起点
「随分と容易く喰われたな、烏天狗」
霧状から本来の姿に戻った烏天狗は木の枝に掛けて置いた一本歯高下駄を履いて、地に伏している人魚を見下ろした。
呼吸はか細く、とぎれとぎれ。
もう間もなく死に絶えるのだろう。
「喰われる感触を偶には思い出さないとな。喰う事が薄っぺらく感じてしまう」
口に出しては烏天狗は薄い笑いを放した。
取り繕う己を嘲笑うように。
そんな事をしても無駄なのに。
この人間の前では。
「いや。本音は、不老不死なのか、確かめたいだけだ。こやつ。一直線に頭を口で、両の手で心の臓と腹の臓を鷲掴みして喰おうとしたな」
「あんたに仲間の人魚を喰われたんだとよ」
「そうか。それで腹の臓まで狙ったか」
「だろうな。で、烏天狗。頼みがある。この人魚を助けるから、抱えて桜と楓の元へ連れて行って、治療してくれ。俺だと火傷しちまうんだよ」
「喰おうとした仇に助けられるこやつの気持ちを考えないのか?」
「考えない」
「おまえ」
「俺の舞踊に興味があるこいつの気持ちは考える」
「………おまえは本当に勝手だな」
「おまえたちは、だろうが」
「違うな。おまえは、だ。幾度この森を離れようと、結局戻って来るおまえ、だ」
人間は開いた口を閉ざして、視線を烏天狗から人魚へと移した。
あんなにも透き通って美しい白に近い手の肌が、今やもう、微かに腐臭が漂うおぞましい色へと変わっていた。
「とりあえず、頼む」
「おまえの我が儘には慣れている」
烏天狗は身体が崩れ落ちないように人魚を風呂敷に包んだ。
常緑樹が占めるこの森で時を知る方法はいくつかある。
風や雨の温度の変化。
野草や野花の種類の変化。
桜と楓の変化。
散花、青葉、紅葉、落葉。
今は常緑樹と同じ緑。
瑞々しい葉が生い茂り、陽光に照らされて煌めいていた。
人魚を抱えた烏天狗は人間を背負い、珍しく桜と楓が並び立つここまで飛んで来て、人間が持ち運んでいる薬草を寄こせと言った。
その日によって、毒の種類が変わる己が身。
薬草の調合方法もおのずと変わるのだ。
けれど必ず、この森の薬草と、人間が外から持ち帰った薬草とで助けられる。
助けるのは、人間が頼んだ時と、あとは、己を喰おうとした相手の意思を尊重する。
人間から薬草袋を受け取った烏天狗は、すり鉢に必要な薬草を入れてすりこぎ棒でやおらすり潰した。外から内へ。内から外へ。じれったいほど丁寧に。
人間は烏天狗を急かさなかった。
知っていたからだ。
己の、己たちの願いを烏天狗は必ず叶えてくれると。
この森を共に創った祖先がここから、烏天狗から離れたいと言った願いですら。
「おまえは言ったな。わしに囚われている己が嫌だ。囚われない方法を探す為に、外へ出て、踊りては、セカイ(己以外)を喰らい。舞いては、セカイ(己)を無にしに行くと。終わればずっとここに居ると」
「おい、勝手に付け加えんな。ずっとここに居るなんて言ってないぞ」
「そうか?まあ、長く生きているのだから、忘却も仕方ない」
「おい、俺が悪いみたいに言うな」
「悪くはない。自然な事だ。気にするな」
「止めてくんない?そんな熟年夫婦みたいな空気を醸し出すの。僕は君の事をすごく分かっていますよ視線。俺とあんたはこれっぽっちもそんなんじゃないからな。ただの。が付く何かだ」
「ああ。今はそう言う事にしといてやろう」
「あーやだほんとやだ」
はは。
人間は仮面の中で籠る笑い声を聞くまいと耳を塞いで、烏天狗が衣の上から人魚に薬草を塗る様を黙視した。頭から腹、爪先、ひっくり返して、後頭部から背中、指先へと余すところなく。
「一日この状態を保てば戻って来る」
「ありがとな」
「おまえの頼みだからな」
「あー」
そもそも烏天狗が人魚を、不老不死の材料と思われる生物を喰わなければこんな事態は起きなかったのだが。
(不要と知りながら舞い踊る俺には、何も言えねえし)
このまま森で過ごしていいのだ。
このとこしえの森で、烏天狗と安らかに過ごしても。
半分は。
もう半分が嫌だと言っているので、旅に出ている。
でもやはり一生の内、何回か戻って来る。
莫迦だな。
知っている。
「で?」
「で?」
「おまえ、人魚に喰われたら幸福だと言っていただろう。何故だ?」
「そんなの簡単だろ。丈夫でいて美しく長い背丈に手足。この大きな手にすらりとした指。人魚に喰われたら、俺も人魚の一部になるだろ。つまり、俺の身体でもあるわけだ」
ほわあ。
熱い吐息を漏らした人間はうっとりと人魚を見つめた。
「憧れなんだよなあ。こいつの身体」
「………おまえ、ぜんぜんセカイを喰らっとらんし、セカイを無にもしておらんな」
その様ではいつになるか分からん。
嘆いているようでいて、面白がっている烏天狗の声音に、けれど、人間は反論せずに舌を出すだけに留めた。
「まあ、人魚が俺を喰らう理由はないだろうし。旅に誘って、あちこちで一緒に舞い踊るさ」
「了承するわけないだろう。生きるとしても、こやつは海の中だ。陸の上のおまえとは無理だな」
「あんたが、言うのか?無理だって?人間と妖怪が一緒に森を創るなんて無理だって、さんざん、言われたの、忘れたのか?ああ、いや。しょうがないよなだって。長く生きているんだし」
乱雑に笑い出す人間を、烏天狗は見た。
目を細めて。
忘れるわけがないと心中で呟きながら。
否。
叫びながら。
「俺と一緒に旅に行かないか?」
あなたがもし人魚だったとしたら。
身体も心も最悪な状況で目覚めて開口一番に言った人間に対し、どう答えますか?
行く?
行かない?
喰って黙らせる?
いえいえ、そうですよね。
こたえはどこまでも。
(2022.5.20)
どこまでも 藤泉都理 @fujitori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます