木陰に座り込んだ。ほかの人たちに心配されたくなくて、こっそり隠れる。

 地面を眺めて、散った花びらの数を数えていく。意味なんてないけど、寝るときに羊を数えるみたいにすれば、ちょっとは落ち着きそうだから。

 わたしが納棺されるのは、明日の午前中。残り二十四時間もない。一秒でも長く智枝と一緒にいたいって願うのは、わがままでしかないけど。本人に巫女や殺芽衆としての仕事があるのも当たり前なのに、今は割り切るのが難しい。

 一緒にお風呂に入って、安心できたと思ったのに。

 納棺の時間までに、未練を断ち切らなきゃいけないのに。

 深呼吸も何回か繰り返すうちに、足音が近づいてきた。

「未散様、こちらにいらしたのですね」

「あ……」

 しゃがんだまま振り向くと、ほっとした顔の智枝に見下ろされて、また胸が苦しくなる。

「ごめんね、勝手に離れて」

「いいえ、きっと神桜様のおそばだろうと思いましたので。ご気分が優れないのでしたら、お部屋へ戻られますか?」

「うん、そうする」

 智枝の手を取って立ち上がって、ゆっくり歩き出した。

 家の廊下を進む間も、お互い黙ったままなのが気まずくて。智枝が部屋の障子を閉めてから、わたしは本人に抱きついた。つかんだ黒い小袖の布地越しに、智枝の温度が指に伝わる。

「未散様?」

「わたし、なんかおかしくなっちゃってるのかも」

「おかしい、とは?」

「智枝には幸せになってほしいのに……智枝がほかの人と仲良くしてると、胸がすごくチクチクするんだ」

 ハッ、と智枝が息を呑む。

 二人きりでいるのに、胸の痛みはますますひどくなってきた。

「智枝が仕事をがんばってるのはうれしいし、当たり前のことなのに、急にさびしくなってきて」

「未散様――」

「ねぇ、今日だけはわたしのそばにずっといてよ」

 言わないでおこうと決めたはずのわがままが、どんどんあふれ出てしまう。

 真っ黒なモヤモヤが、心を埋め尽くしていく。

「智枝はいつだってわたしのこと一番に考えてくれるよね、わたしが大事だよね、だったらできるよね?」

「未散様、落ち着いてください」

「こんなこと、今までなかったよ。だからおかしいんだよ。怖いよ、智枝が離れちゃうのが怖い、ほかの人のとこに行っちゃうのが怖い、やだッ」

 止めるように智枝の両手が肩に置かれても、わたしは気持ちをぶつけてしまう。

「わたしのこと好きだよね、嫌いにならないよね? 明日になったら、わたしはもう現世ここにはいられない、だから今日じゃなきゃだめなの! わたしだって、智枝が大好きだもん!」

 智枝を困らせたくないのに。涙がぼろぼろと畳に落ちていく。


「今日だけは、わたしをひとりぼっちにしないでよ!」


 怒鳴ってしまった声が、裏返りそうで。

 グサッ、と刃物で突き刺されたみたいな痛みが、心に走った。

 しゃくり上げるたびに、喉も胸も詰まりそうで苦しい。

 智枝だけは傷つけたくなかったのに、どうして我慢できなかったんだろう。

 いつもわたしを支えてくれている手は、こんなにひどいことを言われてもわたしを突き放さない。

「未散様」

 冷静で真剣な呼びかけのあと、智枝のてのひらが、わたしの頬をふわっと包み込む。

 そっと仰向かされて、智枝の顔が近づいてきて。

 二つのくちびるが、やわらかく重なった。

 小さい頃にしたのとは違って、長く触れ合う。智枝はわたしを安心させたいのか、なかなか離れようとしない。涙で濡れてしょっぱいはずなのに。

 まぶたを閉じて身を任せるうちに、呼吸もだんだん落ち着いてきた。

 どれくらいの間、そうしていただろう。

 あたたかいものがすっと離れて、わたしはゆっくり目を開けていく。

 智枝の腕に優しく抱き寄せられて、小振りな胸に自分の顔がくっついた。

わきまえず、恥を捨てて申し上げます」

 切なげに絞り出すような声が、耳に流れ込んでくる。

「私も祭当日までにこの想いを捨てなければならないと覚悟し、今日まで生きて参りました。私の一方的な感情に過ぎないのだから尚更だ、許されないことだと。しかし――」

 わたしを抱く腕の力が、ほんの少し強くなった。

「まさか、あなたまでそんなにも私を求めてくださっていたとは、夢にも思いませんでした。己の鈍さが、本当に憎いです」

「智枝……」

「昔、あなたに同じことをしていただいた時から、私はあなたを一人の女性として密かにお慕いしておりました。それは今も、この先も変わりません」

 智枝のまっすぐな言葉のひとつひとつで、涙が一滴ずつ乾いていく気さえする。

「私もいずれ男性と縁談みあいをして、相手との子を儲け、神職として生きる身です。あなたに想いを打ち明けずに、このまま墓まで持っていくつもりでした。それなのに……あなたが今訴えてくださったことで、己を抑えきれなくなってしまいました」

 苦笑まじりの告白を聞いて、わたしもやっと気がついた。

 ――智枝も、ずっと苦しかったんだ……。

 わたしは、自分でも自分をよくわかっていないまま、ため込んでいたものがこの場で弾けてしまったけど。智枝は違う。わたしへの気持ちを抱え込んで、きっとほかのだれにも相談しないまま、ずっと一緒にいてくれていた。

「しかし、後悔はしておりません。罪深い想いであろうとも、未散様の無念な未練になってしまうよりは、こうしてお伝えできてよかったです」

 今度は、うれしいのと申し訳ないのとでぐちゃぐちゃになった感情が、また涙になってこぼれ出す。

「智枝、ごめんね、ほんとにごめん……っ」

「いいえ、むしろ身に余る光栄です。本日も、可能な限りあなたのおそばにおります」

 決意に満ちた声と眼差しが、心のモヤモヤを晴らしていってくれる。

 手の甲で雑に涙を拭って、わたしはぎこちなく笑った。


「ねぇ……もう一回、して」


 全然物足りない欲張りな自分も、ちょっと嫌になるけど。

 智枝の優しいくちびるを受け止めると、何もかも許された気がして。

 障子を透かす朝の光よりも、抱き合うわたしたちの体温のほうが、ずっとあたたかかった。


   ◆


 鎮花祭の準備は無事に済んで、わたしにとっての最後の夜が来た。

 布団に横になる前、そばに正座している智枝に、またねだる。

「智枝、一緒に寝て。わたしが完璧に眠るまででいいから」

「……承知いたしました。おそばにおります」

 一人分の布団に二人並ぶのは、さすがにちょっと狭いけど。智枝があたたかいから気にならない。

 夜の青い光だけが射す暗い部屋で、智枝に手をつないでもらって。話したいこともたくさんあったはずなのに、伝わってくる体温と息だけでも満足してしまう自分がいた。

 智枝は、ちゃんと生きている。明日も、わたしを棺に納めてくれる。今日までわがままを聞いてくれただけで、充分だ。

 静かな時間だけが流れて、まぶたもだんだん重くなってきた。

「智枝……ありがとう。大好き」

「私も、あなたにお仕えできて本当に幸せでした。おやすみなさいませ」

 甘いささやきにほっとして、目を閉じる。

 周りが真っ暗になったと思ったら、わたしはまた神桜の前にいた。あの夢の続きだ。

 光る花びらがひらひら降って、たくさんの折り鶴がふわふわ飛ぶ中、智枝の姿をした神様が立っている。満足そうに微笑んで。

「神様、こんばんはっ」

「賭けは、おまえにがあるな」

「え?」

 きょとんとするわたしの頬に、神様のお手が添えられる。

「申しただろう。納棺の時までおまえがこの娘を想い続けていられたならば、我が力をおまえに分け与えると」

「あぁ、はい」

「神社の結界にを施しておいた。明日を楽しみにしておれ」

「仕掛け?」

 神様も、疫病神を消す準備をしてくださっていたのかな。

 だったら、もう怖いものなんてない。

 智枝や神社関係者さん、神様を信じて、わたしは棺に入るだけだ。

 神桜の上を飛ぶ折り鶴は、夜空の星さえも隠すくらいの量で、本当に千羽いるのかもしれない。わたしが最後まで作れなかった分、神様が夢で見せてくださっているならうれしい。

「智枝や村の人たちの願いが叶うなら、わたしはそれで幸せです」

「この娘の母親が、その中にいてもか」

「……はい」

 わたしどころか自分の娘にまできつく当たる人だけど、苦しんでほしいとまでは思わない。あの人はあの人で、きっといろんな事情があったんだろうから。

 つい苦笑いしてしまう。

「神様は、やっぱりなんでもお見通しなんですね」

「我が眷属であるおまえの五感を通じ、動きが掴める」

「じゃあ……わたしの胸がチクチク痛んでた理由も、神様ならわかりますか?」

 白い寝間着の胸元を、わたしはきゅっと握る。

「智枝が友達やほかの人と仲良くしてるのを見たら、急にそうなって……自分で自分がわからなくて、怖かったんです」

「ただの嫉妬だ」

「しっと?」

「この娘をられる、とおまえは思うたのではないか?」

「そう、ですね。智枝が、ほかのだれかのところに行ってしまうのが嫌で」

「ゆえに、おまえは我からすれば面白い」

 本気で楽しそうな笑顔で、神様はお話を続ける。

「おまえは、己の欲や心にもまことに従順だ。おまえを通じて見る現世うつしよは飽きぬ」

 わたしはわたしのままでいいんだ、と言ってもらえている気がした。

「ただの糧とするには惜しい。おまえには、我が国の導きを任せよう」

「導く……わたしが、ですか?」

「明日、現世は――千里花チリハナ村は変わる。時を待て、桜憑き」

 ざぁっ、と強い夜風が吹いて、桜の花びらや折り鶴が吹き飛ばされていく。

 神様のお言葉の意味がわからないまま、わたしはじっと目をつぶって風に耐えた。


   ◆


 そして、鎮花祭本番の朝が来た。

 わたしは最後のわがままで、智枝にいつも通り髪を整えてもらった。くしを動かしたり髪を三つ編みにしてくれたりするきれいな指は、昨日まで以上に丁寧で心がこもっている感じがした。

 智枝のお母さんが、わたしたちをにらんでいるのが鏡の角度で見えたけど、知らないふりをした。

「未散様、いかがでしょうか」

「うん、最高。きれいにしてくれてありがとう、智枝」

 いつものやり取りも、これが最後。

 微笑んで目礼した智枝と入れ替わるように、年配の巫女さんたちがわたしを囲む。

 目の周りとくちびるに紅を薄く塗ってもらって、白粉おしろいも肌につけられて、お化粧は終わり。

 死装束しにしょうぞくの着付けのあと、帯に懐刀も差して、準備はあっという間に済んだ。

 井戸の御神水を柄杓ひしゃくですくって一口飲んでから、巫女さんたちに連れられて神桜カンザクラへ向かった。

 宮司ぐうじ様や禰宜ねぎの人たちが唱える祝詞のりとが、途切れることなく境内けいだいに響いている。

 神桜の枝には、もうほとんど花びらが付いていないけど。わたしを出迎えてくれるみたいに、樹は青空の下で高くまっすぐ立っている。

 深く掘られた穴の前に、白い棺が置かれていて。その中には、いい香りのするたくさんの花が詰められていた。千里花村の人たちが選んでくれたらしい。

 ――こんなにきれいな花のお布団に、わたしが寝ていいのかな。

 もったいない気もしながら、巫女さんたちの手を借りて仰向けになった。

 それから、神職の人たちが一人ずつ、棺に白い折り鶴を入れてくれる。わたしが無事に桜の神様のもとへ旅立てるように。

 智枝が鶴を入れる番が来た時、わたしは口の形だけでこっそり伝えた。


 ――ありがとう、元気でね。


 本人はちょっと困ったように微笑んで、目礼してくれる。

 昨日は本当に、わたしが眠るまで智枝はほとんど付きっきりでいてくれた。お母さんにも、きっと怒られただろうに。怖い夢を視ないようにって、布団に横になったわたしの手をずっと握ってくれた。

 もうだいじょうぶ。未練なんてない。

 青空に光るお日様みたいに、明るくてすっきりした気分になっていた。

 棺のふたが閉められると真っ暗になって、一気に夜が来たみたい。

 ――桜の神様。どうか疫病神をやっつけて、千里花村の人たちを幸せにしてください。

 わたしで最後になりますように。これからまただれかが桜憑きになって、関わる人たちがさびしくて悲しい思いをしませんように。

 目をつぶって祈っていた時。

 女の人の甲高かんだかい悲鳴が、儀式の空気を切り裂いた。

「えっ、なに……?」

 思わず、声を漏らしてしまう。

 言い争うような声も聞こえてきて、よくない雰囲気になっていることだけは伝わってきた。

 まだ釘打ちをされていなかったふたが、不意に持ち上げられる。

「未散様、お逃げくだ――」

 やけに焦った智枝が、わたしに呼びかけた瞬間。

 空が、真っ赤に染まった。

 違う。智枝の体が傾いて、棺の中に倒れ込んでくる。

 びしゃり、と。わたしの顔に、生温かいものがかかった。

 抱きとめた智枝の背中に触ったら、ぬるりと変な感触がした。

 花の香りが打ち消されてしまうくらいの、このひどい臭いは――。

 頭で理解する前に、わたしは見てしまった。

 白目を剥いた徒花アダバナが、土気色で血まみれの腕を振り下ろそうとしているのを。


「いやぁああぁあぁあぁぁあッ!!」


 こんなの嘘。きっと悪い夢。だって、神社には結界が張られている。徒花が入ってこられるはずがない。

 おでこのあざが、いきなり熱くなり始めて。

 叫ぶうちに、周りの景色が真っ暗闇に覆われていった。

「時は来たぞ、桜憑き」

 頭の中に、神様の声が聞こえてくる。

「ついに我が悲願が叶う。彼奴きゃつを滅ぼし、この地を『常世とこよ』とするのだ」

 徒花の体を覆っていく神桜の花びらが、混乱する目に映り込んだ。

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