千百五十九号書架 み 二千百五区 七百十二番 六千五百九十二巻 三百十九頁 三千百十四章 四百三節「ヴンダーカンマーの断絶」

 箱庭。箱舟。宝箱。

 増殖し変容する万物の蒐集館、ヴンダーカンマーはそのように評される。

 この領域を成り立たせ、また存続させ続けている根拠は何か。

 そう尋ねられたら、迷いなくこう応える。

 ヒトとモノの蜜月、モノとヒトの親愛。それに他ならないと。

 正確に言えば、あの事件に直面する前の私であれば、だが。

 私――かなり希少な出自を持つ私にとっては深い後悔を伴う記憶となっている、そして未だに心の整理のつかないままでいる、あの事件。

 それをここに記そうと思う。

 とある「宝石」と、それを巡って繰り広げられた、ヒトとモノとの断絶の話を。


 その前に、まずは自己紹介をしよう。

 私は杜都とつ。箱庭、箱舟、宝箱――囲われたモノたちの館に暮らしている。

 ヒトとモノの境を歩く、自動人形オートマータだ。


 ヴンダーカンマーの二人の博物士は、このところ出張続きだ。

 引きこもるといつまでも出てこない、一度出ていくといつまでも帰ってこない。相変わらず行動が極端な人たちだ。時折、思い出したように様子を知らせてくるので特に心配はしていないけれど。

 しかしそうなると、今度は彼らが帰館したときのことが気がかりだ。

 考えるほどに嫌な予感が頭から離れず、留守番のかたわら毎日バックヤードに出入りしている。廊下に面して延々と続く無数の資料室には、それぞれ展示室に収まり切らなかったコレクションが大量に保管されている。むしろこちら側こそヴンダーカンマーの真髄と呼べるのかもしれない。

 当然、それら展示室をひとつひとつ覗いていれば、何をそんなに熱心に探しているのかと

「いや、先生たちがまた何か持ってくる気がしてさ、空きスペースを」

 正直に応えると、こちらを遮ってサラウンドの抗議の声が響き渡った。

 ――冗談でしょ、まだ何か持ち込む気なの?

 ――これ以上は無理だって! このあいだ棚が崩れかけたの見ただろ?

「無茶言ってるのはわかってる。だけど蒐集癖が服着て歩いてるようなヒトたちだよ? こっちが何を言おうが聴いてくれるはずないでしょ」

 ――それはそうなんだけどねえ

 ――まあ彼らのことだからな、杜都の言うこともわかるが

 ――もうどの部屋も限界だよ。そろそろ資料室を増やしてもらえないかな

「もう何度も頼んでるよ……先生たちもモノだけじゃなくて、部屋ハコを持ってきてくれれば良いのにね」

 ――ああ、石の部屋みたいに?

 ――綺麗よねえ、あの部屋。わたしも棲みたいわ

「ああいう良い感じの部屋がめちゃくちゃあったらなあ」

 ――杜都、大丈夫? なんか語彙が減ってるよ?

 ――今日はもう寝ちまえ。お前さん働き過ぎだよ

「おかげさまで今日も忙しかったからね……おーい、今何時?」

 ――閉館三分前

 部屋の隅にまっすぐ立つ、古びた柱時計がすかさず

「ああ、今日もまたきっちり働いてしまった。諸君、忠実な自動人形オートマータに一言」

 額縁のなかからロココ調の貴婦人がスカートを摘まんで、渡した棚板に座ったタヌキが尻尾を振って、かつては大学の教材だった歯車たちが噛み合いながら、シカの頭骨が巨大な角を振りながら、ため息交じりに両手を広げた私へと一斉に声を揃えた。

 ――おつかれさまでした

「ありがとう、友人たち。それでは」

 休息の時間だ、と言葉は続くはずだった。

 無粋なベルの音が埃っぽい空気を切り裂くまでは。

「……それでは、楽しい楽しい残業の時間だ」

 古びた天鵞絨張りの椅子さえもが項垂れたように見えた。

 ――時は金なりとよく言ったものだ。ただし、他人の時間はその限りではないそうだがね

 ウイスキーの島から来た工学師の胸像がにやりと笑うのに鼻を鳴らし、部屋を横切る。ここはもうひとつ励ましが必要そうだった。

「諸君、忠実な自動人形オートマータにもう一言」

 ――えらいぞ!

 ――さっさと追い返しちゃえ

 ――終わったらしっかり休むんだよ

 ――まあ頑張っておいで

「ありがとう、友人たち。ではおやすみ」

 半分自棄になって優雅に一礼し、扉を閉めた。薄暗い廊下を急ぐ。

「定時間際に仕事を振ってはいけないって、義務教育で教えておいてほしいな」

 資料室に入り切らず通路まであふれたコレクションたちの、独り言に苦笑する気配がさざ波のように伝わってくる。

 ――いってらっしゃい、杜都

 小さな声に目をやれば、キャビネットケースから薄青い鉱石のひと欠片が合図するように光った。

「うん。行ってくるよ」

 埃避けの白衣を肩から落とし、パーカーの裾を払えば、バックヤードの出口はすぐそこだ。

 展示室をひとつふたつ、もうひとつ抜けて、第一展示室を兼ねたエントランスホールへ辿り着く。巨大なマチカネワニの骨格標本を見上げていた人影が見えた。

こちらの足音に気づいて振り向く。

「ここの職員の方かしら?」

「ええ、そうです。いらっしゃいませ」

 老年、おそらくは七十を数えたと思われる女性は、私の返答に優雅に頷いた。ゆったりとした口調、そして上等な身なりが相まってちょっとした貴族に見える。派手さはないがひと目で高級とわかる作りのワンピース。暗色のストッキングに包まれた足には贅肉のかけらもない。帽子から垂れるレースは、撚った夜を編み上げたように繊細だ。

 全身に黒をまとうその人の、弧を描く唇だけが嘘のように、血のように赤い。

 やはり私はとっとと博物士の資格を取るべきだ。独立してここを離れ、自分で客を選べるような仕事に就く。そのほうがずっと幸せだ。

 この蒐集館に喪服を着て現れるヒトなんて、私の手に負えるわけがない。

「可愛らしいキュレーターさんね。でも甘ったるくない。あなたは……」

 問いは言葉にならず表情で示される。またそれか。もう何度目だろう。

 自分の性別なんてどうでもいい。だからあなたに話す気もない。

 もちろん、本当にそう言えば角が立つことくらい知っている。だからいつもの定型文でした。

「お客さまの感覚こそが正解です」

 その返答に満足したらしく、目を細めて再び鷹揚に頷いた。こちらの苛立ちを敏感に感じ取ったらしいマチカネワニが空っぽの眼窩で訴えてくる。

 ――気持ちはわかるけど

 きみたちがわかってくれているならもう充分だ。話を続ける。

「当館はまもなく閉館となります。御用でしたら、明日改めて」

「あなたがたにね、寄贈したいものがあるの。とっておきよ」

 老婦人はそよ風めいてこちらを遮り、愛おしそうに自身の胸元を示す。

 淡い、ブルーの光。

 喪服に合わせるアクセサリーといえば、真珠と相場が決まっている。

 ヴンダーカンマーにもいくつか収蔵されていて、どれも高い身分の女性が身に着けていたという来歴の持ち主だ。

 故人をしのぶ涙のたとえ。この老婦人が知らないはずがない。

 だったらなぜ、喪服姿の彼女は青くきらめく宝石をまとっているのか。

「ご紹介いたします。は、わたくしの夫です」

 瞬きひとつぶんの沈黙を実に有効に使ったのち、舞台女優のごとく語り始める。

「遺骨ダイヤモンド、というものをご存知かしら? 遺骨や遺灰から炭素を取り出して、それを合成してダイヤモンドを作るんです」

 周囲の気配がわずかに張り詰めた。モノたちは耳が良い。ヒト同士の話など、多少距離があっても耳元で語りかけるように聴こえている。

「もう去年のことになりますわ……美しい山脈の国に工場がありますの。そこに遺骨を持っていきました……最高の二人旅でしたわ。山も湖も本当に美しくて、穏やかで……」

 老婦人はうっとりと思い出を語る。透き通った目が遠くを見ている。ここではないどこかを。

「だから、お別れするときは辛かった。海の向こうに夫を置き去りにするんですもの。僕たちはいつも一緒だと夫は言っておりましたし、わたくしもそう信じていましたから。ですけど、工場の方も必ず最高のダイヤモンドをお渡ししますとお約束してくださって。とっても心強かったわ。それで、夫に必ず迎えに来ると約束して、帰国しましたの」

 老婦人は朗々と話す。

「そして先月、今度は二人で帰国しました。すぐに馴染みの職人に仕立てさせて、それ以来ずっと一緒ですのよ」

「……話を整理させてください。お客さまは、私どもに寄贈したいものがあるとおっしゃいましたね。それは」

「ええ。わたくしの夫の骨からできたダイヤモンド。これを寄贈したいの」

 どこかのキャビネットのガラスが割れた、と思った。

 それくらい急激に室内の空気が膨れ上がった。モノと言葉を交わすことのないヒトという生き物には、決して知ることのない圧力で。

 翻訳すると、こうなる。

 ――今すぐそいつを追い返せ!

「ではもうひとつお尋ねします。お客さまがご主人さまの遺骨を宝石に加工したのは、現在そうしていらっしゃるように、常に共にいるためではないのですか? 寄贈されれば、当然ながらそれは叶わなくなります」

「もちろんわかっていますわ。それでもあなたがたに、わたくしの夫を託したいのです。このヴンダーカンマーにね」

「……なぜです」

「わたくし、まもなく死ぬつもりでおりますの」

 老婦人は楽しみにしていた旅行の計画を打ち明けるように、にっこりと笑った。


 天井の染みを数えて数十分を消費し、壁に据えた棚を整理してさらに数十分を消費し、紅茶の在庫をむやみに減らしてもう数十分を消費した。どれだけ逃げたところで現実は何も変わらない、という事実を認識したうえで浪費する時間ほど無駄なものはない。

 ――ねえ杜都

「みなまで言うな」

 ――そろそろ観念したほうが良いんじゃないかな

「みなまで言うなってば」

 作業机の隅、空になったカップの取っ手に、ひらりと青い羽が動いた。

 ――まず先生たちには連絡するべきだよ

「そりゃそうだけどさ。なんて説明する?」

 ――嘘をついても仕方がないよ。あったことをそのまま伝えるしかない

 至極まっとうな意見に余計頭が痛くなった。

「面白がるだけの気がするんだよなあ、あの人たち……」

 ソファで不貞寝して数時間を浪費する作業はいったん中断だ。ため息をひとつ、深々吐いてからタイプライターに向かう。自動筆記機オート・メカニティスムのキーはなめらかに紙を叩き、あっという間に短い文章が書き上がる。署名と、合い言葉代わりの改行四つを添えて送る。するすると飲み込まれ、再び吐き出された紙はまっさらに戻っていた。

「あとは先生たちに丸投げしたいね」

 ――それが無理なのは杜都が一番わかってるでしょ

「ちょうど良いところにいるじゃないか、紅茶淹れてよ」

 ――他人にも無理を強いるのは感心しないなあ

「ヒトじゃないだろきみは」

 呆れ声のオナガミズアオはふわりとカップから飛び立って、緑の触角を揺らしながら私の左手に降りる。

 ――もうひとつ、できることがあるんじゃない?

「なんだよ今日は。ずいぶん急かすじゃないか」

 ――みんなあんなに騒いでるからね。ぼくもそわそわしてるんだよ

「勘弁してくれよ。今回は本当にどうしたらいいかわからん」

 ――失礼

 きりもない会話に割り込む声。

 ――やはり、拙がここへ来たのは迷惑だっただろうか

「いや、ちっとも。そう思っているなら完全に誤解だ」

 ――それなら、良いのだが

 その返答がずいぶんしおらしくて、私は自分のやり取りの無粋さに反省する。

「……でも、不安にさせて悪かった。ごめんね」

 ――気にしないでくれ。投げ捨てられないだけ、ありがたいことだ

 淡いブルーの宝石は健気に、小さく光って応えた。

 先ほどまで、ヴンダーカンマーは上へ下への大騒ぎだった。

 ヒトが周囲のヒトの存在に敏感であるように、モノは他のモノに対し無関心でいられない。それが、死んだヒトの骨で作られた宝石であれば尚更のことだ。

 老婦人が一礼して去るのを見送り、扉をきっちり閉めるまでは待ってくれたが、ため息をつく暇はもらえなかった。

 ――どうして受け取ったんだ!

 ――なんておぞましい。そんなもの早く捨てておしまいよ

 ――そこまで言わなくたっていいだろ。どう見たって彼は被害者だぞ

 ――ねえ、まさかうちで引き取るなんて言わないよね?

 ――渡されたからにはちゃんと面倒を見るべきだよ

「わかったからいっぺんに喋らないで。耳はふたつしかないんだから」

 今にも展示ケースから飛びかかってきそうな剣幕で、ニホンオオカミの剥製がこちらを睨んでいる。正確には、私の手にある小さな箱を。

「なに。文句があるならここで言いなよ」

 ――そいつだけは気に入らない。収蔵は反対だ

「だろうね。でも、それは私が決めることではないよ」

 ヒトの手によって絶滅した生き物、その剥製標本は忌々しげに目を逸らす。

 ――とっととどこかへやってくれ

「わかった」

 立ち去る前に、ひとつ大きく息を吸う。

「みんな言いたいことがあるのはわかってる。でも、まずはここがどんな場所であったか思い出してほしい」

 この世のすべてを収蔵することで、この世をそっくり写し取る。貪欲で傲慢な小世界に、拒否されるべきものなど存在しない。

「最終的な措置は先生たちの判断に委ねる。それまでは、この宝石は私が責任をもって預かる。手出しは一切許可しない。万が一のことがあった場合は」

 目の底に力を入れ、辺りをぐるりと睨みつける。

「もうここに、居場所はないと思いたまえ。以上」

 沈黙を返答と受け取って、その場を離れたのが二時間弱ほど前のことだ。

 ――拙に、協力できることはあるだろうか

 開けたままの布張りの箱から、青いダイヤモンドが控えめに話しかけてくる。

「もちろん。教えてほしいことが山ほどあるからね。でもその前に」

 身を預けたままの背もたれから体を起こして、宝石と真正面から向かい合った。

「まだ名乗ってなかった。私は杜都。ここで働いてる。それから」

 ――……ヒトではない?

「半分正解。ヒトでも、モノでもない。どっちでもある、とも言うね」

 応えると、ダイヤモンドは感慨深げに少し黙って、それから言った。

 ――拙はかつてはヒトであり、今はモノになっている。あなたと少し似ているだろうか

「そう考えたら、少しは気がまぎれる?」

 ――救われる……ような、気がする

「なら、そうすればいいよ。誰も責めはしないから。少なくとも」

 掃除という名の現実逃避によって整頓された室内を両手で示す。

「ここにいる限りは、きみの身の安全は私が保証する」

 ――そうか

 きらりと、また青く輝く。さっきよりも光はほころんでいるように見えた。

 ――ありがとう、杜都どの。よろしく頼む

「こちらこそ。楽しくやろう」

 ノートを開き、万年筆のキャップを外す。小さな青い蛾はそっと私の手を離れ、椅子の背もたれへ移った。

「では、さっそく始めようか」

 ――ああ

 モノが話す。自分はモノと話せる。そう言えば、ファンタジーの読み過ぎだと笑われるのが大抵だ。普通のヒトならそれがごく普通の反応と言える。

 私がそうでないのは、もちろん出自のためだ。自動人形オートマータ。ヒトとモノの境界をそぞろ歩く、考える造形物。

 ヒトとの会話と同じように、モノとの対話を可能とする。

 青いダイヤモンドは静かに、淡々とこちらの質問に応えた。知っていることは詳らかに、知らないことは正直に。順調にインタビューは進んだ。

「なるほど。では、ちょっとおさらいしようか」

 キャップを閉め、書き綴ったページをめくる。

 彼――便宜上こう呼ぶことにする――は間違いなく、老婦人――仁鳴にな氏の夫、路句ろく氏の遺骨から生成された。自分の来歴はしっかり覚えているようだったが、実際に遺骨から鉱物へと変容する際の記憶は曖昧らしい。

「ヒトだって、自分が変化する過程をしっかり認識しているわけではないからね。自分であるという意識が続いているだけで」

 ――そういうものか

「生きることは変わっていくこと、だけどそれを認識しているヒトはあまりにも少ない。だから大抵の場合、生というものをそれの終わりである死の対比としてしか捉えられない。そうだな、白と黒のあいだにある無限の灰色を認識できないのと少し似ているかも」

 ――一理あるような気もするが

「って、先生が言ってた。じゃあ次」

 路句氏は細胞異常による病で亡くなったらしい。運悪く発見が遅くなり、自覚症状が現れたときにはもう手遅れの状態だったようだ。このことはダイヤモンド自身の知識ではなく、仁鳴氏の発言を覚えていただけだと言う。

 ――拙が遺骨そのものであれば、詳しい死因を覚えていたかもしれないが

「仕方ないことだよ。一度は炭素にまで還元されたんでしょう? そこまで姿が変われば、記憶にだって多少変化は出るだろうさ」

 何の気もない返答をしたけれど、ダイヤモンドは考え込むように口を閉ざした。

 ――何なのだろうな、記憶とは

「それがわかったら、私が記憶と思っているものとヒトの記憶が同じかどうか、確かめられるかもしれないね」

 ――確かめて、どうする?

「どうもしないかな」

 ――なぜ?

「自分がヒトかモノかなんて、とっくに考え飽きた。それに、もし記憶の構成が同じだったとして、それは私がヒトであることの証明にはならないし」

 ――……彼女は

「ん?」

 ――彼女は拙を、彼女の夫と同じ存在として認識していた

 ページをめくる。仁鳴氏が、夫の遺骨でダイヤモンドを作ろうと思い至った、その理由。

「愛とはすなわち執着、だっけ。仏陀もうまいことを言ったものだよね」

 何十年と連れ添った相手が突然いなくなる。その絶望を、いや絶望という言葉すら追いつかない底無しの穴。その穴をより深く穿ったのは、他ならぬ愛だ。

 愛が深いほど、その対象がいなくなったときの欠落は大きい。

 ――夫が死んだという事実を、彼女は受け入れることができなかった。彼女にとって彼は消えるはずのない存在だった。彼女の愛そのものだから

「だけどそれは失われてしまった。彼女の現実は崩壊寸前まで追い詰められて、その結果きみが誕生した」

 ――あなたは、どう思う?

「夫の遺骨で宝石を作る老婦人について?」

 ――埋められない空白のために足掻くヒトについて

「わからない。でも強いて言えば、ヒトらしい、かな」

 ――ヒトらしい、か

「ヒトはモノを愛するんだよ。どうしたってね」

 モノはヒトを愛する、とこの言葉は続くのだけれど、それは口に出さなかった。彼に愛せよと迫る権利は誰にもない。無論、私にも。

「こんなものかな。協力ありがとう」

 話を切り上げようとしたところで、ダイヤモンドが言葉を挟む。

 ――もうひとつだけ、尋ねたいことがある

「いいよ。なに?」

 ――路句氏は

 胸に鎮めていたことを打ち明ける重苦しさで、美しい青色がわずかにくすんだ気がした。

 ――彼は、ヒトのまま消えていくこともできたのだろうか?

 本当に尋ねたいことがあるのに、まっすぐにそれへ踏み込めない臆病さを誰が責められるだろう。

 真実はいつだって恐ろしい。ヒトにも、モノにも。

《自分は、生まれるべきではなかったのではないか》

 そう問いたいのであれば、答えはひとつしかない。

 今ここに在る。それだけが真実だから。

「わからないよ」

 蓋を閉じた箱の、なめらかな表面が灯りを受けているのを眺めながら仁鳴氏の言葉を思い返す。

『わたくし、まもなく死ぬつもりでおりますの。六月の半ばに』

 理由を知りたいでしょう、と笑みの皺が語る。

『夫と同じダイヤモンドになりたいから。これ以上ない理由だと思いません?』

『ご自身の遺骨で、再びダイヤモンドを作られる……ということですか』

 仁鳴氏はきゃはは、と声を立てた。少女めいた屈託のなさで。

『夫と同じ、と申し上げましたわ。今度はね、夫とわたくしで、ひとつのダイヤモンドになるのです」

 不意に視界が揺れた、ような気がした。ヴンダーカンマーでの生活のなかで、それなりに度胸がついたつもりでいたけれど、その自負は甘かったようだ。

 甘かった。まったくもって。

「工場の方に教えていただきました。一度作ったのダイヤモンドを砕いて、もう一度……高温高圧、とおっしゃっていたかしら。とにかく、炭素に戻しますの。そこから、また結晶が作れるそうです。そうすれば、ね」

 わたくしたちは、文字通りひとつの永遠になれるでしょう?

 それを展示してほしいの。このヴンダーカンマーに、永遠に。

 ずんと額が重くなって、目頭を押さえる。力の入り過ぎた眉間が凝って痛い。

 わからない、けれどヒトらしい。さっき私は、彼にそう告げた。

 嘘はついていない。

 モノを弄ぶ心理はまるでわからないし、そのエゴが何よりもヒトらしい。

 久しぶりに、心の底からヒトが嫌いになりそうだった。

 それでも私は、ヒトの存在なしで生きていくことはできない。

 なんの結論も出ないまま、時間だけが過ぎていく。


 先に帰ってきたのは比呉先生だった。予想通りひと抱えどころではない荷物を携えている。

「遺跡でも掘り返してきたんですか」

 迎えの言葉もそこそこに感想を述べると、頭を掻きつつ呑気に笑う。

「今回も発見が多くてね。何より、収蔵物は多ければ多いほど良いんだ。これはミュージアムの鉄則だよ」

「先生って、ジュースについてくるおまけとか全種類集めるタイプでしょう」

「あ、わかる? つい凝っちゃってね」

「ついじゃないんですよ本当に」

 てへへと笑っている場合でもない。本当に。

「おまけならまだしもここでは困ります。さっきからバックヤードがうるさくて仕方ないんですよ。先生には聞こえないでしょうが」

 うちは無理だそっちに入れろ、こっちだって無理だあっちにやれ、いい加減にしろ他所にやれ。比呉先生の帰還を通達して以降、延々とこういったやりとりが続いている。放っておけばまもなく暴動になるだろう。

「現実を見てください、先生。この世に存在するモノの数は事実上無限ですが、ヴンダーカンマーの収蔵室は有限です。もはや整理の余地もありません。一刻も早く新たなスペースを確保しないとコレクションを増やすことは不可能ですよ」

「うん、ぼくもそれはよく知ってる。だから今回はね」

 背中の鞄を下ろし、他の包みと同様ぱんぱんに膨らんだなかに手を突っ込んだ。

「とっておきのお土産があるんだ」

 頑丈そうな木の箱から出てきたのは砂色の岩だった。私の拳ほどの大きさで、ごろりと武骨でずっしりと重い。ところどころに焼き色のような褐色の縞模様が走っている。

「なんだか……美味しそうですね」

「そうだね。でも中身はもっと美味しいよ」

 岩を包む比呉先生の手に、ぐっと力が込められた。乾いた音がわずかに立つ。

 現れたのは、極小の氷の国。

 白と透明を行き来する結晶たちが、びっしりと空洞を埋め尽くす。炭酸水の弾ける泡に似て無数に光を跳ね返す。見事な水晶の晶洞ジオードだった。

 ――こんにちは

 ――はじめまして

 ――あなたがそうなの?

 ――このヒトに教えてもらったよ

 ――ぼくらと話ができるって

 ――聴こえる?

「聴こえるよ。ようこそ、ヴンダーカンマーへ」

 笑いざわめく声。結晶の兄弟と姉妹たちが口々に話しかけてくる。

「活きの良い連中ですね」

 お刺身みたいに言わないでよ、と抗議する声を無視しつつ、そう評した。

「そう、彼らはとても元気なんだ。よく見ていてね」

 先生は半分に割れた岩をそっと床に置き距離を取った。私もそれに従い、数歩離れて切り立った結晶たちの輪郭を見つめる。

 ――見たいの?

 ――どうしよっかなあ

 ――見せてほしい?

 ――見せてあげなくもないけどね

 たっぷり嬉しさを含ませた囁きに、ぱきぱきと細かな音が混じり出す。光の粒が吹き上がる。まるで柑橘を搾ったように清々しい。

「ここには無数にモノがいる。きちんとアピールできないと埋もれるだけだよ、文字通りね」

 煽ってやれば、くすくす笑いが一層強くなった。

 ――望むところだよ

 揃えた声を合図に、結晶が

 ぱきぱき、かちかち、きりきりとせわしなく音を立てながら晶洞は巨大化していく。比呉先生の身長さえも軽々と越えて無尽蔵に伸びる。縦へ横へと、草木が奔放に成長する様子を早回しの映像で見ているのに似ている。まるで非現実的な、馬鹿げた光景だった。

「ね、元気でしょう?」

「ちょっと元気過ぎやしませんか」

 わずかではあるけれど、展示室がまるごと振動しているのは気のせいではないはずだ。

「ところで、ほっといていいんですか。これ」

「うーん。まあ、そのうち止まるんじゃ」

 ――杜都助けて! 潰される!

 天井から叫び声が届く。もちろんそれが聴こえたのは私だけで、実際には吊り下がる電球のごりごりと擦れる音が先生の呑気な返事をかき消すばかりだ。

「……ないかな?」

「待て! もういいわかった!」

 ――えー、もういいの?

 ――まだまだできるけど

「展示室を壊すモノやつがあるか!」

 高さは天井を突き破る手前で、幅は近くのキャビネットをもう数センチでぶち破る手前で、ようやく晶洞の成長は止まった。急激な重さに耐えかねた床が軋む。

 一瞬の沈黙を待ち、私は部屋の隅々まで届く声で問いかける。

「諸君、この事態について一言」

 ――馬鹿!

「比呉先生、展示室で危険物を展開した件について一言」

「……すみませんでした」

 モノたちの非難の嵐はしばらく鳴り止まなかった。彼らを宥めるのに骨を折り、また念のため周辺の展示ケースを点検する羽目にもなったため、比呉先生がこの晶洞を持ち帰った理由を知ったのは数時間後のことになった。

「新しい展示室にしようと思うんだ。ちょっと目先が変わって面白いでしょう」

「晶洞のなかに、モノを?」

「そう。それこそ、鉱物標本を置いてみるとかね。とびきり珍しいやつを」

 鉱物標本、の言葉に眉根が寄った。

 巨大な晶洞。新たな展示室に相応しい、とびきり珍しいやつ。

「忘れていませんでしたか」

「もちろん。そのために荷物をひとつ増やしたんだからね」

 そう言い切る比呉先生の顔に、迷いの色は見えない。

 貪欲で傲慢な小世界に、拒否されるべきものなど存在しない。

 底無しの欲の前には、私の苦悩など無意味だろう。ひとつ息をついた。

「現物をお持ちします。詳しい説明は、それを見ながら」

 久しぶりに入った先生の部屋はやはり雑然としていた。机に積み上がる荷物をとりあえず脇に除け、持参した箱を開く。黒い天鵞絨に包まれた石は遠慮がちに光った。

「思っていたよりずっと……青いね。綺麗だ」

 白手袋の指がそっと石を取り上げ、灯りにかざした。ルーペ越しにまじまじと観察する横顔を見ながら経緯を話す。遺骨、老婦人、再結晶、ひとつの永遠。

「新たなダイヤモンドを展示すること自体に、そのご婦人は価値を見出しているわけだ」

「ええ。現実問題としてヴンダーカンマーは安全ですし、何より」

 口元が歪みそうになったのを堪えて、言葉を継いだ。

「永遠になった姿を、自分の愛を万人に誇りたい。そうおっしゃっていました」

 わずかに曇らせてしまった声を聴き逃さず、比呉先生は眉尻を下げる。ダイヤモンドを箱に戻して立ち上がった。

「杜都さんはお茶派だったね」

「ありがとうございます」

 ぽってりとしたマグカップ、その隣りにメダカの柄の湯呑みを並べ、私たちは改めて向かい合う。

「これは確認だけれど」

 黒い液体を静かに啜り、切り出したのは先生のほうだった。

「この世界のあらゆるモノを受け入れる。それがヴンダーカンマーの使命である以上は、今回の寄贈の申し出を断る理由はない。それはいいよね?」

 湯呑みを包む手がじわじわと熱くなるのを感じながら、黙って頷いた。

「だけどそれは、あくまで『物を扱う』場合の話だ。このダイヤモンドは一個の宝石であると同時に故人の遺骨でもある」

「はい」

「そう捉えると、所有権が誰にあるか決めるのは法律のほうだ。ぼくらじゃない。つまり、寄贈後に誰かがダイヤモンドを渡せと要求してくる可能性は大いにあるということだね」

 先生の言うことに筋は通っている。寄贈にあたっては、ヴンダーカンマーの自衛のために早めの手続きが必要、ということだ。

 まったく正しい。実に正しい。含んだ緑茶はいやに苦い。

「先生は」

「うん?」

「この世に存在すべきでなかったモノって、あると思いますか?」

「いいや」

 答えは瞬時に、淀みなく返る。

「物に意味や価値を与えるのはいつだって人間だ。つまりね、人間には常に物の存在を肯定する義務があるということだよ。ぼくは常にそう思ってる。博物士を志したときからね」

 存在を肯定すること。それがあっても良いのだと、宣言すること。

 伏せた目の端に映る青色。

 いつだって、モノはヒトの手のなかにある。ガラスケースに収められるか、焼却炉へ投げ入れられるか、そもそもこの世に生み出されるかどうかすらも、その手が決める。

 自分の存在に対し疑問を――否定と後悔を含んだ――抱いている、この小さな宝石もその運命から逃げられない。

 彼は自ら消えることすら選べないのだ。

「依頼人の連絡先はこちらで控えてあります。貨玖先生に承諾をいただいてから、手続きについて問い合わせてもいいしょうか。……その、寄贈を受け入れる、という方向で」

「ああ、それなんだけどね」

 困ったように頭を掻いて、思いもよらないことを先生は告げた。

「貨玖先生、帰りが遅くなるかもしれない」

「どうしてですか?」

「どうも、統合管理局タルトタタン絡みで何かあったらしいんだよ」

 久しぶりに耳にした名前に、頭痛がぶり返しそうになる。

 管理、効率、集中、統括。

 市民生活の向上を謳い、あらゆる――彼らが言うところの――「無駄」を削減し続ける厄介な連中は、目下あらゆるミュージアムの敵だ。物理的な領域を圧迫し続ける収蔵物は彼らにとって鳥肌が立つほど忌まわしいらしい。接収したモノたちを立体データに変換し、ネットワーク上に保存、公開する。そして用済みになった現物をどうするのかといえば、惜しげもなく廃棄する。

 屈辱的な仕打ちを受けた施設を数えれば、両手では足りない。

 手段と目的が逆転しているという批判を込め、彼らは有名な林檎の焼き菓子の名前で呼ばれる。

 そのような、いわば私たちの天敵である彼らに貨玖先生が対峙している。

 焦がした砂糖よりも苦い顔を互いに見合わせた。

「ものすごく嫌な予感がしますね」

「うん、ぼくも」

 貨玖先生が遅れを取ろうが、逆に彼らが圧倒されようが、どう転んでもろくなことにならないのは明白だ。つまりこれは過激派と過激派が争ったらどうなるかという話に他ならない。

「……では」

「うん。ひとまずは、寄贈の検討のために一時預かる、とだけ伝えればいいよ。返却の要請があればいつでも応じるともね」

「わかりました」

 再度、湯呑みを手に取る。冷めた緑茶はいやに苦く、渋かった。


 来館者が二ダース。収蔵物同士の小競り合いは三件。これに関するものも含め、説教を五回。読書に四時間。お茶を飲んだ回数と雑談に費やした時間は、途中で数えるのをやめた。

 日記帳を閉じた。午前七時半を過ぎ、いつも通りの一日がまもなく終わろうとしている。湯を沸かし、重さが心許なくなってきた茶葉の缶を振って、カップを洗おうと蛇口を捻り、

 ――杜都!

 絶叫に頭を殴られた。

 取り落とした陶器が床で粉々に砕け、それをかき消すほどの轟音が耳の奥に、頭のなかに轟いた。目の前が真っ白になる。

 ――杜都、急いで!

 ――急いで

 ――早く

 ――早く!

 ――扉を閉めて

 ――灯りを落とせ

「どうした!」

 ヴンダーカンマーじゅうのモノたちが一斉に叫ぶ圧力に足元がふらつく。壁に手をついて耐えながら、問いかけた。

 ――あいつらだ

 ――あいつらが来た

 ――助けて、杜都!

 ――

 意識が晴れた。三歩で部屋を横切る。入り口にぶら下げたランプを掴み、飛び出した。

 ――急いで

 ――もうすぐそこだ

 ――早く

 ――通しちゃいけない

 ――門を

 ――灯りを

「わかってる!」

 ひしめく声に怒鳴り返し、力任せにランプを振った。

 ガラスの火屋のなか、仄光る三日月はめちゃくちゃに飛び跳ねる。甲高い悲鳴じみて鳴り渡る。壁に床に天井に、幾度も幾度も反響する。

 それを合図に、館内を満たしていた眠たげな空気が低く震え始めた。

 バックヤードを通り抜けるたび、展示室を駆け抜けるたび、息絶えるように照明が落ちる。すぐ背後で勢いよく扉が閉まる。私の後を追うように暗闇が閉じていく。

 ヴンダーカンマーは絡繰屋敷だ。

 一般の来館者はそもそも存在すら知らない。ごくまれにひと握りの不届き者がこれに気づいて攻略しようと試みれば、徹底的に排除する。そのような不可視の仕掛けが張り巡らされている。

 これは、そのなかのひとつ。そして私が使えるもののうち、もっとも直接的で乱暴なトリックでもある。

 ヴンダーカンマーの非常装置。ひとたび動き出せば、蒐集の館は扉を閉ざし、灯りを落とし、侵入者をありったけの力で拒絶する。

 エントランスホールを目指し全力で走る。展示室を三つ隔てても、そこが既に息詰まるほどの敵意と恐怖に満ちているのを感じた。

 白い床を靴底が擦った。急な減速にバランスを崩しながらも、無様に転ぶのは免れる。

「……まもなく閉館です」

 深く吐いて、乱れた息を整える。

「御用であれば、また後日」

「その後日はいつになるんだろうな」

「分かりかねます。できれば永遠にその日が来ないことを希望しますが」

「同感だ。二度も足を運ぶなんて想像するだけで忌々しい」

「失礼ですが、一度目もなければより好ましかったかと」

「知るか。俺も仕事だ」

 磨き上げた革靴の、爪先が大理石のタイルを叩く。

「上司の命令で来た。預けていたものを返してもらう」

 預けていたもの。

 頭の隅で、冷たく青が光った。

「《統合管理局スーパーバイザー》執行部第三班、管理番号八四九八九六二一六、名を希呼きこ

 短く息を吐き、棒のように細く痩せた男性は名乗る。

 まとったスーツも瞳も、真っ黒に染めながら。

路句ろく執行部主管の、遺骨の返却を要求する」

 懐から取り出した端末が光を放つ。私の手元に蛍光色のワイヤフレームが描写され、やがて一枚の立体映像を編み出した。彼らの活動に際して発行される公式の書類に間違いない。

 ただひとつ気になったのは、その末尾に書かれた名前だ。おそらくこの令書の発行者を指しているところの。

 彼の服はくまなく黒い。喪服を連想するのは簡単だ。死者の使いにふさわしい。

 署名は、確かに路句と読めた。

「《桃源京蒐集室ヴンダーカンマー》所属、博物士教練課程履修生、名を杜都と申します」

 淀んだ瞳を、まっすぐ見つめる。

「収蔵物の移譲にあたって、いくつかお尋ねしたいことがあります」

「必要ない。令書は見せただろ。あんたはとっとと渡せばいい」

「現在、当該収蔵物の所有権は当館が保有しています。また先の令書はこちらの同意のもとに執行されるものです。つまり、我々はあなたがたの要求を拒否することが可能であり、またあなたがたの命令に従う義務もありません」

 力ずくで取り返すつもりなら、そもそも単独で乗り込んでくることはずがない。もし彼が首尾よく私を倒し、目当てのモノを手に入れたとしたところで肉食獣の標本がいくらでもいる。生きて帰れる保証はどこにもない。人体標本になりたいなら話は別だけれど。

 間違いなく、理由がある。彼が一人でここへ現れた理由が。

 しばし睨み合ったのち、希呼氏は鬱陶しそうに息を吐いた。ここで言い争っても意味がないということはわかってもらえたようだ。

「手短にしろよ」

「ありがとうございます。では」

 ランプを再度軽く揺らす。ホールの照明がすうっと絞られ、希呼氏と私だけが丸い光のなかに浮かび上がった。

「まず、返却にあたってあなたの受領資格についてお尋ねします」

 希呼氏の眉間に刻まれた皺が一層深くなった。

「これで二度目だな。は書類もまともに読めないのか?」

 口元を歪ませながら蔑称を呼ぶ。どんな場合も挑発は乗ったほうの負けである。ここに来て間もない頃にきっちり教えられた。よって、聞き流して続ける。

「当初、対象物を当館に持ち込まれたのは仁鳴氏でした。路句氏の奥方と伺っております。であれば、仁氏の了解を得ずに対象物を帯出することはできません。委任状をお持ちであれば承りますが」

 希呼氏の反応は少々予想外だった。

 くくく、と低く這うように、彼は笑ったのだった。

 真っ暗だった瞳にようやくまともな色が浮かぶ。

 憎悪、嫉妬、独占欲。

 そして、何よりも深い絶望。

「六月十九日」

「……は?」

「路句さんの誕生日で、結婚記念日で、ついでにあの糞婆の命日だ。二週間前に死んだんだよ、仁鳴は」

 命日。

 わたくし、まもなく死ぬつもりでおりますの。六月の半ばに

 ただの狂言であったらと何度も考えた。

 寄贈を検討すると連絡して以来、なんの返答もないのを不審に感じてもいた。けれど、まさか本当に。

 再び、手元に光の線が浮かぶ。行政組織による様式、医師による記述。

 実体すらない紙一枚が、仁鳴氏の死を揺るぎなく証明している。

 死因は、服毒。

 思わず天井を仰いだ。

 これ以上深入りしたくなかった。ヒトの思惑など忌々しく厄介で、そして心底どうでもいい。あとはここで私が引き下がればそれで済む。ヴンダーカンマーの構成員として粛々と、つつがなく、仕事をすればいい。

 所詮モノはヒトに消費されて存在を許され、ヒトはモノを消費してその存在を許す。これまでも繰り返され、これからも繰り返されることだ。今さら私ひとり抗ったところで、何かが変わるはずもない。


 そんなわけがあるか。

「ではその仁鳴氏について、いくつかお伺いします」

 希呼氏の表情が露骨に険しくなる。感情を仕舞っておけないなら、刃を入れるだけだ。

「本当はあなたが、彼女を殺したかったのではないですか?」

「は?」

 煙草で燻した喉が、尖った声で剣呑に応えた。

「いえ、よほど仁鳴氏のことがお嫌いなようでしたので」

 返事はない。私は話し続ける。

「ですが彼女のほうが何枚も上手だったようですね。あなたがそこまでの憎悪を募らせていることを当然知っていたでしょう。それでも、あえて放っておいた。あなたのような臆病者が自分を殺せるはずがない、とね」

 希呼氏の蟀谷に青筋が浮かぶ。ずっとポケットに入ったままの右手を目の端で確かめてから、にっこりと笑ってみせた。

「憎い相手も殺せず仕舞い、おまけにこんな使い走り扱い。本当に可哀想ですね、希呼さん」

 衣擦れに合わせ、ほんの少しだけ体をずらした。

 破裂音。

 一瞬のなかの一瞬に響く、裂かれた空気の悲鳴。

 左肩に走った衝撃。

 鼻につく、煙の匂い。

 衝撃はそこそこのものだった。吹き飛ばされずに済んで助かった。

「……当館は危険物の持ち込みを禁止しております」

 残響が残らず消えるのを待って、、ぐるりと腕を回す。

「痛覚はきちんとありますので。それと、こちらは」

 指を差し入れて、引っかかった弾をつまみ出す。ヒトみたいな肉と骨は熱くも冷たくもない。

「お返しします」

 ひしゃげたそれを足元へ放り投げるまで、希呼氏は沈黙していた。

 銃口をこちらへ向けたまま。

「……何者だ、お前」

「しがない博物士見習いです。ところで」

 パーカーの、完全に破れた肩を示しながら首を傾げてみせる。

「この服、結構高かったんです。弁償してもらえますか?」

 深いため息まで、たっぷり四秒待った。再び右手がポケットに消える。

「何がしたい」

「さっきも言った通り、路句氏の遺骨は」

 深呼吸を繰り返す。耐えられないほどではない、それでも痛いものは痛い。

「今はヴンダーカンマーの収蔵物です。しかもモノを適切に保存するのがうちの仕事。だから、まともな理由もなしに気軽に持ち出すわけにいかないんですよ。命令だとか書類だとか、そういうのを抜きにしてね」

 急に砕けた口調になったのを訝しんだのか、希呼氏は眉間に皺を寄せる。

「それがどうした」

「希呼さん、今私を撃ちましたよね」

「……冗談だろ」

「冗談で撃たれるわけないでしょう。痛覚あるって言ったじゃないですか」

 体を張って仕事をする、とは多分意味が違うだろう。もう御免被りたい。

「教えてもらえませんか、あなたのまともな理由。謝罪の代わりにね」

 力なく閉じた目を、承諾の合図と受け取った。

「では質問の続きを。仁鳴氏のことをもう少し」

「……なんだ」

「ときに真実は、遠回りしなければ辿り着かないということです。彼女の死因は服毒とのことでしたが、もう少し詳しい状況をご存知ないですか?」

「ワインに毒を混ぜた。路句さんの生まれた年の、赤」

「なるほど。では次です、仁鳴氏の遺骨は今どちらに?」

「路句さんの屋敷。火葬は済ませた」

「希呼さんは、普段どんなお仕事を?」

「おい。俺の話はいいだろ」

 声を荒げるのを無視し、返答を待つ。この場を掴んでいるのはこちらだ。彼は喋らずにいられない。

「……路句さんの、身の回りの世話。執事みたいなものだ」

 路句さん、路句さん、路句さん。

 なんとなく、話が見えてきた。

「では最後です。質問というか、確認になりますが」

「ああ」

「あなたをここへ寄越したのは、仁鳴氏ですね?」

 痩せた肩が小さく震える。落ちた沈黙が、何よりも雄弁だった。

「これはただの推測です。仁鳴氏はあなたに、先ほどの書類――路句氏の名義の書類を託して、ヴンダーカンマーへ向かうよう命じた。命じた、というより、断れない頼み、のほうが近いかもしれませんね」

 あなたにしか頼めないの。ヒトの使う常套句だ。

「そして、そのまま服毒自殺を遂げた。おそらくは、あなたの目の前で」

「……見てきたように言うな、お前。人間じゃないやつはすごいわ」

 乱暴に擦る頬がひどく削げていることに気づく。目の前にいるのは冷酷無比な執行者ではなく、疲れ切ったただの若者だった。

「あえて言葉を選びませんが、あなたは勝ち逃げされたんです。そこまで屈辱を受けてもまだ誰かに執着できることのほうがすごいと思いますけど」

「お前にはわからない」

 投げ捨てた言葉が、とんと胸を叩く。

「人を愛するのがどういうことか、人間じゃないお前にはわからないだろ」

 愛。

 あの日、去り際に私は尋ねた。

 どうしてそこまで執着するのですか、と。

 老婦人は優雅に、瞳の奥に底無しの渦をきらめかせて微笑んで、囁いた。

 ……愛よ。

「あの人は特別なんだ」

 冷静さをかなぐり捨てた声が揺れる。

「物に変えられようが変わらない。あの糞婆は死んだ。今度こそ手に入る、もう誰にも邪魔させない、あの人は俺だけの」

 うわ言めいて呟く、その横顔にどろりと影がまとわりついた。

「……もうひとつだけ。今日、本当に一人で来ましたか?」

 げらげらげらげら。

「お前だって害虫は殺すだろ? 大事な標本を喰われるからなあ?」

 獣のような哄笑を上げる口が、耳まで裂けて見えた。

「俺もそうしただけだ」

 もうお互い、言うことはなかった。

「お待ちください」

 踵を返す。ホールを横切って、暗闇に閉ざされたままの展示室の扉を開ける。先ほどまでの張り詰めた空気はかき消えて、代わりに困惑と不安が部屋じゅうに満ちていた。

 ――杜都

 キャビネットのなか、モノたちが躊躇いがちに話しかけてくる。

「大丈夫。ここまでは入ってこられない」

 ――そうじゃなくて……

「これくらいなら寝てれば治るよ、痛いけどね。心配してくれてありがとう」

 嘘ではない。腕が捥げたのであれば別だけれど、皮膚がやや深く破れた程度だ。休息を取ればすぐに塞がる。痕が残ったとしても、ごくわずかだろう。

 ――ねえ、ほんとに渡すの?

「うん。もう断る理由がない」

 ――あんなことしたのに?

 ――書類だって偽物かもしれない

 ――信用できないわ。帰らせるべきよ

「帰らせるために渡すんだよ。これ以上ごねたら何されるかわからない。一刻も早く追い払わないと、きみたちに危害を加えられたら」

 ――あーあ

 そこへ響いた声は、呆れの色をまといつつどこか誇らしげだった。

 ――だから言ったじゃないか。あんなもの引き受けちゃいけないって

「ああ、そうかもね」

 ――今回は杜都が悪いよ。怪我したのは気の毒だけど

「ああ、そうかもね」

 ――もう少し相手は選ぶべきだ

「ああ、そうだ。きみたちにちょっと提案なんだけど」

 モノなんて大体、口さがない。

 だから放っておいてもよかったし、むしろそうするべきだったと思う。

 でも、私も少しばかり、疲れた。

「射撃訓練の的になってみる? まだ残ってるかもしれないよ、弾」

 展示室は静まり返った。

「とっくに閉館時間だ。おやすみ、みんな」

 廊下もバックヤードも気まずく沈み、私はただまっすぐ前を見て通り抜ける。

 ――……杜都どの

 ぼろぼろの肩口に、青いダイヤモンドは呻くように私を呼んだ。

「気にしなくていいよ。たまにはこういうことも」

 ――気にしないわけないだろう!

 初めて、ダイヤモンドが声を荒げた。

 ――理不尽に傷つけられるなんてありえない。おかしいんだ、そんなことは

 優しさゆえの怒りと、そう取れなくもない台詞だった。

「それは、自分のことも含めて?」

 何気なく言ったつもりだったのに、ほんの少し、躊躇う間があった。

 ――……そうだ。ヒトだろうがモノだろうが、今ここに在ることを否定される理由はない

《自分は、生まれるべきではなかったのではないか》

 他人に自分を投影して答えを見出そうとするのはヒトもモノも変わらない。

 その苦しみに寄り添う理由は私にはもうない。

 一人は死に、一人は意志を固めた。

 既に物語は、私の手の届かない場所へ流れ始めている。

「まあ、でも、さっきのはさ」

 あとは私なりのやりかたで、舞台から降りるだけだ。

「挑発したこちらも悪かったんだよ。どうしても情報が必要だったからね。あの様子じゃ喋ってくれそうになくて、仕方なく強硬手段に出たってところ」

 ――だからといって

「きみはまだ生まれたばかりだから、もしかしたら知らないかもしれないけどね。この世界ではあれくらいの対立は日常茶飯事なんだよ。お互いモノを大事に思うあまり喧嘩になった、ってところ。わかってもらえる?」

 果たして、まともな誤魔化しになっているやら。

 でも彼には理解できないままでいてほしかった。ヒトがモノに対して抱く呪い、執着という終わりのない地獄を。

「こだわりは強いみたいだけれど、あのヒトがきみを傷つけることは絶対にない。それどころか世界でたった一人きみだけに価値を見出し、きみが生まれたことを絶対的に肯定するはずだ。私が保証するよ」

 あの使者が彼の最後のよすがであれば、当然のことだ。

 ダイヤモンドは黙った。鉱物の原石のように荒く切り出した結晶を眺めているうち、次第に青い奥底から光が湧き出してくる。

 ――本当なのか?

「もちろん」

 ――拙が在ることを、あのヒトは、慈しんでくれるのか?

「ああ。間違いなくね」

 ――ならば、拙は、もう

「もう、孤独じゃないよ」

 ちかちかと瞬く青い光は、ヒトが歓喜に打ち震える姿を連想させ、同時に私の仕事が終わりに近いことを知らせた。

「仮設番号、TDORRKTAYHP98951622915イ漆拾参、人工青色鉱物。これより、あなたの管理責任の権を《統合管理局スーパーバイザー》へ委譲します」

 モノへの宣告は、口にしてしまえば決して覆らない。

 ヴンダーカンマーはもはや居場所ではなくなった。

 ――承知した

「では、行こうか」

 なめらかな黒の箱をそっと取り上げる。

 ――杜都どの

「なに?」

 ――短いあいだだったが、世話になった

「ううん。どういたしまして」

 館内の景色が見えるように、箱の蓋は開けたままで廊下を進む。

「仁鳴氏の意向通り」

 暗闇に沈んだままの空間は静まり返っている。

「きみはこれから、彼女の遺骨と合成されて新しいダイヤモンドになる。それは覚えている?」

 ――覚えているとも。……拙の心配をしてくれているのだね

「まあ、そうだね」

 ――大丈夫だ。この身がどんなに変わろうとも、拙を守ってくれた恩を忘れはしないよ。再会を待っていてもらえたら、ありがたい

「わかった」

 彼がここへやってきた日、キャビネットケースから労いの言葉をくれた鉱石があったのを思い出す。

 今日はどんなに目を凝らしても、その姿を見つけることはできなかった。

 ――工場までは長旅になると聴いた。次に会えるのは、いつになるか

「待つのは得意なんだ。道中、幸あれよ」

 その言葉は嘘ではない。

 けれど傷ついた肩よりも、ひどく胸が痛かった。

「お待たせいたしました」

 差し出した箱を、希呼氏はほんの少しだけ躊躇ってから手に取る。震える指が静かに蓋を開く。

 青い結晶を見つめる目に、再びいくつもの色が廻る。均衡を欠いた万華鏡に、最後に灯ったのは自傷のように甘い痛みだった。

 その瞳を羨ましいと思った。

 モノを踏み台にするほどに誰かを愛し執着できることは、私にとってはほとんど天から与えられた才覚のように感じられる。

 文字通りにすべてを捨てられるほどの愛。

 ヒトとモノのあいだをさまようこの体も。

 誰の手によって宿ったのかもわからないこの魂も。

 何もかも捨てられるほどに、私は誰かを、何かを、想うことはできるだろうか。

「手続きは以上で完了です。ご質問があれば、どうぞ」

 もう言葉は出尽くしたと踏んで、しかし予想に反して彼は口を開く。

自動人形オートマータって」

「はい?」

「人間でも物でもないって、どんな感じなんだ?」

 最後にそんなことを尋ねて、いったいどうするつもりなのだろう。

「まず訂正を。正確には『ヒトでもモノでもある』です。それから」

 あまりにひどい別れの言葉なのに。

「ヒトであるあなたには、わかりませんよ」

 ちりんと、ガラスに囲われた三日月が鳴った。


 浅い眠りはノックで破られる。目を擦って起き上がり、扉の向こうへ応えた。

「はい」

「貨玖です」

 数日前にやっと帰館した先生は、疲れの色を微塵も見せない。

 糊の効いたシャツは真っ白で、皺ひとつないジャケットは上品なオフホワイト、鼈甲らしい眼鏡のフレームに浮かぶ赤い斑。いつも通りの洒落た格好でまっすぐ立っている。

「まずはこちらを。あなた宛てです」

 厳重に包まれた荷物はごく小さく、荷札には確かに私の名前が記されている。

「ありがとうございます」

 何気なく触れた途端、びしりと走る衝撃に手が引き攣った。真冬の乾いた日、うっかりドアノブに触れたときに感じるものに近い。

 けれど、もっと似ているものを私は知っている。

 悲鳴だ。

「それから」

 こちらの動揺に構わず、先生は話を続ける。

「先ほど《統合管理局スーパーバイザー》に抗議文を送付しました。構成員に対する傷害、および収蔵物の。この二点についてです」

 先生の言葉を理解するのにずいぶん時間がかかった。

「……当該組織からの要請は正式な手順を踏んでいました。奪取と表現するのは、大きな誤解です」

「ではその証拠はありますか? 受け渡しのための書類は?」

 ワイヤフレームの文書。死者の署名。モノを憎む彼らが、実体のある書類など残すはずがない。

 ましてや、持ち出すつもりであれば。

「仮にあの人工青色鉱物の授受が正式な手続きを経たものであったとしても――あなたが銃撃されたことには変わりありませんね?」

 肝心の傷は既に塞がって痛みもない。ただ予想よりも、傷跡が大きく残った。おそらく今後もこのまま、薄くなることはないだろう。

 残された弾丸は回収したし、傷は包帯でぐるぐる巻きに固定して何もなかったように振る舞っていた。しかし相手は観察眼の塊のような一等博物士だ。わずかでも怪我を庇うような素振りをすれば見抜かれる。今回の件に関しては何ひとつ、隠し立てはできなかった。

 希呼氏を擁護する証拠は何ひとつない。

 彼を糾弾する証拠はよりによって、私の体にある。

 そして目の前にいる一等博物士は、モノを守るためであればなんでもする。

 文字通り、なんでも。

「一時間後にバックヤードの整理をします。準備をしておいてください」

 応えに窮する私を満足げに眺めて、貨玖先生は一歩下がった。

 万事休すだ。

「わかりました」

 扉が閉じて、再び部屋は静まり返る。ため息すら出なかった。昼寝に戻るため、手にしたままの包みを机に放り出そうとして気づく。

 送り主の記入欄が空のままだった。

 ナイフを掴みながら、頭のどこかで冷静に思う。

 嫌な予感は、いつだって当たる。

 切り裂いた梱包材から顔を出した真っ白な箱。

 誠実であることがいつでも正しいとは言えない。賢くあるためには、目を瞑らなければならないこともある。

 ならば、何も知らないまま過ごしていくことと、何もかも知って苦しむのは、どちらがましだろう?

 留め金が小さく鳴った。

 ――杜都

 結晶の青はひどく濁っている。

 ひとしきり、そっと蓋を閉じた。一番下の引き出しの鍵を外す。できるだけ奥に押し込んで、適当に荷物をかぶせた。

「ここにいる限りは、きみの身の安全は私が保証する。だから」

 鍵をかけ、ソファに倒れ込んだ。固く目を閉じる。

「おやすみ」





 ――助けて

 ――僕は

 ――わたくしは

 ――俺は

 ――拙は



 ――いったい、誰なんだ?

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月浜定点観測所記録集 第四巻 此瀬 朔真 @konosesakuma

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