第拾陸章 恋慕地獄道②

 翌朝、目が覚めると私は弥三郎様の洋風の下宿にいました。

 私は生まれたままの姿でしばらくベッドの上で惚けていたのです。

 あれは夢だったかと思いましたが、下腹部に走る疼痛とシーツに落ちた赤い斑点から現実であると漸く自覚する事ができました。


「おはよう、月夜ど……月夜。その……もう大丈夫です……もう大丈夫かい?」


 見るとパンが入った籠と軽いお食事の乗ったお皿を手にした弥三郎様が顔を真っ赤にさせてそう訊ねられました。

 言葉がしどろもどろで何度も云い直しているのは、私が呼び捨てにする事と敬語を使わない事を望んだからです。


「おはようございます。ええ、大丈夫です。弥……いえ、旦那様」


 旦那様。そう云ってから私の頬は熱くなってしまい、恥ずかしさに思わず下を向いてしまいました。


「月夜……」


 弥三郎様が私の顎に手を添えて上を向かせます。


「旦那様……」


 どちらからともなく、私達の唇が重なりました。

 その後、弥三郎様が伊太利亜へ旅立たれる日の三日前まで、私は彼の下宿に行っては家事を手伝い三日に一度は泊まるという生活が続きました。

 足繁く弥三郎様の元へ通う私に桜花を始めとする門下生達も不審がっていましたが、あえて何かを聞き出そうという気配は見せませんでした。

 ただ姉様には、“それが貴女の幸せに繋がると云うのなら私からは何も云わないわ”と云われましたが……


 その頃の私は幸せの絶頂と云えました。しかし、その幸せも長くは続かなかったのです。

 弥三郎様が渡航の準備に追われている中、私はいつものように彼の部屋を掃除していました。

 その時、魔が差したのか、運命に導かれたのか。

 つい弥三郎様の机の引き出しを開けてしまったのです。

 そこには丁寧に保管された手紙が何通か入っていました。

 送り主は女性で住所は青森、初めはご家族からの手紙かと思いました。

 しかし弥三郎様と姓が違うのです。

 私は悪い予感を覚えて、罪悪感を振り切るように封筒の中身を取り出しました。


「こ、これは……」


 私は絶望感に頭を掻きむしりたくなる衝動を必死に抑えて他の封筒の中身を全部開けます。

 手紙の送り主は全て同じ人物、同じ住所、しかも女性……

 しかも、その文面は明らかに恋文だったのです。

 文字は汚く平仮名だらけで、文章も拙い。でも『彼に逢いたい』と云う気持ちは痛いくらいに伝わってきました。

 そして乱舞する『いいなづけ』と『およめさん』という単語。

 その時、私がどんな顔をしていたのか判りません。想像もしたくもありません。

 けど、判っているのは『心』……私の『心』は悋気、嫉妬なんていう言葉など生ぬるい感情で溢れていました。

 純粋な怒り、憎悪。私は『たなかウメ』なる人物に自分でも吐き気を催すほどの憎しみを抱いていました。

 もし、「何故、弥三郎を憎まない?」という声があれば、私は蔑んでこう答えるでしょう。


「それは殿方の勝手な云い草……『女』は『女』を怨みます」


 とね。


「月夜? こんなところにいたのかい?」


 私はその時、もっとも聞きたくない声を聞いてしまいました。


「恨めしや……弥三郎様」


 私は彼の下宿から逃げるように我が家へと走り去りました。

 家に着いた私は姉様の咎める言葉を振り切って私室の襖を開けると、愛用している文机の引き出しから一つの薬包紙を取り出しました。

 私は弥三郎様と同じく生まれつき体が弱く、剣術の稽古はおろか基礎体力作りの運動にさえ耐えられない人間でした。

 しかし私は姉様達が剣術の稽古をしている傍ら、土蔵にあった我が霞家に伝わる古文書を読み解き、兵法や火術を独自に学んでいました。

 今、私の手の中にある薬包紙には兵法の奥義の一つである投毒術の集大成が詰まっているのです。


「オノレ、憎しや! 『たなかウメ』!! 我が魂魄、オノレの血筋末代まで祟ってくれようぞ!!」


 否、やはり弥三郎様を愛するが故……仮令たとえ憎い『女』でも弥三郎様の愛する人を殺せない。

 心の底では『たなかウメ』を殺して地獄に堕ちるより、弥三郎様を愛したまま死のうと想っていたのかも知れません。


「何故……何故で御座います? 弥三郎様……恨めしや……恨めしや、弥三郎様……恨めしいほど愛しています」


 私は薬包紙に包まれた白い粉を口に入れながら未練を吐露してしまいました。

 涙で霞む視界の中で姉様が私を呼んだ声が聞こえたのです。

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雪月花日月抄 若年寄 @senkadou

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