手折られぬ枝

 絢芽あやめ神社の鳥居を抜け、長い石段を駆け下りて私は親友の自宅へと急いだ。両腕に着けた紅い籠手こても、たずさえた脇差かたなも、雪駄せったを履いた足も、普段以上に重く感じる。

 田畑の続く道を、ひたすら駆け抜けた。いつもなら早朝から農作業をしている住民の姿も、今はない。『徒花アダバナ』が現れると、皆自宅に避難する。

 目的地である民家の周辺は、既に物々しい空気に包まれていた。時折外に漏れ聞こえる獣じみた奇声は、確かに親友の祖母のそれだった。家具が破壊される音も響いてくる。

 刀の柄を握った私に、親友が背後から訴えてきた。

智枝ともえ、お願い……おばあちゃんを斬って」

「だが――」

「おばあちゃんも、智枝にとどめを刺されるなら幸せだと思うから」

 神社に私を呼びに来た時点で、覚悟は決まっていたのだろう。

 親友は呼吸を整えながら、切なげに微笑んだ。

「おばあちゃんを、楽にしてあげて」

「……わかった」

 私の到着時点でも事態が収拾していないのなら、殺芽衆あやめしゅうの仲間も苦戦しているはずだ。私が攻撃できる隙があるかはわからないが、やれるだけのことはやる。

 ――徒花に成り果てた者を、人間ヒトとは思うな。

 母からも、剣術の師である殺芽衆の御頭おかしらからも、そう言い聞かされてきた。

 できるだけ離れて待つよう親友に伝え、私は玄関へと走った。

 開け放たれた引き戸の暗がりで、何かがうごめく。

 抜刀して踏み込んだ直後、廊下の奥から勢いよく飛びかかってきたものを、即座に斬り払った。

 血飛沫ちしぶきが宙に散り、相手が壁に叩きつけられる。

 反撃の隙を与えず、私は心臓めがけて刃を突き立てた。

 徒花は元々白目を剥くものだが、ぎょろぎょろと動く眼球も痛々しい。しわの目立つ口からは、泡立った血まじりの唾液があふれ続ける。

 苦痛に藻掻もがくその身体が動かなくなるまで、私は深く深く、背を突き破らんばかりに刺し貫いていく。鉄錆じみた臭いが、空気をさらに澱ませた。

 土気色に変色し、くうを引っ掻いていた老女の腕が、糸が切れたようにだらりと下がる。

「智枝!」

「問題ありません、御頭。沈黙しました」

 奥の部屋から出てきた黒装束姿の中年男性に、私は冷静に答える。

 最期まで人間としての表情を取り戻すことのないまま、相手はかくんと項垂うなだれた。


「おばあ様……本当に、お世話になりました。どうか安らかに」


 目を伏せた私は、亡骸なきがらにささやいてゆっくりと刀を抜く。

 ズルズルとくずおれた小柄な遺体に、御頭が屈んで黙祷した。

「すまんな、智枝。つらかっただろう」

「……はい。皆さんにお怪我は?」

「若い奴が何人か食らったが、軽傷だ。救急車とご住職も、じきに来る」

「そうですか、よかったです」

「後のことは俺たちに任せろ。おまえは早く未散みちる様のところに戻れ」

「しかし――」

「祭の準備もあるだろう。おまえは巫女も兼ねてるんだから、けがれに長く触れる必要もない」

「……承知いたしました。お気遣い、痛み入ります」

 徒花として死亡した者は、通常の葬儀は行われず、千里花チリハナ村唯一の寺の墓地に無縁仏として合祀ごうしされる。おばあ様の遺骨も、ご遺族には渡らない。徒花になった時点で、疫病神やくびょうがみの『穢れ』として扱われてしまうためだ。

 御頭に一礼し、私は外へ出た。救急車のサイレンが近づいてくる。

 懐紙を口にくわえ、刀身に付いた血や脂を布で拭き取っていく。

 刀を鞘に納めると、親友が駆け寄ってきた。

「智枝ッ」

 私が返事をする前に、彼女は抱きついて肩に顔をうずめる。

「ありがとう……!」

 涙声の感謝に、私は無言でうなずいてそっと抱き返すことしかできない。

 私の巫女装束の小袖は、一般的なそれとは違って白衣びゃくえではなく黒だ。徒花との戦闘による返り血や、自分の出血を目立たなくするための配色。

 血の臭いがする私にためらいもせず触れてくる親友も、昔から変わらない。汚れるぞ、と私が苦笑しても離れようとしなかった。

 彼女がしゃくり上げる声を聴きながら、私は昔のことを思い出した。


 村の分校に入学したばかりの頃、私はすぐ親友に話しかけられて打ち解けた。

 一日の授業が終わったらすぐ帰宅するよう母には言われていたが、親友は私と遊びたがり、ある日家へ連れて行かれた。

「あなたが智枝ちゃん? いらっしゃい、よく来たね」

 当時のおばあ様も、温かく出迎えてくださった。親友の両親は村役場で働いているからと、一部の家事は彼女とおばあ様がこなしていたらしい。

 居間に案内されると、おばあ様が牡丹餅ぼたもちを出してくださった。

「これ、私が作ったの。桜餅にしようかなとも思ったんだけど、それは鎮花祭はなしずめのまつりでも出されるからね。よかったら食べて」

「あの……すみません」

「なぁに?」

「よそのお宅で出されたものは食べるなと、母が……」

「あらまあ、そうなの? 神社関係のお家なのは知ってるけど、随分厳しいんだね」

 おばあ様は目をまるくしたが、優しく微笑んでくださった。

「でも、せっかく遊びに来てくれたんだもの。一口だけでもいいから、食べてみて」

「おばあちゃんのぼたもち、ほんとにおいしいんだよ」

 隣で親友が満足気に味わっているのを見て、私はおずおずと牡丹餅に手を伸ばした。

「……いただきます」

 一口かじると、餅の食感やこし餡の甘さが、舌の上に広がって。その味以上に、何だかとてもあたたかいものを感じ取り、気づけば目が潤んでいた。

「あらあら、どうしたの? もしかして、まずかった?」

 不安げなおばあ様の問いかけに、私はぶんぶんと首を横に振った。

「きっと、泣いちゃうくらいおいしかったんだよ。ね?」

「そうだといいけど。智枝ちゃん、ありがとうね」

 こくこくとうなずき、牡丹餅をそのまま噛み続けて結局一個完食してしまった。

「ごちそうさまでした」

 涙を拭って手を合わせた私は、自然と笑顔になっていた。

「あ、ともえが笑ったー」

「智枝ちゃん、学校じゃ笑わないの?」

「うん。写真をとるときも、ぜんぜんにこにこしないし」

「もったいないねぇ。美人さんなんだし、笑ったほうが絶対可愛いよ」

 ――桜憑きには情を移すな。他者には隙を見せるな。

 母に叩き込まれた教えも、この場では気にしなくていいのだと安心できた。

 そして、気づいてしまった。

 母の手料理にいつも味を感じないのは、おばあ様の牡丹餅に込められていたようなが一切ないせいだと。


   ◆


 笑うことも泣くことも我慢しなくていいのだと教えてくださったのは、未散様もだ。

 母に連れられ、初めてお部屋に通された時、ご本人はぱっとお顔を明るくして私に駆け寄ってきた。ぱたぱたと畳を踏む足音が、静かな夜気によく響いた。

「あなたがわたしのおせわしてくれるの!?」

「え、は、はいっ。お初にお目にかかります」

 がしっと両手を握られ、当時十歳の私は思わずたじろいでしまったが。あまりにも無邪気な笑顔を前にして、緊張感は消し飛んでいった。

 まさか、桜憑きが自分と歳も近そうな女の子だなんて。分校の男子たちが見たら、一目で釘付けになってしまいそうな可憐さだった。

「未散様、お部屋の中でも走らないようにと――」

「だってうれしいんだもん」

 母の小言もさらりと受け流し、未散様は私の手を引いて鏡台の前に座らせてくださった。

「おでこのさくらのアザ、見える?」

「はい」

「これね、わたしがさわるのはだいじょうぶなんだけど、ほかの人がさわろうとすると、手がすっごくいたくなっちゃうんだって」

「はい、母から聞きました」

「あ、もうしってるんだ。あのね、わたし、かみの毛を三つあみにしてもらってるんだけど。明日からは、あなたにやってほしいなぁ」

「かしこまりました。私でよろしければ、喜んで」

「やったぁ、えへへ」

 本気で嬉しげな表情と声に、私もつられてつい笑ってしまった。

 だが、母はそれも当然厳しく見咎みとがめた。

「智枝、桜憑きの御前でだらしないですよ」

「……申し訳ございません、母上」

「そんなにおこんないであげて」

「未散様も甘やかさないでください。私どもはあなたをお守りする者であり、家族や友ではないと――」

「それ、たくさんきいてるよ。もうあきちゃった」

 母に逆らえない私とは違い、未散様は不満を率直にぶつけておられた。それがうらやましくもあり、同時に潔さに憧れもした。神桜に選ばれて加護を受けた桜憑きのほうが、神職者よりも立場が上だというのもあるだろうが。

 桜憑きが母のようにあまりにも厳格な人物だったら、私も初対面時から心が折れていたかもしれない。

 未散様は私に振り向き、うきうきとした笑みになられた。


「あなたと会えるの、ずーっとわくわくしてたんだ。今日からなかよくしようね、ともえ」

「こちらこそ……よろしくお願いいたします、未散様」


 桜憑きは、千里花村を疫病神の災厄から護るためのにえだと教えられてきたが。私の目には、未散様も同じ一人の人間として映った。

 口許が緩みそうになるのをどうにかこらえながら、私も穏やかな心地で三つ指をついたのだった。


 未散様との交流は、私が二十歳になった今も、幸い大きな揉め事もなく続いてきた。だが、それもあと一週間で終わりを迎える。

 桜憑きは、神桜の下に埋められる前に、現世うつしよの未練を断ち切らなければならない。私の存在も、その未練の一つになってはいけない。

 それなのに、あふれる涙とともに思い出してしまう。未散様にたわむれにキスされたあの日から、彼女のことを考えない時なんてほぼなかった。

 未散様は、何があろうと常に私のすべてを受け止めてくださる。それでも、そのお優しさに依存してはならない。神桜のもとへ召される彼女を見送るのも、私の務めなのだから。

 吹っ切るように深く息をつき、うつむいていた顔をゆっくりと上げる。

 背を撫でてくださっていた未散様の手が、止まった。

「落ち着いた?」

「はい。ありがとうございました」

「目、冷やさないとれちゃうね」

 あどけない親指が、私の下瞼したまぶたをそっとなぞる。

 私を見上げる未散様の瞳も、愁いを帯びていた。

「徒花の出る位置とか時間とかわかる力が、わたしにあればよかったんだけど……ごめんね」

「未散様が謝られることではございません。こうして慰めていただけるだけでも、もったいなき幸せです」

「智枝が元気でいるのが、わたしも一番だから。今日も無事に帰ってきてくれて、ありがとう」

 この御方の肌や言葉のぬくもりに一時でも甘えられることが、どれほど救いで至福か。

 ご厚意で折り鶴を一羽いただき、私は膳を台所へ運んでいった。

「遅いですよ。何を手間取っていたのですか」

「申し訳ございません、母上」

 予想通りの母の非難を受け流し、食器を流しに置いていく。

 洗い物の水音も、母の怒りを流してはくれない。もう慣れ切ったが、未散様のお部屋とそれ以外の場所で感じる空気が違いすぎて、分校卒業までは呼吸するのも重苦しかった。

「まあ、今朝の徒花討伐はよくやりました。御頭もお褒めくださったでしょう」

「……はい」

「だからといって、祭当日まで決して気を抜かないように。我が家の名と身分に恥じない行動を」

「心得ております」

 本当に、母の定型句は聞き飽きている。褒め言葉に感情が乗らないのも元々だ。私ではなく家の手柄だと、母は純粋に考えているのだから。

 もし、家系が絢芽神社の社家の一つでなければ、私たちは今頃どんな生活を送っていたのだろうか。その場合、未散様とはこんなにも親しくなれなかったかもしれないし、顔も知らない父にも会えたかもしれない。

 無意味だとわかっていても、別の未来を想像してしまう。

 千里花村の住民に憑依して人間や神桜を滅ぼそうとする疫病神は、病というより呪いに近い。

 医学が発達したこの時代にまで、桜憑きを犠牲にする必要が本当にあるのか。人柱を二十年おきに地に埋めても疫病神が猛威を振るい、住民を徒花に変えていくのなら、ほかにも対抗手段があるのではないか。

 昔から抱いている疑問も、口に出すことは当然許されない。村の掟と慣習は絶対だ。

 食器の表面を滑る水滴よりも、背後に立つ母の視線のほうが余程冷たい。

 後片付けを済ませ、私は自室へ戻った。

 本棚から一冊の大学ノートを取り、机上で開く。千里花村の民俗について、自分なりにまとめているものだ。

 桜憑きが神桜のもとに送られなかった場合、儀式は失敗となり、神桜の地中深くにあるとされる黄泉の国への門が開く。そこからあふれ出る瘴気が住民の生気を根こそぎ奪い、村は滅ぶ。

 宮司ぐうじ様からも母からも、そう教わっていた。

 歴代の桜憑きは、老若男女問わず『未散』と名付けられることも。

 千里花村の外に何があるのかも。

 鎮花祭開催前日までに該当候補者が存在しない場合、外部からの客人等を応急処置的に生贄いけにえとして埋める場合もあることも。

 その際、神桜の御力が弱まり、例年よりも徒花の出現率が上がっていたことも。

 未散様は、一切知らされない。知る必要がないと判断されているために。

 吐きかけたため息を喉の奥へ押しやり、別のノートに今朝の徒花討伐について記録し始める。

 その最中、部屋の外から話し声が聞こえてきた。

「宮司様、お待ちくださいッ」

「もう話は済んだだろう。わしの意見は変わらんよ」

 母と宮司様だ。ボールペンを動かす手が止まる。

「智枝くんも、自分で考えて行動できる歳だ。君が言うほど、あの子の様子がおかしいとは思わんがね」

「ですが、必要以上に未散様と触れ合う時間が増えているのは事実です」

「未散様が、それだけ智枝くんを信頼しておられるからだろう。儀式のご不安も取り除けるのだから、良いことじゃないか」

 母の苦言も想定内だし、宮司様が穏やかにたしなめてくださるのもいつも通りだ。

 宮司様のゆったりとした足音が、部屋の引き戸に近づいてきた。

「智枝くん」

「っ、はい」

「あぁ、そのままで構わんよ」

 礼儀として、私は引き戸に身体を向けて座布団に正座し直す。

「殺芽衆の活動も含め、君は立派に務めを果たしてくれておる。重圧もあるだろうが、気負わんでいいからな」

「ありがとうございます。今後も誠心誠意励みます」

 遠ざかっていく二人分の足音を聞きながら、膝の上で拳を固めた。


 私は――何と無力なのだろう。


   ◆


 巫女の業務を終えて夕食前、未散様を呼びに行った。

「未散様、湯浴ゆあみのお時間です」

「はーいっ」

 開いた引き戸からは、ご機嫌なご本人が顔を出す。一日の中で一番長く私といられる時間だからと、いつも喜んでいた。

 脱衣室から浴室にかけては、ひのきの香りが濃くなる。

 未散様の白装束を脱がせると、ご本人が肩越しに見上げてきた。

「今日は、智枝も一緒にお風呂にかろうよ」

「私は、戻ってからすぐ入浴しましたので」

「だめ?」

 桜憑きの湯浴みでは、本人の髪や身体を洗うのが、世話をする巫女の務めだが。

 普段はねだらないのに、何かあったのだろうか。

 上目遣いで訊かれるとどうにも断りづらく、私は微苦笑して承諾した。

「承知いたしました。ご一緒いたしましょう」

「やった、ありがとうっ」

 何だかんだ言っても、未散様の花笑みに弱い。

 作務衣さむえや下着を脱いで畳み、未散様に続いて浴室に入る。

 木製の風呂椅子に座った彼女の背中を、石鹸せっけんを泡立てた手拭いで丁寧に洗っていく。原料になっている薬草――忍冬すいかずらの甘い香りが漂った。

 鎮花祭に特殊神饌しんせんとして供えられ、疫病除けの酒にもなるそれは、神桜と並ぶ千里花村の名物でもあった。

「お風呂場で二人っきりになれたのって、智枝が分校を卒業してからだよね」

「そうでしたね」

「やっぱり、智枝が一番いいなぁ。髪を結んでもらうのも、体を洗ってもらうのも」

 寄りかかるように、未散様の身体がこちらに傾く。小振りな私の胸が背もたれ代わりになり、泡に包まれたやわらかな肌と触れ合った。

「ねぇ、手拭いじゃなくて智枝の手で洗って」

「は?」

 思わぬ提案を耳にして、手拭いが落ちかけた。

「そのほうが、お互いもっと気持ちいいかなって」

「未散様……何かありましたか」

「ないよ。でも、今日の智枝はいつもより大変だっただろうし、疲れを取って欲しいから」

 にこやかにさらりと答える未散様の言葉は、冗談には聞こえない。

「触れ合うのは、せめて湯船に浸かるまではお待ちください」

「えぇー」

 不満の声も、どこか楽しげだ。

 出会ったばかりの頃に比べると、互いの肉体も年々成熟してきている。それが目に見えてわかるからこそ、身分や立場をわきまえて理性を保っているのに。

 ――これ以上を望むなんて、贅沢ぜいたくすぎる。

 風呂桶の湯を、未散様の肌にゆっくりとかけた。泡とともに、己の煩悩も流れてくれたらいいのに。

 髪も洗い終えて浴槽に向かい合って入ると、ふちから湯がいくらかあふれていく。

 未散様がすぐに身を寄せてきて、豊かな胸が私のそれと密着した。背中に両腕が回され、肩甲骨の辺りを撫でられて。

 和装越しに抱き合うのとは別の感覚と弾力に、不覚にも身が強張こわばる。

「ね、ぎゅーってして」

 ねだる未散様の表情がやけになまめかしく見えるのは、立ち昇る湯気のせいではない。

 こんな笑い方をする御方ではないはずなのに。

 違和感が拭えないものの、拒む理由も見つからない。促されるまま、両腕を彼女の細い腰に回す。やんわりと抱き込めば、もっと強くして、と耳元でささやかれて。湯の中なのに、背筋がぞくりとする。それが悪寒ではなく快感だった実感に、狼狽うろたえかけた。

「智枝、どきどきしてる?」

「からかわないでください」

「からかってないよ。うれしいんだもん」

 三つ編みを解いて下ろされた未散様の黒髪も、さらに艶めいて見える。

「やっぱり、お風呂でくっついたほうが、ずっとあったかいね」

「そうですね」

「未練を断ち切らなきゃいけないし、やりたいことは今のうちにやっときたくて」

「これも、その一つですか」

「うん。智枝の体、筋肉もしっかり付いて引き締まっててかっこいいよね。わたし、お腹もぷにぷにだもんなぁ」

 未散様の片手が、私の腹部をゆるりとさする。

「背も低いのに、胸ばっかり大きくなっちゃったし。でも、智枝が触ってくれるからいっか」

 檜と石鹸の香りも、互いの体温と湯の温度も、思考まで甘く溶かしていくようで。

 未散様の僅かな身動みじろぎで、二対の膨らみが揺れて擦れ合う。その緩やかな刺激にさえ、下腹部が鈍くうずき出す。


 今ならば、許されるだろうか。

 幼いあの日のように、未散様と唇を重ねることも。

 それ以外の部位に触れて慰めることも。


 頭の片隅で警鐘が鳴る。欲望に流されるな、と。

 だが、未散様の腰を支えていた両手は、脇腹をゆっくりと撫で上げる。

 そのまま掌で胸をすくい上げるように包めば、耳元でご本人の甘い声がこぼれた。

「あ……っ」

「未散様」

 たがが外れそうな理性を抑えつけながら、淡々と呼びかける。

「私は本来、あなたにこのような触れ方をすることも許されない身です。それはおわかりですね」

「うん……」

「しかし、今はあなたのご要望に従いましょう。桜憑きとしての御役目を、ご立派に果たされるために」

 儀式成功のため、神桜と村のためという大義名分で、私欲を押し隠す。あくまでも侍従としての務めなのだと振る舞う。

 それでも、未散様は満足気に微笑んだ。

「うん。ありがとう、智枝」

 ――本当に卑怯だな、私は。

 胸中の自嘲も、湯気のようにすぐ消えてはくれない。


 本当の意味で未散様を救うことなど、所詮どう足掻あがいてもできはしないのだ。

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