四百七十五号書架 の 七百五十一区 三百三十六番 六千九百五巻 百一頁 二千四百七十八章 三百五十四節「流星ストライク」

 秦野はたの伊澄いずみは天井を見上げた。

 細い棒状の照明がしらじらと光を降らせている。意味もなくそれを見つめ、目蓋を閉じる。

 薄闇のなかを粒子の細かいノイズが満たし、それを背景に無数の幾何学模様が踊った。ブラウン管を虫眼鏡で拡大したような三原色のちらつきは、深呼吸を繰り返すあいだに緩やかに減衰していく。

 無意識に胸元を探った右手が、そこに何もないことに気づいて苛立たしげに膝を叩いた。禁煙はこれで七日目、そして五回目になる。口淋しさを紛らわす薄荷の飴も先ほど在庫が尽きた。深く息を吐き、立ち上がるついでにラジオのスイッチを捻る。

 スピーカーをざわめかせる歓声、盛大に鳴らす金管楽器と太鼓の音、興奮気味に試合の様子を伝える実況アナウンス。六月の快晴に恵まれたスタジアムは、今日も満員御礼らしい。

 伊澄の事務所から球場までは、歩いて十五分ほどの距離だ。

 調査のために足を運んだことはあるが、人混みを嫌う性格から試合を観るまでには至らずにいる。探していた三毛猫はその裏手で子供をもうけており、それを知った依頼者――三毛猫の飼い主からは追加の依頼が出された。すなわち、仔猫たちの引き取り手を一緒に探してほしい、というものだ。伊澄はごく少ない金額でそれを引き受けた。

 できれば子供と一緒にいたい、と華奢な三毛猫は。伊澄は猫の心情を汲んだうえで、五匹の仔猫を世話するのはお人好しで多忙な主人の負担があまりに大きいこと、また主人も同様に、真心から仔猫たちの幸福を願っていることを丁寧に説いた。

 結局、仔猫は五匹とも別の場所へ引き取られた。彼らが相互に様子を見に行けるよう手筈を整えたため、兄弟と親子は定期的に面会している。ときどき伊澄の元にも連絡が来て、パソコンの記憶媒体には着々と猫たちの写真が増えつつあった。

 人間よりも猫のほうがよっぽど話が通じる、と伊澄は考える。

 数年前、自分を手ひどく振った男にいつまでも執着する若い女性の相手をした際には本当に骨が折れた。復縁できるならいくらでも払うと彼女は息まいたが、、と言い聞かせるところから始まり、すったもんだのあげく女性は未練を断ち切り消えていったものの、当然ながら死者が金を払うわけがない。

 この件は最悪のただ働きの苦い記憶として伊澄の記憶に残り、依頼を受けるにあたってはどんなに少額でも必ず料金を取るという職業上の鉄則にもなっている。

 猫と会話し、霊を説得する。

 そのような能力を生まれつき持ち合わせ、呼吸するように扱う伊澄にとっては、探偵という職に就くのはごく自然なことだった。

 秦野探偵事務所、と看板の掛かる扉を今日も誰かが叩く。


 ラジオのスイッチを切り、立ち上がって出迎えた。

「どうぞ」

 痩せたひとりはやたらとふんぞり返り、体格の良いもうひとりは妙に陰鬱そうにしている。奇妙な二人組だった。着慣れたスーツ姿から、人前に出るたぐいの仕事に就いていることはすぐに見て取れる。

「お掛けください」

 形ばかりの応接セットに案内し、手早く茶を淹れる。来客がハンカチで額を拭うのを目の端に捉えたが、今さら急須の中身を捨てるのも気が引けた。湯呑みを並べ冷房を点ける。

「ご足労いただきありがとうございます」

「失礼ですが」

 ふんぞり返っていたほうが、差し出した名刺と伊澄の顔を胡散臭そうに見比べながら言った。

「あなたが秦野伊澄さんですか」

「はい。本人ですよ、間違いなく」

 こういう反応には慣れているので、返答も淀みない。

 今日はあらかじめ来訪の連絡があったためにきちんと襟付きのシャツなど着ているが、普段の伊澄はオーバーサイズのパーカーにアウトドア仕様のブーツといった出で立ちだ。染めていない髪は短く切り揃え、身長は女性にしては高め、男性にしては低めと評される。簡単に言えば年齢性別ともに不詳の人物というわけだ。

「大原さん、最近はあまり人の容姿についてとやかく言うのは流行らないらしいですよ。ご存知でした?」

 言い返してやると、ふんぞり返っていた背中が少しばかり丸まった。伊澄は体格の良い男性のほうに向き直る。

「では改めて、詳細をお聞かせ願えますか。松本さん」

 松本氏は力なく頷く。顔色がさらに曇った様子から、どうも今回の依頼によほど思うところがあるようだった。

「信じていただけるかどうか……」

 これもまた、よく聞く台詞だ。なので同じく回答も決まっている。

「松本さんは、信じてもらいたいと思っていますか?」

 暗かった表情に、少しばかり光が戻った。

「ええ。もちろんです」

「では、私も信じます。なんでも構いません。知っていることを、すべて教えてください」

 かちりと、伊澄の手のなかでボールペンが鳴る。

 事務所のそば、今まさに試合の真っ最中のあの球場。そこを本拠地とする野球チームから連絡を受けたとき、伊澄は少なからず驚いた。あれだけ大きな組織がいったいどこで伊澄の存在を知ったのか興味深かったが、風の噂に聞いたという奇妙な探偵を、草の根を分けて探し出したとのことだった。

 天下のプロ野球団がこんな野良猫のような探偵に頼らなければならない状況に追い込まれているとは、よほど頭を悩ませているに違いない。しかも、なるべく人に知られたくない事情で。

 大原氏は運営の上級職で、松本氏はスカウトマン――高校野球や社会人野球やその他あちこちを飛び回り、優秀な選手の卵を見つけ出してくるのが仕事だ。

「本当は今日、他の社員が同行する予定でした。ですけど無理を言って代わってもらったんです」

「それは、何か理由が?」

 松本氏はひと呼吸のあいだ俯いて、やがて口を開いた。

「……瑛士えいじは、ぼくがスカウトした選手ですから」

 スタジアムに幽霊が出る、というのが相談事の主旨だった。

 時間帯はきまって夜遅くで、ナイターゲームもとっくに終了した時間に静かに現れる。そしてピッチャーマウンドに立って投球動作を繰り返し、消える。ただそれだけだ。

 ほんの数分の出現だが、それが毎晩繰り返されているという。

「では、人に危害を加えるということはないと」

「ええ。ただ出てきて消えるだけです」

 大原氏の口調は妙に尖っていて、恐怖よりも苛立ちを感じさせた。

「幽霊の噂でチケットの売れ行きが上がれば良かったんですがね。夜中に球場に入ろうとする馬鹿な連中が増えただけです。おかげでこっちは警備員まで増やす羽目になりましたよ。まったく余計な出費だ」

 金にならない以上は幽霊なんぞとっとと消えてほしい、ということか。職業人らしい言い草だった。

 伊澄は苦い表情の松本氏に話を向ける。

「瑛士、とおっしゃいましたね。心当たりがおありですか」

「ええ。羽諸はもろ瑛士えいじ、という名前をご存知ありませんか」

 耳の奥によみがえる、ラジオを爆発させんばかりの轟音。

 沸きに沸いた観客席が呼んでいたのは一人のピッチャーだった。


 泣く子も黙る高校野球の名門、幾度も優勝を重ねた常勝校の切り札として羽諸瑛士は手塩にかけて育てられ、大いに戦った。彼が出場した最後の甲子園、決勝戦は史上まれに見る大激戦となり、試合は延長戦にまでもつれ込む。

 この回を守り切れば優勝という場面で彼はマウンドに上がった。仲間と観客の激励が彼の背中を力強く押した。

 ツーストライク、スリーボール、ツーアウト。俊足自慢のランナーが、二塁でスタートを待っている。

 疲労すら忘れ、両チームの闘志は最高潮に達した。いざ、勝負のとき。

 たゆみない練習と汗と涙に鍛え抜かれた右腕は、寸分の狂いなく、張り詰めた真夏の空に弧を描いた。

 渾身の一球は、最強の武器。必殺にして無敵のストレート。

 流星と讃えられたその球は、フルスイングのバットをすり抜け、キャッチャーミットへ飛び込んだ。

 礼儀正しく、野球への熱意と夢にあふれ、ひたむきでよく笑う。

 羽諸瑛士はそんな少年だった。

 新しい時代の始まり。進化する野球。そんな鮮烈なイメージをまとって、彼はプロという新たな舞台に万雷の拍手で迎えられる――はずだった。

 伊澄はマウスを操作する手を止めて、小さく息をつく。

 見ていたのは過去のニュース記事だ。昨年の冬に起きた交通死亡事故を報じていた。

 亡くなったのは当時高校三年生――羽諸瑛士。

 入団契約を済ませ、引っ越しの準備をしているさなかのことだった。

 椅子にもたれ、伊澄は松本氏の潤んだ目を思い出す。

「プロになるのが楽しみで仕方ないと、瑛士は言っていました」

 瑛士は松本氏の顔を覚えていたらしい。もちろんどの球団からもスカウトマンは訪れていたが、試合だけではなく練習中も熱心に顔を出していたために、特に印象が強かったようだ。

 それが縁となって、というわけではないだろうが、松本氏はその後瑛士をプロ選手として迎え入れることになる。

 見守ってくれてありがとうございます、と瑛士は松本氏に挨拶したそうだ。

 必ず新人賞を取る、初めてのウイニングボールはこれまで応援してくれた両親に贈る、そしていつかは海を越え、メジャーリーグで戦いたい。

 語り尽きない夢のひとつひとつに松本氏は耳を傾けた。

「ときには気の強いところもありましたがね。ですがそれも、プロとして大切な素質です。それに、何より……瑛士は、野球が大好きでした」

 ぽつんと、松本氏の目から熱いものがこぼれる。

「葬式に、野球部の部員がいたんですがね、みんな泣いていました……彼らも、瑛士のプロ入りを本当に喜んでくれました。仲間に祝福されて、瑛士も嬉しそうで……」

 伊澄は松本氏のかたわらにそっとティッシュ箱を置く。松本氏は、小さく頭を下げてそれを抜き取った。

「あいつはきっと野球がしたいんです。死んでしまっても、まだ」

 絵に描いたような野球少年、叶う寸前に突然絶たれた夢。

 大人びた性格だったそうだが、彼はまだ高校生だ。恨み辛みで変容してしまう可能性はおおいにある。特に自分と同期である若い選手たちに危害を加えていたとしてもなんら不思議ではない。

 しかし、瑛士はそうではなかった。

 深夜の、誰もいない時間に球場へこっそりやってきて、マウンドに立ってみる。憧れの場所で形ばかりボールを投げる。誰かを憎むでもなく、妬むでもなく。

 ただ野球が好きで、野球がしたい。その一心で、彼は夜な夜な現れる。

「お話はわかりました」

 伊澄は背筋を伸ばし、改めて依頼人たちの顔を見る。

「瑛士くんに、伝えたいことはありますか」

 一瞬間があって、先に口を開いたのはやはり、松本氏だった。

「お前のことは、決して忘れない……そう伝えてください」

 しっかりと頷き、次は大原氏へ視線を投げると、気味も機嫌も悪そうな渋面で伊澄を睨んできた。

「何もないですよ、伝えたいことなんて」

 組んだ足の爪先が応接机をこつこつ叩いている。

「余計なことをしないでほしいんですよ、こっちは。選手の士気に関わるんでね。勝てないとチケットの売り上げが」

「大原さんって」

 話を遮るときは、できるだけよく通る、涼しい声で。これもまた伊澄の鉄則のひとつだ。

「未練とか、感じたことないですか?」

「……は?」

「夢半ばで斃れた少年をそこまで邪険にしておいて、どの口で選手の士気なんて言うんでしょうね」

 目の奥にぐっと力を込めると、面白いように大原氏は怯んだ。

「今回の件、さらに羽諸瑛士くんの死について、あなたがたに責はありません。ですがあなたがたは、一緒に戦うはずだった仲間を一人失いました。ある若者が夢の舞台に立つ姿を見届けることも、彼を励まし叱ることも、彼の勝利と敗北を分かち合うことも、彼が海を渡るときに見送ってやることも、もうできません。それだけは忘れないでください」

 ひと息に言い尽くし、伊澄は口を噤む。しばし事務所には沈黙が下りた。

 大原氏は気まずそうに目を逸らし、松本氏は何を思い浮かべたのか、くすんと鼻を鳴らす。

 仕事は仕事。ときには冷徹にならなければいけないときもある。むしろ、そうあることが求められるのがほとんどだ。

 けれど、あの有名な私立探偵だって言っていた。タフであること、優しくあることについて。

 生きている資格は伊澄にとって、何より大切なものだ。

 自身の言葉が充分に沁み通った頃合いを見計らい、書類を一枚差し出す。

「ご依頼をお受けします。料金はこのように」

 提示した額に二人は異論を唱えなかった。最後に事務的な手続きを済ませて、三人はソファから立ち上がる。

「必要なものがあれば、またご連絡ください」

「承知しました。よろしくお願いいたします」

 大原氏はぞんざいに、松本氏は丁寧に頭を下げ、事務所を出ていった。


 それが、約二時間前のことだ。

 再びスイッチを入れたラジオからは陽気な音楽が流れている。試合はとっくに終わっていた。結果は五対三、序盤で取られたリードを最後にひっくり返した、と速報が伝えている。

 鮮やかな展開は誰もが憧れるところだけれど、鮮やかであることだけに価値があると伊澄は考えない。地道にこつこつ点を重ねて勝利する、そのための根気も得がたいものだ。粘り強く迷い猫を探すように。

 猫も人も、納得いく着地点を見つける。

 伊澄は自身の仕事を端的に言い表すとき、そのような言い回しをする。

 さて、今回はどうやって野球少年に納得してもらおうか。

 彼の振る舞いを考えれば、一も二もなくあの世へ叩き込むのはだめだ。できる限り心を尽くす必要がある。

「……散歩だな」

 ヒントは大抵、散歩道にある。鍵と携帯電話と財布、煙草とライターは持っていないので省略してポケットに突っ込む。窓から吹き込む風は充分に夏の匂いがしている。シャツの袖を折りながら部屋を出た。

 三階建ての古い雑居ビルにはエレベーターがない。足音のやたらと響く階段を伊澄はゆっくりと下りる。もう何年も空き家のままの二階を通り過ぎて、一階のクリーニング屋の店先には顔馴染みの店主がいたため、会釈してビルを出る。

 路地裏をしばらく歩くと表通りへ突き当たった。球場通りと呼ばれる四車線の道路の街路灯にはチームカラーで染められた旗が吊るされている。街路樹の青い葉が広々とした歩道に日陰を作る。ターミナル駅の方角へ向かおうとして、ふと足を止めて振り返った。

 視線の先には、いつも通りの球場がある。

 観客が笑いさざめき、選手たちが力の限り躍動し、一人の少年の夢が叶うはずだった場所。

 夜毎、少年の影がさびしくボールを投げる場所。

「心配するなよ。必ず、解決策はあるから」

 誰にともなく言い聞かせ、伊澄は静かに球場に背を向けた。

 今日は駅前の本屋を経由して西へ向かい、行きつけの珈琲屋で休憩することにした。普段伊澄は紅茶や緑茶を愛飲しているが、外出したときは不思議と珈琲が欲しくなる。何かめぼしい新刊を仕入れ、久しぶりの黒く熱い一杯を味わいつつ、アイデアが降ってもしくは湧いてくるのを少しばかり待ってみようと思った。

 初夏の街は眠っていた色彩たちの独壇場だ。重く暗い冬を越え、ぼんやりした寝ぼけまなこのようなパステルカラーを経て、切り立った輪郭の鮮やかさが目に沁みる。街全体が次第に着飾ってていくようで、伊澄はこの季節が好きだった。

 自分の感覚が理解されないことについて、伊澄は早い段階で嘆くのをやめた。

 子供じみた屈折でもなく、孤独を装うでもなく、わからないのなら仕方がないと自然と思うようになった。たとえば駅前の交差点を渡るためには信号の意味について理解する必要がある。しかし、青信号と童話に出てくる龍の瞳はよく似た色をしているという感覚についてはその限りではない。感性が豊かだねと曖昧に目を逸らされた経験から、幼少期の伊澄はどうやら自分の感じているものが普遍的ではないらしいと気づいた。

 しかし当時は今と違って、まだ分別のつかない子供だった。ときにはうっかり口にしたことで気味悪がられ、遠ざけられることもあった。

 ――お前の感覚が普遍的でないというだけだ

 当時から親しかったある親類は、泣きじゃくる伊澄にそのように語りかけた。

 ――だからそれはお前自身を損なうものではないよ。いつまでもどこまでも、お前はただ、お前だ

 それは呪いに属する言葉だったのかもしれないが、呪いがすべて悪しきものと言い切るのは短絡的過ぎる。少なくとも、幼い伊澄の支えにはなった。

 常に楽天家で、普通から外れることを厭わない。もっと言えば周囲と調和していようがいまいがさして興味を持たない。紆余曲折を経て、現在の伊澄の性格はそのように形作られている。

 そして今日も楽天家で不調和な人間らしく、ランダムな足取りで書店のなかをめぐる。

 それが功を奏したのか、ほとんど立ち入ったことのない専門書のコーナーへと足が向いた。医学薬学、福祉、建築、機械、地理、そして天文。

 表紙の白い光と、不意に目が合った。

 迷わずに一冊掴み取る。今日の買い物はこれで終わりだ。確信を持ってレジへ向かった。こういうときの直感は、必ず当たる。

 駅から続く大通りをひたすら歩く。包装を断り剥き出しのままの雑誌を小脇に抱え、街路樹の枝葉の影を伝うように進んでいく。地下鉄の駅に突き当たったら信号を渡って左へ曲がり、緩くカーブする坂道を下りて、コンビニの角を今度は右へ。三十分ほどの気ままな散歩が、伊澄の頭のなかに散らかる乱雑な細い糸を丁寧に撚っていった。

 いついかなるときも、他に客がいるときでさえも静謐な珈琲屋の、大きな窓に面したカウンターが伊澄の指定席だ。白地に繊細な薔薇を描いたカップで季節のブレンドを飲む。二色のケーキも食べる。窓の外は竹林が広がり、緑色の揺れる縦縞の向こうには、蛇行する川の煌めいて流れる水面が見える。一幅の掛け軸に似た景色はどんなに眺めていても飽きない。

 仕事がなければ、六月の長い日が暮れるまでぼんやりしていたいところだ。伊澄は香ばしいため息をつき、おもむろに雑誌を開く。

 さすが専門誌といったところで、読みつけない単語が多い。ビギナー向けの本ではないようだ。それでも、写真と図がふんだんに載っているために眺めているだけでも楽しかった。世の中には数多くの天文ファンがいて、それぞれが知識やノウハウを持ち寄り日夜に空を眺めているらしい。

 ひと通り目を通し、最初のページへ戻る。ここからがやっと本題だ。

 冒頭から多くの紙面を割いているトピック。他の記事と比べて明らかに編集の力の入れかたが違う。つまり、それだけ天文ファンにとっては注目すべき話題ということだ。

 その年によって多かったり少なかったりと、随分気まぐれなやつが来るらしい。

 気まぐれさなら負けない。望むところだ。それでこそ、賭ける価値がある。

 さっそく今日から色々と準備が必要だ。詳細は計画をさらに詰めてからになるが、結構な大仕掛けになるのは既に予想できる。クライアントにもいくらか協力してもらわなければいけない。

 嵐の前の静けさとして、伊澄は珈琲を啜る。冷め始めてもなお凛と冴えわたる苦味と、ケーキの濃く力強い甘さがぐっと気力を引き出してくれた。

 さまよう野球少年のための、最高の「着地点」。

 降り注ぐ光は、少年の悲しみを濯ぐだろう。


 三階建ての古い雑居ビルにはエレベーターがない。ついでに屋上の鍵もない。初めて侵入を試みた際、ぶら下がっていた南京錠は触ったらぽろりと床に落ちた。よく見れば掛け金が錠の本体に刺さっておらず、ただ閂にぶら下がっているだけだった。かといって持ち去るにも忍びなく、伊澄は屋上の留守番を頼むつもりで今でもそこに残してある。

 そんな独りぼっちの南京錠を手のなかで温めながら、屋上を行き交う風を煙とともに吸っては吐く。

 五回目の禁煙は見事失敗に終わった。

 大体、薄荷の飴なんて逆立ちしたって薄荷の煙草には敵うはずないのだから、代わりで誤魔化そうなんて考えかたが姑息だ。吸いたいのなら吸えばいい。

 胸を張った言い訳で罪悪感が増しても、やっぱり美味い。

 細く長く吸った煙が茜雲に紛れて消えていく。

 街は夕暮れ時を迎え、排気ガスの匂いとざわめく人波の気配がのぼってくる。優しい時間だ。仕事を始めるのにうってつけの時間だ。

 クラクションが通り過ぎていく。歩行者用信号機の呑気な電子音がビルに反響していく。どこからか、揚げ物の美味そうな香りが漂ってくる。

 伊澄はゆっくりと目を開け、の両の手のひらを眺めた。

 空には雲ひとつなく、これから昇る月も充分に月齢を重ねた。

 あとは今夜来るはずの気まぐれと、伊澄の力量次第になる。

 誰かを納得させるためには、それなりの論理が必要だ。批判的な表現をすれば相手を言いくるめるということになる。

 これが伊澄の仕事の本質だ。特異な感覚、人でないものと言葉を交わす能力、本来それらはを綴るための材料に過ぎない。それでも伊澄が小説家ではなく探偵という職を選んだのは、原稿用紙と向かい合うより猫と話すほうが好きという単純な理由があったからだ。

 吸い殻を飲み込んだ携帯灰皿がかちりと音を立てる。

 穏やかな夕景に背を向け、伊澄は扉を閉めた。錆びた閂に南京錠をそっとぶら下げて階段を下りていく。

 彼がこのお話を気に入ってくれますように。願うのはただ、それだけだ。


 次第に深まる夜を、煌々と灯ったLEDが遠ざける。

 広いグラウンドは静けさに包まれていた。

 球場には誰もいない。ベンチも、観客席も、がらんとしている。

 無人のスタジアムが照らされて、夜闇のなかに浮かび上がっていた。

 ベンチの隅。照明の届かない薄い暗がりが、ひっそりと揺れる。

 グラウンドに深く一礼して、青いスパイクが土を踏んだ。

 背の高い影だ。

 目深に帽子をかぶり、やや俯いた姿勢でグラウンドを横切っていく。

 影は常のごとく、美しく整えられたマウンドに登ろうとして――すっと左手を上げた。

 持ち主の手にしなやかに馴染んだ革が、ぱしん、と乾いた音を立てる。

 ボールを受け止める衝撃。久しぶりの感触だった。

 懐かしい痺れをゆっくり味わって、静かに顔を上げた。

「こんばんは」

 ボールを放った犯人は、バッターボックスでヘルメットを外し、笑う。

 袖をまくったオーバーサイズのパーカー。黒い髪を短く切り揃え、身長は自分よりは低いが小さいと表現するほどではない。バットを携え、両手にはグローブ、そして足にはレガース。左打ちらしいが年齢も性別も判然としない。もちろん、見覚えもない。

「羽諸瑛士くんですね。秦野伊澄といいます、はじめまして」

 、その人物は丁寧に一礼した。

 自分を見た反応は大方二つ。怯えて逃げ出す、あるいは見世物か何かのように冷やかす。

 そのどちらでもない反応が新鮮で、マウンドに立つ影――羽諸瑛士の幽霊は、秦野伊澄にまっすぐ向かい合った。

「探偵の仕事をしてます。今回は依頼を受けまして……松本さん、覚えてますか。スカウトの」

 伊澄の口にした名前に、瑛士は少し動揺したようだった。目を逸らし、帽子のつばに手をやる。癖なのかもしれない。

 ニュース記事で見た通りの顔立ちだ。少年らしさの奥には、一人の戦う人間としての精悍さが既に見え隠れしている。成長していたら誰もがはっとするような、ひと振りの日本刀のような青年になっただろう。

「瑛士くんはまだ野球がしたくて、こうしてスタジアムにやってきているんじゃないか。松本さんは、そうおっしゃっていましたよ」

 瑛士はグローブの中身を右手に落とす。汚れひとつない白に走る、赤い縫い目。ボールは生前のようにすんなりと指に馴染んだ。体の続く限り、ずっとこうしていくのだと思っていた。あの事故が起きるまでは。

「なので、今日はあなたの願い事を叶えに来ました」

 唐突な物言いに顔を上げれば、伊澄はバットをぐるぐると回して手首をほぐし、腰を落として構えた。

「さあ……勝負です!」

 何を言っているのかと思った。

 構えは明らかに素人、普段から運動をしているようにも見えない。昔所属していたよしみで指導に行った少年野球のほうがまだまともなボールを打てるに違いなかった。

 しかし、伊澄の目は本気だった。こちらをからっていないのは確かだ。

 マウンドを踏みしめる。

 左足をゆっくりと持ち上げる。胸に寄せた右手を後ろへ引き、同時に左足を思い切り前へ踏み出し、体重を乗せる。体を思い切り捻る。胸を正面へ向ける。振り下ろした腕はしなり、強靭なばねと化した。弾丸と見紛う直球がバットを――かすめもしない。

 バックネットにボールが当たり、派手に音を立てるのを伊澄が茫然と見ている。

「手加減した?」

 もちろん、と瑛士は頷く。怪我でもさせたら寝覚めが悪いし、そもそも勝負になっていない。手加減しない理由がなかった。

 ひとつ意外だったのは、伊澄が逃げる気配を微塵も見せないことだった。勇敢なのかただの向こう見ずなのかはさておき、しっかりとバットを振ってみせた。スイングも決して悪くない。

「ここ二週間ほど、バッティングセンターに通い詰めたんです。常連のおじさんたちに鍛えてもらって」

 グローブを外し、右手を掲げてみせる。ことごとくまめが潰れて痛々しかった。遠目にもわかるほどぼろぼろになった手のひらが、歯を食い縛って練習に耐えていたチームメイトたちを思い出させた。

 ――俺たちは点を取る

 ――お前は一点も取らせない

 ――そうすりゃ勝てる。簡単だろうが

 真夏の甲子園。優勝を賭けてマウンドに上がるとき、足が震えた。暑さのためではない汗が背中を伝った。その様子を見かねた仲間が冗談めかして言ったとき、あんまりな言い草に瑛士は笑った。すると憑き物が落ちたように体が軽くなり、自分には怖いものなど何もないのだとわかった。瑛士は仲間とがっちり手を握り、いつものようにグラウンドを踏んだのだった。

 伊澄がボールを投げ返してきた。まだ続けるつもりらしい。よく見れば伊澄のかたわらには、ボールを山のように詰めたカートがあるのだった。

「次は、もうちょっとマシになるはずです」

 そう言って、再び構える。仕方なく瑛士もボールを投げる。またしても空振り。「まだまだ」構える。投げる。空振り。「掴んできましたよ」構える。投げる。空振り。「次こそいけます」構える。投げる。

 まぐれのように、バットがボールを捉えた。

 ぱかん、と音を立てて飛んだ球はグラウンドを跳ねていき、駆け寄った瑛士のグローブに収まる。一塁へ疾走していた伊澄が天を仰いだ。

「惜しい! 惜しかったですよ、今のは! そうでしょう?」

 子供のようにはしゃぐ伊澄を、瑛士は黙って見ていた。なぜそこまで、意味もなく手を痛めてまで、この人は自分と野球をしたがるのだろう。

「わからない、って顔をしてますね」

 バットを杖代わりにしてしゃがみ、荒く息を吐きながら伊澄は言う。

「素人相手だからいいんですよ。だってプロなんか呼んできたらあなたは

 訝しむ瑛士に、なおも伊澄は説く。

「高校野球の名門出身で、甲子園ではヒーローで、当然のようにプロ入りして、なのに事故で死んでしまった。諦め切れずにスタジアムに通っているけど、今はお化け扱いされてうんざりしてる。おまけに今日は」

 立ち上がった伊澄は不敵な顔だった。

「変なやつと野球をやる羽目になった。どうです? 不満じゃないですか」

 くるりくるり、バットが回る。

「本当はこんなことしたくないですよね。もっとしたいこと、ありますよね?」

 したいこと。

 したかったこと。

 したくなかったこと。

 死にたくなかった。

 プロとして戦いたかった。

 新人賞が欲しかった。初めてのウイニングボールを両親に贈りたかった。

 そしていつかは、海の向こうへ。

『もっと』

 そう、もっと。ずっと、いつまでも。

『もっと、野球がしたかった』

「そうだね。それがきみの不満で、何よりの願い事だ」

『でも俺は、俺はもう死んだ。それは覆らない』

「うん。きみは死んでしまった。どうしようもない事実だね」

『毎晩ここに来ても意味はない。それはわかってる。でも諦められない。俺は、俺は死にたくなかった。野球がしたかった。俺は』

 幽霊の流す涙は、マウンドを濡らさない。

『俺は、野球が、したい』

 だから伊澄は見届ける。

 少年のまっすぐな願いと、未だ彼をさまよわせる未練を。

 そして、ヘルメットを取った。

「私も、本当にしたいことは別にあってね」

 バットを手離し、グローブも外してしまう。ボールの籠の陰に持っていたものを放り出して、代わりに何かを手に取った。

「どうしてもきみに伝えたいことがあってね」

 くすんだ色の金属の外枠、丸いガラス。見間違いでなければ、あれはランプだ。キャンプに持ち出すならまだしも、球場に持ってくるものではない。

 しかもその中身が奇妙だった。

 確かこの手のランプには、火を点けるための紐みたいな芯が入っているはずだ。なのにそれらしきものは一切見当たらない。代わりにあるのは、手のひらに載るほどの小さな、河原の石みたいにつるつるした三日月だ。

「『銀河鉄道の夜』って知ってる? 国語でやらなかったかな。宮沢賢治の」

 おまけに、話もおかしな方向へ転がり出した。

 その童話なら瑛士ももちろん知っている。妙にもの悲しく救いのない話という印象だったが、妙に惹きつけられたのを覚えている。「ほんとうのさいわい」というものについて、子供ながらに考えたこともあった。

「あのお話をみんなはフィクションだと思ってる。だけど、あれは実話なんだよ。銀河を走る列車は、誰も知らないだけで実際にある。賢治がどこかで見聞きしたことがあの小説の元ネタなんだ。どうやら彼も、最期は銀河鉄道に乗っていったらしい。さあ」

 ぱん、と出し抜けに伊澄が手を叩いた。

 それを合図に、辺りが暗闇に包まれる。煌々と灯っていた照明が一斉に消えた。

「ここからが本題だ。これもみんな知らない話。銀河鉄道の線路沿いにも、実は球場がある。最寄り駅で降りて、歩いて五分くらい。しかも屋外球場。ほらね、こことよく似ているでしょう」

 声が次第に近づいてくる。ゆっくりした足音と、ぼんやり光る三日月が揺れている。

「そこでは毎日試合をしてる。プロ野球だって週に一度は休むはずなんだけどね。みんな体力が底なしらしい。まあ、観るほうも観るほうだけど」

 すぐ隣に立った伊澄は、ランプを持ち上げて夜空の一角を示す。

「ほら。あの辺りの、白い星が集まって見えるところ」

 つられて瑛士も空を見上げた。目を凝らすと、言葉の通りぼんやりとした光の群れが見える。

「あれが、銀河球場のナイターの照明。その足許からずーっと観客席があって、フィールドを囲んでる。あの星がマウンド、少し下ってバッターボックス。で、そこから順番に、一塁、二塁、三塁」

 与太話だとはわかっている。けれど、遮る気にはどうしてもなれなかった。

 空のスタジアムが、瑛士の目にもはっきりと見えていたから。

「もう試合は始まってるはずだけど……うん、そろそろ頃合いかな」

 一心に見つめる先に、すうっと細い線が走った。

「そら来た」

 あちらにひとつ、こちらにひとつ。遠慮がちだった光線は見る間に数を増していく。飛び交う星の群れは、今にも空を埋め尽くそうとしていた。

 息を呑んだ瑛士に伊澄はなおも語り続ける。

「あれは、ただの流れ星じゃないよ。全部場外ホームラン。今夜はとんでもないスラッガーが出てきたみたいだね」

 瑛士の手が、無意識にボールを握り締めた。

「今見た通り、どっさり点を取られてチームは現在大ピンチだ。だけど悪いことばかりじゃない。打線の調子は上々だし、代打も代走も準備万端で待機してる。みんな気合い充分だ。つまりね、なんとかこの回を耐え切れば、必ず逆転できるってこと」

 おとぎ話は続く。着地点へ向けて、駆け抜けていく。

「ここで必要なのは誰より熱くて、誰より冷静で、誰より強くて、どんなときも自分の願いを、勝ちを追い続ける、そんな優秀なピッチャーだ。今日の試合は、間違いなくその一球にかかっている。さあ」

 三日月の灯りに照らされた背の高い横顔を振り仰ぐ。

「誰の出番だと思う?」

 野球帽の庇のした、見開いた両目にランプの光が宿るのを、伊澄はしかと見た。

「本当は臨時列車を呼びたかったんだけどね。でもきみならすぐ辿り着けるよ。投げるだけじゃなくて、足も速いんでしょう?」

 瑛士が伊澄を見下ろした。真っ白な無表情が崩れ、そこには晴れ晴れとした、強くやさしい微笑みが宿っている。

「さあ、きみの時間だよ! 行っておいで!」

 深く頷いた姿が最後になった。

 影はふわりと揺れて空気に溶け、一陣の風となって、まっすぐに駆け上がる。

 遠く夜空に、拍手が、歓声が響き渡る。

 待ち望まれたルーキー。白く輝いて燃え立つ、生まれたばかりの一等星。

 緊張に震えながら、闘志に燃えながら、彼はマウンド晴れ舞台に立つ。

 勝利を呼び込むその一投を放つため。

 歓喜の瞬間を、最前線で迎えるため。

 そして今まさに、ひと際明るい光がひとつ、まっすぐに横切っていく。

 流星と誰もが呼んだ、煌めくストレート。

 秦野伊澄は拳を振り上げ、声の限りに叫んだ。

 

「ストライク!」


 散歩のついでに報告書を送り、事務所に戻る。

 伊澄は充分な額の報酬から、一部を球団に返還した。

 内訳は、散々ボールをぶつけたバックネットの修繕費と、それから硬式ボール一個分。銀河のほとりへ持ち出された白球は、もう戻ってくることはない。

 三毛柄と灰色の入り混じった仔猫の待ち受け画面を数回叩いて、登録してある番号を呼び出す。

『伊澄か。久しぶり』

「久しぶり津嶌つしまさん。ねえ、今度野球観に行こうよ。チケット代出すから」

『どうした? 藪から棒に』

「親戚付き合い」

 自分に理解を示す数少ない人物であるこのを、伊澄は昔からよく慕っている。

『球場でビールが呑みたいだけじゃないのか、お前』

「あらら。もうバレた」

『それで?』

「たまにはいいかなと思ってさ。話したいこともあるし。津嶌さんも、図書館に籠もってばっかりだとカビ生えちゃうよ」

『図書館か……うん、そうだな』

「どしたの?」

『いや。こっちの話だ」

「そう?」

『しかし、野球観戦か。久しぶりだな』

「最後に行ったの、いつか覚えてる?」

『覚えてるも何も一緒に行っただろ。伊澄が小学生のとき。お前、途中で飽きて寝たんだよ』

「えー? そうだったっけ」

 子供の頃から、興味のないことは退屈で仕方がない性格だったのは間違いない。しかしそこまで露骨だったろうか。

『そうだよ。そのあと逆転ホームランが出て、客席が大騒ぎになって驚いて飛び起きたんだ』

「全然覚えてない……けど、私だったらやりそうな気がするな」

 ばつの悪そうな返答に、電話の相手は楽しそうに笑う。

『今回は寝るなよ。次の日曜日を空けておく』

「わかった」

 電話を切る。伊澄は壁に掛けたカレンダーに近づいて、買ったばかりの銀色のインクのペンで、次の日曜日に丸をつけた。

 午後の陽射しを跳ね返して、それは流星の色に光った。

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