私は貴方の理想の娘

詩村巴瑠

私は貴方の理想の娘

 植木鉢を両手に抱えて、長い廊下を歩いている。ヒールの踵が床をコツコツと殴る音が静かな廊下にはよく響いた。植木鉢に咲いているのは青紫色の紫陽花だ。母と私が大好きな花。しばらくして立ち止まって、篠原と書かれた名札がかけられた白い扉を横に引いて部屋に入り、その先のベットに横たわる母に声をかけた。

「お母さん、明美だよ。お見舞いに来たよ。」

しばらくすると、微睡みの中にいる母が柔らかな笑みを浮かべたまま、身を起こす。

「明美ちゃん、来てくれたの。」

子供のような無垢な瞳がこっちを向く。その視線は次に、私の持ってきた植木鉢へと注がれる。

「明美ちゃんの好きな紫陽花だ。」

「そう、花があった方が気分も上がっていいかなと思って家から持ってきちゃった。」

「ありがとう、でも重かったでしょ。」

「そうでもないよ、お母さんには早く元気になってほしいから。」

ベットの前にあるソファに腰を下ろすと、私は小さく首を振って即座に否定する。口に出してさえしまえばそれが私の本心になる。いつも正しくて、優しい清廉潔白な明美になれる。そう思えば、心の中の淀みもいつのまにかすぅっと消えている。

「そういえば、最近お仕事はどう?」

「充実してるよ、この間は映画祭の後でリー監督と話せたんだ。あの、『王の亡き城』のリーイホン監督。お母さんは知らないかな?中国映画の巨匠で一昨日にアカデミー作品賞にノミネートされてたんだけど。」

「知らないわ、でもすごい人なのね。」

「うん、とっても。」


 明美は邦画の有名映画監督西谷傑の助手をしている。昔から映画が好きで高校の頃から友人たちと映画を撮っていた。大学では映像を学ぶ学部に入り、在学中に明美が監督して撮った映画が大きな賞を取った。それで西谷監督に気に入られて三年経った今もそのまま、助手として付き従っている。そうしていれば自然と、憧れの監督や芸能人たちとお近づきになれた。今は起こることすべてが楽しくって仕方がない。私はそんな顔をして、軽やかに回る舌に言葉を乗せた。


「王族が滅びた後の城の保全をする職人さんの話なんだけど、時代の移り変わりと人の営みがメインで描かれてるの。歴史ものではあるんだけど、私たちと通じるところがあって親近感が物語に没入させてくれるんだ。」

「へぇ、すごいのね。」

「監督、すごく優しくて中国に来たらいつでも遊びに来るといいって言ってくださって、もう中国に住んじゃおっかなぁ。」

「え、お母さん寂しくなるから嫌よ。」

「冗談だよ、私だってお母さんを一人にして置けないから。」

そうして私は快活に笑い飛ばす。こうやって一番傍に座って、母に笑いかけることが出来るのが私でよかったと思いながら。



 電話が鳴っている。近いところに何人か社員がいるのにも関わらず、誰も取ろうとしない。仕方ないので近くへ寄って行って、受話器を取って耳に当てた。

「はい、愛英グループの竹中です。」

働かない正規社員を眺めながら、私はきびきびと応対する。自分の方が使えると示し続けていれば、正規社員に上がれるだろうか。去年、私は就職活動に失敗して派遣社員として今のIT企業に勤めている。紙の捲られる音、キーボードを叩く音、鳴りやまない電話のベル、耳に入るすべての音が違う違うと訴えているみたいでひどく不快だ。しかし、何も違わない、これが私の人生だと胸を張れるだけの誇りは持ち得ていない。

「留美さん、」

誰かを呼ぶ部長の声が上滑りしていく。

「留美さん、」

煩いなぁ、呼ばれてるんだから早く返事しなよ。そう思った途端、私は愕然とした。留美は私の名前だった。



 今日もまた白い廊下を歩いている。ピンクの紙袋の中には明美の好きな店のシュークリームが二つ入っている。母は母の好きなものを渡すより、明美の好きなものをあげた方がよく喜んだ。個室の扉を開くと母は起きていた。瞳がこっちに向いた瞬間に瞳孔が大きく開かれる。

「明美ちゃん、いらっしゃい。」


「今日は次の映画の顔合わせでね、お母さんの好きな葉山陽もいたよ。」

「誰だっけそれ。」

「え、忘れちゃったの。そっかぁ。」

好きな俳優でも駄目か。シュークリームを頬張りながら少し気落ちする。

「あの紳士的な態度も画面の中だけかと思ってたけど、椅子とか率先して片づけてて感心しちゃった。やっぱり画面越えて伝わってくるものもあるんだね。」

底抜けに明るくて、でも馬鹿なわけではなくて少し気の強い明美の話し方。きっと崩してしまっても母にはもうわからないのだろう。それでも、そのままの私を明美と呼ばれるのは少し心が痛むから私は理想の娘を演じる。母のお気に入りの娘、姉の明美を。


「お前、いつまでそれ続けるつもり。」


不意に落ちた声に、ゆっくりと振り返る。挨拶もなしに部屋の中に入ってきた彼を少し前から認識してはいたが、こっちから声を掛ける義理もないので黙っていた。


「気持ち悪いんだよ。」

隅の壁に背をつけて、唾を吐き捨てるように悪態をつく彼は私の弟だ。作曲家になりたいとかで売れない歌を作りながら、二十四歳になってもいまだに親の金を食いつぶして生きている。

「明美は外人と結婚してイギリスに行った。お前にはもう会いに来ないってはっきり言ってやれよ。」

「お母さんをお前って呼ぶなって何回言ったらわかるの?」

親のおかげで生きていけているのに、敬意も何もないのが腹立たしい。弟は私の非難を込めた視線も意に介さず、溜め息をついた。

「こんな茶番続けたってなんにもならないだろ。」

「最後なんだからいいでしょう。」

最後の親孝行だ。母の大好きな明美は、老後の母の事なんてお構いなしにイギリスに行ってしまって恋人を作って結婚した。あんなに一生懸命になって映画を作ると息巻いていたのに子供が生まれると夢もどうでもよくなってしまうものらしい。今は専業主婦だ。それとも、明美は夢を諦めるきっかけを探していたのかもしれない。とにかく、ここに明美はいない。耄碌した母にそれを告げるのはあまりにも酷だった。だから私は母にとっての理想の明美になることにした。理想の明美は、母を置いて海外になんていかない。一番近くにいて母が病気になれば甲斐甲斐しく見舞いに通う。それが私の演じる設定だ。


「どうしたの明美ちゃん、この人はどなた?」

私と弟の間で交わされる剣呑な会話に母はこちらに困惑した瞳を向ける。子供のような無垢な表情で争いが収まるのを待っている。

「お母さんは気にしないで。私はもう帰るね。」

私は立ち上がりながらそう言うと部屋を出た。弟の引き留める声は無視した。


 老人ホームの廊下を歩いている。ピンヒールの音は鳴っていない。明美と違って、本当の私はあまり音を立てて歩かない。よく知る人からは言われている。

『明美ちゃんと留美ちゃんは正反対の性格だよね』

華やかな服装を好み、夢を大きく抱いて色々なことに挑戦していく明美と、地味に小さくまとまって、常に安全策を取る私。母は三人の子供を愛していたけれど、一番のお気に入りはやっぱり明美だったらしい。認知症になった母は今はもう、明美のことしか覚えていなかった。一番近くにいたのは私なのにと思わなかったと言ってしまえば噓になる。しかし、母が一番幸せでいられることを優先したいという思いもまた嘘じゃなかった。なにより、私が明美になれば私は母の理想の娘になれる。廊下を歩く。足音が鳴っている。コツコツと明美が病院の廊下を歩いている。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私は貴方の理想の娘 詩村巴瑠 @utamura51

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ